2013年11月30日土曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」8

ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」の翻訳の検討・訂正もようやく最後の2節まで来た。
16〜17節はやっとゲーアの評価らしきものに出会う。
16
完全な遵守という条件に適う、ということの問題としてよく知られている含意は、どんなに退屈な演奏でも、ミスがない限り、記譜上の要件を満足させるという点だ。(121)」逆にどんな優れた演奏でも一つでもミスがあれば作品の演奏にならない。作品の同一性が保持されるべきならばそうならざるを得ないとG。
一つの音符だけが違う演奏は同じ作品のインスタンスだという素朴に見える原理は、同一性の遷移を考えると、どんな演奏でも同じ作品の演奏になるという帰結を生み出す危険がある。少しでも逸脱を認めると作品保持と楽譜保持の保証は失われる。一つの音符の省略や追加を続けることで…ベートーヴェンの第五交響曲から「三匹の目の見えないネズミ」にたどり着くことが出来るからだ。(G186-7) (122)(「どんな演奏でも同じ作品の演奏になる」の前に訳者補足で[同じ楽譜を使用している限り]をつけているのは無理解。そんな意味ではない。)
楽譜は作品を構成するものすべてを特定し、演奏は楽譜の記譜上の特定のすべてに完全に従わねばならない。 これはありふれた連鎖式問題(あるいは積み重ね問題)a=b, b=c, c=dならばa=dという問題、塵を積み重ねても山にはならない(いつまで、どこまで?)という問題。滑りやすい坂slippy slopeの問題でもあるか。原訳では「三段論法的問題」!)。「楽譜だけに頼る場合、一つの作品の上演に幾つの間違いが許されるかをどのような基準で決定できるだろうか?
「禿」になるには何本の毛が抜けねばならないのか?このサウンドイベントは作品演奏ではないと言われるまえに何カ所の間違った音符を弾けるか。「同じクラスに属する二つの演奏は、たとえ最小限の違いはあるとしても同じように個別化されているという観念は却けねばならない。」そうでないと遷移性のゆえに、ふさふさでも「禿」だ、第五は「三匹の…」だという結論しなければならなくなる。
髪の毛と違い演奏のすべての部分は互いに関連し合っている。演奏や作品で基本単位は一個一個の音ではなく隔たりのある構造、リズムやハーモニーのゲシュタルト、旋律だろう。「より複合的な部分の同一性が保たれれば、一つ一つの音符の間違いは容認できる。旋律のゲシュタルトが認識出来る限り、音符が一つや二つ間違ってても構わない」(123)(ゲシュタルトという言葉は普通の心理学用語で「外郭的音型」(って言葉あるのか。音楽学は複雑だ)ではない。)
この提案の問題。(1)ゲシュタルト認知は外延主義にあわないので、外延を諦め複合単位の遵守だけを語るべき。(2)連鎖式問題のレベルが高くなるだけ。ある旋律をミスで弾かなかったとして、演奏の同一性は保持されるか? それに答えられたとしても、メロディの同一性は部分に頼らずに説明できるのか。「旋律を例化するために我々はその原子的部分のそれぞれを例化せねばならないのではないか?(原子的部分とはいっこいっこの音符のこと。原訳を挙げておく「旋律の事例を挙げるには、その原子レヴェルでの構成要素の事例付けをも必要とななってこないだろうか?」えっと、「旋律を例化する」とは、メロディを演奏することです。)

間違った音符の数を数える量的モデルでは、完全な遵守は一番満足のゆく条件になろう。(complianceはこれまで「したがうこと」で訳してたけれど「遵守」も良いと思った。ビジネス用語でもそういう訳語もあったし。遅まきながら「遵守」も取り入れ。)これは正しい結論なの?「遵守率は80パーセントにしよう、といえばグッドマンの理論に影響を与えるのだろうか。このレベルのフレクシビリティないし間違いマージンを認めておけば、いろんな演奏の一つ一つを所与の作品の演奏として個別化できるだろうか?でもなぜこの特定のパーセントであって他のでないのかは、明らかではない。そして恣意的に見えるこの選択の理論的な満足度は低くなるだろう。グッドマンが完全な遵守という条件を採用するには、遷移問題以外にも理由が隠れているかもしれないのだ。」
(要約:音符の完全な遵守というグッドマンの要求は、一個でも違う音符を弾いたら同じ作品の演奏でなくなるという帰結を生みだし、それをさけると「同一性の遷移」問題を引き起こすので、ゲーアは二つの可能性を提示する。第一は、基本単位を音符ではなくメロディなどのゲシュタルトにしたら?というもの。外延主義とゲシュタルト概念はあわないので外延主義を捨てるとしても、「遷移」問題はメロディでも生じるし、メロディの同一性は音符の同一性で保証するしかないのでは?という問題がある。第二は、量的モデル(例えば音符遵守率80%)はどうか?ってのだけれど、特定の量にこだわる理由がない。どちらもいまいち。)

17
グッドマンは「曖昧な対象」へのコミットを避けたかったのかも。ネイサン・サーモン曰く〈連鎖式による議論は曖昧さという現象に混乱を引き起こす〉。「直感的には、「作品の演奏」という概念は、そこに属する対象が(それを構成する)性質が厳密に共通であるということを共有なくても良いようなものであって欲しいと我々は望む。所与の作品の複数の演奏が全く同じ(構成的な)性質を結局は示さなくても、演奏はそれでも、演奏が例化しようと意図し、例化していると認知している作品のゆえに、同じ作品の演奏として同一性を認められるのだ。プラトニズムに傾く人は、固定した不変の性質集合を持つのは作品だと論じることが出来よう。演奏はその不完全な近似ないしコピーだと。(124)」ウォルターストーフなら、音楽作品は〈内在する本質的な性質に関して不変〉。
ここには前批判的直観。作曲者が厳密に特定した産物としての作品。「作品の構造的(また可能な限り美的)性質の特定に関する作曲者の決定は一般に尊重される。それでも、演奏は完全であると期待されていない(奏者は完全にしようと努力するのだけれど)。なぜなら、鑑賞者が作品それ自体に完全で、決定され、理想化された観念を持っているならば、演奏の不完全性を判定し無視することすら出来るからだ。」(文同士のつながりがきちんと訳されていないので、細部の間違いはあまりないのに理解出来ない訳になっている。)
グッドマンは意図と認知の条件を認められず、外延主義にコミット。演奏の曖昧さと作品の完全性の両方を同時に支持できなかった。「作品は存在論的に演奏に還元されるからだ。作品とは楽譜を遵守する演奏に他ならないのだ。」反直感的な二つの選択肢しか残っていない。「作品とその演奏の両方に一定の曖昧さがあるか、どちらもそれを構成する性質に関しては等しく完全に決定されているか。彼は後者を選ぶ。(125)」
グッドマンは前批判的理解を放棄。
少ししか間違った音符を弾いていない演奏が作品のインスタンスではないする見解に、作曲家や音楽家は怒って抗議しそうだ。通常の言葉の使用法がその時彼に味方するのは確かだ。でも通常の使用法はここでは理論にとっては破滅に導くものなのだ。(G.n.120)
グッドマン批判者の不満はおさまらない。批判者たちは、唯名論・外延主義・前批判的直観との断絶のすべてを受けいれない。 彼の理論と私たちの考え方との違いは大きすぎる。不満には責任が伴う。「批判者たちは、理論的に一貫していて音楽現象との充分な関係を維持している説明を与えられるのだろうか。この二〇年の間、多くの理論が生み出される動機をもたらしたのはこの問いである。次章で、私たちは、これまでに提供されたなかで一番尤もらしい説明の一つを考察するつもりだ。」
要約:演奏は、同一の性質をすべて実際に例化していなくても、例化しようと意図し、例化していると認知している作品の同一性のゆえに、同じ作品の演奏と呼びうるのではないか。この考えからは、作品のプラトニズム的ないしアリストテレス主義的観念生じる。同一性を持ち性質が不変なのは「作品」だ。これはしかし素朴な直観でもある。グッドマンはその直観を拒絶したが、批判者たちは、むしろグッドマンによる唯名論・外延主義・直観との断絶を拒絶する。では、彼らは、そうした理論を提供できるだろうか。もっとも成功した試みはレヴィンソンだ)


