2013年5月31日金曜日

ごたまぜの面白さ〜山の手事情社の「道成寺」

山の手事情社の「道成寺」を見た。この夏の「ヨーロッパ三大演劇祭」の一つ、シビウ国際演劇祭での公演のゲネプロだそうだ。稽古場での「公演」だが、実際には山の上の教会で、舞台上に鐘の作り物をつけての上演らしい。
とても面白かった。安珍清姫の説話は幾つかの異版があるが、娘ヴァージョンと寡婦ヴァージョンの両方を舞台化する。また、その後日譚の「鐘供養」物語も白拍子の出てくる能の話の他に郡虎彦のおどろおどろしいヴァージョンも舞台化し、物語圏の持つ広がりを90分に収めようとしたのは意欲的だ。一番有名な白拍子の話がきちんと回収されなかったけれど他の物語はほぼ最後まで示される。
上演も、語り口や動きが様々なスタイルのつぎはぎを徹底化しているのが面白い。今昔そのものの語りはいま風の感情表現と接続され、新喜劇のようなコミカルな動きは時代がかった見栄と接続される。昔『オイディプス』を見たときも、複数様式の並列が面白いと思ったのだけれど、この舞台ではそれが徹底的に「多数化」されていた。能・狂言・歌舞伎・新劇・アングラの動きの特徴が、ぎゅっと詰め込まれている。勿論、一つ一つの様式の完成度はとても高いというわけではないし、またそれが目指されているわけでもない。ある種の「見本市」的な舞台で、そのニュアンスがどこまでルーマニアで通じるかは分からないけれど、日本人としては納得の面白さだ。アフタートークは、「女の人こわい」以上の意味がない話を「女性原理」とか言い出した時点で聞いていても仕方がないと思い退出。
ラスト 黒い桜の花が舞うのだけれど、桜だと思わなかったorz

さて、今年日本ではシビウ国際演劇祭を「ヨーロッパ三大演劇祭」と呼んで持ち上げるのがはやりみたい。今年のプログラムを見たら、期間は一週間ほど(六月七日から十六日まで)だけれど朝から晩まで何かしらやっているのが素敵ななかなか盛んな演劇祭。海外からの参加は半分くらいじゃないのかしら。2007年が一番規模が大きく70カ国から2500人のゲストがやって来たらしい。楽しそうだ。

2013年5月29日水曜日

LOVE展〜森美術館

「愛」をテーマに、二十世紀以降の作品を中心に集めた企画展。会場の入り口前のバーバラ・クルーガー、入ったところのロバート・インディアナ、ジェフ・クーンズ、ダミアン・ハースト、トレーシー・エミンなど、ポップ・アート、ヤング・ブリティッシュ・アートの大物作家のお洒落な作品で心を掴み、あとはこじつけっぽいものも含めLOVEにまつわる幾つかのテーマにあわせてそれなりの作品を集めたもの。芸術の多くは何らかの形で愛に関わるだろうから、作品の選び方にそれほどの面白さは感じられない。とてもオーソドックスだ。デ・キリコの「ヘクトールとアンドロマケ—の別れ」、ロダンの「接吻」、マグリットの「恋人たち」、シャガールの……。
展示された作品にはそんなに「やばい」ものはない。どれもお洒落でおとなしいもの。トレーシー・エミンはコーナーの入り口ごとに幾つも展示されているけれど、よくこんな当たり障りのないものを集めたなぁと思ってしまう。(自慢すると、2011年のヘイワードギャラリーでの彼女の回顧展に行きました。)
驚くべきは、同性愛をテーマにした作品がほぼ皆無だったこと。気づいたのは、レズビアンの作家の作品が「広がる愛」コーナーにあったのと、浮世絵に若衆ものがあったのくらい。館長で企画者の南条史生氏曰く
最後の章は「広がる愛」というテーマで展開します。男女の愛だけではなくて、同性の愛、物に対する愛、国に対する愛、コミュニティに対する愛、そういう様々な愛の解釈を紹介します。現代においては愛もこのように多様な広がりを見せている、ということを描けないかと。(http://moriartmuseum.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/lovelove-4480.html)
とまぁ、突っ込みどころ満点のお言葉。同性愛は広がりではないし、どれも現代関係ないよね。
2010年の東京写真美術館の「ラブズ・ボディ〜生と性をめぐる表現」がほぼ全面(男性)同性愛だったことを思い出した。それもどうかと思ったけれど、こちらでの同性愛の(ほぼ)「不在」は控えめに言ってグロテスクだ。
「愛ってなに?」「恋するふたり」に続く第三のコーナーが「失われた愛」で、ここではソフィ・カルの「どうか元気で」が見応えたっぷり。「どうか元気で」で終わる別れの手紙を受け取った彼女が、その手紙を多くの女性に見せ、彼女たちがそれに様々な形で応えるのをヴィデオにしたり、写真作品にしたりしたインスタレーション。射撃の選手が手紙を的に撃ち抜くのが面白い。ソフィ・カル知らなかった。原美術館でいまやっているのか。元恋人の会田誠に殴る蹴るの暴行を加えるのを映像化したTANYの「昔の男にささげる」とともに印象的。ただ、TANYのヴィデオは、鉄パイプがあまり当たっていなかったのが残念。
展示の中で最大の衝撃はダリの巨大な聖母子像だった、というか、それがローリー・シモンズのほぼ同サイズの「ラブドール」着せ替え写真と同じ壁面で並んでいることだった。ここの写真が撮りたかったなぁ。こう言う無神経さは大好きだ。
日本以外の非欧米作品に切実で力強いものが多く、それは大きな収穫。シルヴァ・グプタのネオン作品は感動的、ゴウハル・ダシュティは戦争と日常のシュールな併存が面白い。ロバート・インディアナをぶちこわしたギムソン・ホックの「LOVE」もメッセージがダイレクトに伝わる。シリン・ネシャットの息の詰まりそうなヴィデオ「熱情」も素晴らしい。
なんかがっかりなのが初音ミクコーナーで、なぜここでミクの単なる紹介ビデオが流れるのか分からない。誰かがこの展覧会のためにミクで何かするのが流れるとばかり思っていたのに…紹介ビデオも、数年前のまだアナーキーだった頃のニコ動をまるで現状のように「良いなぁ」って言っているものだったし(全部見てないのだけれど)。とってつけた感が半端ない。

