2014年10月29日水曜日

iOSでATOKを使う(絵文字登録)

iOS 8.1にしたら、今まで登録していた単語が抹消され、新しい単語登録も出来なくなったので、この際と思ってATOKの導入を行った。1500円。
で、ついでなのでATOK SyncにでもしてMacのATOKと同期させようとしたら、ATOK Syncには対応していないらしい。ともあれ、今のATOKから、ユーザ単語をエクスポートしてiPhoneのATOKに取り入れることは出来るみたい。
http://support.justsystems.com/faq/1032/app/servlet/qadoc?QID=054762
それでまあ、なんとか支障ないレベルで変換しているのでよしなんだけれど、ATOKの初期モードでは、iPhoneの絵文字を読みで変換することは出来ない。「あせ」ってタイプしてUnicode絵文字の😓が出てこない。
こんなもん単語辞書ファイルなんだからどこかにないかと思って探したら今日になってようやく誰かが作ってくれたみたいで、
http://wiki.aokix.com/Mac/ATOK/iOS絵文字辞書を登録する
にアップロードされていた。
ファイル名をuser_word.txtに変更してiTunesのATOKに取り込むのだけれど、前に取り込んだファイルと置き換えられてしまう。でも、前の登録単語が消えるなんてことはなく、新たに絵文字も(いくつかエラーは出たけれど)無事、取り込まれていた。
このファイル、MacのATOKにもインポートできるのが有り難い。

ATOK自体はときどき挙動不審になるけど、まあ育って行くでしょう。

2014年9月21日日曜日

デーア・ローアー 『無実』東京演劇アンサンブル

デーア・ローアーは、岡田利規演出の「タトゥー」、東京演劇アンサンブルでの「忘却のキス」を見た記憶がある。「忘却のキス」がストーリーレベルで分からなかったのに対し、「無実」は分かりやすい。

なんか最近観劇を「外す」ことが多くて、今回はかなり外している可能性が高いと自分でも予想していた。

舞台は、ドイツの港町、ということは北海に面した町で、ケルンかハンブルク位しか行ったことないけれど、そんな感じのところ。不法滞在の移民が多く、港にはストリップバーもある。「元コミュニスト」を自称する女性が出てくるので、旧東ドイツの地域なのかもしれない。(西にはほとんどいなかったもの)。
(1)冒頭、不法滞在移民の二人の黒人が、海で溺れかけている女性を見つける。その一人エリージオは助けようとするが、不法滞在がばれると強制送還になるかもという相手ファドゥールと言い合いをしている間に、女性を見失ってしまう。エリージオは死んだその女性のことが頭から離れない。
ファドゥールは海辺で日傘と本を探す盲目の少女アプゾルートに出会う。彼女はストリッパーで、ファドゥールは彼女に恋をし、たまたま拾った大金でその目を手術しようとする。
(2)医学部を辞めたフランツと妻ローザの暮らす家にローザの母ツッカーが転がり込んでくる。ツッカーは糖尿病が悪化して足を切除しなければならなくなって一人暮らしが続けられない。フランツは遺体処理の仕事を見いだす。
(3)老女性哲学者(設定では)は、自分の書いた「世界の不確実性」の内容に絶望している。因果関係は後付けにすぎない。世界のすべては不確実だと。彼女は夫に八つ当たりして憂さを晴らしている。
(4)身寄りのない老女ハーバーザットは犯罪被害者の家を訪ねては、自分が犯人の母親だといつわってかえって同情されることを生きがいにしている。彼女の正体はばれ、その行為は禁止される。
物語はこれら最初は無関係な四組のグループに分かれ、その間に、飛び降り自殺する男たちのスキット、それをいらいらしながら見ている見物人のスキットが(かなり時間をおいて)挟まれる。無関係な人物群は、徐々に緩やかに結びついて行くが、そのキーになる言葉は「世界の不確実性」だ。

作品は、多分、ブラックユーモア、グロテスク・コミックでいっぱいだと思う。冒頭の、溺れる女性を助けようとしたエリージオが言い合いになっている間に肝心の女性を見失うところからして、笑いの種は溢れている。ファドゥールとアプゾルートの出会いもそうだ。「見える」「光」「金色」「ライト」などの言葉はかなり危ないのだけれど大丈夫かなとおもわせるところも含めてギャグ満載なんだと思う。「世界の不確実性(多分不確定性)」の話が出てきた後で、目の前にいるローザが実は水死した女性だったとか、それを知ったときに彼女の水死が確定するとかも、まあ、笑えるかどうかは別としてシュレジンガーの猫のギャグだろうしサプライズなエンディングの筈だ。ハーバーザットの詐欺(お金を要求するわけではないけれど)もいらいらする不条理な場面だけれど、こんなに不快なだけの場面ではないと思う。

冒頭の場面はエリージオとファドゥールも同じ方向を向いているために、エリージオが女性を見失う効果が出ない。おまけに(特にファドゥールが)台詞でアップアップしている。その台詞の翻訳もとても不自然で、話し言葉になっていないし、日本語としてどうかしらと思うところもある。演じていて、さいの目を振るなよサイコロを振れよとか思わなかった?。音楽がずっとケルティックハープ一本なので、ドタバタ演技の入り込む余地がないし演技もずっと同じテンポ。何でドイツでアフリカからの移住者の話で都会なのにケルティックハープなの?エンヤのテープじゃなかっただけラッキーだと思えば良いの?みんながずっと前を向いて感情を外して台詞を言うのが異化演技だっての止めようよ。そんな演技見ていて何か面白かったり有意義だったりするの?老哲学者がなんで若いの? バリバリの頃のクリステヴァみたいなことをその頃のクリステヴァみたいな年齢の女性が言って人生の失敗感がでるの? 盲目の少女が全然盲目に見えないのと服がお嬢さん方向なのはわざとだと思うのだけれど、どういう効果をねらったの?ファドゥールとエリージオが世紀末伝説の雑魚みたいなプロテクター付きシャツを着ているのは何なの?セットが「除染された土」を入れた袋なのは分かったけどそれ何か効いてるの? 飛び降り自殺する二人は、唯一演出上笑いを意図した場面ではあったのだけれど、この雰囲気の中であの衣装と演技で客が笑うと思っていたの?だいたいあそこだけコミックなのおかしいとか思わなかった?全体にわたる視覚的なだささはドイツ演劇だからわざとそうしたの?



