現代日本彫刻作家展が2/15-21日に東京都美術館で開かれていたのだけれど、その主催者である「現代日本彫刻作家連盟」代表の中垣克久さんの作品「時代(とき)の肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳―」の撤去を美術館側が求めたようだ。「しんぶん赤旗」の記事によると、次のような事態の進行だった。
作品の一部として貼られていた手書きの文書が「具体的な政治的主張」であって、それは館が禁止している「特定の政党・宗教を支持、または反対する」ことだ、という根拠らしい。だから作品全体の撤去を求めたけれど、交渉の結果、「具体的な政治的主張」の部分を取り外して展示は一応継続されたとのこと。問題が起きたのは展示2日目、16日の日曜日。小室明子副館長が作品の撤去を求めに来ました。「文言が『館』にふさわしくない」という理由でした。文言とは作品の一部として貼られていたB4ほどの紙に手書きで縦に「憲法九条を守り、靖国神社参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止して、もっと知的な思慮深い政治を求めよう…」と赤字で書かれていたもの。中垣氏によると「撤去しない」というと「撤去しないなら字を消してくれ」「消しません」と1時間ほど押し問答が続きました。最後に「『憲法九条』『靖国神社』の2カ所を部分的に消してくれ」といわれ、中垣氏は「不本意ながら紙を取ってその場を収めた」といいます。同美術館側の主張の根拠は都の運営要綱にあります。「特定の政党・宗教を支持、または反対する場合は使用させないことができる」と定めています。同美術館は「文書の全体が具体的な政治的主張だ。いろんなお客さんが見ると、『アジビラ』と思う人もいる。直接的な政治的メッセージと見られる」と話します。なぜこの点に固執するのか…。同美術館によると発端は一昨年前。「従軍慰安婦」をテーマにした作品で「政府は補償すべきだ」などの表現に、お客から「不愉快だ。公立の美術館で一方的な展示はやめるべきだ」とクレームがつきました。以来、同館は賛否の分かれるテーマで、直接的な主張が盛り込まれた作品については「確認」するようになったといいます。昨年も「従軍慰安婦」をテーマにした作品の取り外しを提起しています。
この問題は表現の自由との関係でマスメディアに取り上げられたけれど、表現の自由との関係で言えば、都の運営要綱は都の美術館で表現の自由を全面的には認めていないことを示しており、そのこと自体は新しい問題ではない。つまり「いかなる表現であっても、都美術館は認めるべきだ」という主張は、この規定の廃止を求めねばならないし、それが妥当かどうかは議論の余地が大きい。個人的には賛成できない。例えば「自民党に投票しよう」とか「三里塚からパレスティナへ、世界同時革命を実現しよう」みたいなメッセージ(古いけど)を直接呼びかけるインスタレーションやパフォーマンスを東京都美術館が受けいれない、というのは都美術館の自由だと考える。そのメッセージを伝える場所が実質的になくなったときにその国では表現の自由が制約された、とは言えるだろうけれど、都美術館がそのレベルでの表現の自由をまもる最先端である必要はない。「赤旗まつり」での美術展に反共の作品が展示されなかったとしてそれが表現の自由の侵害ではないのと若干似ている。
「表現の自由」と公共建築物のあり方という一般的な原則はともあれ、この現実の例に関しての都の対応は適切か、というのはまた別の問題だ。二つの問題があると思う。第一は「憲法九条を守り、靖国神社参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止して、もっと知的な思慮深い政治を求めよう…」というメッセージは都の運営要綱にある「特定の政党・宗教を支持、または反対する場合」に該当するのかどうか、ということ、第二は、そのように書かれている紙の存在はこの作品において、そのメッセージを直接主張することに当たるかどうかという問題だ。最初の問題は技術的で、後の問題は芸術学的だ。
最初の問題が技術的だ、というのは運営要綱に「具体的な政治的主張を行うこと」と書かれてあったらこの問題自体が存在しなくなるからだ。具体的な政治的主張を行う芸術作品は山ほどあるけれど、それらが「公立美術館」にも展示されるべきだという主張は一般的ではない。公立美術館は政治的には民間の美術館よりも脱臭されたものであるべきだ、という主張も十分に成り立ちうる。今回の事例では、素直に読むならば、どこにも「特定の政党・宗教を支持、または反対する」文言はないように見える。「現政権の右傾化を阻止」することと「自民党に反対する」ことは別だからだ。美術館の対応は拡大解釈だ。(但し、上記記事で引用されなかった「反自民」の文言があったり、運営要綱に根拠となる別の文言があったら話は変わるけれど)。
第二の問題は作品全体の評価を行わないと論じられない。それは作品が芸術作品として成立しているかどうかに関わってくる。芸術的評価は別として表現の自由は護られるべきだ、という議論は今回の問題とは直接関係しない。書かれたメッセージが一定の屈折を経ていて作品が芸術作品として成立しているかどうかが大事だ。「しんぶん赤旗」の記事は「都生活文化局は「美術館は美術を鑑賞する場であり、政治的アピールをする場ではない」と本紙の取材に答えました」と結ばれているが、「鑑賞しうる美術」と「政治的アピール」が区別可能かどうか、曖昧な境界例はあるとして、この作品が境界のどちらにあるのかを問わないと、都美術館の作品撤去要求問題は袋小路になるだけだと思う。