2013年11月29日金曜日

リディア・ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」7

第14節
第14節は再び精度が上がる。但しグッドマンの翻訳二箇所は間違い。
グッドマンにとって問題は、何かが楽譜として機能するために満足すべき条件と、何かが演奏であるために満足すべき条件の両方だ。だから、記譜と記譜に従うもの(演奏)の関係は完全であらねばならない。
以下、グッドマンの引用二箇所の原訳と試訳を並べる。

原訳「楽譜が要求する楽音を特定・実践する上で必要な能力は、当の楽曲の複雑度に即して増すものだが、実践[の質]を見極める上での決定的な理論的検証というものが存在する。そして解釈上の忠義や独自の価値がいかようなものであろうと、演奏は、—この検証によれば—対象作品の組成的属性を持つか持たないか、そして当の楽曲の厳密なる演奏であるか否かの、どちらかなのである。」(まあそれはどちらかなのでしょうけれど…)
試訳「楽譜が要求する音をそれと見分けたり作り出したりするために要求される能力は、楽曲の複雑さとともに増大するが、それでも、理論的には、楽譜に従っているかどうかの決定テストが存在する。解釈上の忠実さや独自のメリットが何であれ、演奏は、このテストをパスするかどうかで、当の作品を構成する性質のすべてを持っているかどうか、厳密に言ってその作品の演奏なのかどうかが決まる。(G117-8)」(118)

原訳「作品の真なる事例化に唯一必要なもの、それは楽譜への完全な準拠である。つまり楽譜自体は演奏に関する特徴を明示せず、一定の限度内において多くの変容を許容するかもしれないが、既に記述されている詳述事項への完全な準拠は無条件に必須である」
試訳「楽譜に完全に従うことが作品の真なるインスタンスへの唯一の要求である。…だから、楽譜は演奏の多くの特徴を特定しないままにしておくかもしれないし、それ以外の特徴については一定のあらかじめ定められた範囲の中でかなりのヴァリエーションを許すかもしれないけれど、与えられた指定に従うことは無条件に求められている(G187)。」(119)
(complianceを「準拠」と訳すことに文句をつけないとしても、間違いは「つまり…」以下にある。「特定しない」のと「ヴァリエーションを許す」のは原文では排他的だ。)

グッドマンによると、作品には、「自由な遊び」を作曲家が許さない性質がある。典型的には音高・音価・調性。これらは作品の構成要素なので、特定される必要がある。「ある程度のヴァリエーション、解釈の自由、「お好きにどうぞ」が認められる性質は偶然的で予見不可能な性質だ。
一定の自由があることは音楽システムの記譜的性質を脅かさない。楽譜が記譜要件を満たす限り、作品を権威的に同定することが可能。この見解に何か問題があるのだろうか?

本節は、大体半分くらいの文が正しく訳されているように見える。肝心なグッドマンの引用が×なので分からなくなっているけれど。

15節
前節で、「何か問題が?」と問いかけているので、問題の実例を挙げている。演奏者の一人が途中でくしゃみをしたら、「完全に従う」という条件は壊れ、その作品の演奏ではなくなってしまうのか?
楽譜が演奏を構成する性質を規定し、何かが演奏なのは完全にその性質に従う時だとすれば、くしゃみで壊れることはない。偶然的要素はあるし、二つの演奏が完全に同じ音を出すなどまずない。つまり、「演奏を構成する性質を妨げない限り、どんな特徴を加えても構わないのだ。その結果が演奏であることに変わりはない。これは望ましくない帰結だ。果たしてそうなのか?」(120)
Gなら、それが望ましくないのは実践ないし質に関してだけ、と言うだろう。「彼は多分、楽譜が複合符号であり、作品を演奏するというのは各個別符号に従うというよりもむしろ結合した形での符号に従うということの問題だ、と想起させるかもしれない。作品を構成する符号に従っているなら、結合した形でそれに従っていたのであり、このことは、すべての楽譜の間にくしゃみがあった、という可能性を排除するのに充分だろう。」
「多分、くしゃみが一つぽつんとあってもそれは、グッドマンの言葉だと、演奏の同一性ではなく質に影響する偶然的な特徴の一つに見えるかもかもしれない。」くしゃみは奏者の加えるヴィブラートみたいなものかも。くしゃみを「加える」という選択を妨げるために、未確定という意味での「記譜上の偶然的な性質」と、記譜上の規定とは無関係な「アクシデント的性質」を区別することも出来る。くしゃみや雷などは後者。(iPhoneの呼び出し音や教会の鐘も)前者は演奏に際して選択可能だけれど後者は不可。でもこの区別は不要だし何の役にも立たない。
Gだと、演奏は、それを構成する作り出された音によって、その音がどこまで楽譜を守るかに応じて説明されるべき。偶然的な音は無関係。くしゃみややり過ぎのグリッサンド(メンゲルベルクだ)が演奏の同一性をおかすのは、作品を構成する符号の遵守を妨げたときだけだ。そこまで来ると、演奏は不適当ないし不完全だ。そうした演奏があっても、完全な遵守が演奏の同一性に充分で同一性を決定するかどうかには無関係。
グッドマン説が崩せないのには認識論的な問題もある。演奏かどうかを判定できないような例を作り出すことは出来ない。その考察は無関係だとグッドマンは反駁するだろう。あるサウンドイベントが楽譜に従っているかどうかを我々がどのように知るのかは、演奏が完全に楽譜に従うことを要求する存在論的な条件とは無関係だ。(前者は認識論的問題だ)。この点は記譜上の偶然的な性質とアクシデント的な性質の区別についても当てはまる。
くしゃみはグッドマン説の妥当性と無関係。でも批判者は、くしゃみよりも、当の楽譜に完全に従わない多くのイベントを演奏のうちに数え入れたい。それがグッドマンとの不一致の核だ。グッドマンの場合、くしゃみはいくらあっても良いが、一つのミス(ひとつの間違った音)を持つ演奏でも演奏とは認めない。どんな理論的問題が彼にこんな立場をとらせたのか?
後半は原訳のままでほぼ問題はない。)

2013年11月27日水曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」(6) 13節

13
13節に入って、翻訳は再びほぼ出鱈目なものに戻った(後半はレベルが上がる)。ここではアラン・トーミーのグッドマン批判が取り上げられる。これはジフの批判よりもおそらくは重要であり、節としてもこの章の中で一番長い。再び、重要な誤訳箇所は青字にして翻訳(ないし要約)を行うやり方に戻る。どう間違っているのかは訳書を見て下さい。もとの翻訳に重要な間違いがない場合は「」内の私の訳も黒字。