2014年9月17日水曜日

新国立劇場『三文オペラ』(赤旗劇評)

赤旗に新国立劇場の「三文オペラ」の劇評を書きました。
ソニン最高!最後の面会の場面での退場にダンディ坂野の持ちネタを持ってくる所なども素晴らしい。「示す」演技に徹している。
メッキーが「起伏が少ない」のは演出の意向か?って書いたのは、たとえば嫉妬の二重唱の場面でのメッキーの必死のごまかしがカットされていたり、いくつか、メッキーが面白くなるところをあえて抑えているように見えたから。ピーチャムに関しては、私が観たのが二日目というのもあり、第一幕冒頭の最初の見せ場がちょっと淡々としすぎているようにも見えた。笑いをとれていなかった。
字数の関係で書けなかったけれど、ピーチャム夫人のあめくみちこもとても良い。
台本は、ドスのメッキー、メッキース、匕首マックと主人公の名前が場面によって変わるのが気になった。総じて上品。でも、元になった(と書かれていた)光文社文庫(谷川道子)訳よりはずっと生きた日本語になっている(多分訳者本人の監修)。
翻訳戯曲のテキストと上演台本の関係としてはこれで良いと思う。戯曲テキストは語学的な正確さを崩せないけれど、上演台本はそうでもないのだから。


劇評はこちら

2014年9月12日金曜日

MacでEPWING for Classics(ギリシア語辞書データ)を使う

EPWing用のギリシア語辞典データEPWING for Classicsの使い方は自分のサイトで前に書いたことがある。まずWindowsでの使い方、およびiOSでの使い方だ。
ただ、そこではMac OSでの使い方については触れていなかった。辞書として使うには何の苦労も要らず適当なフォルダにコピーしてEBMacから認識させてやれば良いだけなんだけれど、それだけだと、検索文字がローマアルファベットになってしまい、また、ギリシア文字が汚い(ユニコード・フォントにならない)。
で、それを回避するために、EPWING for Classicsの「ダウンロード」ページから、EBシリーズ専用ファイルをダウンロードする。ここで必要な書類は、alternate-v3.iniとCLSEPW.plistの二つ。作業手順は以下の通り。
(1) alternate-v3.iniをalternate.iniに名称変更。
(2)「アプリケーション」フォルダからEBMacを右クリック(二本指タップ)、「パッケージの内容を表示」を選択。
(3)パッケージの中の Contentsフォルダ→Resourcesフォルダを開いて、そこにCLSEPW.plistをコピー
(4) 次にFinderで、オプションキーを押しながらメニューの「移動」をプレスして「ライブラリ」フォルダを表示。ライブラリ→Application Support→EBMacを開いて、そこにalternate.iniをコピー。この「ライブラリ」はユーザフォルダの直下にあるものの方。「システム」の直下にある「ライブラリ」にはApplication Supportフォルダがないはず。

これまでCLSEPW.plistをどこにコピーすれば良いのかが分からず、ギリシア文字が汚いまま放置していたのだけれど、上手くいったので報告。

CLSEPW.plistコピー前
CLSEPW.plistコピー後

2014年5月31日土曜日

福中冬子編訳『ニュー・ミュージコロジー』所収、キヴィ「オーセンティシティー」について

福中冬子編訳『ニュー・ミュージコロジー』、ゲーアの論文は、日本語一ページ読むだけで、訳がでたらめだと分かったのだけれど、ゲーアが紹介しているグッドマンの議論自体難解なのかもしれず、ある程度仕方がない。それでも全体の三分の一くらい誤訳、っていうのには驚いたけれど。
学生の卒論のテーマに重なるのでこの章は注意深く読み、大きな誤訳はほぼ指摘した。そのとき、同じ分析美学仲間のピーター・キヴィの「オーセンティシティ」はどうなのかしらと気にはなったんだけれど、何となく読めば分かる感じの文章に見えたので検討しなかった。
で、その学生さんと「オーセンティシティー」の箇所を読み出して仰天する箇所に出会うことになる。それは、看護婦になりたいと言っている貧しい少女ワンダについての文だ。
もちろん、<ワンダ>は一度も医者になりたいなどと口にしたことはない。彼女は常に看護婦になりたいと公言していたが、まともな思考が出来る人間ならば誰しも、彼女の能力や人格、行動に鑑み、医療現場で働くならば−彼女の言葉とは裏腹に−看護婦よりも医者の方がやりがいがあること、そして状況が許すならば彼女自身医者になりたいと思っていることを認識できるだろう。(148)
「まともな思考が出来る人間ならば誰しも…医療現場で働くならば…看護婦よりも医者の方がやりがいがあること…を認識できるだろう」はおそらく翻訳者の思い込みが誤訳に反映した例である。そしてその思い込みはずいぶんと看護婦を馬鹿にしている。誤訳であることに気づくまで、キヴィってこんなあほなことを書く人なのかと唖然とした。
もちろん、ワンダは自分が医者になりたいと言ったことはない。そのポイントはどこにあるのだろう?彼女が医者になることが不可能だったという点だ。だから彼女はいつも看護婦になりたいと言っていたのだ。しかしながら、彼女の能力と個性を知っており、その振る舞いを何年にもわたって観察しており、医療の領域で看護婦よりも医者になるほうが彼女の人生がどれほど満足できるものになるのかを知っている知性ある人ならだれでも、これらすべてのことがらから、それまでの何年間もの間ずっとワンダが語ってきた言葉に反して、 ワンダが、現在の状況では、看護婦よりも医者になることを望んでいると推論できるのである。Of course, Wanda never said she wanted to be a doctor. What would have been the point? She couldn't be one. So she always said she wanted to be a nurse. However, any reasonably intelligent person who knows Wanda's capabilities and personality,has observed her behavior over the years, and knows how much more gratifying her life would be, in the healing arts, as a doctor rather than a nurse can infer from all this, pace what Wanda has been saying all these years, that Wanda, under present circumstances, wants to be a doctorrather than a nurse (.Peter Kivy: Authenticities (Cornell University, 1995) 24)
キヴィは翻訳者とは違って、「医療現場で働くなら看護婦より医者がやりがいがある」なんてことは書いていない。ワンダを知っていて、何年も観察していて、彼女にとっては医者になる方がどれほど望ましいことなのかを知っている人が、「彼女は医者になりたい」と推論できると主張しているだけである。knowとinferの違いとか、主語を修飾する関係節と主文の違いとか、指摘するのも徒労になってしまいそうだ。
もう一つ、この訳の大きな問題は、これが(間違った)要約であって翻訳ではないということだ。彼女は、自分が理解出来る形に原文を縮め、まとめている。ところがキヴィは彼女が理解できるほど単純なことを言ってくれていないので、何となく分かったような読後感はするけれど実は出鱈目な翻訳ができあがった。
その前のページでも「身体を持たない思考プロセス」(147)とか笑わせる訳文が出てくるし、このあたり、文単位でみると正しい訳ひょっとしたら一つもないのではないだろうか。「身体を持たない思考プロセス」の直後もこんな感じ。
ここでツッコミが入るとすればそれは、人は実際、あらゆるものを「望む」ことは出来るが、あらゆるものを「意図」することはできない、ということだ。もしその「なりたい[望む]」が不可能であったとしてもである。「Xになること意図する」と私が言ったところで、そのXが不可能であるならそれは意味を成さないが、「Xになりたい」と発言すること自体を阻止するものではない。(同147)
この訳に実際に「ツッコミを入れ」、出来るならばその流通を「阻止したい」のだけれど、出来るのは試訳を置いておくこと位かしら。
結局のところ、人は何でも「意図する」ことは出来ないけれど、 何でも本当に「望む」ことは出来ると言われるかもしれない。Xが私にとって完全に不可能であるとき、「私はXになることを意図している」と私が言うのは明らかに意味がない。他方、「私はXになりたい」と言うのは、それでも意味があるようにみえるかもしれない。It might be interjected here that, after all, one can really "want" anything, even though one cannot "intend" anything. It makes no sense, clearly, for me to say "I intend to be X," where X is flat-out impossible for me, whereas it may seem, anyway, to make sense for me to say "I want to be X."(同23)
 卒論の学生さんのためには、ゲーアの場合同様、論文全体にわたって見直してあげるべきなのだろうけれど、今回は全訳になりそうで、時間や著作権の関係もありそれは控える。