2013年5月26日日曜日

リン・フォルケス(Llyn Foulkes)『 失われたフロンティア (Lost Frontier)』Documenta (13) 他

リン・フォルケスは1934年生まれのアメリカのアーティストで、音楽家でもある。『失われたフロンティア』を見て、なんかミッキーの顔がどこかで見たような…と思っていたら、前年のヴェネチア・ビエンナーレのメイン・パヴィリオンのエキシビション(ジャルディーニにある国別じゃない展覧会)に作品が展示されていた。そのときの作品は、いかにもな政治風刺的ポップアートで、それほど印象に残らなかった。『どこで間違えたのだろう(Where Did I Go Wrong)』(1991)『大統領閣下(Mr. President)』(2006)の二つは、湾岸戦争の開戦を告げる新聞を手に「どこで間違えたのだろう?」と自問するスーパーマンと、一ドル紙幣のジョージ・ワシントンの肖像画にミッキーの顔をつけたもので、コンセプトは明白だけれど、面白いのかしら?そう言えば、スーパーマンのモットーは「真理と正義とアメリカンウェイ」だった。スーパーマンの間違いは、アメリカンウェイの間違いでもあった。
しんぶんの小見出しに
「クウェート」の文字が見える。
一ドル紙幣のワシントン



Documenta (13)では、フォルケスは音楽家として、自作の楽器を使ってパフォーマンスも行った。それは見ることができなかった。幾つかyoutubeにアップロードされているが、面白いけれど、そんなに前衛的だというわけではない。

造形作品は暗い部屋に鑑賞者から数メートルの距離をおいて二つ展示されていた。特に、『失われたフロンティア』は、『大統領閣下』と同じ、ミッキーの顔をつけた兵士(なにか民族衣装をつけているように見える)が廃墟のように荒れたロスアンジェルスの街を望む高台に立っている風景だ。手前には死んだ山猫、二人の男が描かれている。写真だとこの作品はいかにも立体ぽく見えるのだけれど、実物は、数メートル距離があるので、最初私は普通の絵だと思ってしまった。こちらの移動につれてホログラフィのように形が微妙に変わるので立体だと気づいた。とても手をかけた(1997-2005)、そのことに感動してしまう作品。もう一つの「目覚め(Awakening)」(1995-2012)は老いた夫婦の寝室が描かれているが、これもミクストメディアの立体作品だ。グロテスクなユーモアは、作者がそろそろ80才になると考えると、荘厳なおそれをおびる。
少し距離を置いて見させられるので、ややフラストレーションを伴いながら細部を確認するという見せ方の仕掛けのせいかもしれない(私は双眼鏡を取りだしたもの)けれど、メイン会場の絵画っぽい作品の中では一番見応えがあった。


Foulkes 失われたフロンティア
Foulkes目覚め

2013年5月24日金曜日

タマラ・クヴェシタズデ (Tamara Kvesitazde) F=-F (ヴェネツィア・ビエンナーレ2011)

2011年ヴェネツィア・ビエンナーレのグルジアの展示は、Tamara KvesitazdeのF=-Fを中心においた「どんなメディアでもAny-Medium-Whatever」と題されたもの。独裁体制であれ民主体制であれ共通の軍国主義への反対と平和へのメッセージを込めた作品のようだ。
軍国主義は個性の抑圧を伴う。グルジアの展示で目に焼き付いたのは白い無表情な顔の集まり。一つ一つの顔はほぼ等身大で、色彩を欠いた人面の怖さと反復の不気味さが「表情のない」軍隊の不気味さと重なる。言われてみるとある意味分かりやすいが、解説がないと「軍国主義」云々は想像がつかない。
顔が集まって球体を構成している作品と「フレスコのような」(カタログ)パネルになっている作品の二つがあった。パネル作品では、その無表情な顔の一つ一つが微妙に変化してゆくことで、不気味さは、悪夢を見ているかのようなおぞましさの領域まで達していた。
Kvesitazde Any-Medium-Whatever

Kvesitazde F=-F

Kvestazde F=-F (detail)

2013年5月22日水曜日

Ecto3とBlogger

愚痴

Bloggerは、素人がほとんど何の努力もせずにブログを作れるし、写真も最初に設定していればLightbox風エフェクトが自動でかかるので、とても便利で、自分の本来のサイトの更新を全くしなくなった。更新も、ダッシュボードからさくっと書けば良いし、写真の挿入だけがIPhotoから一手間かけて写真ファイルを一旦どこかに保存しなければならないことを除いては何の不満もない。
ただ、何となく、オフラインで予め書いたものを後でアップロードしたいと思うことがあり、また、写真が直接iPhotoからブログに取り込めたら良いなあと思ったりもして、ブログ編集用のソフトを探し、marseditとecto3のどちらか、というところまできた。Marseditはなぜかbloggerへのログインができず(BloggerのIDとパスを入れても、GoogleのIDとパスを入れても通らない)、ecto3をレジストした。
で、ecto3は複数の写真を一括でiPhotoから取り込めて、投稿出来るんだけれど、なぜかLightboxエフェクトが効かなくなる。ぐぐって調べても、古い情報しか出てこず、Bloggerに元から備わっているLightboxエフェクトを有効にする方法が分からない。結局、ecto3で投稿した後で、写真のためにもう一度ダッシュボードで編集し直している。

なにか良い方法はないのかしら。とても間違ったやり方をしているような気がしなくもない。

2013年5月21日火曜日

マイケル・ラコウィッツ(Michael Rakowitz)『どんな塵が立ち上がるだろうWhat dust will arise』Documenta (13) 2012

個人的にメイン会場で一番印象が深かった。

ラコウィッツの『どんな塵が立ち上がるだろう』というタイトルは、アフガニスタンの諺「一人の騎手からどんな塵が立ち上るだろう」に由来するもの。1941年9月の英軍の空襲によって破壊されたHesse-Kassel地方図書館の本を、アフガニスタンのTravertine石(石灰華)で再現したもの。メイン会場のFriedichcianumはその図書館跡に建設された。

一度失われると戻ってこない文化遺産への濃厚な哀切に満たされる作品。 勿論、その背景には、アフガニスタンのハザラの石仏破壊、アメリカの侵略後のバグダッドの博物館の惨状が念頭に置かれている。

