西洋比較演劇研究会の五月の例会が、フィッシャー・リヒテ『演劇学へのいざない』の合評会(それだけで四時間も使うんだ)だということなので、頑張って読んで予習。一通り読んだので、とりあえず短めの第一部の紹介。
第一部は、三つの章からできていて、第一章が「演劇概念」、第二章が「学科の歴史について」、第三章が「上演概念に関する考察」となっている。
その「演劇概念」では、予想されるように演劇の概念の規定がなされるのではなく、「演劇」という語の歴史が概観され、70年代以降、この言葉が極めて広い隠喩で用いられるようになったことが示され、演劇学が意味ある学科になるには演劇概念の規定がなされねばならないことが主張されるに留まる。ごく短い章だ。
そして演劇の概念そのものは、第二章(これもごく短い)で展開される。そこでは、主としてドイツにおける演劇学研究の歴史がたどられ、その歴史から、次のように語られる。「なぜ演劇の学がそもそも必要なのかという問いは、二〇世紀の初めにドイツでは、上演(Aufführung)という概念を持ち出すことで答えが与えられた。演劇とは上演という概念によって定義されるものであり、しかも、既存の学問分野はどれもこの上演なる者の研究には適していないから、というわけである」(33)。この「上演」概念は、大まかに言って英語の「パフォーマンス」概念と一致する。その意味で演劇学研究は英語圏でシェクナーの始めた「パフォーマンス研究」とほぼ外延を共有することになる。
しかし、演劇学では芸術演劇が中心になる。それは、芸術演劇が、
「上演の基本的局面を際立たせ、最も重要な理論的かつ方法論的アプローチを開発し試すことが出来るモデル」(36)であるからに他ならない。
この短い二つの章を経て、第三章で、第一部の中心部分である上演概念についての考察が始まる。上演とは何か、フィッシャー・リヒテは次のように言う。
上演とみなしうるのは、すべての参加者がある特定の時間に同じ場所に集まり、その場所で、ある特定の活動プログラムに演者もしくは観客として参加し、同じ人がある特定の時間は演者として、またある特定の時間は観客として行動するというように、演者と観客の役割を交代することも可能な催しである。(37)
この規定が上演の定義としてはいろいろまずいことはすぐ分かる。例えば、演者が舞台上で電話をかけるような作品(クリス・コンデックのDead Cat Bounce や、少し違うがリミニ・プロトコルの「コール・カッタ」など)では、参加者の一部は同じ場所にいない。バス・ツアーを仕立てるパフォーマンスでは、「全ての参加者がある特定の時間に同じ場所に集まる」とは限らない。また、上演の中には「演者と観客の役割を交代すること」が不可能なものも山ほどある。能を見ているときに急に舞えと言われたら帰るよね。(これは翻訳の問題かも知れない:
「上演とみなしうるのは…参加する催しであり、そこでは、同じ人が…交代することもあり得る」ならこの問題は生じない。)
しかし、そこまで厳密な話をしているのではない(必要十分条件を記述しているのではない)としたら、とりあえず作業定義としてこれを受け入れることは出来るだろう。彼女は、この上演概念から、しかし次の四つの問題圏を提示し、それについて説明を加えて行く。
(1) 上演に特有のメディア的条件として「演者と観客が同時に(同じ場所に)存在すること(37)」(人間集団の肉体の共在)。(「同じ場所に」が明記されていないけれど)
(2) 上演の束の間性
(3) 上演の記号性。上演は束の間であるがゆえに、何度も観察できるメディアとは異なる意味の発生の仕方を持つということ。
(4) 上演の美的経験とその美的性質(Ästhetizität) ←「美的であるということ」と言う意味で「美的性質」という言葉を使っている。美学上の「美的性質aesthetic property」のことではないので注意。
(1) 共在性
上演においては、観客と演者が「出会って直接対面する」ことが不可欠であり、そこでしか存在せず、その中で消える。
上演が始まる前や終わった後に存在するものは、原則として上演とは別のものとみなさねばならない。上演は自分自身を、いわば自分自身で、演者と観客の相互作用から、自己創出的なフィードバック・ループとして産出する。(40)
彼女はこの規定により、まずは上演と演出を分けるし、また上演と作品を分けるだろう。上演では、全ての参加者が共同制作者であり、 「彼らこそが、自分たちの行為や振る舞い方の相互作用によって上演を作り出すのであり、また逆に彼らは上演によって演者や観客として作り出される(42)」という点で、上演は、オースティン的な意味で「行為遂行的(performative)」なのだ。行為遂行的発話は自己言及的であり現実構成的だが、上演はまさにそうだ。とりわけポストドラマ演劇は「行為遂行性」を極めて多様な形で用いる。