2014年5月22日木曜日

iPad mini用キーボード

iPad Mini用キーボードを買った。Logicoolの薄いもの
小さすぎないかと思ったけれど、アルファベット部分のキーが充分に大きいので大丈夫。驚いたのは、日本語変換の性能がとても良いことだ。マックと同じ「ことえり」なんだけれど、MacではATOKだし、iPadでは普段ローマ字変換をしていないので意外だった。フリップのときには変換精度はあまり意識しなかった。予測変換で確定することの方が多かったからだ。キーボードでローマ字かな変換で、会議や学会でメモを取るのにはほとんど苦労しない。みんなtsudaれる筈だと思った。ATOK要らない感じ。コマンド+スペースで言語が変わるのもマックと同じで良い。マック風のキーの組み合わせはほかにもあるみたい。
ただ、日本語⇔アルファベットのキーボード変換をcapslockで可能、みたいな使い方が出来るとさらによかった(日本語・ギリシア語・英語のキーボードをオンにしているので)。
重くなるのが心配だったけれど、それほどでもない。ガラスの保護カバー(シール)とは両立できないけれど、保護カバーは不要になる。また、ソフトケースもキーボードで保護しているので不要になる。扱いはむしろ簡単になった。
読むときのために相変わらずキーボードは外してe-handleつけてるので、キーボードのふたをしたときの不格好さはさらに増した。便利で軽ければ幸せなので良いのです。あまりマックを持ち歩く必要がなくなってきたなぁ。

地人会新社「休暇」Holidays

久しぶりの赤旗劇評。思い起こせば半年ぶりだ。
タイトルがようわからんものになってしまった。ともかく保坂さんあまり心理主義的ではないけれど熱演。作品は問題多い。医学的ガン治療への偏見が強すぎて気持ち悪いレベルだ。
ハーブだのにんじんジュースだのなんだのっていう代替治療のことを緩和ケアって呼んでいるのは原作がそうなのかもしれないけれど、主人公のガンの進行がいまいち不明なのは翻訳の問題なのか作品の問題なのか。素直に観ていると、乳がん発見通常医療三ヶ月で再発代替治療で根治、七年経過後肺に転移(?)代替治療で一旦消えたけれどまた七年たってあちこちに転移っていう物語に聞こえる。全14年。それはあまりになさそうなのだけれど、どうなのだろう。

2014年4月5日土曜日

四月

エリオット「荒れ地」冒頭、てきとー訳

四月が一番酷い月。死んだ
土地からリラの芽を出させ、記憶と
欲望を混ぜ合わせ、春の雨で
鈍な根っこの小さな生き物が活気づく。
冬は僕らはあったかい。忘却の雪が
地面を覆う。乾いた球根で命が育つ。
夏は突然でびっくり。シュタルンベルク湖から
雨と一緒にやってきた。僕ら柱廊で足止めで、
そんで晴れたら歩いてホフガルテンへ、
そんでコーヒー飲んで一時間おしゃべり。
うちロシア人ちゃうよ。リトアニアや。ほんもんのドイツ人
子供の頃、うちら大公さんのとこに行ってたやん。
いとこのひと。うちをそりで連れ出して
怖かった。大公さん言わはんの。「マリー
マリー、しっかり捕まっときや。」そんで下ってったんよ、
山の中に。山は自由な感じやね。
今は夜はだいたい読書。そんで冬には南やね。


絡まっている根っこは何? この石混じりのがらくたから
どんな枝だが育ってくるのか? 人の子よ、
お前には語りも想像も出来ない。分かっているのは
壊れたイメージの山だけだもの。陽射しが照りつけ
朽ちた木は陽射しをさえぎらない。虫が息つくこともできない。
乾いた石は水音を立てない。ただ
この赤い岩の下にだけ影がある。
(この赤い岩の影の下においで)
あさ君の後ろで拡がる影とも、
夕方すっとのびて君の前に立つ影とも
違うものを見せてあげる。
一握りの砂のうちに恐怖を見せてあげる。
さわやかな風がさとの方にふいてゆく。わしのアイルランドの子、われどこをさまようとる?

