えっとかなりバイアスがかかっているのでその点を念頭に置いて下さい。
彼らはレパートリーシアターだから、これでヴィスニユックのこの作品は彼らのレパートリーとして継続的に上演されるだろう。エウリピデスにはトロイア滅亡後のトロイアの女たちを描いた作品が、『トロイアの女たち』以外にも一つあって、それが『ヘカベ』だ。上演年は不明だが『女たち』よりも前なのは確かなようだ。そこでは、アキレスの墓に生け贄にささげられるヘカベの娘ポリュクセネがまず描かれ、その後、ヘカベの末子ポリュドロスの惨殺の報せと、それに対するヘカベとトロイアの女たちの復讐が描かれる。ヴィスニユックの戯曲もポリュドロスとポリュクセネの運命を描く。エウリピデスの『ヘカベ』は、ひょっとしたら『トロイアの女』よりも面白いかもしれないのに、日本ではほとんど上演されずに可哀想な作品なので、タイトルつながりでエウリピデスの『ヘカベ』にも興味を持つ人が増えると良いなぁ。
一人の盲目の男(ホメロスらしい)がたたずむヘラの神殿の廃墟に、羊飼いとその娘がやって来る。彼女は満月になると、変になるらしい。男はその治癒を女神に嘆願しに来た。夜になると犬の鳴き声が聞こえ、盲目の男はそれがヘカベだと教える。
で、ヘカベの物語が始まる。
ホメロスたち三人が枠芝居で、ヘカベの話がその場所で起きた過去の物語なのだけれど、この作品には枠芝居がもう一つあって面倒。それは、ヘカベの話を「悲劇」として上演する神々の枠芝居だ。人間の悲惨は神様にとっての見世物だというわけで、それはそれで面白いけれど、二つの枠芝居の関係がとても曖昧。舞台は二幕。
前半のヘカベをめぐる芝居はヘカベという女性の紹介に終わった。舞台上での出来事と言えばヘカベが19人の息子たちの遺灰を数えて食べることくらい。これはある種象徴性を持つ行為だと思うのだけれど、抽象度が高すぎてつらさが伝わらない。「遺灰を数える」ように強いる男性のコロスがとても抑圧的なのだけれどこのコロスが誰(何)なのか分からないのもつらい。もっとも居心地が悪いのは「遺灰を数える」という行為がどういうことなのか(象徴の面ではなく具体的に)がよく分からないところだ。だって灰だよ。一個二個と数えられないじゃん。「見分ける」ということだと思うんだけれど、それにしても、舞台では何かを数えてたし。たとえば積み重なったものを「ああ、これはあの子だ、はっきり分かる」とか(それに類した台詞はあったと思う)所作を加えて分別して「数え」させたらまた別だけれど、立ったまま指さして数えたと言われても…
翻訳もいろいろ変だ。「ただの犬じゃなくて、雌犬だ」とか、
たとえば、次のような台詞のシークエンスも、訳者が間違えるようなものではないので、テキストの問題(あるいはヴィスニユックの母語がルーマニア語だとしたら翻訳のもとになったフランス語テキストの問題)に見える。
「十年前、トロイアの美しい街の前で血が流れた。」「十年前、…英雄たちは、トロイアの街の城壁前の戦いで疲弊していた。」「ギリシアの最も苛烈な兵士アキレスは死んだ…」でトロイアの木馬の話になって、
「さようならトロイア市民」「十年も面倒をかけてすまなかった。」
これらは多分、戦争が始まってからの十年のことを語っている台詞で、語り手(神々)の語りの現在から十年前に何があったかを語っている台詞ではないだろう。「十年前」ではなく「十年間」。役者もスタッフも、何か思わなかったのかしら。それとも稽古の中で、こうしたことを役者が問題に出来ないタイプの劇団なのだろうか。オデュッセウスの「帰還には二十年かかる」という台詞も、多分訳じゃなくてテキストの問題。
たくさんのギリシア悲劇への言及が(主に神々の対話で)出てくるのだけれど、これ、知らなければ多分わけわかだし、知ってても別に面白くないくすぐりにしかなってない気がする。このあたり、ルーマニア人のヴィスニユックは、観客が知っていることを想定して書いているように思うのだけどどうなのかしら。
