リュディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」の要約的紹介の(2)。5節。次の6節からがこの章の中心部で、グッドマンの議論を扱う。
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これら四つの立場の説明から、分析哲学の理論のあり方についても音楽作品のあり方についてもたくさん外挿できる。「第一に、分析[哲学]が示している基本的な関心は、普遍・タイプ・種によって作品のあり方を記述することだ。」そこには山ほどの形而上学的な問題がある。もう一つの面倒は、「作品が同一性を持ち他から区別されるための条件を決定することだ。何かが音楽作品であるためにはどんな条件を満足させねばならないのか。時間がたってもそれが同じ作品であるのはどのようにしてなのか。一つの作品を別の作品から区別するための条件は何か。」分析哲学者はオッカム主義と還元主義の傾向があるので、「存在論にどこまでコミットするのかが主要な論点だとみなした。音楽作品について語るとき、抽象的存在にコミットする必要はあるのか。」
音楽の側からすれば、分析哲学が論じてきたことは、「音楽作品の本性を決定する際に創造性と作曲行為が果たす役割、作曲家による楽器の指定(どの音符がどの楽器で演奏されるか)の果たす役割、演奏と楽譜が相互に、また作品に対して持つ関係」だ。作品概念の中心にある特徴はすぐ分かる。作品とは「単なる任意の音のグループではなく、重要な仕方で作曲者、楽譜、演奏の所定のクラスと関わる複雑な音構造である。」これらが分かって音楽作品という観念がわかる。
哲学的関心と音楽的関心を調停するのが良い理論だ。「例えば創作についての哲学的理解と、作曲するとは何を意味するのかについての理解のバランスをとる」ような理論。「作品概念が実践において持つ役割(と持っていない役割)に敏感な」理論、「作品概念が実践でどのように機能しているのかの記述と両立するような仕方で作品とは何かを説明している」理論。「特定の理論に則して考えることで、説明したい現象の解明が、それもまさに私たちがそれらの現象を説明したいような仕方での解明が可能になるのだ、そのような理論はそう証明するだろう。この見地から、成功した分析哲学的な理論が生み出されたのかどうかを問うことができる。」
そのために本章ではグッドマンを、次章ではレヴィンソンを扱う。二人はそれぞれ独特だが、それでも分析美学の代表的議論だ。グッドマンの唯名論の方がレヴィンソンよりも存在論的なコミットが少ないので、グッドマンから始める。グッドマン理論への様々な批判が提示されると、もっとコミットしたいという[レヴィンソンの]動機が明らかになる。
「グッドマンは、作品の地位と同一性を決定するにあたって楽譜と演奏が中心となるという議論を提供している。レヴィンソンは、作品を創造する上で作曲家が果たす役割を強調している。グッドマンの関心は、音楽作品の様々な特徴がその特定の理論的要求を満たすような、そうした哲学的な理論だ。彼の説明は殆どの理論家にとっては反直観的に思われた。レヴィンソンはもっと前批判的な直観を大事にしている。彼は哲学理論への関心と、私たちの音楽現象へのもっと常識的な理解とのバランスをとろうとしている。私にはどちらもうまく行っていないように見える。この結論のゆえに、そもそも分析哲学の尺度の内部で考える限り、哲学的な理論と音楽実践の間の釣り合いを保つことは可能なのだろうか、という問いが引き出されることになる。私はそれが不可能だと論じることになるだろう。」
(訳は1-3と比べると良くなっている。四つの立場のうちグッドマンとレヴィンソンしか扱わないのと、レヴィンソンについての議論が次章回しにされ翻訳されていないので、1-5までは結局意味がないのも確か。それで「抄訳にしようか迷った」のか。さて、グッドマンパートの検証はどうしようかなぁ)
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