西洋古典学会がウェブページを開いた。雑誌の英語版を出したことと並んで喜ばしい。そのなかに「古典学の広場」というページがあって、わたくしのお師匠様のお一人である森谷宇一先生が、ご自分が中心になって翻訳されたクインティリアヌスの『弁論家の教育3』の翻訳方針について「巧みで気がきいてはいるがやや不正確でずれた訳になるぐらいなら、愚直で不器用ではあるが正確な訳をわれわれはめざす」などと、ちょっと……(まあ先生らしいなぁ)なことを書いていたり、兄弟弟子の渡辺浩司さんが分担して関わったルキアノスの新しい訳について「古くて新しいルキアノス」という、ストラヴィンスキーとルキアノスはどっちも田舎者なので普遍性を得たよね、みたいな、分かるけれど強引な紹介を書いていたりしている。「なのに」ではなく「なので」と言えるかどうか……
さて、その中に、納富信留さんの「ギリシア語の辞書—LSJとその歴史」というページがあって、LSJ(Liddell Scott Jonesと呼ばれる希英辞典)の歴史について紹介して下さっている。簡単にまとめると、SchneiderはPassowを生み、PassowはLSを生み、LSはLSJ(1924)を生み、こうしてLSJ(1940)が生まれた…と。
LSJのその後の改訂については触れられていないなぁ、と思っていたら、そこにこのエッセイのテーマがあった。
LSJも無論完全ではない。語義の区別や説明には不十分な点が多く、時に誤りもある。スペイン語などの言語で新たなギリシア語辞書作りも進んでいるが、今日に到る大事業を始めたリドルとスコットも、もし現代に生きていれば決して現状に満足することなく、本格的な増補や改訂を加えようと思うのではないだろうか。すこしとんで
無料や安価な電子媒体でLSJ(旧版)の文字情報だけを見ながら、なにかギリシア語を読んでいる気になるのは、西洋古典学という学問からは程遠い態度に見える。私もiPod用のLSJ(1924年版?)のデータを数百円で買ったが、そこには「序言」も「略号表」も付いていない。本当に古典を読めるようになるのは、受け継いだ文化遺産を徹底的に反省しながら、それを越える新たな道具を私たち自身が作っていく時ではないか。最後の文章は私には普通の意味で理解出来なかった(古典を本当に読めるようになるのは大変だ、ということは分かった)が、それはともあれ、PerseusプロジェクトがLSJの最新版を無料で提供できなかったのは、それはOxford大学の著作権を侵害することになるからで、それでも、辞書情報、語形分析情報やテキストを電子化してオンラインで無料で提供し、著作権保護の切れた、ただし価値の高い注釈や翻訳も提供する(著作権フリーではない翻訳も一部含まれている)ことは、学生がギリシア語をより身近に、より深く学ぶための手助けになるという信念があったからで、その信念は「安上がりで済ましてギリシア語を読んでいる気になるなんて本物じゃない」という信念とは正反対だ。私はPerseusの信念に賛同する。高い辞書と高いテキストを買わないかぎり「ギリシア語を読んでいる」ことにはならないのだとすれば、無料や安価な電子媒体でLSJ(旧版)の文字情報だけを見ながら何かギリシア語を読んでいる気になっている人はいったい何を読んでいるのだとお考えなのだろうか。
もし「序言」と「略号表」がついていないことが問題なら、それをネットで公開すればいいだけのことだ。実はその必要はなくて、無料のEPWINGS for the Classicsにはきちんと序言と略語表がついている。データのオリジナルを提供したPerseusサイトの辞書にもあるんじゃないのかしら?
それでも、「西洋古典学」という学問をするにはPerseusが提供しているLSJでは足りない、というのは当たり前の話で、資源はあればあるほど良いし、LSJだって最新版が欲しい。Logos Softwareのおかげで、130ドル出せばiPhoneでもiPadでもパソコンでも読めるLSJ(1996)が手に入る。補遺部分も本文に組み込まれている。素晴らしい。年百ドルくらいで、TLGへの登録が出来る。「文化遺産を徹底的に反省」するにはTLGは不可欠だ。プロはそうすればいいし、そうしているでしょ。Perseusデータだけで「古典学」研究をやっている人などいない。でも、そのレベルを「ギリシア語を読む」ことにまで拡張しないでほしい。「金を出さないやつはギリシア語を読むな」よりも「貧乏人はフリーテキストで読め」の方が、日本における古典ギリシア語の普及のためにも良いのではないか。
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