2013年11月27日水曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」(6) 13節

13
13節に入って、翻訳は再びほぼ出鱈目なものに戻った(後半はレベルが上がる)。ここではアラン・トーミーのグッドマン批判が取り上げられる。これはジフの批判よりもおそらくは重要であり、節としてもこの章の中で一番長い。再び、重要な誤訳箇所は青字にして翻訳(ないし要約)を行うやり方に戻る。どう間違っているのかは訳書を見て下さい。もとの翻訳に重要な間違いがない場合は「」内の私の訳も黒字。

アラン・トーミーは、楽譜の符号characterモデルに代えて規則モデルを採用する説得的な理由を提示した。かれがそうしたのは、グッドマンのモデルを支持するためではなくその代案モデルを与えるためだ。」第一に、トーミーは、不適切楽譜は音楽を作品ではないものにするというグッドマン説を拒絶する。「偶然性をもちいる楽譜はグッドマンが記譜に求める要求を満たさないという事実からは、「そのシステムは異なる演奏の間での作品の同一性を決定する手段を提供しない」という結論は帰結しないからだ。我々は実際偶然性を用いる作品を同定するのである。」だから、同一性には記譜以外の保証が必要だ。第二に、トーミーは、規則モデルが非グッドマン的な事例だけではなく全事例を説明する理由を示している。非記譜的な「同一性の保証」を与える点で規則モデルは符号モデルにまさるのである。
不適正楽譜を適正楽譜に翻訳する必要はない。「記譜の正確さ以外にも作品の同一性を保持する役に立つ条件が存在するからだ。グッドマンの線で考えられた記譜が、一連の演奏における作品の同一性を説明するのに不充分であることを証明するなら、「作品」クラスのなかにより多くの種類の音楽を入れることが出来る。」記譜以外に、信念や意図などの非外延的条件が必要。それらを認めることで外延・記譜条件はフレクシブルになる。重なりあうクラスの作品や演奏の同一性を決定するのにこれらの条件は役立ちうる。
「「同一性」という言葉にはとても多くのものが詰め込まれている。」GもTも、聴かれるもの、楽譜などで読まれるもの、聴くことになるだろうと語られることによって作品の同一性を決めようとはしていない。「彼(T)は同一性という語をテクニカルに用いている。つまり、何かが同一性を持つのはそれが一定の外延的あるいは非外延的条件、あるいはその両方を満足する場合であり、かつその場合に限る、と。トーミーとグッドマンの違いは、どんな種類の条件を作品の同一性に関係がある条件として認める気があるか、という点にあることが分かる。」
「符号に従うことに代えて規則を満たすことを持ち出すことで、楽譜が作品の同一性決定のための権威となる原理だ、というグッドマンの主張は影響を受けるのか?外延主義へのコミットは脅かされるだろう。でも、もしグッドマンが規則モデルを外延的に定式化できたら、規則も結局符号と同じことをする、という結果にならないか?」Gの符号=(トーミーたちの)規則でどこに障害がある?
「障害は次の点にある。グッドマンの記譜システムは取り出しプロセスを通じての作品の二方向の同一性決定を許す。」(北野コメント identificationは「同定」でも構わないが、このあたりでは特にidentity(同一性)が問題になっているので「同一性(の)決定」としてみた。)楽譜からも作品の適切な演奏を「取り出しうる」し、演奏からもそれが適切である作品の「楽譜」を取り出しうる。「符号モデルを規則モデルで置き換えることで、この二方向の同一性決定は脅かされるだろうか? 演奏を聴くことで、どんな規則に従ったのか、その規則の同定を行うことが出来るだろうか? 私には疑わしい。でも、それが規則モデルの問題であるなら、それは記譜モデルの問題でもあるのだ。」ジフは、記譜上の性質だけからは演奏を聴いて作品を取り出すことは出来ないと批判した。伝統も考慮しなければ。だからZもTも、「楽譜はそれ自体で作品を定義できないと結論する。」