アラン・トーミーは、楽譜の符号characterモデルに代えて規則モデルを採用する説得的な理由を提示した。かれがそうしたのは、グッドマンのモデルを支持するためではなくその代案モデルを与えるためだ。」第一に、トーミーは、不適切楽譜は音楽を作品ではないものにするというグッドマン説を拒絶する。「偶然性をもちいる楽譜はグッドマンが記譜に求める要求を満たさないという事実からは、「そのシステムは異なる演奏の間での作品の同一性を決定する手段を提供しない」という結論は帰結しないからだ。我々は実際偶然性を用いる作品を同定するのである。」だから、同一性には記譜以外の保証が必要だ。第二に、トーミーは、規則モデルが非グッドマン的な事例だけではなく全事例を説明する理由を示している。非記譜的な「同一性の保証」を与える点で規則モデルは符号モデルにまさるのである。
不適正楽譜を適正楽譜に翻訳する必要はない。「記譜の正確さ以外にも作品の同一性を保持する役に立つ条件が存在するからだ。グッドマンの線で考えられた記譜が、一連の演奏における作品の同一性を説明するのに不充分であることを証明するなら、「作品」クラスのなかにより多くの種類の音楽を入れることが出来る。」記譜以外に、信念や意図などの非外延的条件が必要。それらを認めることで外延・記譜条件はフレクシブルになる。重なりあうクラスの作品や演奏の同一性を決定するのにこれらの条件は役立ちうる。
「「同一性」という言葉にはとても多くのものが詰め込まれている。」GもTも、聴かれるもの、楽譜などで読まれるもの、聴くことになるだろうと語られることによって作品の同一性を決めようとはしていない。「彼(T)は同一性という語をテクニカルに用いている。つまり、何かが同一性を持つのはそれが一定の外延的あるいは非外延的条件、あるいはその両方を満足する場合であり、かつその場合に限る、と。トーミーとグッドマンの違いは、どんな種類の条件を作品の同一性に関係がある条件として認める気があるか、という点にあることが分かる。」
「符号に従うことに代えて規則を満たすことを持ち出すことで、楽譜が作品の同一性決定のための権威となる原理だ、というグッドマンの主張は影響を受けるのか?外延主義へのコミットは脅かされるだろう。でも、もしグッドマンが規則モデルを外延的に定式化できたら、規則も結局符号と同じことをする、という結果にならないか?」Gの符号=(トーミーたちの)規則でどこに障害がある?
「障害は次の点にある。グッドマンの記譜システムは取り出しプロセスを通じての作品の二方向の同一性決定を許す。」(北野コメント identificationは「同定」でも構わないが、このあたりでは特にidentity(同一性)が問題になっているので「同一性(の)決定」としてみた。)楽譜からも作品の適切な演奏を「取り出しうる」し、演奏からもそれが適切である作品の「楽譜」を取り出しうる。「符号モデルを規則モデルで置き換えることで、この二方向の同一性決定は脅かされるだろうか? 演奏を聴くことで、どんな規則に従ったのか、その規則の同定を行うことが出来るだろうか? 私には疑わしい。でも、それが規則モデルの問題であるなら、それは記譜モデルの問題でもあるのだ。」ジフは、記譜上の性質だけからは演奏を聴いて作品を取り出すことは出来ないと批判した。伝統も考慮しなければ。だからZもTも、「楽譜はそれ自体で作品を定義できないと結論する。」
楽譜を読み、演奏を聴く際に、何が作品を構成する性質になるのかについての理解を持っていなければならないことをグッドマンは認めるだろう。」人が読むのは黒いしるしではなく意味ある記号なのだ(G117)。しるしを楽音に変換する規則を知っていること、「一点ハ(の記号)にしたがうもの(音)を作り出すことのうちに何が含まれているのかを知っていること」が前提とされる。つまり「記譜符号の意味は当該の伝統の文脈で測られるべきであることが前提とされている。同様に、演奏を聴くときには、音がしたがっているのはどの符号なのかを私たち(あるいは少なくとも誰か)は知っていると想定されねばならない。」
「グッドマンがこれをすべて認めるかどうかは彼の理論とは殆ど無関係だ。取り出しテストが語っているのは理論的に可能でなければならないことだけだからだ。」実践において何が可能であらねばならないかは語られていない。理論の検証のためではなく、単なる興味のために、モーツァルトがグレゴリオ・アレグリのMiserereの演奏を聴いて記憶して楽譜を書いた(法王の怒りを買う危険を冒して)ことを思い起こすこともできよう。
 でも「規則モデルを主張する人たちも同様に自分の立場を弁護できる。取り出しテストをパスすることを、規則モデルは原理的に要求するだけだからだ。規則が守られているとき私たちが原理的にそれを認識しておりその規則を同定できることが、規則を理解することの部分をなしている。その規則を実践において正しく同定できるかどうかは別の問題だ。」取り出しテストが理論的可能性の問題なら、それは符号モデルと規則モデルの優劣を決めるのに役立たない。理論的にはどちらも上手くパスする。
「あらかじめ外延主義に与するのでないなら、取り出し手続きを助ける非外延的条件の可能性を(外延的条件に加えて)追求しても構わないだろう。」同じ外延的語彙で考えた二つのモデルの優劣ではなく、たぶん全く異なる存在論的なコミットを行っている二つのモデルの優劣が問題になる。
トーミーの規則モデルは偶然性音楽と古楽を説明できるという利点があり、これは大きな利点だ。でもグッドマンはそれを利点とみなさないだろう。彼はそれらを翻訳によっても、また作品カテゴリーからの除去によっても扱える。もう一つ、グッドマンがそうした例を気にしない理由がある。「彼の意図は、音楽世界の理想化に基づいた作品の同一性の説明を作り出すことだった。現実世界で何が作品とみなされているのかにも、彼の理論的条件を満足させる作品が現実世界にそもそも存在するのかにも直接の関心はなかったのだ。
この論点も批判者には受けいれられない。理想化とは、そもそも現実世界の実例への知識に基づくものであり、グッドマンが求める理論的純粋さを保つことは出来ない。「自分の関心が「[音楽の記譜の]起源や発展にではなく、楽譜の言語がどこまで充分に真に記譜システムとして認められるのか(G181)にある」というグッドマン自身の但し書きにもかかわらず、彼の主張の多くはなおも実例の知識を前提としている。もし、グッドマンが、自分はいかなる経験的知識も前提としていないと主張し、「作品」「楽譜」「演奏」といった語彙の使用は理論内部でのみ正当だと断言するなら、私たちは、彼は何について話しているのかと、彼に問うことが出来るだろう。彼の理論は何の理論なのか? 彼の主張は実際の音楽作品と関係があるのか? あるとしたら、結びつきはどこにあるのか? ないとしたら、どうしてこのような語彙を使うのか? 彼の語彙使用は、同じ語彙を非理論的な意味と結びつける人々を混乱させるものではないのだろうか?」
批判者に対してグッドマンは、どんなこの世の現象についての理論であっても、現象そのものへの忠誠をときに上書きするような要求を満たさねばならない場合があることを思い起こさせるだろう。実際にかれはしばしばそうしたことを言う。」かれのこの応答の背景や問題を理解するには演奏についての彼の説明に向かう必要がある。

赤旗劇評:新国立劇場 「ピグマリオン」

赤旗に新国立劇場の「ピグマリオン」の劇評を書きました。
何というか、予想外に面白かった。
劇評はこちら

2013年11月26日火曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」(5)

11
11はまた間違いが増えた。議論は単純なので間違い訂正(大きいもののみ)。
ゲーアがここで述べているのは、そもそもグッドマンは、ジフが提示したような反例に対し、不充分な楽譜から習慣や趣味の洗練を通じて充分な楽譜が再構成されるという解決(§10)ではなく、それらは「作品」ではない、という解決を求め、その場合、それらは「作品」ではないのだから反例は反例になっていないという議論が可能だ、という話である。

identityを「同一性(同じであること)」ではなく、「本性」としてしまうのはこの訳書では一貫しているし、notationへの「表記」と「記譜」の揺れもここにとどまるものではないが、誤解を招くことに変わりはない。それを除いても、重要な間違いが結構ある。この単純な議論(反例は作品じゃないから反例じゃないよ)を理解していない気がする。

