2015年8月18日火曜日

ブレヒト『アンティゴネ』光文社新訳文庫版について(1) 最初と最後

ブレヒトの『アンティゴネ』の邦訳が酷く、その酷さが一つの先行訳の間違いを他の訳が引き継いだために生じたのではないかというのはすでに持田睦さんがブログで数度にわたって検討されている。これは常識的に考えると翻訳にクリーンルーム方式がなされていないということを意味する。つまり、右手に原文、左手に既訳を置いて、それで日本語をいじって訳を作っているのではという疑いを招く。かつて岩淵達治がブレヒトの別の作品のある訳について怒っていたのを思い出す。そのときは、「同じ原文の訳だから似ることもあるでしょ」と思ったし、自分が『オイディプス』を訳したときのことを考えると、若いときに読んだ訳本の表現が無意識に出ることはあるので、表現の類似で「自分の訳のパクリだ」と主張するのは筋が悪いなと思っていたのだけれど、間違いが引き継がれ続けるというのはまた別の話だ。但し、著作権法で保護されるのは表現であるため、このことは法的に問題があるわけではない。また、持田さんが指摘している箇所について、訳者がたまたま同じ間違いをしでかしているという可能性も数学的にはある。ちなみに、持田さんの推論では、谷川訳は「誤訳の伝染」の源であって、他の訳がそれを参照しているらしい。
『アンティゴネー』と誤訳の伝染 (2009)
ストローブ=ユイレ「アンティゴネー」のDVDに付された字幕について (2011)
ブレヒト版『アンティゴネー』の誤訳の伝染を防ぐために (2014)

持田さんの議論は、誤訳の伝染(つまり先行訳を参照して新しい訳を作ったために先行訳の誤訳がいかに引き継がれるか)を中心にしているので、とても面白いのだけれど、読んでいて分かりにくいのも確かだ。また、若干解釈が分かれる所もあるので、持田さんの解釈に頼りつつも、挙げられた箇所に関する自分の理解を光文社古典新訳文庫の谷川道子訳と対比する形で書いておくことにする。
テキストにいろいろ面倒な面はあるものの、間違い自体は単純ミスのレベルも多い。テキスト原文は持田さんのブログにあるものが正しいと仮定する。

(1) 冒頭のアンティゴネとイスメネの会話
アンティゴネがイスメネに死んだ兄たちについて何か知らないかと問いかけるのに対してイスメネは次のように答える。
私は広場には行かなかったの、アンティゴネ。親しかった人たちでさえ、もう誰も言葉なんぞかけてくれはしない。優しい言葉どころか、哀しい言葉だって。だからこれ以上、嬉しくなりようも哀しくなりようもないわ
"Nicht auf dem Markte zeigte ich mich, Antigone.
Nicht ein Wort kam zu mir von Lieben mehr
Nicht ein liebliches und auch kein trauriges
Und bin nicht glücklicher und nicht betrübter."

問題はvon Liebenって何?ってことなんだけれど、この訳それ以外にも随分いい加減だ。2行目のkamが「言葉なんぞかけてくれはしない」と現在になっているし、単なる bin (英語のam) に「嬉しくなりようも哀しくなりようもない」って変なニュアンスがついている。
言っているのは素っ気ないほど簡単なことで「広場に出なかった→アンティゴネが伝えたこと以上の言葉は、嬉しい言葉も哀しい言葉も聞いていない→だからそれ以上に嬉しくも哀しくもない」ってだけだ。大体この時点でイスメネもアンティゴネも別に村八分にされている訳ではないので、「もう誰も言葉なんぞかけてくれはしない」なんてはずはない。それ以上のことを知らないのは、イスメネが最初の兄弟の死のニュースを聞いてから「広場にでなかった」からだ。
で、ここのvon Liebenは、ソフォクレスの原文では、アンティゴネとイスメネにとっての肉親φίλοιであるポリュネイケスとエテオクレスを指すと理解するのが多数派で、解釈上決着がほぼついたところである。「私は広場には行かなかったの、アンティゴネ。親しい人たちについての話は、それ以上一言も聞いていないの。優しいのも悲しいのも。だから、より喜んでもないし悲しんでもないの
語学的には、ソフォクレスでもブレヒトでも、「親しい人たちからの言葉を聞いていないの」も可能ではある。実際19世紀末あたりのJebbのソフォクレス英訳では"To me no word of our friends"になっている。でも、文脈的にこのvon Liebenを、アンティゴネの最後の言葉「滅び行くオイディプス一族(つまりポリュネイケスとエテオクレス)」と理解しないことはブレヒト版では難しい。