過去は破壊されて失われることで私たちにとりつく。

本の破壊と言うと、私は、二年前の三月十三日に見た映画「アレクサンドリア」でのアレクサンドリア図書館の破壊のことを思い出してしまうのだけれど……







2013年5月20日月曜日

タシタ・ディーン(Tacita Dean)『疲れFatigue』〜Documenta(13)

ドクメンタ13の一つの大きな特徴は、非欧米への入れ込み、とりわけアフガニスタンとの連携だった。その理由とか調べなくちゃ、とおもって結局果たせなかったが、カブールにサテライト会場を設け、カッセルのメイン会場でも一番大きな作品の一つがカブールとの共催作品(Goshka Macugaの 「存在するものについては存在することの、存在しないものについては存在しないことの」←タイトルはプロタゴラスの引用で、「全てのものの基準は人間である」という言葉に続く)だったし、Lida Abdulの「私たちが見落としたもの」もカブール生まれの作家がカブールで撮ったヴィデオインスタレーションだった。

ディーンの「疲れ」もカブールとの連携の結果生まれた作品で、彼女はカブール在住のカメラマンにカブールの様々な場所の映画を撮るように求め、それを元に作品を作ろうとしていた。フィルムが駄目になったせいでそのプロジェクトは実現しなかったが、幾つかのコマから発想を得て作られたのがこの作品だ。カブール川の洪水や雪解けがテーマにされている。

面白いのは、これが黒板にチョークで書かれた作品だということだ。絵画の一番大切な特徴である持続性をかなり犠牲にして、彼女はむしろこの作品で一回性、はかなさを強調する。常設会場ではなく旧税務署の廊下に黒板は据えられている。また、rain riverなどの絵を描く前に書かれた言葉も残されている。

私がカッセルを出る日の前夜、山口大学の藤川先生が メールで勧めて下さったので午前中に見に行ったのだけれど、とても迫力があった。

Dean Fatigueより(1)

Dean Fatigueより(2)

Dean Fatigue細部

Dean Fatigue細部(2)

サーニャ・イヴェコヴィッチ「不服従者(革命家)」Documenta13 (2012)より

2009, 2011年にヴェネチア・ビエンナーレを見ることができ、2012年にカッセルのドクメンタ13も見ることができたので、そのなかで興味深かった作品を順不同で幾つか紹介したい。
クロアチアの作家、サーニャ・イヴェコヴィッチの「不服従者Disobedient (Revolutionaries)」は、ガラスケースに陳列されたロバのぬいぐるみから構成されている。この作品をインスパイアしたのは、1933年のHessissche Volkswachtに掲載された写真付きの新聞記事で、それは「頑固な市民のための強制収容所」というタイトルと、「ユダヤ人の店での買い物を避ける必要性の証明」とキャプションがついている。ロバは「間抜け」や「頑固さ」の象徴だ。
陳列ケースは、様々な市販のロバのぬいぐるみと、名前のプレートから構成されている。

ミラベル姉妹、ヴィクトル・ハラ、ベンヤミン、

ドイツの赤い薔薇、ローザ・ルクセンブルクは赤い花を口にくわえている。フレッド・ハンプトン、キング牧師

パウル・ツェランの横には浅沼稲二郎もいる。グラムシ、ショル兄妹

それぞれの名前の説明を彼女はDocumentaのウェブサイトに投稿しているが、それらは英語版のWikipediaから採られたものだ。
http://d13.documenta.de/research/assets/Uploads/IvekovicA4AusdruckeENG.pdf
Why is Sonja Ivekovic Plagiarizing from Wikipedia?
悲痛さとユーモアを兼ね備えた素敵な作品。

2013年5月16日木曜日

フィッシャー・リヒテ『演劇学へのいざない』読書ノート(4)

第八章は「諸芸術の上演」と題されている。私は第九章の「文化上演」には、芸術的上演と非芸術的上演の区別という問題にしか興味がないので、読書ノートもようやく最後になる。この本に関して自分で読める内容は読み終えたと思うので、土曜日は他の人の意見を聞くことに専念しよう。Tsudaる感じであとでブログにアップしても良いかも。

他のあらゆる諸芸術と異なる演劇の特徴として、彼女は「演劇[が]それらの芸術を自分の中で一つのものにし、自分の目的のために利用することができる」(232)という点を挙げる。だからこそ演劇学は常に学際的だ.

この主張は常識的にもっともだ。お芝居の中には音楽も使われるし背景画もあるし、様々な装置や小道具もある。つまり三次元芸術も用いられる。厳密には、芸術としての料理は演劇にはおそらく用いられることはないし、ランドスケープ・アートも難しいだろうが、そこまで言うのは言いがかりだ。彼女が言うのは演劇の中に利用され得ないジャンルはない、ということであって、演劇の中に利用され得ない作品はない、ということではない。そしてこの場合のジャンルは、かなり広く理解すべきだ。細密画は演劇に利用できない(お米に書いた書も)けれど、細密画も絵画であり、絵画は利用可能だ。むしろ、問うべきは「それは演劇を他のあらゆる諸芸術と異なったものにするのだろうか?」という点だ。どのような芸術ジャンルであっても他のどの芸術ジャンルをその一部として利用することが出来るのではないか?音楽と絵画の総合芸術は必ずしも演劇ではない。

諸芸術の上演が必ずしも演劇であろうとなかろうと、演劇が歴史的に諸芸術の上演への傾向を内在し続けてきたことは確かだ。フィッシャー・リヒテはそれを二つの極によって分析する。
もし階層化を全く行わずに、あらゆる芸術を平等に演劇上演に関与させようと試みるならば、それは多様な芸術が緊密に相互作用するという結果をもたらすか、さもなければ、平等という点は同じでも、【多様な芸術が】見たところ全く関連なく併存する状態をもたらすかのどちらかである。(略)もちろんこれは両極端であり、それらの中間に多くの別の実現形態がある。(233)

