デーア・ローアーは、岡田利規演出の「タトゥー」、東京演劇アンサンブルでの「忘却のキス」を見た記憶がある。「忘却のキス」がストーリーレベルで分からなかったのに対し、「無実」は分かりやすい。
なんか最近観劇を「外す」ことが多くて、今回はかなり外している可能性が高いと自分でも予想していた。
舞台は、ドイツの港町、ということは北海に面した町で、ケルンかハンブルク位しか行ったことないけれど、そんな感じのところ。不法滞在の移民が多く、港にはストリップバーもある。「元コミュニスト」を自称する女性が出てくるので、旧東ドイツの地域なのかもしれない。(西にはほとんどいなかったもの)。
(1)冒頭、不法滞在移民の二人の黒人が、海で溺れかけている女性を見つける。その一人エリージオは助けようとするが、不法滞在がばれると強制送還になるかもという相手ファドゥールと言い合いをしている間に、女性を見失ってしまう。エリージオは死んだその女性のことが頭から離れない。
ファドゥールは海辺で日傘と本を探す盲目の少女アプゾルートに出会う。彼女はストリッパーで、ファドゥールは彼女に恋をし、たまたま拾った大金でその目を手術しようとする。
(2)医学部を辞めたフランツと妻ローザの暮らす家にローザの母ツッカーが転がり込んでくる。ツッカーは糖尿病が悪化して足を切除しなければならなくなって一人暮らしが続けられない。フランツは遺体処理の仕事を見いだす。
(3)老女性哲学者(設定では)は、自分の書いた「世界の不確実性」の内容に絶望している。因果関係は後付けにすぎない。世界のすべては不確実だと。彼女は夫に八つ当たりして憂さを晴らしている。
(4)身寄りのない老女ハーバーザットは犯罪被害者の家を訪ねては、自分が犯人の母親だといつわってかえって同情されることを生きがいにしている。彼女の正体はばれ、その行為は禁止される。
物語はこれら最初は無関係な四組のグループに分かれ、その間に、飛び降り自殺する男たちのスキット、それをいらいらしながら見ている見物人のスキットが(かなり時間をおいて)挟まれる。無関係な人物群は、徐々に緩やかに結びついて行くが、そのキーになる言葉は「世界の不確実性」だ。
作品は、多分、ブラックユーモア、グロテスク・コミックでいっぱいだと思う。冒頭の、溺れる女性を助けようとしたエリージオが言い合いになっている間に肝心の女性を見失うところからして、笑いの種は溢れている。ファドゥールとアプゾルートの出会いもそうだ。「見える」「光」「金色」「ライト」などの言葉はかなり危ないのだけれど大丈夫かなとおもわせるところも含めてギャグ満載なんだと思う。「世界の不確実性(多分不確定性)」の話が出てきた後で、目の前にいるローザが実は水死した女性だったとか、それを知ったときに彼女の水死が確定するとかも、まあ、笑えるかどうかは別としてシュレジンガーの猫のギャグだろうしサプライズなエンディングの筈だ。ハーバーザットの詐欺(お金を要求するわけではないけれど)もいらいらする不条理な場面だけれど、こんなに不快なだけの場面ではないと思う。
冒頭の場面はエリージオとファドゥールも同じ方向を向いているために、エリージオが女性を見失う効果が出ない。おまけに(特にファドゥールが)台詞でアップアップしている。その台詞の翻訳もとても不自然で、話し言葉になっていないし、日本語としてどうかしらと思うところもある。演じていて、さいの目を振るなよサイコロを振れよとか思わなかった?。音楽がずっとケルティックハープ一本なので、ドタバタ演技の入り込む余地がないし演技もずっと同じテンポ。何でドイツでアフリカからの移住者の話で都会なのにケルティックハープなの?エンヤのテープじゃなかっただけラッキーだと思えば良いの?みんながずっと前を向いて感情を外して台詞を言うのが異化演技だっての止めようよ。そんな演技見ていて何か面白かったり有意義だったりするの?老哲学者がなんで若いの? バリバリの頃のクリステヴァみたいなことをその頃のクリステヴァみたいな年齢の女性が言って人生の失敗感がでるの? 盲目の少女が全然盲目に見えないのと服がお嬢さん方向なのはわざとだと思うのだけれど、どういう効果をねらったの?ファドゥールとエリージオが世紀末伝説の雑魚みたいなプロテクター付きシャツを着ているのは何なの?セットが「除染された土」を入れた袋なのは分かったけどそれ何か効いてるの? 飛び降り自殺する二人は、唯一演出上笑いを意図した場面ではあったのだけれど、この雰囲気の中であの衣装と演技で客が笑うと思っていたの?だいたいあそこだけコミックなのおかしいとか思わなかった?全体にわたる視覚的なだささはドイツ演劇だからわざとそうしたの?
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