この箇所が私には何一つ分からなかった。その点はすこし後回しにするとして、上演が「行為遂行的」であることから何が生じると彼女が考えているのかを見よう。
上演はそれに参加する全ての者の行為や振る舞い方の相互作用から生じるので、全ての参加者に対して、自らを上演の経過の中である特殊な主体として経験する可能性を開く。すなわち、…自律的でもなく、他律的でもなく、自分が作ったわけではないが関与はしている状況に対しても責任を引き受ける主体として自らを経験する可能性を開くのである。(44)
俳優が観客を直接罵倒し、観客も拍手したりとっくみあいをしたりすることでそれに応えるハントケの『観客罵倒』や、リヴィング・シアターの『パラダイス・ナウ』の客いじりがそれに相当するようだ。一つのパフォーマンスを作り上げるのは、参加者全体である、と。
第一に、これは多分当たり前であって、例えばパレードや盆踊りへの参加を考えると分かる。上演は行為を含んでいるので、行為が行為遂行的であるのは(パフォーマンスがパフォーマティブであるのは)些末的に真だ。オースティンの議論が面白いのは、「記述文」と文法上全く違いのない文が「行為遂行的」であるという点であって、たとえば殴ったり殴られたりすることが、「けんか」や「ボクシング」を構成することは些末的に真であるのと彼女の議論は異ならないように思える。「ボクシング」は「上演」だけれど「けんか」はそうではないので、行為遂行性は必ずしも「上演」の有意義な構成要素ではない。(
そうだ、パレードで思い出したけれど、「ラブパレード(263)」への割り注で「テクノ音楽に合わせて踊り練り歩き、性的マイノリティの権利などをアピールした、ベルリン発祥のイヴェント」と書かれているのは二種類の「パレード」が混じり合っている気がする。「ラブ・パレード」って「ラブ・ピース・飯」じゃなかったっけ。)
第二に、私たちは例えばロックコンサートでウェイブが出来るだけではなく、ロックコンサートやサッカーの試合のライブ中継でも「ウェイブ」ができるししている。あるいはヤジを飛ばすこともある。スーパーヴィジョンでサッカーを見ている人たちの反応もまた、行為遂行的であり、『ロッキーホラーショーノーカット版』を見ながら突っ込みを入れている人たちの反応も行為遂行的だ。共在は行為遂行性の必要条件ではない。私たちは、見ている対象に関与せずに見続けることもあるのだから、共在は必ずしも行為遂行性を規定する条件ではない。それでも、典型的な上演の共在性が、典型的に上演の「行為遂行性」を引き起こすということは言えるだろう。しかしやはりそれは些末的に真である。
(2) 束の間性
上演の束の間性、それが物質的に固定される「作品」にはならないことは、上演の「物質性」、つまりその空間性・身体性・音響性への問いを導く。
1) 空間性。
空間の束の間性は雰囲気のうちに際だって現れる。(雰囲気の概念はベーメを参照)。
2) 身体性
好き勝手に加工できない、生成的である肉体的な世界内存在のあり方について述べた後、彼女は人間の身体の二重性について次のように言う。
人間は身体を持っており、それを他の対象と同じように操作し、道具として使い、何か別のものを表す記号として利用し、解釈することが出来る。しかし同時に、人間はこの肉体なのである。すなわち肉体としての主体なのである。(51)
この「ある」ものとしての「現象的」身体からの「脱肉体化」を果たし純粋に「記号的」な身体だけを残すように伝統的な演技はつとめてきた。それが心理主義的リアリズムで頂点に達する。アヴァンギャルドは現象的身体を強調した。六十年代以降、「身体であることと身体を持つこととの二重性から出発し、現象的身体と記号的身体の緊張関係を明確にする」(58)方法が試されてきた。このあたりの記述はとても分かりやすい。
この緊張関係はどのようにして生産的になるのだろうか。フィッシャー・リヒテが持ち出すのは「身体化embodiment」という概念だ。従来、この言葉は精神が身体に「現れる」ようにすることを意味していたが、一九九〇年代に、ショルダッシュが根本的な再定義を行ったと彼女は言う。
身体化という概念が意味するのは、現象的肉体が繰り返し自らをそのつど特別な肉体として作り出し、それと同時に特殊な意味を産出する束の間の身体的諸過程なのである。このように俳優はその現象的肉体を、しばしば現前(Präsenz)として経験される全く特殊な形で作り出し、同時に劇中人物—例えばハムレットやメデイア—を作り出す。(63)