前者がワーグナーであり、後者がケージだ。ワーグナーの総合芸術論は有名でもありフィッシャー・リヒテの紹介も常識的なのでパスして、ケージに関しては1952年の『題名のないイヴェント』が挙げられている。これは「ケージが1952年に(略)ピアノストのデイヴィッド・チューダー、作曲家のジェイ・ワット、画家のロバート・ラウシェンバーグ、舞踊家のマース・カニンガム、そして詩人のチャールズ・オルセンおよびメアリー・キャロライン・リチャーズとともに、ブラックマウンテン・カレッジの食堂で行ったもの」(236)で、各アーティストは時間指示だけを与えられ、好き勝手にその時間を満たす。カニンガム(この表記は嬉しい)カンパニーの売りの一つにもなった「コラボレーション」だ。フィッシャー・リヒテのこの上演の記述は、並列的で、それぞれの間に関係がなかったことを示している。ちょっと長いが引用。
ケージは、黒い背広にネクタイを締め、脚立に乗って、音楽と善についてのテクスト、それにマイスター・エックハルトの文集からの抜粋を読み上げた、続いてケージは、「ラジオ・コンポジション」を演奏した。それと同時にラウシェンバーグは拡声器付きの手回し蓄音機で古レコードを流した。その脇では犬が—ドイツのグラモフォンのレコードジャケットそのままの姿で—座っていた。デイヴィッド・チューダーは「プリペアド・ピアノ」を操作した。その後彼は、バケツから水を別のバケツに注ぐということを始めた。その間、オルセンとリチャーズはある時は観客席の真ん中で、ある時は短い方の側壁に立てかけられた梯子から、自分たちの詩を朗読した。カニンガムは通路で、また観客席を通り抜けながら、他のダンサーらとともに踊った。それを、今やすっかり混乱した犬が吠えながら追いかけた。ラウシェンバーグは、天井および長い方の側壁の一つに抽象的なスライド画像(これは二枚のガラス板の間に着色ゼラチンを入れ摺り合わせて作りだしたもの)を投射した。また、断片的な映画も投射した。それは最初は食堂のコックを映し出したものであり、その後、映像が天井から次第にもう一つの長い方の側壁に移動するにつれ、落日を映し出すものとなった。空間の一隅では作曲家のジェイ・ワットが、観客をいささかエキゾチックな気分に誘う様々な楽器を演奏していた。四人の白い服を着た若者が観客たちのカップにコーヒーを注ぎ—それも、彼らがカップを灰皿に用いていようがお構いなく—それで上演は終わった。

この上演では、多様な芸術の出会いを通じて、それぞれのメディア性と記号性が刺激を受けたことに疑いの余地はない。
<脱線>フィッシャー・リヒテが九歳の時に行われたこの上演を彼女が観て分析したとは思えないが、出典は欠けている。この段落は歴史記述からの逸脱を殆ど示さない(「すっかり混乱した」「エキゾチックな気分にさそう」はやや怪しい)が、次の段落で次のように言われるとき、語られているのは三人称現象学そのものだ。
観客の注意力は、それらの人工物としての性格ないしテクストとしての性格からは逸らされて、それらによって何が行われたということ(略)に向けられた。観客たちは(略)には専念できず、その代わりに、(略)を目で追わねばならなかった。

……ここではどの観客も自分自身の上演を作り出さねばならなかったため、そこから発した美的経験もまた、全く特別なものだった。 (238) 
これが悪い、というのではなく、歴史記述にこれが許されるなら、上演分析と歴史記述の間の違いは人称使用以外にあるのかしら。</脱線>

これら二つの例を極にして、諸芸術をそのなかで上演することが演劇の特徴だとフィッシャー・リヒテは主張する。でも、ケージのイヴェントは、語の有益などんな意味で「演劇」なんだろう?それを「演劇」と呼ぶことも、またやや極端だが、「パフォーマンス」と呼ぶことも、ラウシェンバーグの寄与を矮小化するだろう。スライド映像は彼が自ら投射する必要はなかったし、オルセンとリチャーズだってスピーカーでも構わない。それはハプニングとかイヴェントとか言うのが一番相応しいのではないだろうか。

もちろん、彼女は演劇概念をここで拡張し、インターアートとして理解しているのだけれど、そのとき、演劇という比喩は過ち導くものになる。全てのインターアートが演劇ではないからだ。特定の場所、例えば公園の木立に置かれた自然木のインスタレーションの中に腰掛けてサウンドアートを聞くとき、私たちはインターアートの経験をしている(e.g. Janet Cardiff & George Bures Miller for a thousand years (2012))。しかし、それはパフォーマーとの肉体の共在を含まないので演劇ではないしパフォーマンスでも多分ないだろう。「演劇」を学ぶとき、演劇のインターアート性を理解することは、とりわけ現代においては重要だ。でもそれは他の芸術でも変わらない。インターアートの経験を理解するためには、「演劇」概念へのこだわりはむしろ邪魔になるのではないか。それが演劇的である場合にすら、それを演劇としてとらえることは有意義ではないだろう。

だから、ボイスのあれこれのアクションが上演概念の定義に合致するかしないかの議論(243)はボイスの理解にとっては重要ではない。また、1990年代以後の造形芸術に上演としての性格を持つものが増えたかどうかも、多くの場合重要ではない。これらの作品の多くにおいて重要なのは上演と共有するある性質、つまりそれが物質的な痕跡を残さない、というコンセプチュアルな性質なのであって、肉体の共在を前提とする上演的性質ではない。彼女の挙げている例はそれでも、とても面白いので書き写す。ティノ・セーガルの作品についてだ。
来場者が一人あるいは何人かで空間に足を踏み入れると、さっそく予めそこにいた美術館の守衛か、その瞬間に初めてこの空間に現れた解釈者が、活動し始める。彼らは、「これはとても現代的です」(ヴェネツィア・ビエンナーレ、2005年)あるいは「あのオブジェのこのオブジェ」(ケルン、2004年あるいはロンドン2004/5年)といった文を反復し、その際、極めて多様な動作を行なった。(247-8)
この箇所に驚いたのは横浜トリエンナーレ2011年で、同じような経験をしたからだ。本会場の通路脇に大きな金属製の白っぽいパネルが展示されていて、その前で職員の女性がずっと「これは芸術作品でございますのでお触れにならないようにお願いいたします」と繰り返し注意していて、ややこしい現代芸術の展覧会の担当者も大変だなぁ、と苦笑したのだけれど、それも含めて作品だとしたら……思い出すほど、そう考える方が理にかなっているような気がする。1951年のラウシェンバーグの「ホワイト・ペインティング」からまる六十年、何の工夫もなく同じようなことをやる筈はないわな。

