2013年4月30日火曜日

ベーコン展を観ました


ベーコン展を見てきました。ベーコンのものをまとめてみるのは、
五年前にTate Britain で中規模回顧展を見て以来です。
Tateの例えば
http://www.tate.org.uk/art/images/work/N/N06/N06171_10.jpg
に比べると、まだまだ人体の形がまともなのが多くて、おとなしい感じ。

そんな怖い印象は与えませんでした。これなら新入生を連れてきてもよかったかなぁ。解説も丁寧で(ガラスの反射が強いことへの言い訳が多かったけれど)、観やすくなっています。解釈を絞らせてしまい、それだけ作品との出会いのショックは失われます。難しいところです。

ベーコンのもっとぐちゃぐちゃしたものが多ければ、解説の過剰も納得なのですが…。
あと、ベーコンの恋人の名前も、彼が自殺したことも挙げているのですが、ベーコンがゲイであることはパネルでは書かれていませんでした。(まあわかるのですけれど、誤解していた人もいた)。

この展覧会で面白かったのは、ベーコンに触発された土方とフォーサイスのフィルムを映していたこと。やろうとしているところは結構同じだったり(統一性を失った四肢)すると思うのですが、お洒落さがずいぶん違う。

若い頃のフォーサイス観るの初めてかも知れないのでうれしかったです。
ただ部屋の奥側に行くと、上からとった映像と前から取った映像で左右逆転になってしまうので注意です。

2013年4月29日月曜日

ジュネット『芸術の作品』

ようやく読めた。
芸術の様々な実践の存在様式のあり方を、ネルソン・グッドマン由来の「自筆的autographic」vs「他筆的(allographic)」や、「唯一的」vs「多数的」、「超越的」vs「内在的」、「多数的」vs「複数的」などの対概念を用いて分類し、見通しを与えたもの。現代芸術においては、とりわけ従来の伝統的なジャンル概念が有効でないことが多いだけに、こうした演繹的で包括的な分類はありがたい。目の前にある(よく分からない)芸術作品を既知の芸術作品との関係で位置づける(つまり芸術作品として理解する)助けになる。この危機意識は、これから読むフィッシャー・リヒテの『演劇学へのいざない』も共有するものだ。
『泉』はモノが美的なのではなくそれを芸術として提示する作者のジェスチャが美的なんだ、というところあたりは、「美的」という言葉はそこでは相応しくないのでは、という疑念が残るけれど、それ以外は殆ど同意。「美的」については続編の「美的関係」で集中的に論じられるのだろう。邦訳で読みたいけれど出るのに時間がかかるようなら英訳を買おうっと。
同じテキストであっても複数的な(つまり別の)作品は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』とピエール・メナールの偶然それと全く同一のテキストというまあありそうにもない例だけでなく、アプロプリエーションの作品でもそうだし、あるいはフェルメールだと思われている絵とメーヘルンの贋作であることが分かった同一の絵画でもそうだし、さまざまな時代の解釈の下で読まれている同一のテキストに関しても言える、という主張にいたるまで、ほぼ違和感なく読み終えた。
芸術の存在論では、Gregory Currieが、作者をその作品の創造にいたらせたheuristic pathを含めたその前史も作品なのだと主張しているけれど、作品の成立後の影響関係もその作品を形成している、という主張は、私は自分が思っているだけ(ではないにしても美学ではそんなに仲間がいないのではない)かと考えていたら、十年以上前にジュネットに言われていた(もっとも、解釈共同体批評が身近な文学理論の領域では、これはそんなに突飛な考えではない)。私が授業で時々出すのは、『アヴィニョンの娘たち』の完成直後にピカソが交通事故で死んでいた可能世界において、『アヴィニョンの娘たち』は私たちが今持つのと同じ作品だろうか、という例えだけれど。
翻訳も分かりやすい。間違いがないわけではないが(原文見ずに間違いだろうなと思える箇所が幾つか)、それは訳文だけから簡単に修正できるレベルだし、訳の分からない箇所は殆どなかった。

2013年4月24日水曜日

先生はPerseusのデータが古いことにお怒りのようです

以下の内容は、私のサイトの「電脳ギリシア語」の補足。

西洋古典学会がウェブページを開いた。雑誌の英語版を出したことと並んで喜ばしい。そのなかに「古典学の広場」というページがあって、わたくしのお師匠様のお一人である森谷宇一先生が、ご自分が中心になって翻訳されたクインティリアヌスの『弁論家の教育3』の翻訳方針について「巧みで気がきいてはいるがやや不正確でずれた訳になるぐらいなら、愚直で不器用ではあるが正確な訳をわれわれはめざす」などと、ちょっと……(まあ先生らしいなぁ)なことを書いていたり、兄弟弟子の渡辺浩司さんが分担して関わったルキアノスの新しい訳について「古くて新しいルキアノス」という、ストラヴィンスキーとルキアノスはどっちも田舎者なので普遍性を得たよね、みたいな、分かるけれど強引な紹介を書いていたりしている。「なのに」ではなく「なので」と言えるかどうか……