「最初にヒヤシンスくれたんは一年前やったよね。
ヒヤシンス娘って呼ばれたわ」

−でも僕らが、遅くに、ヒヤシンスの庭から戻ったとき、
君の両手はいっぱいで、髪は濡れていて、ぼくは
しゃべれなかった。見えなかった。ぼくは
生きてもなかったし死んでもなかった。何も知らずに
光の奥を見つめていた、沈黙を。
海は果てしなくて何もない

2014年2月25日火曜日

美術館において護られるべきは芸術表現の自由だ(都美術館問題)

久しぶりの更新。

現代日本彫刻作家展が2/15-21日に東京都美術館で開かれていたのだけれど、その主催者である「現代日本彫刻作家連盟」代表の中垣克久さんの作品「時代(とき)の肖像―絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳―」の撤去を美術館側が求めたようだ。「しんぶん赤旗」の記事によると、次のような事態の進行だった。
問題が起きたのは展示2日目、16日の日曜日。小室明子副館長が作品の撤去を求めに来ました。「文言が『館』にふさわしくない」という理由でした。
 文言とは作品の一部として貼られていたB4ほどの紙に手書きで縦に「憲法九条を守り、靖国神社参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止して、もっと知的な思慮深い政治を求めよう…」と赤字で書かれていたもの。
 中垣氏によると「撤去しない」というと「撤去しないなら字を消してくれ」「消しません」と1時間ほど押し問答が続きました。最後に「『憲法九条』『靖国神社』の2カ所を部分的に消してくれ」といわれ、中垣氏は「不本意ながら紙を取ってその場を収めた」といいます。
同美術館側の主張の根拠は都の運営要綱にあります。「特定の政党・宗教を支持、または反対する場合は使用させないことができる」と定めています。同美術館は「文書の全体が具体的な政治的主張だ。いろんなお客さんが見ると、『アジビラ』と思う人もいる。直接的な政治的メッセージと見られる」と話します。
 なぜこの点に固執するのか…。同美術館によると発端は一昨年前。「従軍慰安婦」をテーマにした作品で「政府は補償すべきだ」などの表現に、お客から「不愉快だ。公立の美術館で一方的な展示はやめるべきだ」とクレームがつきました。以来、同館は賛否の分かれるテーマで、直接的な主張が盛り込まれた作品については「確認」するようになったといいます。昨年も「従軍慰安婦」をテーマにした作品の取り外しを提起しています。
作品の一部として貼られていた手書きの文書が「具体的な政治的主張」であって、それは館が禁止している「特定の政党・宗教を支持、または反対する」ことだ、という根拠らしい。だから作品全体の撤去を求めたけれど、交渉の結果、「具体的な政治的主張」の部分を取り外して展示は一応継続されたとのこと。

 この問題は表現の自由との関係でマスメディアに取り上げられたけれど、表現の自由との関係で言えば、都の運営要綱は都の美術館で表現の自由を全面的には認めていないことを示しており、そのこと自体は新しい問題ではない。つまり「いかなる表現であっても、都美術館は認めるべきだ」という主張は、この規定の廃止を求めねばならないし、それが妥当かどうかは議論の余地が大きい。個人的には賛成できない。例えば「自民党に投票しよう」とか「三里塚からパレスティナへ、世界同時革命を実現しよう」みたいなメッセージ(古いけど)を直接呼びかけるインスタレーションやパフォーマンスを東京都美術館が受けいれない、というのは都美術館の自由だと考える。そのメッセージを伝える場所が実質的になくなったときにその国では表現の自由が制約された、とは言えるだろうけれど、都美術館がそのレベルでの表現の自由をまもる最先端である必要はない。「赤旗まつり」での美術展に反共の作品が展示されなかったとしてそれが表現の自由の侵害ではないのと若干似ている。

「表現の自由」と公共建築物のあり方という一般的な原則はともあれ、この現実の例に関しての都の対応は適切か、というのはまた別の問題だ。二つの問題があると思う。第一は「憲法九条を守り、靖国神社参拝の愚を認め、現政権の右傾化を阻止して、もっと知的な思慮深い政治を求めよう…」というメッセージは都の運営要綱にある「特定の政党・宗教を支持、または反対する場合」に該当するのかどうか、ということ、第二は、そのように書かれている紙の存在はこの作品において、そのメッセージを直接主張することに当たるかどうかという問題だ。最初の問題は技術的で、後の問題は芸術学的だ。

最初の問題が技術的だ、というのは運営要綱に「具体的な政治的主張を行うこと」と書かれてあったらこの問題自体が存在しなくなるからだ。具体的な政治的主張を行う芸術作品は山ほどあるけれど、それらが「公立美術館」にも展示されるべきだという主張は一般的ではない。公立美術館は政治的には民間の美術館よりも脱臭されたものであるべきだ、という主張も十分に成り立ちうる。今回の事例では、素直に読むならば、どこにも「特定の政党・宗教を支持、または反対する」文言はないように見える。「現政権の右傾化を阻止」することと「自民党に反対する」ことは別だからだ。美術館の対応は拡大解釈だ。(但し、上記記事で引用されなかった「反自民」の文言があったり、運営要綱に根拠となる別の文言があったら話は変わるけれど)。

第二の問題は作品全体の評価を行わないと論じられない。それは作品が芸術作品として成立しているかどうかに関わってくる。芸術的評価は別として表現の自由は護られるべきだ、という議論は今回の問題とは直接関係しない。書かれたメッセージが一定の屈折を経ていて作品が芸術作品として成立しているかどうかが大事だ。「しんぶん赤旗」の記事は「都生活文化局は「美術館は美術を鑑賞する場であり、政治的アピールをする場ではない」と本紙の取材に答えました」と結ばれているが、「鑑賞しうる美術」と「政治的アピール」が区別可能かどうか、曖昧な境界例はあるとして、この作品が境界のどちらにあるのかを問わないと、都美術館の作品撤去要求問題は袋小路になるだけだと思う。