こうした話題になるとはやりの「インターメディア」とか「ハイブリッド性」とかの話になるけれど、そこでレッシングの『ラオコーン』を紐解くのがやはりドイツの人だ。わりと当たり前のことを言っているのでパス。フィッシャー・リヒテにとって、「インターメディア」は重要だがハイブリッド概念は「例えば統一性の概念への対抗概念として理解されるなら」有意義だが、「ハイブリッドの概念の利用はしばしば存在論化されるという危険をはらんでいる」(259)。まあそうですね。

<脱線>「グループのメンバーは、『イリアス』の1800行の韻文を、交代で中断なく22時間以内に朗読した」一桁誤記。18000行</脱線>

2013年5月15日水曜日

フィッシャー・リヒテ『演劇学へのいざない』読書ノート(3)

フィッシャー・リヒテの『演劇学へのいざない』第三部


第三部は三つの章からなる。


第七章「上演における諸文化の編み合わせ」
第八章「諸芸術の上演」
第九章「文化上演」

さて、演劇学は上演の学である以上、「非西洋文化における上演、他の諸芸術の 上演、他ジャンルの文化上演」(183)を扱わねばならない。第三部はそれらの問題を扱う。

第七章では、異なった文化圏に属する上演が与える影響について、フィッシャー・リヒテは「編み合わせ」の概念を用いて、明治時代に日本演劇が、例えば川上音二郎一座の欧州公演でドイツやフランスの演劇に与えた影響、またヨーロッパの近代劇が日本に与えた影響を例にして、それらを「文化の編み合わせ」という概念によって説明しようとする。
二〇世紀初頭には、ほとんど未知の文化圏の演劇的要素を摂取するという、一九世紀まで続いてきた[交流の]形式をはるかに超える発展が始まった。新たな輸送技術によって芸術家個人だけでなく一座全体が自分たちの演出を、全く異質でそれまでおよそ知ることのなかった文化圏の観客に披露できるようになり、その結果、彼らの演出は遥か彼方の異文化圏の観客にとっても、俳優が肉体的に演じるのを直に経験できるものとなった。
彼女がここで取り上げるのは、(1)川上音二郎一座の欧州公演(1900-02)、(2)ラインハルト、メイエルホリドなど、ヨーロッパの近代演劇における日本や中国の演劇形式の取り入れ(花道、黒子、衣装の約束事など)、(3)日本の演劇の近代化としての新劇である。これらの例は、二つの問題を明らかにするだろう。第一は、「編みあわせのプロセスを調べる際、日本学の専門知識がどの程度必要か、あるいは日本演劇の専門家—日本学研究者あるいは日本の演劇学者—との共同作用がどの程度必要か」(204)ということであり、第二は、これらの実例で問題になる「近代演劇」とは何なのか、ということだ。前者に関しては、(2)以外は共同や専門知識が必要だよね、って話になり、後者に関しては近代化≠西洋化とされる。この時代の「編み合わせ」は「それぞれ異なる仕方で理解され経過も様々な近代化のプロセスと密接に関連しているため、それに対応しながら研究を行うには、それぞれの根本にある近代概念と近代化概念を明らかにすることが必要不可欠なのである」(208)。<脱線>訳者割り注で「「現代演劇」が通常は第二次世界大戦頃から後の演劇を、「近代演劇」はそれ以前、一九世紀末にまで遡る範囲を示し、一九一〇—三〇年代は境界期と考えられる。ところがこれらのすべてを欧米語ではModernes Theaterと称することができる」(200)とあるのは、私には新しい知識だ。本当に、七〇年以上も前の演劇のことを、今「現代演劇」って言って良いのだろうか?また、今の演劇のことをModernes Theaterって言って良いのだろうか? 演劇学の人たちのこのあたりの歴史意識は私には面白い。</脱線> 文化の編み合わせが重要になるもう一つの領域は一九七〇年代以降の上演で、ここでは「とりわけ次の二つのファクターが決定的となっている。一つは旧植民地の独立であり、もう一つは新たなコミュニケーション・テクノロジーの普及である」(209)。 これに関しても、三つの問題圏を彼女は指摘する。(1)客演と国際フェスティヴァルから発生する諸問題。(2)ある演劇文化から他の演劇文化へ諸要素を移し替えることから発生する諸問題。(3)異なる文化背景を持つ芸術家たちによる共同作業から発生する諸問題。

(1)に大きな問題圏があると考えるのは、彼女の上演についてのとらえ方による。「上演が演者と観客との肉体の共在、両者の出会いと相互作用から生まれ、それ故に上演は毎回、一回限りで反復不可能であるとすれば、そこから生まれる結果として、客演やフェスティヴァルごとに予見不可能性の度合いが高まり、全く同一の演出ないしは振付が、かなり大きく異なる新上演を生み出すことになるからである」(210)。ここに絵画との大きな違いがある。絵はどこで見てもその物質性は同じだが、上演の物質性には「観客の反応」も入ってくるし、こうした反応は俳優/パフォーマー/ダンサーに影響を及ぼすので、毎回異なる上演が生まれることになる」(210)。例えば一つのツアーが異なった文化圏で異なった受け取られ方をしつつも喝采を浴びている場合、「それぞれの文化圏の専門家が研究に加わらない状況で、上演分析の手法によってこれについてどの程度適切に考慮できるのか」(210)と。

それは図式が悪いとしか……

「毎回異なる上演」は別に異文化での上演に限らないし……
上演分析の手法はそもそも一人称現象学なんだから別のその場その場で研究者が観てやれば良いんじゃない……
「上演」について観客反応を内在的なものとしてとらえ、たとえば映画についてはそうとらえないことが問題。