さて、その中に、納富信留さんの「ギリシア語の辞書—LSJとその歴史」というページがあって、LSJ(Liddell Scott Jonesと呼ばれる希英辞典)の歴史について紹介して下さっている。簡単にまとめると、SchneiderはPassowを生み、PassowはLSを生み、LSはLSJ(1924)を生み、こうしてLSJ(1940)が生まれた…と。
LSJのその後の改訂については触れられていないなぁ、と思っていたら、そこにこのエッセイのテーマがあった。
LSJも無論完全ではない。語義の区別や説明には不十分な点が多く、時に誤りもある。スペイン語などの言語で新たなギリシア語辞書作りも進んでいるが、今日に到る大事業を始めたリドルとスコットも、もし現代に生きていれば決して現状に満足することなく、本格的な増補や改訂を加えようと思うのではないだろうか。
すこしとんで
無料や安価な電子媒体でLSJ(旧版)の文字情報だけを見ながら、なにかギリシア語を読んでいる気になるのは、西洋古典学という学問からは程遠い態度に見える。私もiPod用のLSJ(1924年版?)のデータを数百円で買ったが、そこには「序言」も「略号表」も付いていない。本当に古典を読めるようになるのは、受け継いだ文化遺産を徹底的に反省しながら、それを越える新たな道具を私たち自身が作っていく時ではないか。
最後の文章は私には普通の意味で理解出来なかった(古典を本当に読めるようになるのは大変だ、ということは分かった)が、それはともあれ、PerseusプロジェクトがLSJの最新版を無料で提供できなかったのは、それはOxford大学の著作権を侵害することになるからで、それでも、辞書情報、語形分析情報やテキストを電子化してオンラインで無料で提供し、著作権保護の切れた、ただし価値の高い注釈や翻訳も提供する(著作権フリーではない翻訳も一部含まれている)ことは、学生がギリシア語をより身近に、より深く学ぶための手助けになるという信念があったからで、その信念は「安上がりで済ましてギリシア語を読んでいる気になるなんて本物じゃない」という信念とは正反対だ。私はPerseusの信念に賛同する。高い辞書と高いテキストを買わないかぎり「ギリシア語を読んでいる」ことにはならないのだとすれば、無料や安価な電子媒体でLSJ(旧版)の文字情報だけを見ながら何かギリシア語を読んでいる気になっている人はいったい何を読んでいるのだとお考えなのだろうか。

もし「序言」と「略号表」がついていないことが問題なら、それをネットで公開すればいいだけのことだ。実はその必要はなくて、無料のEPWINGS for the Classicsにはきちんと序言と略語表がついている。データのオリジナルを提供したPerseusサイトの辞書にもあるんじゃないのかしら?

それでも、「西洋古典学」という学問をするにはPerseusが提供しているLSJでは足りない、というのは当たり前の話で、資源はあればあるほど良いし、LSJだって最新版が欲しい。Logos Softwareのおかげで、130ドル出せばiPhoneでもiPadでもパソコンでも読めるLSJ(1996)が手に入る。補遺部分も本文に組み込まれている。素晴らしい。年百ドルくらいで、TLGへの登録が出来る。「文化遺産を徹底的に反省」するにはTLGは不可欠だ。プロはそうすればいいし、そうしているでしょ。Perseusデータだけで「古典学」研究をやっている人などいない。でも、そのレベルを「ギリシア語を読む」ことにまで拡張しないでほしい。「金を出さないやつはギリシア語を読むな」よりも「貧乏人はフリーテキストで読め」の方が、日本における古典ギリシア語の普及のためにも良いのではないか。

2013年4月20日土曜日

iPadのePub Reader (2)

前回、Kindleで購入した本はKindleを使ってハイライトやノートの同期が出来るが、そうでないものは出来ないこと、Windows対応のNeosoarBookがそれが出来そうなことを書いたが、NeosoarBookをParallelsのWindows環境で起動したらAdobe IDを要求し、自分のAdobe IDを入れたらログインを拒否されてしまった。そのときの理由が中国語なので、なぜ拒否されたのか分からない。「輸入なんとか」って出たから、国の問題とかあるのかもしれない。結局これも使えないことが分かった。
PCとのannotationの連携に一番力を入れているiPad専用のeBook ReaderはMarvinかもしれない。そのMarvinはMac/Win/Linux用のePub管理ソフトであるCalibreにannotationを書き出すこと、自分のannotationやハイライトをHTMLやCSVに書き出すことが出来るが、Calibreにannotationをインポートしても、Calibreのリーダーではそれは表示されない。そのやり方も基本的に、書き出したannotationをパソコンにメールし、それをCalibreが読み込むって方法だ。また、Calibreにはハイライトやノートを作る機能がないので、PC上で作ったannotationをMarvinに移すことも出来ない。つまり同期機能ではない。これは使えない。
今のところ、単純なこと、つまりiOSとMac上のePub Readerでハイライトやノートを同期することは出来ないと分かった。まあいいや、そのつもりなら(誰が?)。「もういいでしょう」とか「パトラッシュ、ぼく…」という感じだ。著作権尊重は大事なことだし、いずれ専用リーダーアプリ以外ではDRM FreeのePub書類しか使えないので、買いたい本がすべて一つの書店(アマゾンとか、Koboとか)にない限り単純に統合された環境でePubを読むことは出来ないのだから、当分の間洋書は紙で買って自炊だ。後数年すれば状況が変わるだろう(良く?悪く?)。(私が著作権法を誤解していたので一部削除線を入れた。)