(2) クレオンがなぜコロス(長老たち)を呼び出したのかを説明する場面。コロスがクレオンに戦利品と勝利した兵士を乗せた戦車のイメージを出してクレオンを褒め称えるのに対してのクレオンの言葉。コロスは戦争が多くの利益をもたらすことを期待している。
それに対してクレオンは、その期待に応えようとして語り始める。
「すぐだ、我が友よ、それももうすぐだ。/さて、仕事にかかろう。/諸君はまだ、わしが神の館に剣を戻すのを見ていない。/つまりここに集まって貰ったのには、二つの理由がある。/その一つ、諸君は戦の神に支払う、敵を踏みつぶす戦車の代金の収支をないがしろにし、/戦場で捧げる息子たちの血も、出し惜しんでおる。/だが、もし戦の神が弱りはて、敗けて/ぬくぬくした屋根の下に帰ってきたりしたら、/その代償は高くつくことになる。/だからテーバイの民に、失ったテーバイの血は尋常ならざるものではないことを/即刻知らせてほしい。
「すぐだ、我が友よ」って始めているように、クレオンはコロスにここでは友好的。コロスが集められた目的は二つ。二つ目は、ポリュネイケスの埋葬禁止を伝えることだけれど、一つ目は、この訳だとテーバイの犠牲者が少ないことをテーバイ市民に伝えること。赤色の部分、戦勝の知らせでこんなこと言っても意味ない。「敵を踏みつぶす戦車の代金の収支をないがしろにする」って端的に訳(わけ)が分からないし「血も、出し惜しんでおる」って戦争に勝ったんだからそんなこと言わないよね。次の二行も意味不明。「負けたら大変だよ、だからもっと兵を出せ」って意味だろうと思うのだけれど、戦争に勝ったんだし。それだとその後の「犠牲は少なかったと知らせて」というのと整合性がない。
で原文
Euch nämlich rief aus zwei Ursachen ich
Aus den Gesamten; einmal, weil ich weiß
Ihr rechnet nicht dem Kriegsgott die Räder nach
Am feindzermalmenden Wagen, noch geizt ihm
Das Blut der Söhne im Kampfe, doch ist
Kehrt er geschwächt unters wohlgeschirmte Dach
Viel Rechnen am Markt, daß ihr mir also
Den Blutverlust der Thebe zeitig beibringt
als übers Übliche nicht gehend.

試訳(持田さんともちょっとずれた)「まず第一に、諸君は軍神の乗る、敵を踏みつぶす戦車の車輪を数え直したりはせず、戦場で軍神に捧げる息子たちの血も出し惜しみしていないことは知っている。それでも、良く保護された(テバイの)屋根に戦車が弱くなって戻るときには、多くの計算が市場ではなされることも分かっているのだ。だからテーバイの失われた血は通常を超えていないことを、直ちに私に伝えて貰いたい
持田さんとずれた部分は私の間違いの可能性も大いにあるのだけれど、谷川訳の間違いは3行目のnicht〜と4行目のnoch〜が対応していて、「〜も〜もない」を意味することを無視したこと、「車輪の代金の収支をないがしろにする」ってのを非難の意味で取ったこと。収支をないがしろにしてるんだから、そんだけ総力戦で臨んだということだ。
持田さんとの解釈が違うところを述べておくと、私は、戦車(単数)が軍隊、車輪は軍事費の比喩だと考え、ここでクレオンは、軍隊が戻ったら直ちに損失の度合いを自分に教えてくれるようにコロスに頼んでいると理解した。それによって戦争の収支を考えねばならない立場に彼はいるからだ。彼自身も戦果と損失の割合をまだ把握していない。