第二幕がポリュドロスとポリュクセネの話。エウリピデスではヘカベはトロイアの敗北の可能性を考え、国の滅亡を避けるために、トラキア王ポリュメストルに末子ポリュドロスを預けていた。ポリュドロスはトロイアの敗北を知ったポリュメストルに、ヘカベが預けるのに託した黄金目当てで殺される。その遺体がギリシアの宿営地に流れ着くところから『ヘカベ』は始まる。『ヘカベ』の後半は復讐劇で、息子の末路を知った彼女とトロイアの女たちは、ポリュメストルの子供たちを殺し料理して、ポリュメストルに食べさせる。そしてポリュメストルの目玉をくりぬく。この復讐は成就するが、それは彼女たちの運命に何一つ良い結果をもたらすわけではない。そのむなしさが『ヘカベ』の魅力だ。
ヴィスニユックは自分のヘカベをもっと受動的にしたかったのだと思う。それだけではなく、戦争の悲惨を個人の悪意の所為にしたくなかったのだとも思う。だから、ポリュメストルからも、ポリュクセネを生け贄にするオデュッセウスからも敵意や悪意を取り除く。その代わりに持ち出されるのが、「慣習(伝統)」で、敗戦国の王子をかくまわずに殺すのも、アキレスの墓に娘を生け贄にするのも「慣習」のせいなのだ。でもそんな慣習があったら、敗戦の可能性を見越して王子を他国に預けるという設定が成り立たない。ポリュクセネの生け贄に関して言えば、「それどんな慣習」? 慣習として記述できない。むりやり記述すれば、「戦争が終わったときには、勝利の国の一番の死んだ英雄に女を生け贄にする慣習があった。」なにそれ?(エウリピデスの『ヘカベ』では、アキレスの亡霊が「置いて行くなぁ。女をよこせ。でないと風を送ってやらん」と言ったことになっている。)
で、ヘカベが受動的になると次々彼女に襲いかかる不幸は加算されているだけで、深まって行かない。なにか(ヘレネに言い勝つとか復讐するとかの)能動的行為があってはじめて、それを含めての空しさと絶望の深まりが表現される。
もう一つヴィスニユックが意図的に取り除いているのは、王妃としてのヘカベの独特の存在だ。だから彼女はトロイアの女たちを登場させない。王妃としてのヘカベの存在は、トロイアの女たちの境遇を代表するものでもあるし、時にはそれと対立するものでもある。女たちがいれば「栄華を極めた王妃の位から奴隷の身に落とされたもっとも哀れな人」というヘカベについての台詞は相対化される。ふつうの暮らしをしてきた女性が「奴隷にされる」のは王妃がそうなるより悲惨さがまし、などということはない。でも、この舞台ではその台詞はそのまま通用してしまう。
第二幕の後半はポリュクセネの生け贄で、ヴィスニユックはポリュクセネとアキレスの恋愛関係の設定を入れることで、かえってその悲痛さを和らげてしまった気がする。それでも婚礼(=生け贄)の場面そのものはいたましいので、ここは良かった。良かったところはそれ以外に、ホメロス枠芝居のホメロスとヘルナンダ(彼女が現代ラテン系の名前に見えるのはヘカベの悲劇の普遍性の暗示だと思うが、違和感あり)の心根の優しさ。神々の仮面のおおざっぱにグロテスクなところ。(伎楽面に似ているという指摘があった。なるほど)。セットの廃墟感。
私には、ヴィスニユックは、日本の劇作家と比べても、きちんとした物語を作るのが得意ではないように見える。具体的なイメージを練るのも得意ではないように見える。オイディプスとライオスに棍棒合戦をさせる(それもライオスは「二股の棍棒」)のとどっちが、と言うと悩むところだが。
演技と演出に関しては、わたしこの劇団がかなり苦手だ、ということを再確認。間が多すぎて、言葉と動きが遅いとか、盲目を演じるのは苦労があると思うけれどサングラスはないだろうとか、ポリュドロスの年齢設定がみえないとか…もっと速いテンポでテキスト省略せずにやって欲しい。でもポリュクセネとその最期の演出と演技は好き。
主演女優を念頭に置いての宛書きとは言え初演だし、もう少しこなれてくれば即興性と自在さが出てくるとは思うので、レパートリー化には期待。細かいところを含めて作者や訳者ともっと詰めて冗漫さを減らせばある程度面白いものになるかもしれない。
後記:「最初に生まれたパリス」は原作通り、また、原作はもっと長く、上演にあたり刈り込んだとのご指摘を翻訳者よりいただいた。「テアトロ」の訳も参照して、記憶で書いた本文に手を入れた。
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