一つだけ、eBookについてこんなことを言っているアプリのサイトがあった。mobipocket Readerだ。
Annotate & Highlight : It's Your Book 
You can annotate, bookmark, highlight, any part of any eBook and share your annotation on every device with Mobipocket ebook reader installed: connect your device and all your annotations will be synchronized. You can add and delete annotations on your reading device and on your PC at the same time. (http://www.mobipocket.com/en/DownloadSoft/ProductDetailsReader.asp)
でもそう思っている人はごく少数なんだろう。 ちなみにmobipocket ReaderはiOSとAndroidには対応していない(-_-)。

2013年4月15日月曜日

iPadのePub Reader

iPadのePub Readerについて、次のようなものが欲しいと書いた。

(1) しおり、ハイライト、ノートがマックの汎用ePubソフトでも読んだり編集したり出来る(Mac上ではAdobe Digital Editionを使う)。
(2) DropBox経由でMacと同期できる。
(3) 内蔵辞書、単語のコピーに対応 (Kindleはコピーが出来ない)。内蔵辞書にない単語はEP WINGの辞書で調べるから、単語のコピーを許さないアプリは不可。

このうち、(1)と(2)は基本的に無理で、ただしパソコンとiPadで同じアプリを使うとノートやハイライトの同期が可能なものがある、ということが分かった。ネットを経由して、そのサイトに登録して、自分のIDとハイライトやノートを紐づけるので、ある意味簡単ではある。

私がしたいことは、iPadで本を読んだりハイライトして、パソコンでそのハイライトにノートをつけたりハイライトを編集したりして、さらにその結果がiPadに反映される、というわりと単純なことだ。それをするのがこんなに難しいとは思わなかった。いろいろ見て行くと、Dropboxとの同期に対応していることを売りにしているアプリは二つあるけれど、どちらもノートがとれない。多分ハイライトやノートはオリジナルのファイルに書きこまれるのではなく、何らかのメタデータファイルとして別に存在するのだろう。


そうだとすると、とにかくどんな形でも良いからパソコンとiPadでノートやハイライトを共有できることが重要だ、ということになる。その場合、最も簡単なのはKindleだ。MacでもiPadでもkindleで読むことにすれば良い。ただし、KindleはePubファイルは読めないので、一旦Kindle固有のmobiファイルに変換して、それからそのファイルをKindleに転送してやる必要がある。ePubからmobiへの変換はCalibreなどいくつかのソフトウェアで可能で、Kindleへの転送はAmazon のアカウントサービスでMy Kindleアカウントを調べてそこへメール送信を行うことで可能だ。但し文章や単語のコピーは出来なくなる。

(Kindle Personal Document Serviceを利用することをこの文章では考えていたのだけれど、Kindle Personal Document Serviceはパソコン用のKindle アプリには対応していないことが分かった。と言うことは上記の「同期」は出来ない。なんか、「Sigh!」って感じ。パソコンのKindleフォルダに入れれば読むことは出来るのだけれど…………

Windowsなら、NeosoarBookがノートとハイライトの同期を売りにしているが、残念ながらiPad, Android, Windowsのみだ。Windowsの人はNeosoarBookに登録すると、ePubファイルのままで何とかなるようだ(実際に試してはいない)。ノートの同期とテキストのコピーの両方が可能なePubリーダーは他にないような気がする。頑張ってNeosoarBook! Mac版も出して!(やってみると、日本のAdobe IDではできなかった)。

Macの人は、Kindleを利用し、文章の引用の必要があるときはもとのePubファイルを使うか手打ちするかになる#1。KoboもKindle同等のことが出来るはずだが、iPad上のKoboはePub形式の洋書を読むと不安定で、ノート、ハイライトが出来るはずなのに実際はノートをつけようとすると落ちたのでよく分からなかった。
#1シェア機能を利用し、facebookやtwitterに引用(とコメント)を転送することは出来るようだ。鍵付きのtwitterアカウントにしてtwilogを利用するなら、簡単な引用データベースにはなるのか。参照元

以下、代表的なePub Readerに関して上に書いた機能を比較してみた。日本語のことは想定していないので、各ソフトが日本語のePubファイルをどれ位きちんと表示できるのかは知らない。PC同期で△にしているのは、DropBoxアプリから「…で開く」に対応しているが、iPadでつけたメモやハイライトをMac(PC)に再び戻すことが出来ないものである。
どのソフトを使うにしても、DRMの問題は残る。Koboで買った本をKindleで読むには、KoboのDRMを外さねばならないだろう。Kindleの本をePubにするためにもそうだろう。自分で購入した本のDRMを自分で読むためだけに外すことの合法性については(そんなもん違法であるはずがないと思っていたら)、議論があるらしい(2012年の著作権法改正の結果)。電子書籍のDRMが改正著作権法で禁じられている「暗号方式による技術的保護手段」にあたるとは思えなかったのだけれど。駄目な感じ。もしそうだとしても罰則は今のところないようだが(損害賠償請求の可能性はある)、公務員としては出来ないなぁ

(これは現在のところ音と映像の著作物の話で、電子書籍にはまだ拡張されていないみたい。よかった。)

合法性はともあれ、こんなDRMがかかっている限り、電子書籍は伸びないだろうなぁ。今のままだと、すべてのDRMに対応したリーディングアプリが現れないかぎり(結構多くのに対応したのはあるみたいだけれど)、買う本屋さんが作っているだけのハードか、少なくともそれらがアプリ化されているiPadを持たないと、自由に電子本を読むことは出来ないのだから。iTunes Musicみたいに、購入者(基本的に名前は分かっている。クレカ購入の場合には追跡も出来る。iTunes Cardの場合でもIDに一定の持続性があってApple IDで他の何かを買っていれば住所などもわかり民事化は容易そう)のApple IDと名前をどこかに埋め込むことで抑止効果にはならないのだろうか。(次の項目に続く)



