2013年6月28日金曜日

レヘインの「夜に生きる」

デニス・レヘインの『夜に生きる』を読みました。レヘインのベスト、とは言えませんが、淡々としたハードボイルドは面白いです。今年読んだミステリのなかでは、ル・カレの「我らが背きし者」、コナリーの「かかし」、ダフィの「KGBから来た男」の次に面白かったです。レヘインは、ワンパターンになる前にシリーズを終えるという、あまり出来ない離れ業が出来るひとで、シリーズ外にも傑作の多い作家(「シャッター・アイランド」と「ミスティック・リバー」)です。シリーズのパトリックとアンジーのカップル探偵ものは、雰囲気も主人公のパターンもロバート・パーカーのスペンサーシリーズととてもよく似ていながら、スペンサーよりも重厚で骨太のハードボイルドを作り出したのにも驚きました。勿論、スペンサーシリーズは、ワンパターンなプロット(主人公たちは悪党に嫌がらせをし、相手が手を出すのを待って皆殺しにする)と、チープと言って良い程の主人公の万能感は欠点ではなく魅力になっているのですが(一度だけ瀕死の目に遭います)。シリーズの締め方も完璧です。
このシリーズは、正義観が最後まで一貫しているところも素晴らしい。コナリーの「ボッシュ」シリーズは途中で一旦ぐたぐたになってしまうのに、彼らはそんなことはない。彼らは万能ではなく、そのことに納得して引退します。それが敗北ではなく、シリーズのなかで一番苦いエンディングを迎えた作品(『愛しき者はすべて去りゆく』)で揺らいだ自分の正義へのけじめになっているのが良いです。
今回の作品はパトリックアンドアンジーではなく、「運命の日」に続くコグリン兄弟を描いたのピカレスクロマンですが、「運命の日」と直接結びつくわけではないです。「運命の日」の長男ダニーが警官なのに対して「夜に生きる」の三男ジョーはギャング。多分次男を描いた作品がそのうち出るのでしょう(次男は映画界にいる設定です)。ここでも主人公は自分なりの正義の意識を確立し、なんとか貫きます。主人公の成長を描くという意味では典型的な教養小説です。ラッキー・ルチアーノも登場する禁酒法時代末期のギャング小説(主人公はずっとアウトローだと自己規定していますが、ある事件を機に、自分でも「ギャング」となります)ですが、ライバルや法秩序の側があまりに非道いので、私たちは主人公への共感を失わないで済みます。エンディングの苦さは教養小説の定番であると同時にノンシリーズのレヘインのいつもの魅力そのもの(「ミスティック・リバー」の苦さに近いかしら)。

(さいしょフェイスブックに書くつもりでですます調にしていたのが残った。なお、シリーズで劣化が激しい作家の一番に誰もが挙げるのは多分スティーブン・ハンターの「スワガー・サーガ」だろう。さすがに最近は買わなくなった。ジャック・ヒギンズもそう、というか、「鷲は舞い降りた」「死に行く者への祈り」の二つが例外的に素晴らしかった気がする。マイク・コナリーのボッシュは長いシリーズで主人公がだんだん高齢化して行くのに質を維持しているのが素晴らしい。リーバスは三作目から良くなり、上げ下げがやや大きい。リンカーン・ライムは二つ目からワンパターンだ。なぜ全部買ってしまうのだろう…)