まず、紙を外した状態で作品が結局会期中展示され続けた、ということが重要だ。このことは、作品が「政治的アピール」ではなく「美術」であることを都美が認めた、ということに他ならない。どんな作品なのか? 赤旗の記述によると「高さ1・5メートルのドーム状で頂上に日の丸、床には星条旗が敷かれています。秘密保護法を批判した切り抜きや、「日本は今病の中にある」などの紙が貼り付けられています」芸術家の会田誠さんのツイートに作品画像がアップロードされているので参照。黄ばんだ日の丸が円墳の上に置かれ、しめ縄が巻かれているのは靖国神社を表しているように見えるし、「日本は今病気」とか言った言葉は、秘密保護法についての新聞記事と並べられることで、作者の危機感の表明だろう。下に星条旗が敷かれていることは円墳の表す病気中の「日本」が、国粋主義的ナショナリズムとアメリカの二重の力によって滅びつつあることを示しているように思われる。その意味では分かりやすい政治性を持った作品だ。でも、ここまでの表現は都は認めざるを得なかった。政治性を持つこの作品が「美術」であることは否定されていない(そこには作者の抗議の声が反映されているだろうし、アートワールドとの関係も反映しているのだろうけれど)。

都美に作品を見に行ったらもう展示が終わっていて見られなかったのだけれど、画像からは、メッセージが勝ちすぎて私の好きなタイプの作品ではないとは思う。ただ、独特の力を持っていることは分かる。これが「政治的メッセージ」として撤去されていたとしたら大変危惧せざるを得ない事態だっただろう。また、この作品を展示したことによって、将来この団体が都美を借りれなくなるとしたらそれは芸術表現に対する不当な抑圧だろう。

それでは問題となった紙に書かれたメッセージはどうなのだろうか?この紙メッセージ付きの作品をT1とし、メッセージ自体をm、メッセージを取り除いた作品をT2とすると、T1=T2+mだ。T2の芸術性については誰にも異存がない。mはそれとして芸術作品であるかというと、若干難しいけれど、いま議論のためにこれは単純な作者の政治的主張であると考える。そのとき、T1は芸術作品なのかどうか?

このとき、芸術作品はメッセージを屈折させる性質を一般に持っていると主張出来るかもしれない。例えばバーバラ・クリューガー、ACT UP、ゲリラガールズ、ジェニー・ホルザーなどのアーティストは、自らが肯定したり否定したりするメッセージを直接作品に取り入れ、あるいはメッセージと作品を分離できないものを作り出してきた。アイ・ウェイウェイの「くたばれ祖国」もそうだ。それらが単なるアジビラと区別されるのは、芸術という枠組みがメッセージを屈折させ、再文脈化するからだ。政治的スローガンを書いたバナーと芸術作品としてのバナー・アートを区別するのもこの再文脈化だ。つけられたタイトル、置かれた場所、T2の存在そのものがmを再文脈化する。この作品においては、私たちは「絶滅危惧種」というタイトルの文字、idiot Japonicaという(ラテン語風の)言葉(idiotaにして欲しいところだったけれどidiotaだと男性名詞でJaponicaとあわないのか)、によって「時代(とき)の肖像」の「とき」を朱鷺(Nipponia Nippon) と結びつけるかも知れない。そのとき、mは絶滅して行く「朱鷺」の声として解釈可能だろう。朱鷺は滅びた(少なくとも純粋種としては)し、ドームは「円墳=墓」だから、滅びは既定事項だ。この声も滅び行くのだという厭世観を示しうるだろう。中央のドームは中に入れるくらいの開口部があり、星条旗はそこから確認できるらしい。mのうちには憲法九条への言及があるので、滅び行くのは「日本」というだけではなく、象徴天皇制(この読みでは日の丸としめ縄の組み合わせは「靖国」よりもむしろこちらを意味する)と対米従属のもと独特の発展を遂げた戦後日本だとみなしうるだろう。また、画像からも認められる作品の絶望的な調子はmを単純な政治的呼びかけとして解釈することをむしろ禁じるかもしれない。それは絶望とともにある呼びかけになるだろうし、逆転した解釈も可能だ(私のT1への読みとT2への読みは「日の丸」と「星条旗」の象徴性において逆になっている)。多様な解釈を容易にするという点で、おそらくT1はT2よりも優れた作品だ。そして、皮肉なことに、T2の方が政治的に直接的な強度を持っているかも知れない。

T1もT2もしかし、いずれそれほど優れた作品ではないとは思う。現代彫刻作家展をググっても今回の展覧会は(この事件のニュースを除いては)全く見当たらず、主催者のブログも数年前に停止したままだ。展覧会自体を市民にアピールしようという態度の全くかけた企画は、この作品がおそらく内々での消費を目処にして作られたものであることを示唆している。実際、美術館の横槍がなければ、そのようなものとして消費され、忘れ去られていただろう。しかしこのことはそれが芸術作品として成立していない、ということではない。美術館は一昨年の「従軍慰安婦」を扱った作品へのクレームを奇貨として、気に入らない政治的傾向を持った作品を排除しようとしているように見える。今後、「東京オリンピックを成功させよう」的なメッセージを込めた作品、あるいは中国の政治について直接のメッセージを伝えるアイ・ウェイウェイのような作品(や例えば「アイ・ウェイウェイは謝らない」の上映)も彼らが拒絶するならば、「気に入らない」の部分は取り除いても構わないけれど、そんなことはないだろうと(根拠はとくに挙げられないけれど)漠然と予感する。

美術館において私たちが護りたいのは表現の自由ではない。芸術表現の自由であり、芸術表現として成立している限りでの表現の自由だ。今回のT1は芸術表現として成立しているからこそその拒絶は憂慮すべきなのだ。同様に、リーフェンシュタールの「意志の勝利」を都美で上映する企画があったらそれは護られねばならないが(ドイツにおいてどうあるべきかはまた別問題として)、ネトウヨの「良い×××も悪い×××もみんな殺せ」というプラカードの展示や、アングレームで拒絶されたマンガの形を借りた醜悪なメッセージの展示を「表現の自由」のゆえに護ってはならない。