「イングロリアス・バスターズ」をドイツの田舎町で上映する場合と、東京のシネコンでやる場合とでは、(1) 物質的同一性はない(スクリーンの大きさ、輝度、映像の質の高さは異なる)。(2) 観客反応は異なる(Nazisploitationへの反感はドイツの方が強いだろう)。それゆえ、両者を別のもの、として扱うべきだろうか。両者を別のものとしなければ分からない問題圏はあるだろう(なぜこの作品はドイツでは受け入れられなかったのか?)。しかし映画学はそれを「同一の作品」として扱うことが出来る。上演の場合彼女のように「別のもの」であるという主張が説得力を持つように見えるのは、観客→演者へのフィードバックが想定されている(し実際に存在している)からだ。しかしこの議論では、フィードバックは二つの上演の「物質的同一性」の不在を示すという役割しか持っておらず、その不在は映画の場合でも同じだ。現象的経験は映画の場合でも異なる。だから、図式が悪い。

(2) ある演劇文化から他の演劇文化へ諸要素を移し替えることはしばしばIntercultural Theater(異文化間演劇)の名前で呼ばれていた。これは(a)「異文化」のそれぞれが「完結した一貫性を形成している」ことを暗示していることと、(b)非西洋的演劇の要素を西洋演劇に移植する場合と、その逆の場合が非対称的に(前者は良いもので後者は悪いもの)とらえられることのゆえに好ましくない。そこに前提されている、「自」と「異」のアイデンティティの対立はもはや存在していないのだ。面白いのは、「異」を吸収することで「これまで固有であったものが根本的な変化を被り、新たな芸術的アイデンティティが生まれ得る」(215-16)ことである。

(3)インターナショナルなアーティストたちのユートピア的共同体の可能性について彼女はかなり肯定的だ。まあそうなんでしょ。<脱線>ラルフ・レモンの地理学三部作(ダンス)についての言及で「参加アーティスト間の文化的相違が止揚されることはなく、むしろ相互の尊重と理解を特徴とする新たな調和的共存を生み出すために生産的に用いられた」(216)は「止揚」って訳しちゃ駄目じゃん。「捨て去ることなく」でしょ。</脱線>でも、このインターナショナルな編み込みの話題になると、やっぱりグローバリズムとか文化帝国主義とか文化的簒奪の話を避けて通れない。というか、演劇学の人はこの手の話が好き。一言で言うと、ローカル化は良いけれどグローバル化は文化帝国主義で文化的簒奪だ、と。それでどれがローカル化でどれがグローバル化なのかの分類。チェン・シージェンが「国立京劇院」で行った『バッカイ』はアメリカの資金がたっぷりで、京劇要素を用いたものの京劇の形式を変更してギリシア劇の復元に努めたので悪いグローバル化。ルォ・チンリンが河北省の河北子様式で制作した『メデイア』は良いローカル化らしい。上演もデルフォイだし、アメリカの金はそんなに使われていなかったみたいだし。資金源を捜せ(とは彼女は言わない)。「演劇はまずはローカルでなければならず、この前提のもとでのみ真に国際的になり得る、というハイナー・ミュラーの発言がいかに的を射ているかが、改めて証明される」(230)らしい。

私の考えでは、文化帝国主義や文化的簒奪について声高に語る多くの文化人はその文化の内部で抑圧者だ。ロックが嫌いなのは金持ちの年寄りに決まっている。そもそも演劇はPC的正当性の中でお高くとまっている高級文化ではない。何であれ取れるものは取るところから出発している。グローバル化であろうがローカル化であろうが、そこでポリフォニーが実現していることが重要だ。

ちょっと怒りモードになったので、続きは日を変えて。

2013年5月14日火曜日

フィッシャー・リヒテ『演劇学へのいざない』読書ノート(2)

フィッシャー・リヒテの『演劇学へのいざない』だが、第二部に入って急にこちらのテンションが下がった。

さて、その第二部だが、「研究領域・理論・方法」と題され、三つの章からなる。
第四章「上演研究」
第五章「演劇史研究」
第六章「理論形成」

第四章は、(1) 理論的予備考察、(2)分析の実践、(3)上演と戯曲の三つのパートに分かれる。
興味深いのは「理論的予備考察」だ。
さて、フィッシャー・リヒテにとって、演劇学の対象は上演であり、(演劇学の対象としての)上演とは、観客と演者の共在、束の間性、意味生成、出来事性によって特徴付けられる。
だから、上演分析も、そのようなものとしての上演の分析だ、ということになる。演劇学研究者は実際に見た舞台について分析を行わねばならない。ビデオによる分析は「演劇史研究」に属する。
これは、「演劇学研究者たるものこうあるべき」という学生に対する説教(規範的言明)としては有意義だろう。しかし、「上演分析」を「演劇史研究」から区別する条件の記述にはならない。その理由はあとで書く。まずは彼女の主張を追って行こう。

(1) 理論的予備考察
上演分析はテクスト分析と異なり、対象への複数のアクセスを可能としない。それは一度限りの束の間の出来事である。また、対象にアクセスしながらの分析も不可能である。そうすることで上演の重要だったかもしれない別の側面を見逃してしまうかもしれないからだ。分析は上演が終わって初めて可能であると彼女は言う。