2013年6月22日土曜日

メディアマシーン

柴崎正道プロジェクト公演。岸田理生作。
柴崎さんは10年前に死んだ岸田理生の仲間だったらしい。
クナウカのメデイアで使われていた、「これはメデイアではない」はこの作品からの引用だったのか。ハイナー・ミュラーだとばかり思っていた。
演劇学会を途中抜け出して中野まで行って鑑賞。身体の動きは完成に近いと言って良さそうな人たちだ。ダンスにそれほど詳しくないものの目には、姿勢のアンバランスと痙攣的な動きのリアリティ、指への関心、左右の非対称性など、十分に九十年代以降のものに見える。とくにリアントさんのエキゾチック(ポストモダン的引用)と坂本さんの滑らかさに感銘を受けた。二人の旅人はオレステスとエレクトラに見える。
ただ、グランドピアノ一個で即興的に演奏されるクールなフリージャズ風の音楽(どう考えてもせいぜい60年代の音だ)との落差が激しい。せめてピアノの音をもう少しノイジーな感じで、たとえばプリペアド・ピアノにするとずいぶん変わると思う。また、動きと音楽をあわせすぎに見えた。もう少し無関係にする、あるいはせめてずらさないと、動きが予定調和的に見える。
台詞を喋り出すと途端に退屈になるのは、演技の調子の幅がとても狭いからと、台詞自体が陳腐なのが大きい。説教くさい。
最後の台詞が、「Quo vadis domine? 我らどこからきてどこへ行くのか?」の二度の反復なんだけど、ひょっとしてクォヴァディスってその意味だと思ってないか?少なくともラテン語知らないお客はそう思うぞ。演者(作者?)もそうだとしたらずいぶん恥ずかしい勘違いだし、そうでないとしたら、訳が分からない。もちろん、「主よ、あなたはどこへいらっしゃるのですか?」の意味で、この言葉の文脈はググればすぐ分かる。シェンケヴィッチの小説は子供の頃の愛読書だった。(一方で中野重治やぬやまひろしの詩を、他方でシェンケヴィッチを、さらにもう一方でアリステア・マクリーンを子供に与える親はずいぶん変わった人たちだったとは思う。一番影響を与えたのは「女王陛下のユリシーズ号」だったが…)。


ヴェネチア・ビエンナーレ2013(山口大学の藤川哲さんのブログ)

この夏、バルセロナでのIFTR(国際演劇学会)での発表の後ローマでex Pink FloydのRoger Watersを見て(懐かしのThe WALLだ。映画が日本で最初に公開されたとき、大阪から東京に見に行って(なぜだろう、大阪でやっていなかったのか、東京で美学会の全国大会のついでだったのか)、一日中、三回見た。去年も吉祥寺で爆音上映を見た)、それからヴェネチアへ行こうと思っている。その感想をまたちまちまブログで書こうかと思っていたのだけれど、山口大の藤川先生のブログで、とても強度のある、同時に詳細な紹介がアップされていたので、これを見れば、そして何らかの形で画像が手に入れば、わざわざ行くことなくね?という感じの調査および分析を見た。すごいので紹介。

山口大学美学・美術史研究室:So-netブログ (2013年五月末頃から)

まあ、もう飛行機のチケットも買ったし大学にも届け出したので行くけれど、このブログで書けることはないなぁ。(ちょー個人的な感想は書くと思うけれど)。ウォーターズ👴はやっぱり見たいし。

藤川先生はこれまで二度、わたしがヴェネチアへ行くとき、いろいろと手助けをいただいたし、去年カッセルへ行ったときにも本当にお世話になった(現地で会った、という意味ではない)。あのブログには、カッセルのことも、二年前のヴェネチアのことも徹底的に分析・報告されていて、まあ、すごい。

The WALLは、子供の頃父親が戦死していじめにもあったピンク・フロイト少年が長じてロッカーになり、不幸な結婚の結果おかしくなって極右のミュージシャンに変身するって話だけれど、極右になったピンクのヘイト・スピーチが、極右になったエリック・クラプトンのヘイト・スピーチ(これは実話)を元にしているのが丸わかりで、それはとても面白かったけれど、当時そのこと誰も教えてくれなかったなぁ。クラプトンのファンだったことがなくて良かった。

映像的には、ゲルドフが演じていたピンクよりも、ウォーターズのベルリン・ウォールコンサートでのそれが格好良かった気がする。よくまあベルリンであのコンサートやれたものだ。

楽しみ……

2013年6月20日木曜日

演劇学会大会パワーポイント資料

今週末、共立大学で演劇学会全国大会があり、そこで、「復讐劇」を主題のシンポジウムに参加することになりました。パネルの正式タイトルは「演劇における復讐の想像力に関する比較研究」で、わたしの担当はギリシア悲劇における復讐のイマジネーションみたいなことです。土曜日の十時からで、他のパネルの皆様は大阪市立大学の小田中章浩さんと日本橋学館大学の安田比呂志さんです。

とりあえず今日の時点でのパワーポイント資料が出来ましたので事前公開します。明日もう少し修正を入れるかも知れません。

大会プログラムのPDF
パワーポイント資料

2013年6月13日木曜日

黄金の馬車(赤旗劇評)