「不十全」を「十全」へと翻訳する」→「不適切な楽譜を適切な楽譜に翻訳する」(111)。
「すべてが表記されている楽譜に忠実な全演奏が、作品の同一性を指し示すわけではないという史実への言及に立ち戻ろう」→「すべての演奏がいつも、何もかも指定してある楽譜に演奏者が従うことによって実現するわけではないということを示す歴史的データを思い起こそう。
「一般的な意味での音楽作品と異なり、音楽作品概念は、音楽は十全たる指示事項を受け、[それを基に]演奏において多様に事例付けされるべきだという思考とどのような関わりを持つのか」→「より広くとらえられた音楽とは対照的に、音楽作品という概念は、音楽が演奏によって充分に指定され多数的に例示されねばならないという観念と、どこまで密接にかかわっているのだろうか」「より広い意味での」でも良いけれど、ここで対比の両方に「作品」を入れるのはゲーアの理屈への無理解を端的に明らかにする間違い。
「楽譜とは、…作品とその演奏の本性認識において厳然たる理念としての権威を持つ」→「楽譜が、…作品とその演奏の同一性にとっての権威ある原理なのだ。」identityという概念で問題になるのは、作品の演奏が他の作品のではなくその作品の演奏であるという「同一性」であり、それは、特に何らかの不可欠な名指しうる性質たる「本性」を前提としない。一つミスタッチしても同じ作品だけれど、別の音符の割合が増えてくると、どこかで(曖昧な)境界をこえて「別の作品の演奏になる」。でも、そう言うためには「楽譜」が必要って話。
「音楽」と「音楽作品」がいろいろごっちゃになっているから、次のようにわけわかな文になったり、端的に都合の悪い文を省略したりする。「もしもある音楽作品に十全たる記譜が存在しないのなら、そうした音楽との関わりは作品との関わりを意味することにはならない。またそれは、…」→「たぶん、理由は何であれ、適切な記譜が存在しない音楽を扱っているとき、私たちは作品を扱っているのではない。タルティーニのソナタは音楽だが、音楽作品ではない。またそれは、…
「(グッドマンの反対者)に必要なのは、我々が実践において作品と呼び、[グッドマンへの]反証事例として用いる事例はすべて、グッドマン自身による誤った事例として却下可能である、という事実の認識である(112)」→「彼らは、私たちが実践において作品と呼び、反例として役立つように作り出された例示を、グッドマンは常に不当な例示として却下できるのだ、ということを受けいれるように求められている。」「事実」じゃないしグッドマンが誤ったわけでもない。

12
急に訳語が良くなった。訳者が変わったように見えるほどだ。細かい間違いはいくつかあるが大意は分かる。二箇所だけ。「二つの演奏が「同一である」べきという思考」→「一つの作品の二つの演奏は「同じ音がする」べきだという観念」(113)「音楽作品は演奏の一類(a class)であり、そこではすべての適切な法則が遵守されることになる(114)」→「音楽作品とは、適切な規則がすべて守られている演奏のクラスである」。限定用法の関係代名詞だ。
「不適切」な楽譜は「適切」な楽譜に変更可能だ。現代音楽の場合、全く同じ音を各演奏で作り出すことも可能だ。コンピュータは、従来型の不適切な楽譜の適切な記譜をも可能にする。ただし、ここで作品を「構成している符号」はトーンとは限らない。リズム、デュナミーク、音価でもありうる。「音色や音高、調に関する伝統的記述は作家の任意事項となり、音楽作品創作の上での条件ではもはやなくなるのである(原訳)」(114) (「記述」がちょっといやなのと仮定法のニュアンスが出ていないけれど、まあいいか)。


2013年11月23日土曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」(4)



楽譜は、統辞論的要件を満たしているとグッドマンは言う。「実際に書かれた音符note markは、二つの音符・符号note characterのどちらなのか分からないことはあっても、両方だ、ということはない(103)」。統辞論的に分離され識別されている。
「テンポ記号などは記譜的ではなく…それゆえ作品を構成する性質には数えられない」テンポなどによって演奏はずいぶん変わる。それらは「演奏の質に影響するが作品の同一性には影響しない」(104 G185)。(同一性、とは作品が例えば第九かどうか。テンポなどは第九の演奏の質には関わるがそれが第九であるかどうかには関わらない。バーンスタインのもノリントンのも「第九」だ。)
統辞論的な違いと意味論的な同一性を含む場合(増二度=短三度、移調楽器と非移調楽器を両方指示する楽譜など)は?グッドマンは、それらは「明白で部分的な省略や修正」で対応可能とする。楽譜の記譜性を全体として覆さない。
批判者は「明白で部分的」な修正ではだめなので、グッドマンの理論は不充分だと考える。でもグッドマンによれば、彼は楽譜が理論上果たすべき要求を特定しただけ。「何が理論的に可能であり決定的なのか。なにが理論的に妥当でなければならないのか。理論という実験室の外側で楽譜がどのような条件と状況で機能しているのかは彼の関心対象ではない。」彼の関心が一貫した理論的説明であるのに対し、批判者は実践との一致に基づいてグッドマンを判断している。
7は、いくつかの訳語、ニュアンスの違い、そんなに本質的ではない誤訳があるものの、大きな間違いはない。このレベルのミスなら自分が訳してもやるかもしれない。グッドマン・ジフ論争の紹介のパートがこのレベルまで正しく訳されているのなら、これ以上些細な誤訳を言挙げするのはよくない。)

8
音楽作品の同一性を巡る論争では、どんな理論家であれ、ある特徴が作品を構成する特徴だと一般的で固定的な仕方で特定しようとすると危険が生じるのが常だ。この危険は、ある作品にとってどの性質が構成的でどれが偶有的なのかを特定しようとするよりも、永続的な、すべての音楽作品に当てはまる一般的特定を行おうとするときに大きい(105)」。ポール・ジフがタルティーニの「悪魔のトリル」をグッドマンへの反例として用いたときそれは生じた。ジフによると、グッドマンの要求はこの曲の本質的なトリルを偶有的なものにしてしまう。もしそうならグッドマンの理論には問題があるが、果たしてそうなのか
ジフは同一性と質に結びつきがあると考える。ある性質が同一性にとって本質的なら、すべての演奏で示されるべきだし、そのことは作品の質と性格に影響する。ジフは逆も言いたい。「質のために、トリルがタルティーニのソナタのすべての上演で演奏されるべきならば、それは楽譜化されて、ソナタの同一性を構成するものとみなされるべきだ(106)」。これはそう簡単には言えないが、言えたとして、ジフのグッドマン反駁は正しいか?
ジフの反論の力をどんな理由で判断できるのか?グッドマンは、タルティーニは自分の理論に当てはまらないけれど、理論はたいていの場合、標準的な場合に当てはまればOKと言うかも知れない。形式的な理論と実例はうまく合わないものだ。楽譜は「実質的に」記譜的だという主張と両立可能。その場合、グッドマンはなぜタルティーニのソナタが難しいケースなのかを語るなどしてジフの懸念を却けるべき。タルティーニの場合トリルは構成的な性質だと示唆してもよいだろう。でもその判断の根拠はなに?
タルティーニの場合、トリルの符号記号は複雑な音符パターンを簡略化した記号。グッドマンの言う複合符号。18世紀に典型的な、100以上の装飾一つ一つに記譜上のシンボルを割り当てた言語を用いていた。音楽家はそれをオプションとはみなさなかった。「最も重要な装飾で、ないとメロディがとても不完全になる」(Bénige de Bacilly)。「厳密に従うべきもの」(Friedrich Wilhelm Marpurg)。ただし、「どの音符に装飾が与えられるのか、メロディのどこであれこれの装飾が導入されるべきなのか」は「エレガントに演奏するという評判の人物を聴き、その演奏を、既に自分が知っている曲で聴いて」初めて趣味を作り出して同じようにすることが出来る。「すべての可能な場合に当てはまる規則を作り出すことは出来ないからだ」(FWM)。