まず、紙を外した状態で作品が結局会期中展示され続けた、ということが重要だ。このことは、作品が「政治的アピール」ではなく「美術」であることを都美が認めた、ということに他ならない。どんな作品なのか? 赤旗の記述によると「高さ1・5メートルのドーム状で頂上に日の丸、床には星条旗が敷かれています。秘密保護法を批判した切り抜きや、「日本は今病の中にある」などの紙が貼り付けられています」芸術家の会田誠さんのツイートに作品画像がアップロードされているので参照。黄ばんだ日の丸が円墳の上に置かれ、しめ縄が巻かれているのは靖国神社を表しているように見えるし、「日本は今病気」とか言った言葉は、秘密保護法についての新聞記事と並べられることで、作者の危機感の表明だろう。下に星条旗が敷かれていることは円墳の表す病気中の「日本」が、国粋主義的ナショナリズムとアメリカの二重の力によって滅びつつあることを示しているように思われる。その意味では分かりやすい政治性を持った作品だ。でも、ここまでの表現は都は認めざるを得なかった。政治性を持つこの作品が「美術」であることは否定されていない(そこには作者の抗議の声が反映されているだろうし、アートワールドとの関係も反映しているのだろうけれど)。
都美に作品を見に行ったらもう展示が終わっていて見られなかったのだけれど、画像からは、メッセージが勝ちすぎて私の好きなタイプの作品ではないとは思う。ただ、独特の力を持っていることは分かる。これが「政治的メッセージ」として撤去されていたとしたら大変危惧せざるを得ない事態だっただろう。また、この作品を展示したことによって、将来この団体が都美を借りれなくなるとしたらそれは芸術表現に対する不当な抑圧だろう。
それでは問題となった紙に書かれたメッセージはどうなのだろうか?この紙メッセージ付きの作品をT1とし、メッセージ自体をm、メッセージを取り除いた作品をT2とすると、T1=T2+mだ。T2の芸術性については誰にも異存がない。mはそれとして芸術作品であるかというと、若干難しいけれど、いま議論のためにこれは単純な作者の政治的主張であると考える。そのとき、T1は芸術作品なのかどうか?
このとき、芸術作品はメッセージを屈折させる性質を一般に持っていると主張出来るかもしれない。例えばバーバラ・クリューガー、ACT UP、ゲリラガールズ、ジェニー・ホルザーなどのアーティストは、自らが肯定したり否定したりするメッセージを直接作品に取り入れ、あるいはメッセージと作品を分離できないものを作り出してきた。アイ・ウェイウェイの「くたばれ祖国」もそうだ。それらが単なるアジビラと区別されるのは、芸術という枠組みがメッセージを屈折させ、再文脈化するからだ。政治的スローガンを書いたバナーと芸術作品としてのバナー・アートを区別するのもこの再文脈化だ。つけられたタイトル、置かれた場所、T2の存在そのものがmを再文脈化する。この作品においては、私たちは「絶滅危惧種」というタイトルの文字、idiot Japonicaという(ラテン語風の)言葉(idiotaにして欲しいところだったけれどidiotaだと男性名詞でJaponicaとあわないのか)、によって「時代(とき)の肖像」の「とき」を朱鷺(Nipponia Nippon) と結びつけるかも知れない。そのとき、mは絶滅して行く「朱鷺」の声として解釈可能だろう。朱鷺は滅びた(少なくとも純粋種としては)し、ドームは「円墳=墓」だから、滅びは既定事項だ。この声も滅び行くのだという厭世観を示しうるだろう。中央のドームは中に入れるくらいの開口部があり、星条旗はそこから確認できるらしい。mのうちには憲法九条への言及があるので、滅び行くのは「日本」というだけではなく、象徴天皇制(この読みでは日の丸としめ縄の組み合わせは「靖国」よりもむしろこちらを意味する)と対米従属のもと独特の発展を遂げた戦後日本だとみなしうるだろう。また、画像からも認められる作品の絶望的な調子はmを単純な政治的呼びかけとして解釈することをむしろ禁じるかもしれない。それは絶望とともにある呼びかけになるだろうし、逆転した解釈も可能だ(私のT1への読みとT2への読みは「日の丸」と「星条旗」の象徴性において逆になっている)。多様な解釈を容易にするという点で、おそらくT1はT2よりも優れた作品だ。そして、皮肉なことに、T2の方が政治的に直接的な強度を持っているかも知れない。
T1もT2もしかし、いずれそれほど優れた作品ではないとは思う。現代彫刻作家展をググっても今回の展覧会は(この事件のニュースを除いては)全く見当たらず、主催者のブログも数年前に停止したままだ。展覧会自体を市民にアピールしようという態度の全くかけた企画は、この作品がおそらく内々での消費を目処にして作られたものであることを示唆している。実際、美術館の横槍がなければ、そのようなものとして消費され、忘れ去られていただろう。しかしこのことはそれが芸術作品として成立していない、ということではない。美術館は一昨年の「従軍慰安婦」を扱った作品へのクレームを奇貨として、気に入らない政治的傾向を持った作品を排除しようとしているように見える。今後、「東京オリンピックを成功させよう」的なメッセージを込めた作品、あるいは中国の政治について直接のメッセージを伝えるアイ・ウェイウェイのような作品(や例えば「アイ・ウェイウェイは謝らない」の上映)も彼らが拒絶するならば、「気に入らない」の部分は取り除いても構わないけれど、そんなことはないだろうと(根拠はとくに挙げられないけれど)漠然と予感する。
美術館において私たちが護りたいのは表現の自由ではない。芸術表現の自由であり、芸術表現として成立している限りでの表現の自由だ。今回のT1は芸術表現として成立しているからこそその拒絶は憂慮すべきなのだ。同様に、リーフェンシュタールの「意志の勝利」を都美で上映する企画があったらそれは護られねばならないが(ドイツにおいてどうあるべきかはまた別問題として)、ネトウヨの「良い×××も悪い×××もみんな殺せ」というプラカードの展示や、アングレームで拒絶されたマンガの形を借りた醜悪なメッセージの展示を「表現の自由」のゆえに護ってはならない。