PC同期ノート等内蔵辞書コピーその他特徴
iBooks×△*1iOS上では購入したもの同士のノートは同期。
Kobo*2×Adobe Digital Editionでも読めるが同期はしない。
Bluefire
Reader
×
NeosoarBook×内蔵辞書がポップアップでなく画面上書き
JapanReader×〇*3独自辞書は単語帳レベル。但し仏和・独和等もある
Kindle*4〇*5×
Stanza×単語選択までに一手間余計にかかる。
Apabi Reader××
Booc〇(Drop box)××有料の独自辞書の宣伝がでる。英韓のみ。
BookReader〇(Pro)
(Dropbox)
×××単語選択不可。そもそもまともに表示しない。
Gitden Reader×
e-reader×
ReadMill


*1 英々と英和の切り替わりの規則が不明。
*2 Koboで買ったものはPC上のKoboとiOSのKoboと同期。それ以外のePubは駄目。
*3 内蔵辞書は独自のもの。
*4 mobiファイル。ePubから変換し、Kindleに転送する必要がある。
*5 独自辞書(プログレッシブ英和だから、内蔵と同じ辞書)

2013年4月7日日曜日

洋書の自炊とOCR

手持ちの洋書は二年ほどかけてほぼ自炊した(1500冊弱)。例外は、辞書、古典ギリシア語の文献についてのコメンタリー、事典くらいか。あと、もう一生読むことはないな、と思う本も何冊か。

必要なハードはパソコンと、裁断機とスキャナーで、裁断機は自炊用の定番YG-LNの大型裁断機、スキャナーはほぼ自炊専用ではないかと思うがSCAN SNAP S1500だ。

YG-LNの裁断機。画像はAmazon.co.jpより
どちらも改良機種が出ている。特にSCAN SNAPは、久しぶりの新機種でいろいろ良くなっているらしい。

押し切りタイプの裁断機は、どうしても裁断面が斜めになるが、スキャナで用紙サイズを指定して取り込めば、裁断面が斜めになっていても関係ない。ただ、スキャナの濃度設定で、裁断の線が写りこまないようにやや薄めにする方が読んでいて幸せだ。(スキャン時には気にせずにトリミングで処理する手もある)。

裁断した本はスキャナに入れていくが、スキャナの設定で、やや注意が必要。

(1) 白黒の本で写真がないものは、白黒の設定でスキャンさせる。

(2) 白黒の本で写真(白黒)ややや細かめの図版がある場合には、「カラー自動判別」でスキャンさせる。「カラー自動判別」の場合、文字だけのページは白黒(600dpi)で、写真付きのページはグレイスケール(300dpi)で読み取るはず。ただ、クリーム色の紙をクリーム色で認識することが時にあり(ほとんどないのだけれど)、そうなってしまうと後の処理が面倒になる。全体を「グレイスケール」にしてスキャンした場合はスキャン結果が文字だけのページも300dpiになってしまうのと、紙の色を薄いグレイで認識することがよくある。特に古い本だと、この紙の色問題はファイルサイズをむやみに大きくし、なおかつできあがった書類の見た目を悪くするので面倒だ。300dpiの方が認識結果が悪くなると言う印象はない。また、文字自体は、後で書くようにClearScan方式で行えば解像度が低いことによるギザギザは消える。白黒で読み取ってから写真ページだけグレイで再読込をする(あとでAcrobatでページ挿入する)のが一番結果としては良いように思う。面倒くささとのバーター。ただ、全体の真ん中に写真ページが挿入されている多くの本では、写真だけ別読み込みにすることは合理的でもある。(私は、写真ページをList of Illustrations的な説明のページの直後に挿入することにしている)。

(3) カラー写真がついている本の場合も同様に、「カラー自動判別」にしたとき、文字だけのページを白黒で読み取ってくれないことが時にある。紙が白くないときにそれが多い。たいていの場合は上手く行くので、やってみてから駄目なページ(文字だけなのになぜかカラー300dpiでスキャンされてしまっているページ)を白黒で再スキャンするのが良いと思う。カラーでスキャンされたページを白黒に変換することはAcrobat Proなら可能(ググればやり方は出てくる)だが、結構面倒くさい。あるいはこの場合も、「白黒」と「カラー」のページをそれぞれ別にスキャンする。



で、PDF化するのにOCRソフトが必要だ。欧文書籍のOCRソフトとしては、Adobe AcrobatのOCRを使うか、Abbyy FineReader Proを使うかが判断に迷うところだ。(多言語認識、複数ページ分割の機能を両方持っているのはFineReader Proが最初だったし、今も他にはないような気がする)



単一言語の本の場合、Acrobatが良い。この場合は、OCR時にScanSnapの設定で自動的にAcrobatで認識しておくようにしても良い。ScanSnapにはAcrobatのStandard版が同梱されている(少し古いバージョンのものだけれど)。StandardとProの違いは、OCRと読書に関しては墨消し機能の有る無し位しか関係ないように見える。