だから、分析は「上演の間に知覚したものについての、その人の想起(Erinnerung)から出発しなければならない」(91)。さて、上演の感覚的対象の全てを同等に知覚することは出来ず、選択や不注意は不可避的に生じ、知覚が主観的であることは分析の根本条件だとされる。
ともあれ、上演が終わった後で思い出すことが大事だ。二種類の記憶、舞台空間の細部についてのエピソード記憶と言語的な意味についての意味記憶を区別すべきだ。意味記憶は、台詞だけではなく、分析者が知覚について行った「翻訳」(赤いとか急だとか)も含まれる。これらは支え合うけれど、いずれにせよ記憶は当てにならない。それをどう補うのか。「何度も見に行く」「直後にメモを取る」「ヴィデオ録画(を見る)」などの方法があるが、フィッシャー・リヒテのお薦めは、「直後にメモ」だ。ヴィデオは「具体的な箇所の想起のためにはとても重要で役に立つ」が、「別の面から見るとヴィデオ録画は役に立たなかったり、あるいはかえってマイナスの働きをしたりもする」(96)。空間的な記憶の助けにはならず、演者と観客のエネルギーの流れは伝わらない。
さらに、一般にヴィデオ録画は、分析者の記憶を助けて再活性化するというよりも、むしろ記憶を上書きしてしまい、そのため上演を想起させるどころかその忘却に貢献する危険がある。(97)
クロスカッティングとかクローズアップとか、観客には不可能なカメラ移動のことを彼女は考えている。そう言えば同じような戯言ことを、昔西洋比較演劇研究会で大まじめに語っていた研究者(複数)がいた。 NHKの「芸術劇場」がカメラワークするのが気にくわないんだったっけ。どこまで表象=再現の形而上学に浸っているのかと小一時間問い詰め…。
勿論、フィッシャー・リヒテはこれらの手段が補助手段として有効だということは認める。しかしそれはあくまでも補助手段だ。
上演分析において、上演中にノートを取ること、記憶に基づく記録の作成、あるいはヴィデオ録画といった手段を用いるのであれば、そのことは、批評や観客の証言や、ヴィデオ・クリップに基づいて、上演を何らかの問題設定の下で研究するというやり方、つまり私が演劇史研究的と名付けた研究法とどこが違うのか、(中略)上演分析の場合の補助手段は、上演中に知覚に留まったもの、体験したものを記憶に呼び起こすのに対して、演劇史研究の場合に問題になるのは自分の記憶ではなく、上演についての記録なのである。(略)このことは多くの問題設定を申し分なく満たすかも知れないが、それにもかかわらず上演分析の資格は持たない。というのも、上演分析は常に、上演中における自分の知覚と経験に発するものだからである。(97-8)
私の思うに、この主張が整合的なのは、上演分析が一人称現象学を含まねばならないという主張を含意している場合に留まる。しかし一人称現象学は自己分析であって「上演分析」ではない。分析の中に含まれた任意の一人称文(ないし一人称を目的語等に取る文。以下この意味で用いる)は、多くの場合私についての言及であって、上演についての言及ではない。上演分析が一人称現象学を含むべきだという主張は反直感的だ。参与観察文を含むことはあるテクストが上演分析であるための必要条件でも十分条件でもない。
もし、一人称文を含む必要がないとしたら、つまり「上演中における自分の知覚と経験に発する」にせよ三人称文で分析が進むとしたら、形式上、それを、ヴィデオなどに基づく、あるいは、ヴィデオなどによって喚起された「知覚と経験」に基づく「分析」文から区別することは必ずしも可能ではなくなる。つまり、私たちは、研究結果から、それが上演分析なのか演劇史研究なのかを区別することが必ずしも出来なくなる。だからこの主張は、学生への心構えの説教(規範命題)以上のものではあり得ない。

で、この本の性格がマジに学生指導の手引き、だと分かって、私のテンションはとても下がった。

ともあれ、知覚と想起に続く第三のプロセスが「言語化」である。エピソード記憶を言語化することは難しいし、意味記憶も言語化において歪曲される。言語からくる限界は乗りこえられない。
あらゆる言語的記述や解釈はテクストの生産につながるが、その際固有の規則に従うため、テクストの生産過程が自立化し、出発点だった上演中の知覚の想起からどんどん離れてしまいかねない。分析プロセスの到着点は、独自のテクストの生産なのである。これは上演分析の一見矛盾したもう一つの条件であり、それには十分考慮を払わねばならない。(99)

(2) 分析の実践
現象学的アプローチと記号論的アプローチがある。これはとりあえずは現前と意味とに対応。
現象学的アプローチに際しては 、観客が「上演によって初めて経験が書き込まれていく白紙の存在ではない」(103)ことに注意が必要。知覚は主観的だ。この主観性は恣意性ではない。
記号論的アプローチに関して、彼女は、演劇の記号として可能なものを「音響」「音楽」「言語」「準言語」という聴覚的記号と、「表情」「身振り」「近接学的記号」「仮面」「髪型」「衣装」「空間コンセプト」「舞台装置」「小道具」「照明」という視覚的記号に分けるが、化粧は仮面に入れるとして、嗅覚・味覚・触覚がないことは他の箇所に比べると意外。特に「知覚されるものはすべて記号として解釈される」(104)のだからこの欠落は目立つ。
さて、彼女は、記号論的分析は、観賞経験を「薄める」可能性があると指摘する。それは演出意図の研究に堕してしまう危険があると。だから記号論的分析においても、観客反応を考慮すべきだ。
演出を、そのタイトルの元となっている戯曲(略)の特定の解釈として「読む」ことにこだわる人は、上演のメディア的および物質的条件を見誤っているだけではない。そういう人はテクストと上演のあいだに特定の関係があることを当然と考えているが、そのような関係には問題がある。(108)
まあ、それはその通り。上演と戯曲の関係について、上演分析の実例がなされた後、補足がなされる。この補足は常識的なもの(褒めてます)。上演とテクストの関係については、テクストの解釈とみなすことが可能な上演と、そうでない上演とに分けるというコンサバな立場(たくさん)から、いかなる上演もテクストの解釈ではないというラジカルな立場(J.R. Hamilton: The Art of Theater (2007))まで分かれるだろうが、フィッシャー・リヒテは後者に近い。
(『トレイン・スポッティング』を扱った分析実例については、スマートだと思うが、この場合においても、一人称文は分析結果にとってそれを用いなければならないというほどのものではなく、かつそれを取り去ったときに、映像資料および言語資料によっては書き得ないもの、とは思われなかった。ここから一人称現象学を取り除いて三人称現象学で置き換えたときに、分析の価値が下がるとは思えなかったのだ。)

第五章は、演劇史研究についてで、この問題に関して、私はフィッシャー・リヒテのような大研究者について何か言えるほどの見識がないので、パス。

第六章は理論形成と題され、演劇研究における理論の重要性を論じている。
第三章に関する私の疑問についての重要な主張がここにある。
第三章では上演の概念を定義するに当たってかなり用心深く、特殊なメディア的条件(肉体の共在)、特別な物質的性質(束の間性)、特別の意味生産の様態(意味の創発)、なされうる一種の美的経験(リミナリティの経験)によって基礎付けた。従ってこの定義に合う現象は、すべて上演として理解されるべきである。このような定義に反対して、現象Xや現象Yが、例えば肉体の共在の条件は満たしていないが、それでもやはり上演である、などと述べることは全く無意味だと思われる。 なぜなら定義は、概念が理解可能にしようとしている対象の「本質」を捉えるのではなく、当面の理論の文脈において重要な側面を捉えるものだからだ。
これも些末的に真だ。それは「芸術」を「再現」として定義したり、「美的経験をもたらす人工物」として定義したりすることが些末的に真であるのと同様だ。一貫性を持っているけれど、その定義は「対象の重要な側面を見落としている」と批判を変えるだけで瓦解する。私たちは、芸術を「再現」として定義することは出来る。じっさい多くの芸術作品は、現代においても「再現」だ。Jasper Johnsは星条旗を「再現」したし、ウォーホールはブリロの箱を「再現」した。Sherrie LevineはWalker Evansの写真をそっくりに「再現」した。芸術を「再現」として定義するのに反対するのは、非再現的な作品を芸術領域から追い出すことが私たちの芸術理解を歪めるということと、「再現」的ではあるがそれを「再現」として理解することが作品の理解を歪める多くの重要な作品があることが理由になるだろう。 「上演」を共在によって定義することに反対する人は、単に「共在」が不在の上演があると言っているのではなく、それを含まないことは共在であるような「上演」の理解をも歪めることになるといっているのである。