SPACの「黄金の馬車」の劇評を赤旗に書きました。
なんか最後のパラグラフ宣伝っぽい文章になった。

2013年6月10日月曜日

ベルリン・フォルクスビューネ 「脱線!スパニッシュ・フライ」

夏にヴェネチアへ行く前に、出来るだけ11年と09年のヴェネチア・ビエンナーレの作品の感想をあげたいのだけれど、なかなか時間が取れない。それと、記憶が新しい12年のドクメンタの方が先になってしまう。今日のアップも別の話題で、静岡のふじのくにせかい演劇祭で土曜に見た「スパニッシュ・フライ」について。SPACの「黄金の馬車」も同じ日に見たのだけれど、これは『赤旗』に書いたので、それが出てから。
「スパニッシュ・フライ」はもともと100年程前の喜劇で、「スパニッシュ・フライ」は催淫剤の原料になった昆虫の名前で、催淫剤の名前にも転用された。今回、演出のフリッチェはsを括弧に入れて「パニックの」という意味のpanischeを浮かび上がらせる。「脱線!スパニッシュ・フライ」はそっちの方には良い訳だ。「スパニッシュ・フライ=催淫剤」の意味が日本では一般的でないので、なぜ主人公(の一人)が昔の女のことをスパニッシュ・フライと呼んでいたのかが見ている間は分からなかった。
昔の愛人との隠し子がやって来たと勘違いした男がそのことを誤魔化そうとじたばたあがく、というどーでもいー内容の喜劇なのだけれど、それを演技と演出の仕掛けで笑わせ、見せようとするお話。トランポリンを利用した各演技者の動きが半端ではなく強いので、パニック的でヒステリックな笑いは存分に楽しめる。言語的なギャグも満載されているような気がするのだけれど、そちらの方は分からない。奥さんがルートヴィヒという名の夫のことを「ルードヴィシュ」と発音していたのがどんなニュアンスを持つのか、方言ネタも分からない。一番近い舞台経験は新喜劇だと思うけれど、動きははるかに激しくアクロバティックだ。そこはとても面白かった。絨毯の下に押し込むとか、言語的なギャグに由来する動きもまあ面白かった。新喜劇なら個人の持ちギャグとして保存されるネタが、この芝居のためだけにつくられ消費されているのも贅沢な感じで面白い。
でも、面白さの多くの部分は、普段こんな芝居をしない人たちが超スピーディに新喜劇ギャグをやっている、という点にあるのだとも思うのだけれど、その辺は日本では分からないのが残念。隠し子と間違われる青年が時々差し挟む「えー?」って言う言語ギャグはとても効果的だった。東野幸治の感じかなぁ。こわい奥さんはある時期の中山美保だ。コメディア・デラルテ以来の伝統ギャグもいくつも使われているのだろうけれど、私に分かったのは飛んでいるハエを食べるやつだけ。
舞台は大きな絨毯が一枚、少し高くなった台から舞台全面に拡がっているだけ、絨毯の一部はトランポリンになっていて動きにアクセントをつけている。ギャグ以外での登場人物の動きは構成主義的(どう見てもブレヒト的じゃない←ポストパフォーマンストークで、「ブレヒトの影響は?」って聞いてた人がいた。リアリズムじゃなきゃ何でもブレヒトって思わないで)。ライトの使い方もそうだ。ほぼ二時間の芝居。「どんな内容でもやり方で芸術作品になる」ってのはロシアフォルマリズムの基本原理なので(「手法としての芸術」)、その伝統に則った舞台。

2013年6月5日水曜日

燐光群「帰還」

病院に付設された養老施設で暮らす老画家、横田正(藤田びん)のもとに、長く会わなかった息子昭信(猪熊恒和)が訪ねてくる。息子は、自分が末期ガンであることを告げるとともに、美大をでた自分の娘に絵を教えてくれるよう父親に頼みにきた。あまり気乗りがしない様子で孫娘に会う正。何気なくつけたテレビを見て叫ぶ。「戻らねば。約束を果たさないと。」
正が孫娘の運転でやって来たのは九州のある山村。テレビに写っていたのは、ダム予定地の村に暮らす麻里。彼女を除いて全ての村民はあるいは代替地に移り、あるいは代替地で暮らして行けず村を離れた。彼女一人が土地の明け渡しを拒否しほとんど自給自足で暮らしている。正に会った麻里は、彼の「帰還」をずっと待っていたと語り、彼らは近隣の村人たちをも巻き込み、ダム反対運動に新しいうねりを加えて行く。