(3) コロスの退場歌
〆の部分。コロスが教訓を歌うところ。ここは光文社訳は一体どうなったの?って感じ。
我らもまた、あの男の後についていこう、あの世の底へと。/我らを無理強いした手は打ち落とされて、/もはや我らを打ちのめしはしない。/だがあの女、すべてを悟りはしたが、ただただ敵を助けたばかり、/その敵が今ここに攻め入って、すぐにも我らを皆殺し。/なぜなら時は短く、まわりは災いばかり、/だから何も考えずに生きのびたり、/忍耐に忍耐を重ねたり、/悪虐非道へ走ったり、/年とってからやっと賢くなったり、/そんな余裕は、人間には決してないのじゃ。」

Wir aber
Folgen auch jetzt ihm all’, und
Nach unten ist’ s. Abgehaun wird
Daß sie nicht zuschlag mehr
Uns die zwingbare Hand. Aber die alles sah
Konnte nur noch helfen dem Feind, der jetzt
Kommt und uns austilgt gleich. Denn kurz ist die Zeit
Allumher ist Verhängnis, und nimmer genügt sie
Hinzuleben, undenkend und leicht
Von Duldung zu Frevel und

Weise zu werden im Alter.

二行目のauch jetztが「我らもまた」になっているのは単純な語学的ミスだと思う。「私たちはしかし、この期に及んでもあの男について行く、つまり落ちてゆく」その次の箇所が持田さん訳だと「切り払われてしまうのだ/もはや振り下ろされることのないようにと/私たちの身から、拘束されるべき手は」となっていて、確かにこの箇所でコロスがクレオンに無理強いされていたなんて弁解するのはおかしいし、コロスがこの芝居でクレオンに「打ちのめされて」いたわけではないので、die zwingbare Hand はコロス自身の手なんだろう。...barは他動詞について「せられ得る」 「せられるべき」(クラウン独和)を表すので(持田さんの説明のとおり)「縛られるべき手は私たちから切り落とされて、もう殴ることはない」で、これはジュディス・マリーナのリヴィングシアター上演テキストでの「 Our violent hand shall now be cut off so that it shall not strike again.」とも対応している。そういう「私たち」と「すべてを見て取った」彼女とが「でもすべてを見て取った彼女は」と対比されている。Feindの後の関係代名詞のderは限定用法だと思う。「すべてを見通した彼女は、いまややってきて間もなく私たちを滅ぼす敵を助けるしかなかった。なぜなら、時間は短くあたり一面に不幸があり、何も考えずに気楽に(受動的)忍耐から(積極的)邪悪までだらだらと生き続けて、それから歳を取って賢くなるには、時間は充分ではないからだ。」マリーナの訳は"it isn't enough just to live unthinking and happy / and patiently bear oppression / and only learn wisdom with age." で、patiently bear oppression (抑圧を我慢強く耐える)になっていて、持田さんの「悪事を黙認しながら生き」と構文の理解では一致している。ただ、Von Duldung zu Frevelは、「時間が短く不幸が至る所にある」状況で、その不幸を考えなしに消極的に耐えたり積極的に加えたりするような人生をだらだら生きるhinleben (hinは「成り行き任せ」の感じを表すのかなぁ(大独和))その振れ幅をvon..zu..(〜から〜まで)で表しているのではないかしら。論理ははっきりしていて、「私たちはクレオンに従って滅びる。だがすべてを知った彼女は敵を助けるしかなかった。不幸が充ち、時間がなく、日和って生きて年を重ねて賢くなるほどの余裕はなかったからだ」で、これを「コロスのアンティゴネ批判」と読むのは端的に間違いなので、この訳本の解説を論文に使おうとする人は注意が必要。




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