ただし、AcrobatのOCRは必ずClearScan (300dpiの設定。いずれ画像は300dpiでスキャンされている)を使うことにする。その理由は二つ。

(1) ほとんどの場合、ファイルサイズが劇的に小さくなる。自分でやった本で言うと、Umberto Ecoの「完全言語の探求」の白黒600dpiでスキャンしたファイルは32メガバイト、それを「読み取り可能な画像」でOCRにしたときのサイズは12.6メガバイト、これを「サイズが縮小されたPDF」に変換すると12.1メガバイトにまで小さくなるが、すこしぎざぎざも増える。ClearScanだと3.5メガバイトだ。しかも基本的に幾ら拡大してもなめらかなままだ。

ClearScanは、英語の方が他のヨーロッパ言語よりも、読み取る書類の状態が良い方が悪い場合よりもファイルサイズは小さくなる傾向がある。後者は、文字情報の画像を一致する文字フォントに置き換えて表示しているためなのだと思う。上手く一致しない場合、画像情報が残るのではないかしら。

ただし、とても状態が悪い書類の場合、そんなにファイルサイズが減らなかったり、あるいは極めてまれに上がったりする場合もある。その場合でも、次の第二の理由からClearScanにした方が良い。

(2) 書類の見かけが向上する。ClearScanだと文字画像は同じ形のフォント情報で置き換えられているので、拡大してもぎざぎざにならない。先ほどのエーコの「完全言語の探求」を もともとのスキャン画像、「サイズが縮小されたPDF」で別名保存したとき、ClearScanしたときの同じ箇所の画像を並べるとこんな感じだ(クリックで300%の大きさに)。元のスキャン画像よりもClearScanを行ったあとの方がきれいなのに気づくだろう。
Ecoスキャン画像
Eco縮小PDF

Eco ClearScan

もう少し状態の悪い本の例も挙げる。ソ連共産党中央委員会編の「ソ連共産党の歴史」(1939年版、英訳)は、OCR処理する前のファイルサイズが35メガバイト、ClearScan後が19メガバイトでサイズはあまり変わらない。適当に同一箇所の画像を見ると、こんな感じだ。
OCR前のPDF画像(300%)
ClearScanでOCRをかけた後 (300%)

文字の間のよごれはそのまま(だからファイルサイズが落ちないのかしら)だけれど、例えば最初の三語を見ると、文字のぎざぎざが、画像がフォントに置き換えられていることでずいぶんなめらかになっているのが分かる。これは600dpiでスキャンしているが、スキャン精度が下がるとClearScanのありがたさはさらに増す。

二言語以上が用いられている本の場合、Abbyy FineReader Proは複数言語の認識に対応しているので、認識結果は圧倒的に優れている。Acrobatだと主要言語(認識言語として設定したもの)以外はかなり酷い結果になる。ただし、見かけはきちんとしているので、認識結果はあまり気にしない、という考え方も成り立つだろう。英独や英仏二言語の本の場合、フランス語やドイツ語で認識させてやると、英語部分も結構まともに読む傾向がある。でも、多言語の論文集などの場合、時間があればAcrobatでページごとに認識言語を変えてやるのが良いと思う。

FineReaderのもう一つの良い特徴は、見開きページを自動で分割してくれることだ。コピー機タイプのスキャナを使う場合(本を断裁せずにスキャンする場合)、この機能はとてもありがたい。(そのような場合でも、私はFineReaderで認識した後、イメージだけを保存して、AcrobatでClearScanをかけている。私の持つiPad2では、一冊30メガバイトのPDF書類は動作が緩慢すぎてストレスが大きいからだ)。

認識精度についての一般的な比較は、「モノマニア:文系研究者による家電と電化製品の比較のブログ」のこのページこのページが詳しい。

追記1:日本語縦書きの場合は、ClearScanはまだまだ屑っぽいので注意が必要だ。(Acrobat 10。11は未検証)例えば右の例(岩波書店 『ギリシア悲劇全集』3より「オイディプース王」より)では、ClearScanした結果文字が重なってしまっている。認識結果を見てみると「そのことだ、いまなにより先にわたしの言い分を聞いていただきたいのは。」および「おまえが悪人ではないなどとな。」ときちんと認識されているのではあるが。 追記2:本記事のラベルはMacだが、考えてみるとFineReader ProはWindows版しかなかった。私はParallels上のWindows7で使っている。MacのFineReader Expressはいろいろと制約がある。見開きの自動分割が出来ないのかも知れない。FineReader Proはダウンロード販売がある。

2013年4月6日土曜日

理想のiPad Strapを求めて

自分の所有する洋書はほぼ自炊したので、すべてをDropbox経由でiPadに入れている。
iPadはもっぱら、本を読んだり、ネットを見たりするのに使っている。
で、本を読むのに、ただでさえそんなに軽くないiPadにケースを使うことはできないし、でも裸iPadだと不安定なので、ずっとX-Bandってのを使っていた。

TKO SolutionのX-Band2 (画像は製造元から http://www.tko-solutions.com/cowbell/)
後ろの穴に手を差し込んで使う。きっちりホールドしてくれるし、温泉でピンポンも出来る(非推奨)ので、愛用していたのだけれど、どうしても機能ボタンと革がぶつかる(穴は開いているのだけれどそんなに上手くは対応していない)のと、ゴムの部分が伸びてきてホールド力が弱まって行くのが気になる。
で、三代使ったけれどそろそろ別のを探そうと考えて今はHelo Strapってのにしている。
Helo Strap (画像はamazon.comから)

