2013年11月26日火曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」(5)

11
11はまた間違いが増えた。議論は単純なので間違い訂正(大きいもののみ)。
ゲーアがここで述べているのは、そもそもグッドマンは、ジフが提示したような反例に対し、不充分な楽譜から習慣や趣味の洗練を通じて充分な楽譜が再構成されるという解決(§10)ではなく、それらは「作品」ではない、という解決を求め、その場合、それらは「作品」ではないのだから反例は反例になっていないという議論が可能だ、という話である。

identityを「同一性(同じであること)」ではなく、「本性」としてしまうのはこの訳書では一貫しているし、notationへの「表記」と「記譜」の揺れもここにとどまるものではないが、誤解を招くことに変わりはない。それを除いても、重要な間違いが結構ある。この単純な議論(反例は作品じゃないから反例じゃないよ)を理解していない気がする。

「不十全」を「十全」へと翻訳する」→「不適切な楽譜を適切な楽譜に翻訳する」(111)。
「すべてが表記されている楽譜に忠実な全演奏が、作品の同一性を指し示すわけではないという史実への言及に立ち戻ろう」→「すべての演奏がいつも、何もかも指定してある楽譜に演奏者が従うことによって実現するわけではないということを示す歴史的データを思い起こそう。
「一般的な意味での音楽作品と異なり、音楽作品概念は、音楽は十全たる指示事項を受け、[それを基に]演奏において多様に事例付けされるべきだという思考とどのような関わりを持つのか」→「より広くとらえられた音楽とは対照的に、音楽作品という概念は、音楽が演奏によって充分に指定され多数的に例示されねばならないという観念と、どこまで密接にかかわっているのだろうか」「より広い意味での」でも良いけれど、ここで対比の両方に「作品」を入れるのはゲーアの理屈への無理解を端的に明らかにする間違い。
「楽譜とは、…作品とその演奏の本性認識において厳然たる理念としての権威を持つ」→「楽譜が、…作品とその演奏の同一性にとっての権威ある原理なのだ。」identityという概念で問題になるのは、作品の演奏が他の作品のではなくその作品の演奏であるという「同一性」であり、それは、特に何らかの不可欠な名指しうる性質たる「本性」を前提としない。一つミスタッチしても同じ作品だけれど、別の音符の割合が増えてくると、どこかで(曖昧な)境界をこえて「別の作品の演奏になる」。でも、そう言うためには「楽譜」が必要って話。
「音楽」と「音楽作品」がいろいろごっちゃになっているから、次のようにわけわかな文になったり、端的に都合の悪い文を省略したりする。「もしもある音楽作品に十全たる記譜が存在しないのなら、そうした音楽との関わりは作品との関わりを意味することにはならない。またそれは、…」→「たぶん、理由は何であれ、適切な記譜が存在しない音楽を扱っているとき、私たちは作品を扱っているのではない。タルティーニのソナタは音楽だが、音楽作品ではない。またそれは、…
「(グッドマンの反対者)に必要なのは、我々が実践において作品と呼び、[グッドマンへの]反証事例として用いる事例はすべて、グッドマン自身による誤った事例として却下可能である、という事実の認識である(112)」→「彼らは、私たちが実践において作品と呼び、反例として役立つように作り出された例示を、グッドマンは常に不当な例示として却下できるのだ、ということを受けいれるように求められている。」「事実」じゃないしグッドマンが誤ったわけでもない。

12
急に訳語が良くなった。訳者が変わったように見えるほどだ。細かい間違いはいくつかあるが大意は分かる。二箇所だけ。「二つの演奏が「同一である」べきという思考」→「一つの作品の二つの演奏は「同じ音がする」べきだという観念」(113)「音楽作品は演奏の一類(a class)であり、そこではすべての適切な法則が遵守されることになる(114)」→「音楽作品とは、適切な規則がすべて守られている演奏のクラスである」。限定用法の関係代名詞だ。
「不適切」な楽譜は「適切」な楽譜に変更可能だ。現代音楽の場合、全く同じ音を各演奏で作り出すことも可能だ。コンピュータは、従来型の不適切な楽譜の適切な記譜をも可能にする。ただし、ここで作品を「構成している符号」はトーンとは限らない。リズム、デュナミーク、音価でもありうる。「音色や音高、調に関する伝統的記述は作家の任意事項となり、音楽作品創作の上での条件ではもはやなくなるのである(原訳)」(114) (「記述」がちょっといやなのと仮定法のニュアンスが出ていないけれど、まあいいか)。


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