2014年5月31日土曜日

福中冬子編訳『ニュー・ミュージコロジー』所収、キヴィ「オーセンティシティー」について

福中冬子編訳『ニュー・ミュージコロジー』、ゲーアの論文は、日本語一ページ読むだけで、訳がでたらめだと分かったのだけれど、ゲーアが紹介しているグッドマンの議論自体難解なのかもしれず、ある程度仕方がない。それでも全体の三分の一くらい誤訳、っていうのには驚いたけれど。
学生の卒論のテーマに重なるのでこの章は注意深く読み、大きな誤訳はほぼ指摘した。そのとき、同じ分析美学仲間のピーター・キヴィの「オーセンティシティ」はどうなのかしらと気にはなったんだけれど、何となく読めば分かる感じの文章に見えたので検討しなかった。
で、その学生さんと「オーセンティシティー」の箇所を読み出して仰天する箇所に出会うことになる。それは、看護婦になりたいと言っている貧しい少女ワンダについての文だ。
もちろん、<ワンダ>は一度も医者になりたいなどと口にしたことはない。彼女は常に看護婦になりたいと公言していたが、まともな思考が出来る人間ならば誰しも、彼女の能力や人格、行動に鑑み、医療現場で働くならば−彼女の言葉とは裏腹に−看護婦よりも医者の方がやりがいがあること、そして状況が許すならば彼女自身医者になりたいと思っていることを認識できるだろう。(148)
「まともな思考が出来る人間ならば誰しも…医療現場で働くならば…看護婦よりも医者の方がやりがいがあること…を認識できるだろう」はおそらく翻訳者の思い込みが誤訳に反映した例である。そしてその思い込みはずいぶんと看護婦を馬鹿にしている。誤訳であることに気づくまで、キヴィってこんなあほなことを書く人なのかと唖然とした。
もちろん、ワンダは自分が医者になりたいと言ったことはない。そのポイントはどこにあるのだろう?彼女が医者になることが不可能だったという点だ。だから彼女はいつも看護婦になりたいと言っていたのだ。しかしながら、彼女の能力と個性を知っており、その振る舞いを何年にもわたって観察しており、医療の領域で看護婦よりも医者になるほうが彼女の人生がどれほど満足できるものになるのかを知っている知性ある人ならだれでも、これらすべてのことがらから、それまでの何年間もの間ずっとワンダが語ってきた言葉に反して、 ワンダが、現在の状況では、看護婦よりも医者になることを望んでいると推論できるのである。Of course, Wanda never said she wanted to be a doctor. What would have been the point? She couldn't be one. So she always said she wanted to be a nurse. However, any reasonably intelligent person who knows Wanda's capabilities and personality,has observed her behavior over the years, and knows how much more gratifying her life would be, in the healing arts, as a doctor rather than a nurse can infer from all this, pace what Wanda has been saying all these years, that Wanda, under present circumstances, wants to be a doctorrather than a nurse (.Peter Kivy: Authenticities (Cornell University, 1995) 24)
キヴィは翻訳者とは違って、「医療現場で働くなら看護婦より医者がやりがいがある」なんてことは書いていない。ワンダを知っていて、何年も観察していて、彼女にとっては医者になる方がどれほど望ましいことなのかを知っている人が、「彼女は医者になりたい」と推論できると主張しているだけである。knowとinferの違いとか、主語を修飾する関係節と主文の違いとか、指摘するのも徒労になってしまいそうだ。
もう一つ、この訳の大きな問題は、これが(間違った)要約であって翻訳ではないということだ。彼女は、自分が理解出来る形に原文を縮め、まとめている。ところがキヴィは彼女が理解できるほど単純なことを言ってくれていないので、何となく分かったような読後感はするけれど実は出鱈目な翻訳ができあがった。
その前のページでも「身体を持たない思考プロセス」(147)とか笑わせる訳文が出てくるし、このあたり、文単位でみると正しい訳ひょっとしたら一つもないのではないだろうか。「身体を持たない思考プロセス」の直後もこんな感じ。
ここでツッコミが入るとすればそれは、人は実際、あらゆるものを「望む」ことは出来るが、あらゆるものを「意図」することはできない、ということだ。もしその「なりたい[望む]」が不可能であったとしてもである。「Xになること意図する」と私が言ったところで、そのXが不可能であるならそれは意味を成さないが、「Xになりたい」と発言すること自体を阻止するものではない。(同147)
この訳に実際に「ツッコミを入れ」、出来るならばその流通を「阻止したい」のだけれど、出来るのは試訳を置いておくこと位かしら。
結局のところ、人は何でも「意図する」ことは出来ないけれど、 何でも本当に「望む」ことは出来ると言われるかもしれない。Xが私にとって完全に不可能であるとき、「私はXになることを意図している」と私が言うのは明らかに意味がない。他方、「私はXになりたい」と言うのは、それでも意味があるようにみえるかもしれない。It might be interjected here that, after all, one can really "want" anything, even though one cannot "intend" anything. It makes no sense, clearly, for me to say "I intend to be X," where X is flat-out impossible for me, whereas it may seem, anyway, to make sense for me to say "I want to be X."(同23)
 卒論の学生さんのためには、ゲーアの場合同様、論文全体にわたって見直してあげるべきなのだろうけれど、今回は全訳になりそうで、時間や著作権の関係もありそれは控える。

2014年5月22日木曜日

iPad mini用キーボード

iPad Mini用キーボードを買った。Logicoolの薄いもの
小さすぎないかと思ったけれど、アルファベット部分のキーが充分に大きいので大丈夫。驚いたのは、日本語変換の性能がとても良いことだ。マックと同じ「ことえり」なんだけれど、MacではATOKだし、iPadでは普段ローマ字変換をしていないので意外だった。フリップのときには変換精度はあまり意識しなかった。予測変換で確定することの方が多かったからだ。キーボードでローマ字かな変換で、会議や学会でメモを取るのにはほとんど苦労しない。みんなtsudaれる筈だと思った。ATOK要らない感じ。コマンド+スペースで言語が変わるのもマックと同じで良い。マック風のキーの組み合わせはほかにもあるみたい。
ただ、日本語⇔アルファベットのキーボード変換をcapslockで可能、みたいな使い方が出来るとさらによかった(日本語・ギリシア語・英語のキーボードをオンにしているので)。
重くなるのが心配だったけれど、それほどでもない。ガラスの保護カバー(シール)とは両立できないけれど、保護カバーは不要になる。また、ソフトケースもキーボードで保護しているので不要になる。扱いはむしろ簡単になった。
読むときのために相変わらずキーボードは外してe-handleつけてるので、キーボードのふたをしたときの不格好さはさらに増した。便利で軽ければ幸せなので良いのです。あまりマックを持ち歩く必要がなくなってきたなぁ。

地人会新社「休暇」Holidays

久しぶりの赤旗劇評。思い起こせば半年ぶりだ。
タイトルがようわからんものになってしまった。ともかく保坂さんあまり心理主義的ではないけれど熱演。作品は問題多い。医学的ガン治療への偏見が強すぎて気持ち悪いレベルだ。
ハーブだのにんじんジュースだのなんだのっていう代替治療のことを緩和ケアって呼んでいるのは原作がそうなのかもしれないけれど、主人公のガンの進行がいまいち不明なのは翻訳の問題なのか作品の問題なのか。素直に観ていると、乳がん発見通常医療三ヶ月で再発代替治療で根治、七年経過後肺に転移(?)代替治療で一旦消えたけれどまた七年たってあちこちに転移っていう物語に聞こえる。全14年。それはあまりになさそうなのだけれど、どうなのだろう。