言っていることは普通のことだけれど、「現前」という概念がよく分からない。フィッシャー・リヒテによるとそこには三重の意味があるそうだ。
1) 演者の現象的肉体の存在(弱い現前)
2) 観客の関心を否応なく引きつけることを可能にする存在感としての現前(強い現前)
3) 究極の現前。「演者/パフォーマーが自らの身体化過程でエネルギーを発生させ、このエネルギーが観客が感知できるように空間に循環し、観客を触発するのに成功したとき」(64)生じる現前。
なんかエネルギーが循環し云々のところで電波系に思えてしまうが、彼女が言いたいような瞬間が演劇の中にあることは分からないわけではない。そのとき、俳優は「エンボディード・マインドとして」観客に経験される(
ここはカナで訳しては駄目な場所だと思う。身体を通じて精神を見る、という意味での「身体化」ではなく、「身体化された心」、身体として存在する精神という強い意味なのだから。)
3) 音響性
音も「束の間」だ。(ちょっとここはパス)。
(3) 意味の生成
演者と観客の肉体の共在が上演の成立に不可欠であり、上演が束の間のものなら、「上演における意味はけっして「固定されたもの」ではなく、上演の経過において初めて生成するものであり、しかも参加者ごとに異なる多様な意味として生成する」(71)。だから、参加者がどのような意味を産出するのかは予見不可能だ。現前において人や物(俳優やセット)を知覚するとき、私たちはそれを「意味を欠いた」ものとして知覚するのでもない。鋳鉄製のストーブは「一つの極めて特殊な鋳鉄製のストーブ」を意味し、観客の関心をその物質性に向ける。私たちは何かを知覚してから、その意味を解釈するのではない。意味は知覚行為において既に成立している。
ただし、この現象が現れると、「全く別種の意味創出」が可能になる。「知覚された物は能記すなわち記号媒体として知覚され、その能記に多種多様な連想—観念、思い出、心情、思考—がその所記つまりその可能な意味として結びつく」(73)。これがどのようなものになるのかは観客によって様々。みんな別々の連想を持つ。それは「好き勝手」ということではない。連想は観客を「不意に襲う」ものだ(「コンブレー」)。
現象そのものへの集中と現象が引き起こす連想への集中の間を揺れ動くことが、「現前(Gegenwart)の知覚秩序」だ。他方、「表象=再現(Repräsentation)」の知覚秩序は人や物を「記号として知覚する」ことに対応する。「登場人物とその虚構世界あるいはまた他の象徴秩序」がそれで創出される。
「
この二つの知覚秩序はいずれも、どちらか一方の秩序が安定する場合に支配的になる他の諸原理に従って意味を産出する」(74)が何を言っているのか分からない。「この二つの知覚秩序が意味を産出する原理は異なっていて、それぞれ、どちらかの秩序が安定する(?)ときに支配的になっているのだ」という意味なのかなぁ。そうみたい。例えば、表象=再現の知覚のモードが安定すると、「後はもう、知覚者という主体にとって登場人物、虚構の世界、象徴的秩序を生み出すという観点で重要な要素しか知覚されず…」ってあるから。
私はポスト構造主義には疎いので書いて良いのかどうか(合っているかどうか)悩むけれど、ここでのRepräsentationは「表象=再現」と訳さない方が良いと思う。「表象」概念の持つ範囲はこの文脈には広すぎる。端的に再現か、あるいはどうしても「表象」の語を使いたいなら「再現的表象」「再現表象」じゃないかなぁ。現前で連想が現れること(コンブレー)だって「表象」じゃないのかしら。
いずれにせよ、二つの秩序のどちらかだけが支配的であるような上演はあまりない。知覚の二つのモードの間を観客はさまよう。
(4) 上演の出来事性 (Ereignishaftigkeit)
ここで「出来事」と訳されているEreignisは、私には「生起」と訳した方が良いように見える*。まあ、どう訳しても問題のある言葉(ハイデガー全集では「性起」だっけ?)だけれど、フィッシャー・リヒテがEreignisの五つの特徴として挙げていることがらは、「出来事」という訳語からは直感的に納得できないのではないかしら。
1) 上演が演者と観客の相互作用から生じる自己創出(オートポイエーシス)的プロセスで生み出されるのだとすれば、それは作品ではなく出来事の性質を持つ。つまり上演は上演の過程としてのみ、過程においてのみ生じる。上演は出来事としてのみ生じる。
2) 出来事ならば反復不可能
