2013年11月23日土曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」(4)



楽譜は、統辞論的要件を満たしているとグッドマンは言う。「実際に書かれた音符note markは、二つの音符・符号note characterのどちらなのか分からないことはあっても、両方だ、ということはない(103)」。統辞論的に分離され識別されている。
「テンポ記号などは記譜的ではなく…それゆえ作品を構成する性質には数えられない」テンポなどによって演奏はずいぶん変わる。それらは「演奏の質に影響するが作品の同一性には影響しない」(104 G185)。(同一性、とは作品が例えば第九かどうか。テンポなどは第九の演奏の質には関わるがそれが第九であるかどうかには関わらない。バーンスタインのもノリントンのも「第九」だ。)
統辞論的な違いと意味論的な同一性を含む場合(増二度=短三度、移調楽器と非移調楽器を両方指示する楽譜など)は?グッドマンは、それらは「明白で部分的な省略や修正」で対応可能とする。楽譜の記譜性を全体として覆さない。
批判者は「明白で部分的」な修正ではだめなので、グッドマンの理論は不充分だと考える。でもグッドマンによれば、彼は楽譜が理論上果たすべき要求を特定しただけ。「何が理論的に可能であり決定的なのか。なにが理論的に妥当でなければならないのか。理論という実験室の外側で楽譜がどのような条件と状況で機能しているのかは彼の関心対象ではない。」彼の関心が一貫した理論的説明であるのに対し、批判者は実践との一致に基づいてグッドマンを判断している。
7は、いくつかの訳語、ニュアンスの違い、そんなに本質的ではない誤訳があるものの、大きな間違いはない。このレベルのミスなら自分が訳してもやるかもしれない。グッドマン・ジフ論争の紹介のパートがこのレベルまで正しく訳されているのなら、これ以上些細な誤訳を言挙げするのはよくない。)

8
音楽作品の同一性を巡る論争では、どんな理論家であれ、ある特徴が作品を構成する特徴だと一般的で固定的な仕方で特定しようとすると危険が生じるのが常だ。この危険は、ある作品にとってどの性質が構成的でどれが偶有的なのかを特定しようとするよりも、永続的な、すべての音楽作品に当てはまる一般的特定を行おうとするときに大きい(105)」。ポール・ジフがタルティーニの「悪魔のトリル」をグッドマンへの反例として用いたときそれは生じた。ジフによると、グッドマンの要求はこの曲の本質的なトリルを偶有的なものにしてしまう。もしそうならグッドマンの理論には問題があるが、果たしてそうなのか
ジフは同一性と質に結びつきがあると考える。ある性質が同一性にとって本質的なら、すべての演奏で示されるべきだし、そのことは作品の質と性格に影響する。ジフは逆も言いたい。「質のために、トリルがタルティーニのソナタのすべての上演で演奏されるべきならば、それは楽譜化されて、ソナタの同一性を構成するものとみなされるべきだ(106)」。これはそう簡単には言えないが、言えたとして、ジフのグッドマン反駁は正しいか?
ジフの反論の力をどんな理由で判断できるのか?グッドマンは、タルティーニは自分の理論に当てはまらないけれど、理論はたいていの場合、標準的な場合に当てはまればOKと言うかも知れない。形式的な理論と実例はうまく合わないものだ。楽譜は「実質的に」記譜的だという主張と両立可能。その場合、グッドマンはなぜタルティーニのソナタが難しいケースなのかを語るなどしてジフの懸念を却けるべき。タルティーニの場合トリルは構成的な性質だと示唆してもよいだろう。でもその判断の根拠はなに?
タルティーニの場合、トリルの符号記号は複雑な音符パターンを簡略化した記号。グッドマンの言う複合符号。18世紀に典型的な、100以上の装飾一つ一つに記譜上のシンボルを割り当てた言語を用いていた。音楽家はそれをオプションとはみなさなかった。「最も重要な装飾で、ないとメロディがとても不完全になる」(Bénige de Bacilly)。「厳密に従うべきもの」(Friedrich Wilhelm Marpurg)。ただし、「どの音符に装飾が与えられるのか、メロディのどこであれこれの装飾が導入されるべきなのか」は「エレガントに演奏するという評判の人物を聴き、その演奏を、既に自分が知っている曲で聴いて」初めて趣味を作り出して同じようにすることが出来る。「すべての可能な場合に当てはまる規則を作り出すことは出来ないからだ」(FWM)。

(8は最初のパラグラフが良くないけれど、あとはほぼ邦訳で分かる)


9は18世紀における装飾音符の記譜の厳密化を歴史的にたどったもので、ほぼ読んで分かる。二箇所だけ、比較的目立つ間違いを指摘。

新種の記譜上の厳密さは、作曲家が決定したまさにそのままのありかたで音楽の同一性を保存したいという新しい欲望から帰結したものだった」(108)

どの音符がどの楽器で演奏されるのかを示したこうした指定は、常に楽譜の中で明瞭にされたわけでも、音楽の同一性にとって常に本質的だと考えられたわけでもなかった。」(109)

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ジフが重視するような例は、グッドマンの立場からすると「記譜notation」ではない、というだけで、グッドマンの立場を脅かすものではない、という箇所。訳それ自体、というより[]で添えられた訳者の補足が間違っているのが気になる。ここだけ訳書の引用。
「他方グッドマンは、記譜習慣の歴史が指し示すものとは異なり、古楽における多くの楽譜は、彼が言うところの表記基準を満たしてはいな[く、故に作品と呼ぶことは出来な]いとする。最小限の事項のみ書かれている楽譜の本質的問題とは、準拠類において、[異なる作品の本性を巡り]重複が存在する[かもしれない]ことで、それは重大な欠陥と言える。[というのも]人が自身のアイデンティティに脅威を与えることなくして他人と身体部位を共有することが不可能であるのと同様、各楽曲の本性が保持されるためには、楽譜それぞれが詳細な規定機能を持つ必要があるからである。(183)」(110)
「グッドマンなら、楽譜制作の歴史には失礼だけれど、多くの初期の楽譜は彼の記譜への要求に適っていないと言いそうだ。最小限にしか記譜されていない楽譜の基本的な問題は、その従属クラスに重複があることであり、これは重大な欠点だ。個人の同一性に脅威を与えずに身体部分を共有できないのと同様に、作品の同一性が保持されるためには楽譜はユニークな指定を行うものであらねばならない。」グッドマンは楽譜を「作品」と呼ぶことが出来るなどとそもそも考えていないし、異なる楽譜が同じ演奏をその従属クラスのメンバーとすることは、楽譜の意味論的分離性に反している。
グッドマンにとって大事なのは、不充分な楽譜が存在しない、ということではなく、演奏から、充分な楽譜を構成することが出来るような記譜システムが存在するということなので、ジフのように反例を挙げてもそれは真の反例にならない。でもそうした解決は一番良いものなのかとゲーアは問う。

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