最初は端っこのゴムが伸びやすいのかな、と思っていたけれど、買って半年ほど使っているけれどまだきっちり保持してくれる。真ん中の部分が手を通す穴になっている。穴部分の大きさ調整は可能。でも不満が二つある。(1) 手を通す部分が浮き上がっていて収納時に邪魔になる。これは安いソフトケースを購入することで解決した。(実際に買ったのはSanwa Supplyのこれだけれど100均でもっと安いのでも良かった。
最近気になりだしたのは、(2)手の位置がほぼセンターに固定されてしまうのでソフトキーボードが打ちにくい、という点だ。iPadでもキーボード分割が可能なので両方の親指で入力するのがかなり楽になってきたが、私の手の大きさだと左手の入力がやや不便だ。
Helo Strapを買ったときに本当に欲しかったのは次のPadletteって賞品だ。
Padlette(画像はAmazon.comから)
これはとても軽そうだし、手の位置の自由度がHeloよりやや高まるし、出っ張りも減るので良いし、とても欲しかったのだけれど、なぜか(シリコン製だからなのかしら)日本には送れない。輸入代行も考えたのだけれど、もともと二〇ドルの商品に三〇ドル近い送料を払うのもなぁ……
さて、次の商品は日本に送ることが出来るらしい。
名前は単純にPad Strapというので、もし能書き通り真ん中のベルトが弛んだりしないのなら、私がiPad 用ストラップに求めることがちょうど実現されているような気はする。
The Pad Strap (画像はAmazon.comから)
これかなぁ。両端の皮革部分の出っ張りがださくないかなぁ。前からの写真がないのが気になる。あとイヤホン使えなさそうだなぁ。
追記:前からの写真あった。やっぱりださい。
The Pad Strap (画像は製造元 www.padstrap.com から)







2013年4月3日水曜日

iPhone, iPadの内蔵辞書とPDFおよびePub Reader

iPadでPDFやEpubの文献を読むことが多くなった。大抵のソフトは単語長押しでツールバーが現れDictionaryが参照できる。ソフトによって参照される辞書が違うなぁと思っていたら、それはほとんどの場合キーボード依存であると判明。日本語キーボードにしていると、カタカナ語があるような英単語(bodyとか)はカタカナ語辞典(のようなもの)が出てくるのだけれど、それ以外の英単語はちゃんと英和辞典が出てくる。英語キーボードにしていると英々辞典だ。
ドイツ語キーボードにするとやはり独々辞典が現れた。この辞典はでも語尾変化がすこしでもあると候補を示してくれない。英和辞典や英々辞典とはだいぶレベルが違う。キーボードの切り替えは言語が増えてもあまり手間は変わらない(地球儀マークの長押し)だから、キーボード増やそうかな。
でも知らない仏単語の定義をフランス語でしめされてもなぁ…
役に立つような立たないような…
フランス語キーボードを追加して、日本語キーボードをオンにしてフランス語を読むと、英語と同じスペルの単語は英和が、英語にないスペルの単語は仏仏が表示される。仏和は出てこない。

PDFの場合、読むためのソフトで大御所はGoodReaderだけれど、ハイライトのつけやすさとページをまたぐスクロールが可能だ、という二点から、私の常用はiAnnotate PDF。iPadで読んでハイライトしてMacでハイライト箇所をメモる(訳す)。

Epubは楽天Kobo、Kindle、iBooksあたりからDRMのついているものを買うことになるが、iBooksの場合、アメリカのアカウントで買ったものについてはキーボードとは無関係に英々辞典が出るらしい。iBooksのDRMは外せないみたいなので洋書EpubはすべてiBooksで読む、ただしiBooksではできる限り買わない、ってのが消費者としては正しいのかなぁ。
KindleとKoboはDRMを外すソフトがあり、自分で買ったものに関してはそれは違法ではない#1。特定のストアと紐付けされていないソフトではBluefire Readerが大御所だが、内蔵辞書に対応していない。あと、DropBoxを通じての同期が可能なEpub Readerがない。ダウンロードはiPad用のDropBoxアプリを使うことで可能だが、アップロードが出来ない。iTunesを経由することになって、Macとつながねばならないように思える。私はそれともePubというものについて壮大な誤解をしているのかも知れない。欲しいiPad用のePubアプリの条件はつぎのようなものだ。
(1) しおり、ハイライト、ノートがマックの汎用ePubソフトでも読んだり編集したり出来る(Mac上ではAdobe Digital Editionを使う)。
(2) DropBox経由でMacと同期できる。
(3) 内蔵辞書、単語のコピーに対応 (Kindleはコピーが出来ない)。内蔵辞書にない単語はEP WINGの辞書で調べるから、単語のコピーを許さないアプリは不可。

この単純な三条件を満たしてくれるePubアプリはないのかしら。

#1 現在のところ、DRM解除が違法なのは音と映像の著作物のようだ。

追記1: iBooksでDRMフリーのePubの本を読んでいて内蔵辞書を参照したとき、キー配列とは無関係に英々辞典がでる時と英和辞典がでる時があるのに気づいた。書類の言語設定を読んでいるのかも知れない。いまいちわからない。