2014年1月21日火曜日

iPad mini retinaで読書

と言っても、基本的にiPadとそんなに変わるわけがない。洋書をPDFにしてハイライトしてノートとりながら読む(iPadでノートとるのは面倒くさいので、iPadはハイライト専用、DropBoxで同期して、ノートとるときはMacで編集)。わたしの人生はDropBoxに全面依存だ。
iPadがあるのになぜiPad mini Retina(以下ミニ)を買おうと思ったのか(今年度の研究費のかなりの部分がこれに喰われた)、というと、長時間読んでいるのにはiPadは大きく重く、何となく開くのが面倒になるからだ。ミニの方が軽いし、今iPadで縦置きで本を読んでいるのだけれど、画面の下の方あまり見ていないのに気づいたからだ。ミニの縦の長さはiPadの横幅より大きいので、横置きにすれば、文字も今より大きくして読むことが出来る。
で、乗り換えて(前のもあるけれど)驚いた。レチーナディスプレイの精密さのおかげで、たてのままでもほぼ苦労なく読める。ハイライトを引く便利さは、かえってレチーナの方が良い(線を引くのに一旦本体から手を離す必要がない)。
問題は、本体をどうやって持つのか?だ。端っこを持つのは何時間もの読書を考えると落としそうで嫌だ。裏からがばっと持つのは指がつりそうで嫌だ。
というかこの問題はiPadのときにさんざん悩んで試行錯誤済みで、答えは最初から分かっている。裏にストラップかハンドルをつけるしかない。
常識的にはミニにハードケースをつけ、ハードケースにハンドルをつける、ないしハンドル付きのハードケースを買う、だけれど、ミニの厚さと重さが増えるのが嫌だ。ストラップだとその悩みは解消するのだけれど、引っかけるところが何か(イヤホンの穴、スイッチ、ボリューム、カメラなど)と干渉する。iPadの場合はカメラ使わないとか割り切ってストラップにしてたけれど(Heloのハンドル付きストラップ、TKOSolutionのX-Band、PadStrapの三種を使い分けていた)、Heloのハンドル付きストラップの場合ハンドルが本体の中央に来てしまって、それはかえって使い勝手が悪い。ハンドルが中央なので表側の指の位置も中央より少し上になって、ソフトキーボードのポップアップ位置と合わない。単なるストラップだと指を差し込む場所を上下にずらせるのだけれど、中央でないとややホールド感が弱い(両手でホールドできるX-Bandがこの点ではかなりまし)。最終的には最初に買ったX-Bandに戻ってしまった。でも両手をストラップに差し込むってのもハイライト時に少し不便だ(いちいち指を抜いてハイライトする)。
ここまであらかじめ悩んでいるので、答えは一つしかない。裏面のどこにでもハンドルをつけることができる製品、だ。
どんぴしゃなのがe-handleっての
http://www.amazon.com/dp/B0073GE9FG
Amazonの商品画面ではいまいちどんなものか分からないけれど、
接着剤を塗ったマジックテープを台にして、回転式のソフトハンドルをつけたものだ。
台を貼り付けたミニの裏面と取りつけるまえの回転式のソフトハンドルはこんな感じだ。
テープを貼り付ける
ソフトハンドル
合体
ハンドルを装着した
リンゴマークが完全に隠れてしまうので、デザインの美しさは損なわれるし、ハンドルをつけたままだとかさばるのがかなり難。外せば普通のスリーブにおさまるけれど、つけたままでも8インチタブレット用のスリーブなら入るような気がする。Kindle Fire HD用のスリーブ、例えば http://www.amazon.co.jp/dp/B00B5PJ19U はたぶん大丈夫だ。(風呂蓋つけて、ハードケースつけて、後述のBunker Ringつけて大丈夫みたいだから。わたしは革製のは嫌いなのでもっとぺらっとした安いのを買った。450円くらいの8インチタブレット用スリーブでちょっと膨らむけど入った。
スリーブに入れたところ
どこにでもつけられる回転ハンドルは魅力的で、実際三日ほど使用してとても満足しているのだけれど、マジックテープが接着剤でミニの背面にへばりついているのは見苦しい。それが気になる場合には、ストラップか、ストラップつきハンドル、ケース付きハンドルが良いように思う。
例えば、
DuraGadgetの Soft Grip Handle Caseなんかがそんな製品だ。特にLapWorksのはカスタマーレビューがとても良い。
単なるシリコンのストラップなんだけれど、Padlette D2も単純で心惹かれる。ただしこれは日本発送していない。
日本で、それに類した商品はないのかしら、と思って少し探してみたのだけれど、ケースにハンドルがついているのはいくつかあるけれど、重くなるし、マイク穴を塞ぎそうであまり気乗りがしない。e-handleにやや近似的な商品としてはBunker Ring3がある。これは指を金属のリングに引っかける。薄いし、スタンドにもなるらしいのは良いのだけれど、指を痛める原因になりそうなのがこわい。

追記:台になるマジックテープは、写真よりももう少し下に貼った方が、入力用ソフトキーボードとの高さの関係を考えると吉。ここだけちょっと失敗。


2014年1月14日火曜日

ブログの始め方(M先生に)

西洋比較演劇研究会に久しぶりに出席したら、大御所のM先生がブログを始めたいとおっしゃっていた。主な目的は、自分の論文をいちいち紙媒体で発表するのではなく、ネットに直接掲示することだと伺った。
先生の目的からして、広告が出ないのが良いだろうし、また、設定が面倒くさくないのが良いだろうと考えると、Bloggerが最適解だろうと思った。自分のときもそれでBloggerに決めたのだし。Bloggerの始め方は、Bloggerのサイトにあるのだけれど、先生向けに特化してもう少し細かく始め方を書こうと思う。以下先生に宛てた文章として書いたので丁寧語。