以下はネタバレになるかなぁ。これから述べるのは、簡単に言うと、「主人公への批判的視点が足りないよね」ということに過ぎない。でもこの欠如は私には堪えたので一通り文章化してみる(以下、公演期間中は白文字にしていたものを復元)。

実は正は60年前、共産党の武装革命方針に基づく山村工作隊員としてこの村に潜入し、山林中心でほとんど耕作が行われていなかった村に個人で可能な農業技術を伝え、畑の開墾の先頭に立って地主をも含む村人の信頼を得、ダム問題の対策をも伝えて村を去っていった。彼がこの村で一緒に暮らしていた大野すえは彼の教えを娘の麻里に伝え、娘はその教えをずっと守ってきたのだ。

 枠組みとなっている物語はアンゲロプーロスの「シテール島への船出」で、作劇のスタイルはブレヒトの教育劇だと思われた。村人たちは、まるでコロスのように、ダム問題の歴史を台詞を割りあてて分かりやすく伝えて行く。観客はありそうもない物語に乗っかった上で、ダム問題についての認識を獲得して行く。このあたり、坂手の作劇法は最近図式的すぎないか?

この作品と「シテール島への船出」とが関係ありそうだという評論はなさそうなので、この点については説明。アンゲロプーロスの映画では、 ギリシアの民主化に伴い、ソビエトに亡命していた共産党員が帰国することになった。彼は故郷に帰還すると、観光業者に村を売り渡そうとする村人たちの大勢に抗して畑を耕し始め、特に内戦時代に血で血を洗う抗争を行った村の有力者と対立する。映画では、結局彼はギリシアをふたたび追放され、行く当てのない船出に立つことになるが、この芝居のエンディングは、初演時民主党政権下でダム計画の凍結があったためか随分と楽観的だ。

でも私には、つまらないノスタルジーが本作を(たとえ三年前だとしても)台無しにしているように見えて仕方がない。

新国立劇場の「エネミイ」は、「三里塚闘争」を現在の地点からノスタルジーにおいて正当化し、そこにあった非道、無慈悲を無化し、現在の世代にその視点から説教するひどい芝居だった。この連中の現在を思うとき(猪瀬が信州大全共闘議長だったことを忘れてはならない)、私たちはもはやこの手の芝居を受けいれられない。また、文革の悲惨を思うとき、私たちはもう60年代のマオイストが知ったかぶりを言っている芝居を受けいれられない。それは、50年代のスターリニストが社会主義の未来を語るのと同じくらい欺瞞的だ。

で、この芝居では、私たちにとって何とか受容可能なグルとして、50年代共産党臨時中央委員会(臨中)派のアーティストを持ち出してくる。(「臨中派」と書いたが、末端の党員のほとんどは臨中派だったと思う。)そしてその中でも、純粋な革命の理念に燃えて農村に潜った山村工作隊を持ち出してくる。彼のイデオロギーはこの芝居の中では全面肯定だ。このイメージが少しなりとも肯定的にとらえうるのは、私たちが彼らの非道と悲惨についてもはや十分な知識を持っていないからに他ならない。搾取からの解放を理想とする若者にとってその当時他にどうしようもなかったとは言え、彼らが代理しているのは二十世紀後半に最大の苦しみをもたらしたイデオロギーの一つだ。当時それを信じたのは仕方がない。今それを回顧的に正当化するのは最大の欺瞞だ。私はごく身近な身内が山村工作隊で「球根栽培法」所持で捕まって警察署内のトイレに隠して難を逃れたこともあるし、正と麻里の母「すえ」の仮想の会話は子供の頃の日常会話のターミノロジーと同じなので当時の主観的な正当性はよく分かる。60年前、純真な若者はあんなことを信じていた(農村から都市を包囲するとか、武力革命とか)。いまそれを反復するのはグロテスク以外のなにものでもない。

アンゲロプーロスは、武装闘争時代の生活の細部が現代に甦る(両方の側にとっての)悪夢を悪夢として描き出した。ここではそれは「夢」だ。五木の反ダム闘争は素晴らしい成果を上げてきた。巨大ダムが自然を、共同体を破壊することも、それに対する闘いの意義も今なお変わらないがゆえに過去のこの美化は痛い。