3) 誰も完全な支配力を持たないという点でも出来事的。意味の「創発emergence」だ。フィッシャー・リヒテの言う創発とは、簡単に言えば、全体の知識がいかに完全であったとしても部分の知識から予測不可能であるような状態のことなのだろう。「予測不可能性」が創発性の必要条件である。知覚も、知覚に結びついた意味の創出も、参加者の誰一人にとっても予測できず、「降りかかる」「起きる」ものだ。
4)上演の持つ出来事性のゆえに、観客には独特の経験が可能になる。参加者は決定し決定される主体になる。完全に自律的でも、完全に他律的でもない。
二項対立的な対概念で把握できるもの—自律的主体vs他律的主体、芸術vs社会/政治、現前vs表象=再現—が上演においては二者択一のモードではなく二者共立のモードにおいて経験される(78)
5) 二者択一ではなく共立なら、両者の移行、不安定性、境界の解消に関心が向き、それもまた「出来事」になる。そこで重要なのは両者の「間zwischen」だ。「この対立するもの同士の間に、それらを分け隔てる空間が開かれ 、一方から他方へと通ずる境界になる。間はこのように特別に重視されるカテゴリーになる。原文分からないけれどdas Zwischenならますますハイデガー的。
さて、境界経験はターナーの概念で、文化上演で重要だ(通過儀礼など)。でも文化上演ではそれは取り消し不可能な境界経験だが、芸術経験はその点で独自だ。
芸術経験の場合、それが可能にする境界経験は、何か別の目標にいたる過程ではなく、それ自体が目標なのである。この種の経験を私は美的経験と呼ぶ。つまり、美的経験では、境界、通過、通行それ自体を経験すること、すなわち変化の過程そのものが重要であり、それに対して、非美的な境界経験では何かにいたるための通過、あれやこれやに変わるための変容が重要なのである。…美的経験を一種の境界経験と規定することで美的なるものの新たな理解が導入される。83
こうして、ようやく、芸術的な上演経験を他の上演経験から区別する特徴が得られた。これらが、上演は全員が同じ場所に集まる行為遂行的な「催し」だ、という作業定義から演繹的に導き出されるのがフィッシャー・リヒテの偉いところだと思う。
訳者の後書きだと第一部をきちんと理解することが大事だそうなので、第二部以降はもう少し簡単にまとめたい。
* この本にはハイデガーの名前は引用されていないのだけれど、「世界内存在」「間」とかいかにもハイデガーを前提にしているような言葉はちりばめられていて、その中でもこの「出来事」性は最たるものだ。訳者はいずれもフィッシャー・リヒテの直弟子さんなので、よそ者が「ハイデガーじゃない?」とは言えないけれど…
なお、訳者は解説で、彼女の使う「現象」は「とりあえず哲学以前の意味で用いている」(330)と書き、その根拠として、フッサールの「現象」概念と違うから、と言っているけれど、ここは同意できない。フッサールにとってはcogito的な「意識」の志向性との関係で「現象」が問題になっていたのだけれど、この本で見る限り、彼女の「現象」への関心は、見ている誰か一人の意識のありようにはないのであって、フッサールはとりあえず無関係なのはその通りだが、哲学的に「現象」を使えばフッサールになるわけでもない。「現象」自体はプラトン以来、哲学的にはありふれた概念で、彼女もその伝統に従っている。
もう一つ、訳者解説に同意できないところは、次の記述だ。
ここを素直に読めば、観客は「鋳鉄製のストーブ」「針のない時計」という「意味」を知覚していることになる。そしてこの局面をフィッシャー・リヒテは「ある現象を…現象的存在において知覚する行為」(同所)であるとしている。だが、ある物体が単なる(例えば)赤茶色をしたずんぐりした物体ではなく「ストーブ」で(中略)あると知覚することは、すでにある程度、「表象=再現の知覚秩序」ないし「象徴的秩序」に入り込んでいるといえるのではないだろうか。(331)
しかし私たちはまず知覚し、そしてそれからその意味を解釈するのではなく、まず何かをまさにそのものであるとして知覚するというのが、彼女の基本的な考えであり、現象的知覚は意味を欠いたものではない。 あるものが「ストーブ」として私たちに見えるとき、私たちはそれを「ストーブ」として知覚するのだ。もし、それが「赤茶色のずんぐりした物体」にしか見えないなら、私たちは再現秩序の中に持ち込んで、つまり虚構世界的文脈から、それを「ストーブ」として理解するだろう(例としては野田のThe Beeにおける割り箸=指が良いかな。その場合でも、私たち(日本人)は、まずそれを「割り箸」として現象的に知覚するが、西欧人は違うかもしれない)。だが「ストーブ」に見えるときには、現象的にそれは「ストーブ」なんだ。