(8は最初のパラグラフが良くないけれど、あとはほぼ邦訳で分かる)


9は18世紀における装飾音符の記譜の厳密化を歴史的にたどったもので、ほぼ読んで分かる。二箇所だけ、比較的目立つ間違いを指摘。

新種の記譜上の厳密さは、作曲家が決定したまさにそのままのありかたで音楽の同一性を保存したいという新しい欲望から帰結したものだった」(108)

どの音符がどの楽器で演奏されるのかを示したこうした指定は、常に楽譜の中で明瞭にされたわけでも、音楽の同一性にとって常に本質的だと考えられたわけでもなかった。」(109)

10

ジフが重視するような例は、グッドマンの立場からすると「記譜notation」ではない、というだけで、グッドマンの立場を脅かすものではない、という箇所。訳それ自体、というより[]で添えられた訳者の補足が間違っているのが気になる。ここだけ訳書の引用。
「他方グッドマンは、記譜習慣の歴史が指し示すものとは異なり、古楽における多くの楽譜は、彼が言うところの表記基準を満たしてはいな[く、故に作品と呼ぶことは出来な]いとする。最小限の事項のみ書かれている楽譜の本質的問題とは、準拠類において、[異なる作品の本性を巡り]重複が存在する[かもしれない]ことで、それは重大な欠陥と言える。[というのも]人が自身のアイデンティティに脅威を与えることなくして他人と身体部位を共有することが不可能であるのと同様、各楽曲の本性が保持されるためには、楽譜それぞれが詳細な規定機能を持つ必要があるからである。(183)」(110)
「グッドマンなら、楽譜制作の歴史には失礼だけれど、多くの初期の楽譜は彼の記譜への要求に適っていないと言いそうだ。最小限にしか記譜されていない楽譜の基本的な問題は、その従属クラスに重複があることであり、これは重大な欠点だ。個人の同一性に脅威を与えずに身体部分を共有できないのと同様に、作品の同一性が保持されるためには楽譜はユニークな指定を行うものであらねばならない。」グッドマンは楽譜を「作品」と呼ぶことが出来るなどとそもそも考えていないし、異なる楽譜が同じ演奏をその従属クラスのメンバーとすることは、楽譜の意味論的分離性に反している。
グッドマンにとって大事なのは、不充分な楽譜が存在しない、ということではなく、演奏から、充分な楽譜を構成することが出来るような記譜システムが存在するということなので、ジフのように反例を挙げてもそれは真の反例にならない。でもそうした解決は一番良いものなのかとゲーアは問う。

ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」(3)

さて、第六節からはグッドマンの「芸術の諸言語」の話になる。この訳も早く出て欲しいところ。基本的な訳語がいくつかあって確定していない(例えばdenotationが表示か外延指示かとか)のだけれど、グッドマンの『記号主義』と、ジュネットの『芸術の作品』のおかげで、彼の主張の大体は日本語でも分かる。ゲーアの議論は、グッドマンへのジフの批判を紹介しているところに大きな価値があるのかも知れない。ここではあまり訳語にこだわる必要はなく、一貫性と分かりやすさがあればよい。

6
グッドマンの目標は「シンボルの一般的・外延主義的理論であり、そこで、シンボルは「文字、語、テクスト、画像picture、モデルを含む「とても一般的で中立的な」方法だととらえられている」(99)。作品はシンボル体系であり、そう理解することで「楽譜の主要な機能と、演奏が特定の作品の演奏として分類されることが説明される」。彼の作品理論の詳細は哲学上で詳細に提示され議論されているので、ここでは本書の議論に関係のある側面だけを取り上げる。(だから、ノーテーションはグッドマンの広い文脈では「記譜」に限定されないけれど、この論文に関して「記譜」と訳すのは、パフォーマンスを「演奏」と訳すのと同様、便宜的にOK)
ある作品をそれ以外から区別する特徴は、演奏や楽譜とは別に存在する抽象的存在者があるという点にではなく、一つ一つの作品に特別の種類の楽譜があるという点にある。グッドマンはそれを「記譜notationシステムにおけるユニークに指定された符号character」と呼ぶ。「記譜」が特別の役割を果たすのは、「他筆的allographc」な芸術においてだ。「他筆的芸術−典型的には演奏や朗読において例化される芸術−は、自筆的autographic芸術とは違い、『演奏performanceの制作に関わるどのような歴史的情報も結果に影響しえない』(Goodman 118)がゆえに、それが芸術作品のオリジナルのインスタンス(例)なのか偽造されたインスタンスなのかの区別が重要ではない」ような芸術だ。記譜符号に完全に従うときかつそのときに限り、どのように作られようと、インスタンスは本物のインスタンスだ。「『歌や朗読のように作品が一時的であるときや、…制作に多くの人間が必要なとき、時間と人間の制約を超えるために記譜が考案されるかもしれない。このことは、作品を構成する性質と作品にとって偶然的な性質との区別が確立されることを意味する。』」
多くの異なった場で提示される一時的な作品の中心に記譜がある。一人では制作できない作品にとってもそうだ。音楽作品はこの条件を満たすようだが、そのことから、「音楽作品の同一性がこの記譜によって説明されるべきだということが帰結するだろうか。」グッドマンは帰結すると考える。「楽譜に示された音に演奏が従っているのだから、演奏は所与の作品〈の〉演奏として分類される」(G128-9)。
「楽譜に従う演奏クラスとして考えられる音楽とは何か?楽譜は記譜システムで書かれた符号だ。記譜システムはある指示領域と相関する符号からなる。符号はそれぞれ書き込み文字(ないし発話やマーク)だ。記譜システムは、演奏クラスと相関する楽譜(多分唯一の)からなる。作品ごとに、演奏の単一クラスと相関する単一楽譜が存在する。ここで「相関」とは「従う」ということ。従属項が符号・書き込み文字に、演奏が楽譜に従う一方向的な従属関係(楽譜—演奏—楽譜—演奏—…)。
記譜言語を構成するのは原子符号であり、それは結合して複合符号になる。音高符号(音符)は原子符号だ。それ以外は複合符号だ。複合符号の構成要素は互いに結合関係、「結合を支配する規則によって定められた関係」にある。それは音楽だと和声、リズム、和音などの規則。符号の結合には上限はなく、楽譜それ自体が一つの複合符号だ。
「楽譜は、ある作品を構成する特徴をその複合性のすべてにわたって記録するので、作品の同一性を保持している。」それが可能なのは、記譜言語の独特な性質によるといのがグッドマン説。記譜言語であるためには五つの統辞論的・意味論的要求を満足すべき。この要求によって、符号や従属項の内部での、あるいはそれら相互の曖昧さ、重なり、不確定性を排除。
「(1) 統辞論的分離性
 符号は、ふたつ以上の符号に属する書き込み文字がないように、分離していていなければならない。すべての書き込み文字は統辞論的に等価であり、統辞論的帰結なしに置換可能であらねばならない。このことは、ある符号の書き込み文字の間では、各書き込み文字が他のすべての書き込み文字の「レプリカ」である場合に保証される。これらの書き込み文字は、それゆえ、「符号に対して無差別的」である。符号への無差別性は再帰的、シンメトリー的、推移的な関係であって、そのようにされると、この関係によって生み出された部分に、符号に無差別的な書き込み文字のクラスを作り出す。
(2) 統辞論的識別性
 符号は有限に識別されていなければならない。『ふたつの符号KとK'のすべてと、このどちらにも事実上属さないすべてのマーク[書き込み文字]Mに対して、MがKに属さないことか、MがK'に属さないことのどちらかの決定が理論的に可能である。』(G 135-6)(たとえば事実上「i」でも「j」でもないようなマークについて、これが英語のマークならば、iではないかjではないのどちらかを決定できなければならない。ラテン語のマークならば、決定できなくても良い。)
(3) 単一決定
 各符号はある外延をユニークに決定しなければならず、それに属するかどうかはコンテクストを超えて不変である。こうして書き込み文字の曖昧さが禁止される。(G148)
(4) 意味論的分離性
 従属クラスは分離的であらねばならない。従属クラスの交差は禁止される(G150-1)。それゆえ、
(5) 意味論的識別性
 従属項が与えられたとき、それは他のものから充分に区別され、それが当該の符号に従うという決定が可能であらねばならない。」(101-102)
これらの要求を満たしたとき楽譜は主要な理論的機能を果たすとグッドマンは言う。楽譜が記譜的なら、どの楽譜を見てもどの演奏を聴いても作品を同定できる。これらの要求は作品の同一性が楽譜や演奏に保持されているかどうかの決定テスト。ゲーアはそれを「復元テスト」と呼ぶ。楽譜があれば作品と、それゆえその演奏を構成する性質を同定できるし、演奏を聴いて楽譜を復元できる。同定手続きはどちらの方向でも機能する。