楽譜を読み、演奏を聴く際に、何が作品を構成する性質になるのかについての理解を持っていなければならないことをグッドマンは認めるだろう。」人が読むのは黒いしるしではなく意味ある記号なのだ(G117)。しるしを楽音に変換する規則を知っていること、「一点ハ(の記号)にしたがうもの(音)を作り出すことのうちに何が含まれているのかを知っていること」が前提とされる。つまり「記譜符号の意味は当該の伝統の文脈で測られるべきであることが前提とされている。同様に、演奏を聴くときには、音がしたがっているのはどの符号なのかを私たち(あるいは少なくとも誰か)は知っていると想定されねばならない。」
「グッドマンがこれをすべて認めるかどうかは彼の理論とは殆ど無関係だ。取り出しテストが語っているのは理論的に可能でなければならないことだけだからだ。」実践において何が可能であらねばならないかは語られていない。理論の検証のためではなく、単なる興味のために、モーツァルトがグレゴリオ・アレグリのMiserereの演奏を聴いて記憶して楽譜を書いた(法王の怒りを買う危険を冒して)ことを思い起こすこともできよう。
 でも「規則モデルを主張する人たちも同様に自分の立場を弁護できる。取り出しテストをパスすることを、規則モデルは原理的に要求するだけだからだ。規則が守られているとき私たちが原理的にそれを認識しておりその規則を同定できることが、規則を理解することの部分をなしている。その規則を実践において正しく同定できるかどうかは別の問題だ。」取り出しテストが理論的可能性の問題なら、それは符号モデルと規則モデルの優劣を決めるのに役立たない。理論的にはどちらも上手くパスする。
「あらかじめ外延主義に与するのでないなら、取り出し手続きを助ける非外延的条件の可能性を(外延的条件に加えて)追求しても構わないだろう。」同じ外延的語彙で考えた二つのモデルの優劣ではなく、たぶん全く異なる存在論的なコミットを行っている二つのモデルの優劣が問題になる。
トーミーの規則モデルは偶然性音楽と古楽を説明できるという利点があり、これは大きな利点だ。でもグッドマンはそれを利点とみなさないだろう。彼はそれらを翻訳によっても、また作品カテゴリーからの除去によっても扱える。もう一つ、グッドマンがそうした例を気にしない理由がある。「彼の意図は、音楽世界の理想化に基づいた作品の同一性の説明を作り出すことだった。現実世界で何が作品とみなされているのかにも、彼の理論的条件を満足させる作品が現実世界にそもそも存在するのかにも直接の関心はなかったのだ。
この論点も批判者には受けいれられない。理想化とは、そもそも現実世界の実例への知識に基づくものであり、グッドマンが求める理論的純粋さを保つことは出来ない。「自分の関心が「[音楽の記譜の]起源や発展にではなく、楽譜の言語がどこまで充分に真に記譜システムとして認められるのか(G181)にある」というグッドマン自身の但し書きにもかかわらず、彼の主張の多くはなおも実例の知識を前提としている。もし、グッドマンが、自分はいかなる経験的知識も前提としていないと主張し、「作品」「楽譜」「演奏」といった語彙の使用は理論内部でのみ正当だと断言するなら、私たちは、彼は何について話しているのかと、彼に問うことが出来るだろう。彼の理論は何の理論なのか? 彼の主張は実際の音楽作品と関係があるのか? あるとしたら、結びつきはどこにあるのか? ないとしたら、どうしてこのような語彙を使うのか? 彼の語彙使用は、同じ語彙を非理論的な意味と結びつける人々を混乱させるものではないのだろうか?」
批判者に対してグッドマンは、どんなこの世の現象についての理論であっても、現象そのものへの忠誠をときに上書きするような要求を満たさねばならない場合があることを思い起こさせるだろう。実際にかれはしばしばそうしたことを言う。」かれのこの応答の背景や問題を理解するには演奏についての彼の説明に向かう必要がある。

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