追記2: Siriもキーボードに対応して認識言語が変わる。発音練習に使えるかもしれない。自分の英語があまりに認識されないのに絶望した。

続きを書いた。

MacのATOKのユーザ辞書をiPhoneに

Macでは私はATOKを使っている。このユーザ辞書をことえりにコピーできたらiPhoneでも使えて便利だ(iCloud経由で、ことえりとiOSデバイスはユーザ辞書が自然に共有されるので)。Wordだけを使って、ATOKの辞書をことえりに読み込ませることが出来た。
方法は以下の通り
(1) ATOKのユーザ辞書をテキスト形式でエクスポートする。
(2) それをWordで開く。
(3) 最初数行が説明なので削除。
(4) Wordの全置換機能を使って、タブをコンマに変換(高度な検索、置換で日本語曖昧検索のチェックを外し特殊文字をクリックするとできる)。
(5) 各種IME辞書のコンバート方法というページを見て、ATOKの品詞名をことえりの品詞名に置換。最初に名詞を普通名詞に置換してから、普通名詞サ変をサ変名詞に置換する。後はテキストを見て必要なものを変えて行く。実際のところ、自動登録単語のほとんどが名詞サ変だし、登録単語の大抵は名詞だから、これら二つが置換されていれば使い勝手はかなり向上すると思う。あとは固有人名、固有地名、固有人姓くらいしか私は自分では登録していなかった。
(6) 行末に$やアステリスク*が置かれているので、$と*をそれぞれ全置換で消去(置換項目に何も入れなければ消去される)。読みにこれらの記号を使っている人は$と改行マークを改行マークで置換というふうにすれば良い。
(7) テキスト形式で保存してことえりで読み込む。あとはiCloud経由でiPhoneに勝手に辞書がコピーされている。

これで何が便利になったかというと、私の場合、自動登録されていた人名等のカタカナをiPhoneが推測変換してくれるようになったことだ。iPhoneでの文章の入力がそんなに苦にならなくなった。
他方、誤変換も自動登録されているのがあるから、それが推測変換で出てくるのがやや厄介。
自分で登録した単語のコンバートだけなら、この問題はないだろう。



2013年4月1日月曜日

オイディプス第二エペイソディオン582-600


582−600行


いいえ、私がしたのと同様にご自分に聞いて下さればわかります。まずお考えいただきたいのは、もし同じ権力を持つとしたら、安穏に何の恐れもなく支配するより恐怖の中で支配することを望むものかどうかです。少なくとも私には、国王の名を得ることの方が国王のように振る舞うことよりも望ましいとは思えない。思慮ある人間なら誰もがそうでしょう。現在、私はあらゆるものを、嫉妬されることもなくあなたから手に入れている。自分が国王であれば、嫌なこともたくさんしなければならないでしょう。苦労なしで権力があるという現状よりも王位の方が甘いなど、どうしてあるでしょう。自分の得になっている名誉を捨てて別のを求めるほど私は愚か者ではない。今は、私は誰とでも仲良くし、誰もが私に挨拶してくれます。今は、あなたに何かして欲しい者は私に頼みに来ている。うまく行くかどうかはすべて〔自分を指して〕ここ次第だからだ。私がこの暮らしを捨て、もう一方を求めるなどということがどうしてあるでしょうか。分別ある考えを持つ心は邪悪ではあり得ないのですから。(582-600)」

クレオンが宮殿に来るにあたって用意してきた長い弁明の前半部分だ。この弁明は、(1) テキスト解釈上、 (2) 作品解釈上、 (3) 制作年代の議論上の問題を含んでいる。(2)および(3)については北野(2014)を参照(今年の紀要に書く)。
583 「私がしたのと同様にご自分に聞いて下されば…」「自分に言葉を与える」=考える
585「恐怖の中で支配する」ξὺν φόβοισι 「恐怖とともに」だが、次行のἄτρεστον(「恐れに震えることなく」「何の恐れもなく」)および590行の「嫉妬されずに」からみて、国民が支配者を恐れる恐怖政治のことではなく、支配者が自分に嫉妬して自分を追い落とそうとする者を恐れることを意味する。ただし590行にはテクスト校訂上の議論があり、写本のφόβου (恐怖なしに)をφθόνουに読み替えるDawe(もともとはBlaydesの校訂)の解釈を採った。オイディプスはクレオンの陰謀を疑うとき(382)すでに「嫉妬」について語っており、五行前の単語が反復されるのは締まりがないとDaweは考える。
588「国王の名を得ることの方が国王のように振る舞うことよりも」やや意訳した。より直訳調にすれば「国王であることが国王の行為をするよりも」。ある (εἶναιbe)とする (δρᾶνdo) の対比、男性形のτύραννος (王である)と中性複数のτύραννα(王の行為をする≒王権をふるう)の対比がある。ここでのτύραννοςに否定的なニュアンスはない。
593「苦労なしで権力があるという現状」。意訳が入っている。「苦労なしの支配ἀρχήと権力δυναστεία」が、クレオンの現状のことだという点を強調した。「支配と権力」の二つの言葉はここではあまり意味の違いがないと考えた。
5967「今は、私は誰とでも仲良くし、誰もが私に挨拶してくれます。今は、あなたに何かして欲しい者は私に頼みに来ている。」「誰もが私に挨拶してくれます」の前にも、原文では「今は」がついている。
599「この暮らしを捨て、もう一方を求める。」直訳すると「これを捨ててあれを取る。」ただ、日本語では、「あれ」と言うときに、それが今まで述べてきた対比項である「王位」であることが明確にならないと考えた。また、「これ」「あれ」も何を指すのかいまいちはっきりしないので補った。「もう一方」は岡訳(「もう一つの方」)やJebb (those others)を参考にした。
600「分別ある考えを持つ心は邪悪ではあり得ないのですから。」Daweが言うように、ここには三つの解釈可能性がある。(1) 本訳、(2)「邪悪な心は立派なことを考えることは出来ないのですから。」(3)「立派な考えを保ちつつ、邪悪であるような心はありえないのですから。」(2)(3)は明らかにクレオンの弁明の文脈に合わない。DaweManuwaldなど削除記号を入れる研究者も多い。しかし、クレオンは、恐怖ある王位よりも苦痛なき権力を享受する方が快適だと考えていた。分別ある心が邪悪(この場合には王位簒奪を狙うこと)ではあり得ないのは、合理的に考えれば、悪をなすよりもなさない方が「甘く」「得になる」からだ。分別ある心が邪悪ではあり得ないという普遍命題は、ここでは、「犯罪は引き合わない。それゆえ、犯罪を試みることは分別のあることではない」という功利計算から導かれたものである。このことは、クレオンの態度と弁明に、さらに影を投げかけるだろう。