5あたりから急に訳が良くなってきた。このレベルならば、何とか読めるかもしれない。少なくともグッドマンを全く分かってない、という感じではない。1−3のあのでたらめさは何なのだろう。

2013年11月22日金曜日

リディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」(2)

リュディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」の要約的紹介の(2)。5節。次の6節からがこの章の中心部で、グッドマンの議論を扱う。

5
これら四つの立場の説明から、分析哲学の理論のあり方についても音楽作品のあり方についてもたくさん外挿できる。「第一に、分析[哲学]が示している基本的な関心は、普遍・タイプ・種によって作品のあり方を記述することだ。」そこには山ほどの形而上学的な問題がある。もう一つの面倒は、「作品が同一性を持ち他から区別されるための条件を決定することだ。何かが音楽作品であるためにはどんな条件を満足させねばならないのか。時間がたってもそれが同じ作品であるのはどのようにしてなのか。一つの作品を別の作品から区別するための条件は何か。」分析哲学者はオッカム主義と還元主義の傾向があるので、「存在論にどこまでコミットするのかが主要な論点だとみなした。音楽作品について語るとき、抽象的存在にコミットする必要はあるのか。
音楽の側からすれば、分析哲学が論じてきたことは、「音楽作品の本性を決定する際に創造性と作曲行為が果たす役割、作曲家による楽器の指定(どの音符がどの楽器で演奏されるか)の果たす役割、演奏と楽譜が相互に、また作品に対して持つ関係」だ。作品概念の中心にある特徴はすぐ分かる。作品とは「単なる任意の音のグループではなく、重要な仕方で作曲者、楽譜、演奏の所定のクラスと関わる複雑な音構造である。」これらが分かって音楽作品という観念がわかる。
哲学的関心と音楽的関心を調停するのが良い理論だ。「例えば創作についての哲学的理解と、作曲するとは何を意味するのかについての理解のバランスをとる」ような理論。「作品概念が実践において持つ役割(と持っていない役割)に敏感な」理論、「作品概念が実践でどのように機能しているのかの記述と両立するような仕方で作品とは何かを説明している」理論。「特定の理論に則して考えることで、説明したい現象の解明が、それもまさに私たちがそれらの現象を説明したいような仕方での解明が可能になるのだ、そのような理論はそう証明するだろう。この見地から、成功した分析哲学的な理論が生み出されたのかどうかを問うことができる。」
そのために本章ではグッドマンを、次章ではレヴィンソンを扱う。二人はそれぞれ独特だが、それでも分析美学の代表的議論だ。グッドマンの唯名論の方がレヴィンソンよりも存在論的なコミットが少ないので、グッドマンから始める。グッドマン理論への様々な批判が提示されると、もっとコミットしたいという[レヴィンソンの]動機が明らかになる。
「グッドマンは、作品の地位と同一性を決定するにあたって楽譜と演奏が中心となるという議論を提供している。レヴィンソンは、作品を創造する上で作曲家が果たす役割を強調している。グッドマンの関心は、音楽作品の様々な特徴がその特定の理論的要求を満たすような、そうした哲学的な理論だ。彼の説明は殆どの理論家にとっては反直観的に思われた。レヴィンソンはもっと前批判的な直観を大事にしている。彼は哲学理論への関心と、私たちの音楽現象へのもっと常識的な理解とのバランスをとろうとしている。私にはどちらもうまく行っていないように見える。この結論のゆえに、そもそも分析哲学の尺度の内部で考える限り、哲学的な理論と音楽実践の間の釣り合いを保つことは可能なのだろうか、という問いが引き出されることになる。私はそれが不可能だと論じることになるだろう。

訳は1-3と比べると良くなっている。四つの立場のうちグッドマンとレヴィンソンしか扱わないのと、レヴィンソンについての議論が次章回しにされ翻訳されていないので、1-5までは結局意味がないのも確か。それで「抄訳にしようか迷った」のか。さて、グッドマンパートの検証はどうしようかなぁ)

2013年11月21日木曜日

リディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」(1)

Twitterでちょっと触れたけれど、福中冬子氏が編集し翻訳している論集「ニュー・ミュージコロジー」には、リュディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」、ピーター・キヴィーの「オーセンティシティ」という、分析美学に位置づけられる二つの議論が翻訳されている。グッドマンの「芸術の諸言語」の訳も、またレヴィンソンの幾つもの著作の訳も未出版な状況で、分析系の音楽美学の議論が翻訳されることは喜ばしい。また、実際、キヴィーに関しては、翻訳で読んでもそんなに難しくはない議論が展開されている。
問題はゲーアの方で、語学的な問題、というよりも、分析美学系の議論の考え方との相性の問題で、とても読みにくいものになっている。この議論は序と16の部分からなるが、考え方としては素直な議論なので、訳に問題がある場合にはそれを修正しながら、紹介してゆきたい。今回は序から4くらいまで。(正直言うと「語学的問題」も大きいとは思う)
方針としては、基本的に自分でまとめ、訳すが、福中訳が誤解を招く間違いを含有している箇所は私が訂正した訳青字で表記し、私のコメントはで表示、元訳は原則として示さない(ひどい間違いをいちいち示して晒し者にはしない)。ページ表記はページが変わったところで。(11/21方針修正)


序は、「音楽作品」とは何か、という問題設定を示す。ゲーアは「音楽は作品のうちに例示されている考えは、自明というにはほど遠い」(邦訳89に対応。以下同様。青字や字消しは修正したところ)というダールハウスの発言に同意し、次のように述べる。「音楽実践は〈作品概念〉により規定されうるが、それは必然ではない」。それは歴史によるし、偶然だ。偶然だということはしかしそれがすぐなくなるということを意味しない。概念は実践に浸食しまるで必然のような雰囲気と魅力をもつからだ。今日、作品概念と結びつけずに音楽、とくにクラシックについて考えることは出来ないほどだ。でも、ゲーアによると、「「芸術」音楽の伝統の歴史の大部分で、音楽は作品概念と結びつけて考えられてはこなかった」(90)。

