2013年11月29日金曜日

リディア・ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」7

第14節
第14節は再び精度が上がる。但しグッドマンの翻訳二箇所は間違い。
グッドマンにとって問題は、何かが楽譜として機能するために満足すべき条件と、何かが演奏であるために満足すべき条件の両方だ。だから、記譜と記譜に従うもの(演奏)の関係は完全であらねばならない。
以下、グッドマンの引用二箇所の原訳と試訳を並べる。

原訳「楽譜が要求する楽音を特定・実践する上で必要な能力は、当の楽曲の複雑度に即して増すものだが、実践[の質]を見極める上での決定的な理論的検証というものが存在する。そして解釈上の忠義や独自の価値がいかようなものであろうと、演奏は、—この検証によれば—対象作品の組成的属性を持つか持たないか、そして当の楽曲の厳密なる演奏であるか否かの、どちらかなのである。」(まあそれはどちらかなのでしょうけれど…)
試訳「楽譜が要求する音をそれと見分けたり作り出したりするために要求される能力は、楽曲の複雑さとともに増大するが、それでも、理論的には、楽譜に従っているかどうかの決定テストが存在する。解釈上の忠実さや独自のメリットが何であれ、演奏は、このテストをパスするかどうかで、当の作品を構成する性質のすべてを持っているかどうか、厳密に言ってその作品の演奏なのかどうかが決まる。(G117-8)」(118)

原訳「作品の真なる事例化に唯一必要なもの、それは楽譜への完全な準拠である。つまり楽譜自体は演奏に関する特徴を明示せず、一定の限度内において多くの変容を許容するかもしれないが、既に記述されている詳述事項への完全な準拠は無条件に必須である」
試訳「楽譜に完全に従うことが作品の真なるインスタンスへの唯一の要求である。…だから、楽譜は演奏の多くの特徴を特定しないままにしておくかもしれないし、それ以外の特徴については一定のあらかじめ定められた範囲の中でかなりのヴァリエーションを許すかもしれないけれど、与えられた指定に従うことは無条件に求められている(G187)。」(119)
(complianceを「準拠」と訳すことに文句をつけないとしても、間違いは「つまり…」以下にある。「特定しない」のと「ヴァリエーションを許す」のは原文では排他的だ。)

グッドマンによると、作品には、「自由な遊び」を作曲家が許さない性質がある。典型的には音高・音価・調性。これらは作品の構成要素なので、特定される必要がある。「ある程度のヴァリエーション、解釈の自由、「お好きにどうぞ」が認められる性質は偶然的で予見不可能な性質だ。
一定の自由があることは音楽システムの記譜的性質を脅かさない。楽譜が記譜要件を満たす限り、作品を権威的に同定することが可能。この見解に何か問題があるのだろうか?

本節は、大体半分くらいの文が正しく訳されているように見える。肝心なグッドマンの引用が×なので分からなくなっているけれど。

15節
前節で、「何か問題が?」と問いかけているので、問題の実例を挙げている。演奏者の一人が途中でくしゃみをしたら、「完全に従う」という条件は壊れ、その作品の演奏ではなくなってしまうのか?
楽譜が演奏を構成する性質を規定し、何かが演奏なのは完全にその性質に従う時だとすれば、くしゃみで壊れることはない。偶然的要素はあるし、二つの演奏が完全に同じ音を出すなどまずない。つまり、「演奏を構成する性質を妨げない限り、どんな特徴を加えても構わないのだ。その結果が演奏であることに変わりはない。これは望ましくない帰結だ。果たしてそうなのか?」(120)
Gなら、それが望ましくないのは実践ないし質に関してだけ、と言うだろう。「彼は多分、楽譜が複合符号であり、作品を演奏するというのは各個別符号に従うというよりもむしろ結合した形での符号に従うということの問題だ、と想起させるかもしれない。作品を構成する符号に従っているなら、結合した形でそれに従っていたのであり、このことは、すべての楽譜の間にくしゃみがあった、という可能性を排除するのに充分だろう。」
「多分、くしゃみが一つぽつんとあってもそれは、グッドマンの言葉だと、演奏の同一性ではなく質に影響する偶然的な特徴の一つに見えるかもかもしれない。」くしゃみは奏者の加えるヴィブラートみたいなものかも。くしゃみを「加える」という選択を妨げるために、未確定という意味での「記譜上の偶然的な性質」と、記譜上の規定とは無関係な「アクシデント的性質」を区別することも出来る。くしゃみや雷などは後者。(iPhoneの呼び出し音や教会の鐘も)前者は演奏に際して選択可能だけれど後者は不可。でもこの区別は不要だし何の役にも立たない。
Gだと、演奏は、それを構成する作り出された音によって、その音がどこまで楽譜を守るかに応じて説明されるべき。偶然的な音は無関係。くしゃみややり過ぎのグリッサンド(メンゲルベルクだ)が演奏の同一性をおかすのは、作品を構成する符号の遵守を妨げたときだけだ。そこまで来ると、演奏は不適当ないし不完全だ。そうした演奏があっても、完全な遵守が演奏の同一性に充分で同一性を決定するかどうかには無関係。
グッドマン説が崩せないのには認識論的な問題もある。演奏かどうかを判定できないような例を作り出すことは出来ない。その考察は無関係だとグッドマンは反駁するだろう。あるサウンドイベントが楽譜に従っているかどうかを我々がどのように知るのかは、演奏が完全に楽譜に従うことを要求する存在論的な条件とは無関係だ。(前者は認識論的問題だ)。この点は記譜上の偶然的な性質とアクシデント的な性質の区別についても当てはまる。
くしゃみはグッドマン説の妥当性と無関係。でも批判者は、くしゃみよりも、当の楽譜に完全に従わない多くのイベントを演奏のうちに数え入れたい。それがグッドマンとの不一致の核だ。グッドマンの場合、くしゃみはいくらあっても良いが、一つのミス(ひとつの間違った音)を持つ演奏でも演奏とは認めない。どんな理論的問題が彼にこんな立場をとらせたのか?
後半は原訳のままでほぼ問題はない。)

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