1) Googleアカウントをとる。

https://mail.google.com/intl/ja/mail/help/about.html へ行って右上の「アカウントを作成」をクリック。図(1)のようなページが現れるので、アカウントを作成する。ブログの目的からしてずっと本名で通すことを前提にします。ユーザ名がすでに登録されていたら、適切な他の名前を付け加える(先生の場合なら自分の本名にnolaとか+してユーザ名にするとか)。パスワードを自分にとっては覚えやすく他人からは推測されない八文字以上のもので、なおかつ他のサイトのパスワードと違うものにすることがとても大事です。次へ、をクリックすると、携帯メールアドレスの登録をする必要があるので、登録をして携帯メールでアカウント利用のためのコードを受け取る。その次のページあたりでコードを入力してアカウントの利用を開始するはずです。
図(1) Googleアカウント登録画面
ともあれ、Gメールのアドレスを取得できたらグーグルアカウントがとれたと言うことですので、あとはとれてからのステップに移ります。アカウント設定に際してプロフィールの設定があると思いますが、このプロフィールは作られたブログの右横に表示されますので、先生が誰なのかについて読者に伝えたい内容を書きます。プロフィールの設定なしでアカウントをとった場合には、https://www.google.com/settings/personalinfo からいつでも編集できます。

2) Bloggerのブログを始める。

www.blogger.com/home へ行って、もしまだログイン状態になってなかったらログインします。そうするとBloggerダッシュボードってページが出て、「新しいブログを作成」のボタンが現れる筈ですので、それを押します。図(2)のような新しいブログを作成するポップアップが出ますので、ブログ(全体)のタイトルとアドレスを入力します。これは自由にお考え下さい。ブログのデザインなどは、後で考えることにして、今は「シンプル」を選び、「ブログを作成」ボタンをクリック。例えば図(2)では私は「M先生用テスト」というタイトルのブログを作る、ということにしています。これはブログ全体のタイトルおよび先生のブログに読者がアクセスする場合のアドレスになりますので、どちらも考えて分かりやすい物にされると良いでしょう。
図(2) 新しいブログを作成場面
で、「ダッシュボード」に自動的に戻り、ブログ一覧の中に私の例で言うと「M先生用テスト」が現れますので、その「ブログを開始する」をクリックすると、もう「投稿作成」ページが現れます。それでタイトルを記入して中身を書いていけばもうブログのできあがりです。簡単な画面装飾もできますし、見出し、小見出しなどもつけることが出来ます。写真の挿入もリンクも自由です。例えば書いている途中のこの投稿の編集場面は図(3)みたいな感じです。
図(3)投稿編集画面

先生の場合、主たる目的が論文やエッセイの公開にあるのですから、右側の「ラベル」が大事です。これは自分で自由に設定することが出来るので、例えば「論文」「劇評」などと分けると良いと思います。あるいは一つの論文を複数の投稿で公開される場合、論文タイトルをラベルにしても良いかもしれません。
また、右側の「オプション」で閲覧者のコメントを許可するかどうかを個別に決めることが出来ます。出来上がったら「プレビュー」で見て「公開」で公開すれば終わりです。新しい投稿をする場合には先ほどの「ダッシュボード」のページから鉛筆のマークをクリックします。

ブログの基本的な設定をする。

さて、以上の手順で作ったブログの見かけは図(4)みたいな感じです。(自己紹介欄だけ私のプロフィールになっていますが)。
図(4)出来たブログの見かけ
さて、これではどんなブログかトップページでは分からないので、設定でブログの説明を書きます。ダッシュボードから自分のブログのタイトルをクリックすると図(5)の「概要」画面に移ります。
図(5)概要画面
この中で大切なのは左一番下の「設定」の項目です。それをクリックすると下に項目が開くので、まず「基本」で「ブログの説明」のところを編集して、先生のブログの説明を書きます。この説明は基本的にブログタイトルの直下に現れます。このへんいつでも直せるのでとりあえず考えることを書いて下されば結構です(図(6))。
図(6)基本の設定

次に同様に「設定」下に開かれた「投稿とコメント」をクリックして「コメント」を承認するかどうかを決めます。迷惑コメントを避けるのならコメント不可にするのが確実でしょうし、議論したいというのであれば、Googleアカウントのユーザのコメントだけを許可する設定にすれば良いと思います。たいていの人はGoogleアカウントをお持ちでしょうから。私のようなマイナーなブログには、コメント来たことがないですけれど。「設定」の上の「テンプレート」を開けばブログの基本的なデザインをいろいろと変更できます。これはある程度慣れてから手をつければ良いと思います。とても大事なことは、自分が編集するときにアクセスするアドレス(基本的にはblogger.com/home)と公開されるアドレス(****.blogspot.com)とは異なっていますので、他の人にブログを教えられる場合には、後者の方を提示する必要がある、という点です。

ワードやPDFの論文をリンクする。

先生のご希望は自分が書く論文をブログなどで公開することだったと思いますが、その場合、論文そのものはBloggerに直書きするのではなく、ワードとかで作ると思いますので、それをどのようにブログに載せるかが問題になります。注の処理を気にしないならば、ワードで作ったものをコピーペーストでブログに貼れば良いのですけれど、そのとき書式がそのまま保たれる保証はあまりありません。たぶん崩れると思います。
それを避けるには
(1) ワードやPDFのファイルは別にアップロードしてそれへのリンクを貼り、ブログ上では簡単な説明に留める。
(2) ブログ上でワードやPDFがそのまま読めるような仕方で貼り付ける。
どちらも可能ですが、後者は結構面倒です。とりあえずは(1)の方法をお薦めします。その場合、自分の論文をアップロードする場所が必要になります。そうしたものとして無料でパソコンにインストール出来て5GBの容量があり、公開も簡単なDropBoxというサービスをお薦めします。