本書(『音楽作品の想像的博物館』)は、作品概念が成立した時期に関わるものだが、前段落の最後の言明は、本書の中心にある主張に直結する。この言明の含意は大きいが、そう分かるのは証拠がすべて提示されてからのことだ。」証拠は広範囲に及ぶ。「音楽の意味と美学理論についての歴史的記述、音楽実践の変容をもたらした様々な変化から、社会学的な記述、概念が実践を生み出すあり方についての存在論的な記述」にまで及ぶ。ゲーアはまず「狭義の哲学的問題、とりわけ音楽作品の存在論的地位を記述しようとする分析哲学者の試み」(えっとここの元訳ひどい。この章で言われるanalyticalはすべて分析哲学ないし分析美学のことだけれど、それが分かっていないような感じ)を取り上げる。

1
音楽作品の分析的理論はいったい何を扱っているのか?」ゲーアは四つの基本的な立場を区別する。「本章ではこれからその四つの立場とその代表的な主張者を簡単に紹介し、分析的な理論がどういうことを行っているのか、読者に試食をしていただこう。」
第一はプラトニズムだ。プラトニズムのある立場だと、「音楽作品は、常識とは異なり、音の構造によって構成される普遍であり、おそらくは自然種ですらある。」(「普遍universal」とは「個別particular」に対応する名詞で、「赤」や「蛇」「車」など、ゼロないし一つないし複数の「赤いもの」や「へびさん」や「うちのプリウス」などをそれに対応する個別として持つ。自然種とは普遍の一部で人工的ではない種。)「それらは時空的性質を欠きいつとかどことか言えず)、永遠に存続する。」作曲前も忘却された後も存在している。演奏されなくても複写楽譜が作られなくても存在している。「作曲するとは種を創造することであるよりもむしろ種を発見することである。」(91)
ウォルターストーフが、もっと洗練されているけれど、この種の見解を支持する。「彼は、芸術作品を、音構造として理解される、創作されない自然種だとみなしている。」だから、「当該の音構造が例化されることはいつも可能だった」(例化とは、ある普遍の実例を与えること。訳語も決まっている。第九は、ベートーヴェンが初めて例化したのだけれど、別にモーツァルト作でもよかったし、原始時代につくられててもよかった。無意識がフロイト前からあったのと同じ)「作曲者はそうした構造を発見することで作品を作る。彼らは正しい演奏のための条件を決定することで発見した構造を自分の作品にする。この見解では、作品は創造されない自然種であるばかりではなく、規範種でもある。というのもそれらは適切に形作られた実例と不適切に形作られた実例の両方を持ちうるからだ
プラトニズムを特徴付ける別の方法もある。上演や楽譜と無関係という点では最初のと変わらないが、「作品が創造されるという理由でそれを準プラトン的な実体とみなしている点で異なる。」(この箇所は訳も特に間違いではない)。「演奏において例化されるので、作品はプラトン的な地位を保持している。」時空に制約され、作曲行為に依存し、普遍を例化する特殊(上演や楽譜)に依存している。
レヴィンソンの修正プラトン主義では、「作品は構造タイプないし種でありそのトークンは個々の具体的演奏である。」それは独特の構造タイプだ。つまり「開始されたタイプ」なのだ。(この箇所の訳は、指摘するのも可哀想なほどひどい。)レヴィンソンによれば、作品とは音構造であり演奏手段構造であるが、加えて、それは、特定の歴史的コンテクストの中で特定の作曲家によって特定の時に作られた、ということによっても同定される。
プラトン主義の見解では、作品は自立した種であり、修正プラトン主義の見解では、作品は依存的な種だ」(92)。依存的な種は、存在を得るために人間の意図的な行為を要求し、存在を続けるために演奏やスコアを要求する。しかし作品ひとつひとつが異なった存在者であることに変わりはない。それぞれ異なった存在者であることは超越した存在であるとか、上演や楽譜に尽くされない存在であるとかいうのと同じではない。「作品それぞれが区別されることが抽象的ないし具体的な実体そのものとしての作品を特徴付けるし、依存性は、上演や楽譜と作品の関係を特徴付ける。
(北野まとめ。)プラトン主義的な作品観は、作品を音の構造として理解する。構造はタイプなので、永遠的な存在で作曲者が作曲しなくても存在する。作曲は「発見」で演奏はその「例化」だ。これはまずいと考える修正プラトン主義では、作品は「開始されたタイプ」であり、音構造+演奏手段構造+特定の時期に特定の作者が特定の文脈で作ったこと、によって同定されるタイプだ。演奏がそのトークン。(タイプとトークンって何のこと?はググれ。)


アリストテレス主義。「作品は、演奏とその楽譜のうちに示されている本質(典型的には音構造)である」(94訳を少し変えた)。「いろんな演奏で例示される音パターン」である限りで抽象的だが、独自の実体ではなく他のものに属し含まれる「本質的構造ないしパターン」。「作品の実体性がどんなものであれ、それは演奏の実体性によって尽くされる」。プラトンのイデア論形相論でも良いけどさ、「形象論」はないと思う)へのアリストテレスの批判が両者の違いを説明するだろう。プラトンでは、物質世界の外に何かものがあって、それは消滅しないという点以外では感覚的なものと同じだ、ということになるけれどそれは奇妙だ。ひとそれ自体とか健康それ自体とかがあって、それらは「それ自体」以外に限定されないのだもの。永遠のひとと言っているだけ。(とアリストテレスは言う)
アリストテレスは、本質が、「本質を具体化する具体物という一次的な存在から派生する二次的な存在を持っている」(93)と述べる。とすると、様々な作品は「パフォーマンスや楽譜のうちに複数的に実現された諸本質であるという理由でだけ、二次的な意味で、互いに異なる」というべきかも。そんな言い方をすれば、「本質は、おそらく実現されず実体化されない潜性態として、二次的な意味で独立に存在する」という意見もOKになるだろう。
このアリストテレス派がケンダル・ウォルトン。作品とは「すべての演奏のそれぞれにおいて提示される音パターン」(訳はパターンを「反復類型」ってしてるけど、時間的な繰り返しをここでの「パターン」は含意も排除もしていない。頑固に「複写楽譜」と訳されるスコア=コピーが「複写」を含意も排除もしていないのと同様。)作品は「特定の対象でも出来事」でもなく、演奏が「合っていたり合っていなかったりするような何か」だと言う。作品とは「楽譜が認知し特定する音と楽器の規定の階層化された構造パターン引くことの(マイナス)、『良い演奏のために楽譜に含まれるアドヴァイス』だ。」作品とは、「演奏が正しいあるいは欠点のない演奏であるために示さねばならない音性質のパターン」だ。とすると作品はレシピのように規範的ないし処方的だ。
(北野まとめ)アリストテレス的な(事物に潜在的に存在する)本質概念を用いて作品を説明するのがウォルトンで、作品とは「演奏一つ一つのうちに提示されている音のパターン」であり、それは規範的で演奏が正しい演奏であるためには、演奏は、その音性質のパターンを示さねばならない。


