2013年3月11日月曜日

錬肉工房『オイディプス』

そう言えば、私は2010年に結城座の公演として行われたエウリピデス+高柳誠脚本の『バッカイ』を観ていて、自分のホームページに「つまんなかった」とだけ書いていた。今回は同じ高柳誠脚本、岡本章演出、細川俊夫音楽、出演者も笛田宇一郎はじめほぼ同じ上演なので私にとって面白いはずはなかった。「錬肉工房」の上演という名前だけ見ておなじメンバーであることに気づかなかった自分が負け。
高柳の詩に挟まれる形でオイディプスの後半部分、彼がデルフォイの神託やライオスとの三叉路での致命的な出会いについて語る場面の少し前から、最終場面でクレオンが登場する少し前までの部分が、若干の省略を挟みながらそれでもずいぶん忠実に演じられている。ただし、役と俳優に一対一の対応はなく、台詞を適宜分散して割り振っている。オイディプスとイオカステは結城座風の糸操り人形で演じられる場面もある。特に眼をつぶしたオイディプスが登場する場面からは人形が大活躍だ。
高柳の詩は一つ一つの文がイメージを構成しないように作られているので、口頭で聞いてついて行くのはとても難しい。頭の中をすり抜けて行く感じだ。演じ手の二人は超一流の能楽師で、一人はSCOTを代表する名優なので、その人たちの技芸を楽しむことが出来ればそれだけで面白いのだろう。彼らの動きにも台詞にも「隙」はない。でもそこに人形遣いの人が絡むと、台詞や動きのありかたの違いにちょっと驚く。男性の人形遣いの「メガネ」の違和感も最後まで解消されない。(衣装も動きも、「メガネ」の存在を前提としているようには見えない)。眼をつぶしたオイディプスのあっけらかんとした人形のあり方(赤い布で眼から流れる血を表している)と、台詞の深遠な感じの不調和もグロテスクだ(この二つの不満はそういえば『バッカイ』のときも感じたんだった)。
今回もっとも大きく感じたのは、ソフォクレス部分がとても分かりにくいってことだ。三分に一度くらい「??」って思う箇所がある。その一部は、今回の上演のための改変に由来している。例えば、三叉路での出会いでライオスにもオイディプスにも「棍棒」を持たせているところがそうだ。ライオスは馬を打つための「先が二つにわかれた突き棒」(鞭のような役割を果たすもの。先は尖っている。)でオイディプスに打ちかかり、オイディプスの持った「杖」で打ちのめされるのだけれど、この上演ではどちらも「棍棒」になっている。「先が二つに分かれた棍棒」ってどんなものなのかしら。で、なんでみんな棍棒を持って旅行しているのよ。ギャートルズか?
この箇所については、直前にライオス自身の回想(高柳作?)を挿入しているのだけれど、それとオイディプスの回想とで、起きていることも、ライオスの一行のメンバー構成も違うのも不思議だ(ライオスの回想ではライオスが攻撃するのに用いた「棍棒」をオイディプスが奪い取って反撃したことになっていたような)。
で、一部は、典拠にした(あえて小さな文字で固有名詞を出さずに書くけれど)訳のせいもあるのだと思う。例えば、ポリュボスの死を知らされたオイディプスは「屑同然のお告げをポリュボスが引っさらって」はデスに行った、みたいなことを言うが、神託はポリュボスが死んで墓場に行ってくれたので「屑同然」になったのだ。もう一箇所、イオカステの自殺について語り始める「伝令」は「起きたことのうちもっともいたましい出来事を[あなたたちが]ご覧になることは出来ません」みたいなことを言わされているけれど、コロスはすべてを伝令の言葉から聞くので、これも変な話だ。直訳すると「もっとも痛ましい出来事は欠けています。視覚が伴っていませんから」で、イオカステがどのように自殺したのかというその場面自体は(後で説明されるようにオイディプスの叫び回る様子に気を取られていたので)「見届けられなかった」ということをあらかじめ述べている。もっとも、イオカステは扉に鍵をかけて寝室に閉じこもって縊死しているので、オイディプス云々とは無関係に「視覚」は伴っていないのだけれど。)
今回の能+SCOT+結城座的な上演では、むしろ難解さが好まれたのだろうし、それはある時期の日本のギリシア悲劇受容の典型でもあるのだろう。だから、クレオンやテイレシアスが出てくる、いわばドラマが進む場面はすっ飛ばして、この悲劇の根本的な問題(父殺しと母子相姦)だけに焦点をあわせ、呪われた血筋とかおどろおどろしく深淵めいた構成にするのはいわば必然だと思う。

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