エウリピデス『ヒッポリュトス』の弁明との比較。

クレオンの弁明はエウリピデスの悲劇におけるヒッポリュトスの弁明との類似がしばしば指摘される。ヒッポリュトスはファイドラの求愛を却け、ファイドラは彼が自分をレイプしたとの遺書を残して自殺する。父テセウスは、ファイドラの遺書を信じ、ヒッポリュトスが自分の王位を簒奪する意図を持っていたと難じる。ヒッポリュトスはそれに対して次のように答える。

「[私はあなたの女相続人をベッドに連れて行くことであなたの家を我がものにしようと望んでいるのでしょうか。そうだとしたら私は愚か者であり、全く分別を持っていないことになるでしょう。それとも、王になることτυραννεῖνは有徳な人間にとっても甘いとお考えでしょうか。そんなことはありません。王権は、だれであれそれを好む人間の心を腐らせてしまうからです。(1010-1014)]私としては、ギリシアの競技で一番強くありたいと望みますが、市では第二位で高貴な友人たちとともに幸せであり続けたいと望みます。そこには、目的を果たすチャンスがありますし、また、危険がないことは王権よりも大きな喜びを与えてくれます(1015-1020)。」

確かに、ヒッポリュトスの言葉はクレオンの言葉に似ている。とりわけ、議論の余地のある1014行以前の部分を削除しない場合にそうだ。どちらも、王であることよりも第二位であることの方がある美徳を持った人間には好ましいと述べている。また、どちらも、権力の中心にいないことの「危険のなさ」を強調している。しかし、違いも大きい。
(1)         第二(三)位であることが好ましいとする理由が異なる。ヒッポリュトスが第二位であることを好むのは、彼の関心がもっぱら「ギリシアの競技」にあるからであり、個人的な理由だ。かれは王と同じ権力を危険なしに楽しみたいがゆえに、ではなく、危険なく、自分の目的を追求出来るがゆえに、第二位の方が良いと考えるのだ。責任も、恐怖もなしに権力だけを楽しむことを是とするクレオンの考え方は、かれのsecond rated nature (Dawe)を明らかにするが、ヒッポリュトスは自分の理想追求を社会的地位よりも重視しているに過ぎない。
(2)         クレオンは第三位であることが「分別のある人間」すべてにとって王位よりも望ましいと述べている。王位より第三位の地位の方が甘く、得であり、それゆえ分別ある人間は王位簒奪など望まない。これらはクレオンの場合にだけ当てはまる特称命題ではなく、普遍命題だ。そして、先ほど述べたように、その根拠は王位より自分の第三の地位の方が「甘い」という点にある。なぜならば、そこでは権力は王と等しく、責任や恐怖といった「苦痛」は免れているからだ。分別ある人間はこの第三の地位を捨てて王位を選ぼうとはしないものだ。自分は分別ある人間であり、それゆえ、自分は王位簒奪など考えていない。
分別ある人間は、すべて、責任や恐怖なしの権力を好むものだ、というこの普遍命題はかれのsecond rated nature (Dawe)を示し、少なくとも高潔さとは無縁である。仮に1014までを残すとしても、ヒッポリュトスはこうしたソフィスト的推論を行ってはいない。ファイドラを籠絡することでファイドラに取って代わるという考えは愚かだ、というのがその第一の主張で、「王権は人を腐らせる」というのが第二の主張だった。どちらも、テセウスにそれを語りかける適切さはともあれ、ソフィスト的詭弁とは無関係だ。
クレオンの推論は、彼自身が今「危険なしに権力を楽しんでいる」どころか、王位簒奪の陰謀という疑いをかけられて追放ないし死という危険のただ中にあるという状況からして、一般論としても成り立たない。彼が、オイディプスという王個人への信頼に自分の議論を基づかせているのならば、それは皮肉な効果を持ちつつも、クレオンの忠誠を示すものにもなっただろう。しかし、「思慮ある人間ならすべて第一位よりも第三位を好む」という普遍命題として提示している点で、この推論は偽であり、クレオンがソフィスト的洗練を欠いていることも示している。