「作品」について考える第三の方法は「抽象的な存在」をどんな形でも認めないこと。存在するのは具体的な演奏と楽譜だけ。「作品について語るとは、作品が存在するかのように語ること」(94)でしかない。「作品とは「作品の演奏」の外延的に定義されたクラス(集合の意味)に他ならない。」「作品の演奏」っていうと演奏される作品があるみたいだけれど、これは「の演奏」がついて初めて存在する属性だ。「作品の演奏」はあっても「作品」はない。(「おろち」と「やまたのおろち」がいても、「やまた」がいないような。)演奏は、演奏が例化している抽象的パターン(つまり「作品」)に応じて分類されるのではなく、演奏同士で、あるいは楽譜との関係の適切さに応じて分類される。生物学的(ないし法的)に一定の関係を有するメンバーが同じ姓を持つのと同様に、作品も、一定の個別のクラス「平均律」のありとあらゆる演奏を指示する便利な言語的なアイテム「平均律」に過ぎない。これが唯名論的見解。作品と演奏との「垂直な」、「抽象とその具体的実現」の関係からは離れ、さまざまな演奏や楽譜の「水平の」関係について考えることになる。
作品を「タイプ」と呼ぶ、あるいはより注意深く、「作品名」をタイプと呼ぶ理論家たちもどことなく似た見解をとっている。「音楽作品名とその演奏の関係はタイプとトークンの関係と同じだ。トークンがタイプとの関係で同定されるのであっても、タイプは言葉の上で存在するだけなのだ。タイプを創造する際、作曲家は『タイプのトークン』を創造しているか、あるいは『タイプのトークン』を作る方法、つまり楽譜を創造しているだけだ。」(作曲家が「複写楽譜」を作るって訳したとき変だと思わないと…)
マゴーリスがほぼこの見解(昆虫亀の人にマーゴリスではなくマゴーリスだと教えて貰った)。「しかし彼は厳格な唯名論からは離れる。タイプを「抽象的個別」とみなしているからだ」(95)。本人は否定するが、マゴーリスは修正プラトン主義に近い。「抽象的個別が抽象的なのは例化されうるからであり、個別なのは、創造されるという点で普遍ではないからだ。」(普遍は生成消滅しないので)「作品は物理的な対象のうちに実体化embodiedされるがそれと同一ではない。」(マゴーリスのembodimentの訳語には自信がないなぁ。ステッカーの森訳では「具現」か。)。「実体化の「である」は同一性の「である」とは異なる、と彼は論じる」(ここはDantoの芸術的述定の「である」は同一性の「である」ではないという議論を知らないと訳しにくいか)。前者は、「文化的な個別(particular)について私たちが語るのを簡単にするために、文化的な文脈の中に持ち込まれている。」作品タイプとは、「文化的に出現する存在者である。ここで出現というのは特定の文化空間内部で個別の対象のうちに実体化されているという意味だ」。
グッドマンはさらに唯名論にコミットしている。彼の提案では、作品とは、楽譜に完全に従った上演のクラスだ。彼の理論は、作品と呼ばれる別個の、あるいは抽象的な実体へのそれ以上のコミットを含まない。クラスという概念にコミットしているから完全に唯名論的だ、ということにはならない。クラスは抽象的存在者だからだ。「でも、グッドマンは、自分がクラスという言葉を使うのは便宜上のことであり、自分の理論の本質は真に唯名論的だと主張している。」
(北野まとめ) 唯名論的作品概念は、「抽象」を一切拒絶。「作品の演奏」の存在は「作品」の存在を含意しない。作品は、同じ名前で呼ばれる様々な演奏のクラスを指示する便宜上の産物。「作品名」はタイプだと考える。作曲家は、「タイプのトークン」あるいは「タイプのトークンの製造法」を創作している。ある上演について、「これは第九である」と言うとき、この「である」は「実体化の〈である〉」であって、「同一性の〈である〉」ではない。目の前で起きている演奏という物理的な対象のうちに実体化(文化的に出現)しているものとして「第九」をとらえている。作品とは楽譜に適った上演のクラスへの便宜的符丁とみなすグッドマンも唯名論的。


クローチェとコリングウッド。彼らは分析理論をしていない。それでも「観念論的」見解を外挿可能。「作品はそこでは作曲者の心の中に形成される観念と同一視される」(96)。これらの観念は、(心の中に)形成されたら、楽譜や演奏のうちに、客体化された表現を見いだしうるし、公的にアクセス可能になる。作品≠客体化された表現。作品=観念。
コリングウッドによると、作曲家が歌って作ろうが、楽譜に書こうがそれはどうでもいい。「実際の曲作りは他の場所ではなくかれの頭の中でだけ起きている何かなのだ」それは「想像上の曲imagenary tune」。曲作りとは想像上の曲作りで、それが創造だ。この想像上のものを伝えたり思い出したりするために曲を紙に書くなら、それは創造ではなく加工だ。「曲は想像経験の文脈の内部にだけ存在する」。そうした経験にあっては、曲は聞こえたりしない。想像されるだけ。「但し、曲とはこれらの想像上の音に過ぎないというのは間違っているだろう。曲とは、むしろ、これらの音を想像し、理解し、意識するようになる全行為の経験全体のことなのだ」。
観念論は分析の伝統では上手く受容されてこなかった。「想像的・美的経験の内部に作品を同定しようという考えは、求められていた存在論的な理論とは全くあわないと判断されてきた。」想像経験全体=心的実体(観念)ってのもまずい。「何であれ、心の中に存在するなにかと作品を同一視することはとても不充分な戦略だとみなされてきたのだ」(97)。

(北野まとめ)コリングウッド流の「観念論」は作品=想像的経験=心の中にある何か=観念、とみなすが、これは分析美学の伝統ではあまり受けいれられてこなかった。(コリングウッドになって急に間違いが減った。分析哲学との相性がこの結果につながったことが窺える。)

解題を読んで驚いた。訳者、アメリカでゲーアのゼミに参加してるんだ。こんだけ分かってなくてゼミに出るのは大変だったろうなぁ……解題で「ジェロルド・レヴィンスンを巡る議論はたとえば、レヴィンスンの議論に少しでも通じている読者には多少違和感を持って読まれるのではないだろうか」(129)と書いてあるけれど、レヴィンソンの議論に少しでも通じている人が、彼のinitiated typeを「潜在型」と訳し「潜在」に「〈=明瞭なる特徴付けがなされていない〉」と注記できるのだろうか?なんかいろいろ信じがたい。

著者名をゲールってしてたのを訳書にあわせてゲーアに修正。

2013年11月15日金曜日

今年のいろいろベストon 15/11/2013

年末になったらまた考えるとして、
今年観た演劇系ベスト4
(1) ザ・スーツ (2) レミング (3) 熱帯のアンナ (4) 黄金の馬車
(FTを見るのでまた変わるかも知れない。MIWAを見られなかったのが残念)

今年読んだミステリベスト3
(1) 冬のフロスト (2) われらが背きし者 (3) かかし
本当は(1)フロスト(2)フロスト(3)フロスト。
(3)の「かかし」はコナリーにしては少し弱い。ボッシュじゃないし。
レヘインもミステリ的な面白さじゃないし。
ドイツ系に面白いのが多かった。「白雪姫には死んでもらう」とか。

今年観た映画のベスト3
(1) ジャンゴ (2) ハンナ・アレント (3) 天使の分け前
ヴィック・ムニーズがかなり良かったけど、映画として良かったのかと言われると…
スター・トレックが、 せっかくのカンバーバッチなのに…
感動系を観てない。来年の一番の楽しみは「マチェーテ・キルズ」。

今年買った音楽
でiTunes探ってみて、今年殆どアルバムを買っていないのに気づく。去年はマッケラスを一生懸命買っていた。それを含め、最近ピリオド系しか買いたくない感じ。
キアロスクーロ四重奏団のベートーヴェン。

今年行ったコンサート
ウォーターズとリセウの蝶々夫人しか行ってない。

「起て、飢えたる者よ」劇評@ワンダーランド

小劇場レビューメルマガとウェブサイトの「ワンダーランド」に、劇団チョコレートケーキ「起て、飢えたる者よ」の劇評を書きました。
直リンで
http://www.wonderlands.jp/archives/24646/
編集者とのちょっとしたご縁(同級生)で書かせていただきました。2000字以上で、他の人が読むこと前提に書いたのは初めてかも知れない。

ご縁が続くと良いのですが…