DropBoxというサービス(クラウドサービスと呼ばれるものの一つ)は、登録してソフトをインストールすると、自分のパソコンにDropBoxのフォルダが作られ、そのフォルダの中にあるファイルは自動的にインターネット上に保存され、同期されるというもので、その中でにあるPublicというフォルダに仕舞ったファイルは、自動的に誰でもダウンロード出来るように公開されている、という仕組みです。インストールも簡単ですし、ネットでつながっている限り、書き換えたファイルは直ちにネット上にも保存されます。注意点としては、Publicフォルダにまだ公開するつもりのない未完成のファイルを置かないことくらいです。Publicフォルダに入れたファイルを右クリックすると「公開リンクをコピー」という項目が現れますので、それをブログに貼り付けます。貼り付けるには、そのファイルをリンクしたい文ないし単語(たとえば「こんな論文を書きました」という文を選択した状態で、Blogger画面の上にある「リンク」をクリックすれば図(7)のような画面がポップアップしてきますので、「リンク先のURLを指定して下さい」という枠内に、コピーした「公開リンク」をペーストすればできあがりです。
図(7) リンクを編集する画面

書いた論文は、Googleなんかでも検索されますし、また、学会などで「会員サイト」などのリンクを作るのも一つの考えとしてあるかも知れません。

それでは、良きブログ生活をお楽しみ下さいますように。






2014年1月4日土曜日

浙江京劇団「オイディプス王」劇評@ワンダーランド

こちらに書くのを忘れていた。
小劇場レビューサイト&メールマガジンの「ワンダーランド」に去年11月に観た浙江京劇団の「オイディプス王」の劇評を掲載していただいた。
タイトルはそのまんまだし、文章はちょっとだらだらしたけれど、掲載いただいて感謝。シェクナーの京劇版「オレステイア」のヴィデオへのリンクもあるのがお得な劇評です(読んでもらいたいのでこちらにはリンク載せない)。

2014年1月3日金曜日

ネットのクラシック音楽

ほとんどCDを買わなくなった。CDを買ってもスピーカーで聴くことがなくなり、iPhoneかiPodに入れて聞いているので、音源をモノで持っている意味がよく分からない(スピーカーで聴くと何となく音質が違うような気はするのだけれど)。一番大きな要素は値段の違いだけれど。

クラシックの場合、常にiTunes Storeにあるとは限らないし、圧縮音源とは言え出来るだけ良い音で聞きたいしで、いくつかのサイトで買っている。今の視聴環境は音源の善し悪しなどあまり分からないけれど、いつか高級ヘッドホンを買うかもしれないし…
iTunes Storeだと大体一枚9.99ドル(参考価格:実際に買うにはアメリカに住所が必要だし、アメリカで決済できるカードがなければeBayでiTunes Giftcardを買わねばならないので一割近く高くなる)、日本のiTunesだと1500円が標準かしら。

www.classicsonline.comも大体同価格帯で、商品によってiTunesより高かったり安かったりする。320kbpsのMP3なので、同価格の場合にはこちらの方が良い。ここは、一部の商品だけ日本には売れない、って言われるけれどほとんどの場合大丈夫だ。

今日、新年だしマッケラス指揮のドヴォルザークの「新世界」でも買おうと思って、いろいろ見てたけれど、http://xw.7digital.comってところで、プラハ交響楽団との「新世界」を含む六枚組のアルバム( Life with Czech Music)が10.99ドルで売っているのを発見。変なサイトではないのかと疑ったが、iPhone用ソフトを出しているところだし、まあ詐欺サイトではなさそうだと判断して購入した。iTunes Storeだと29.99(4500円)ドルだ。320kpbsのAACなので、iTunes Storeよりも音質は良い筈。

このサイトはもともとイギリスのなので、マッケラスの演奏がとても多いのも魅力的だ。また、ほとんどの音源が、組み物も含めて上限10.99ドルで買えるので、一所懸命探せばお買い得は他にもありそうだ。

「新世界」はこれで、ダウスゴー、ノリントン、マッケラス、マーツァル、マゼール、バーンスタインを持っているのか。ピリオド志向だ(マッケラスもビブラートは使うけれど基本的にはピリオドの人、というかイギリスのピリオドのパイオニアの一人で、指揮台にストップウォッチを持ち込んでいた)。

日本とヨーロッパでは(いくつか例外があるけれど)レコードの著作隣接権保護が演奏後50年なので、そろそろステレオの結構音質の良いのがパブリック・ドメインで出てくるようになる(永井幸輔弁護士の解説がこちら)。レコード産業は、クラシックに関しては、ピリオドにしないと生き延びられないだろうなぁ(法律が変わって70年とか100年になるとまた話は変わってくるだろうけれど)。まあ、たとえフリーでないにしても、音質がとても上がったのが実感できるということでもない限り、クラシックのレコードは過去のレコードとの敵がどんどん多くなる戦いを生き延びないと行けない。一つ一つを安くしてカジュアルに買えるようにする(HJ Limのベートーヴェンピアノソナタ全曲9.99ドルみたいな)、これまでになかった響き(ピリオド演奏、マーラー版のベートーヴェン第九、ブルックナーの改定版演奏など)を追求する。あまり知られなかった作曲家や作品を出す。カジュアルに出すようにする(演奏会の「記録」としてレコードをサクッと出す)のが良いのだろうなぁ(デュダメルのレコードやコンセルトヘボウの配信なんかそんな感じ)。名盤・決定盤を何度も聞くよりも面白そうな新しい演奏をダウンロードして聴くってなって行くと、クラシックも敷居が低くなって親しみやすくなるかもしれない。

追記1:7digitalの価格、やっぱり安すぎるのがある。ブロムシュテットやインマゼールのシューベルト交響曲全集もクリヴィヌのベートーヴェン交響曲全集もゲルギエフLSOのマーラー全集も9.99ドルだ。組み物狙いだなぁ。

追記2:調子に乗ってミンコフスキーのハイドン『ロンドン』交響曲集を買ったらダウンロード出来なかった。いまクレーム中。お返事くれるといいなぁ。これ、iTunesだと15.99ドルで結構安い。classicsonline.comだと39ドルくらいする。←これは結局ダウンロード出来ないと言うことでrefundされた。たぶん値段設定がいい加減だったのだろう。上記のゲルギエフのマーラーも買おうかと思っていたが、これも出来ない可能性があるか。

追記3:あと去年はHyperion recordsでもダウンロードで買った。何を買ったのか覚えていないのだけれど…。