2013年5月13日月曜日

フィッシャー・リヒテ『演劇学へのいざない』読書ノート(1)

西洋比較演劇研究会の五月の例会が、フィッシャー・リヒテ『演劇学へのいざない』の合評会(それだけで四時間も使うんだ)だということなので、頑張って読んで予習。一通り読んだので、とりあえず短めの第一部の紹介。

第一部は、三つの章からできていて、第一章が「演劇概念」、第二章が「学科の歴史について」、第三章が「上演概念に関する考察」となっている。
その「演劇概念」では、予想されるように演劇の概念の規定がなされるのではなく、「演劇」という語の歴史が概観され、70年代以降、この言葉が極めて広い隠喩で用いられるようになったことが示され、演劇学が意味ある学科になるには演劇概念の規定がなされねばならないことが主張されるに留まる。ごく短い章だ。
そして演劇の概念そのものは、第二章(これもごく短い)で展開される。そこでは、主としてドイツにおける演劇学研究の歴史がたどられ、その歴史から、次のように語られる。「なぜ演劇の学がそもそも必要なのかという問いは、二〇世紀の初めにドイツでは、上演(Aufführung)という概念を持ち出すことで答えが与えられた。演劇とは上演という概念によって定義されるものであり、しかも、既存の学問分野はどれもこの上演なる者の研究には適していないから、というわけである」(33)。この「上演」概念は、大まかに言って英語の「パフォーマンス」概念と一致する。その意味で演劇学研究は英語圏でシェクナーの始めた「パフォーマンス研究」とほぼ外延を共有することになる。
しかし、演劇学では芸術演劇が中心になる。それは、芸術演劇が、「上演の基本的局面を際立たせ、最も重要な理論的かつ方法論的アプローチを開発し試すことが出来るモデル」(36)であるからに他ならない。

この短い二つの章を経て、第三章で、第一部の中心部分である上演概念についての考察が始まる。上演とは何か、フィッシャー・リヒテは次のように言う。
上演とみなしうるのは、すべての参加者がある特定の時間に同じ場所に集まり、その場所で、ある特定の活動プログラムに演者もしくは観客として参加し、同じ人がある特定の時間は演者として、またある特定の時間は観客として行動するというように、演者と観客の役割を交代することも可能な催しである。(37)
この規定が上演の定義としてはいろいろまずいことはすぐ分かる。例えば、演者が舞台上で電話をかけるような作品(クリス・コンデックのDead Cat Bounce や、少し違うがリミニ・プロトコルの「コール・カッタ」など)では、参加者の一部は同じ場所にいない。バス・ツアーを仕立てるパフォーマンスでは、「全ての参加者がある特定の時間に同じ場所に集まる」とは限らない。また、上演の中には「演者と観客の役割を交代すること」が不可能なものも山ほどある。能を見ているときに急に舞えと言われたら帰るよね。(これは翻訳の問題かも知れない:「上演とみなしうるのは…参加する催しであり、そこでは、同じ人が…交代することもあり得る」ならこの問題は生じない。)
しかし、そこまで厳密な話をしているのではない(必要十分条件を記述しているのではない)としたら、とりあえず作業定義としてこれを受け入れることは出来るだろう。彼女は、この上演概念から、しかし次の四つの問題圏を提示し、それについて説明を加えて行く。
(1) 上演に特有のメディア的条件として「演者と観客が同時に(同じ場所に)存在すること(37)」(人間集団の肉体の共在)。(「同じ場所に」が明記されていないけれど)
(2) 上演の束の間性
(3) 上演の記号性。上演は束の間であるがゆえに、何度も観察できるメディアとは異なる意味の発生の仕方を持つということ。
(4) 上演の美的経験とその美的性質(Ästhetizität) ←「美的であるということ」と言う意味で「美的性質」という言葉を使っている。美学上の「美的性質aesthetic property」のことではないので注意。

(1) 共在性

上演においては、観客と演者が「出会って直接対面する」ことが不可欠であり、そこでしか存在せず、その中で消える。
上演が始まる前や終わった後に存在するものは、原則として上演とは別のものとみなさねばならない。上演は自分自身を、いわば自分自身で、演者と観客の相互作用から、自己創出的なフィードバック・ループとして産出する。(40)
彼女はこの規定により、まずは上演と演出を分けるし、また上演と作品を分けるだろう。上演では、全ての参加者が共同制作者であり、 「彼らこそが、自分たちの行為や振る舞い方の相互作用によって上演を作り出すのであり、また逆に彼らは上演によって演者や観客として作り出される(42)」という点で、上演は、オースティン的な意味で「行為遂行的(performative)」なのだ。行為遂行的発話は自己言及的であり現実構成的だが、上演はまさにそうだ。とりわけポストドラマ演劇は「行為遂行性」を極めて多様な形で用いる。
この箇所が私には何一つ分からなかった。その点はすこし後回しにするとして、上演が「行為遂行的」であることから何が生じると彼女が考えているのかを見よう。
上演はそれに参加する全ての者の行為や振る舞い方の相互作用から生じるので、全ての参加者に対して、自らを上演の経過の中である特殊な主体として経験する可能性を開く。すなわち、…自律的でもなく、他律的でもなく、自分が作ったわけではないが関与はしている状況に対しても責任を引き受ける主体として自らを経験する可能性を開くのである。(44)
俳優が観客を直接罵倒し、観客も拍手したりとっくみあいをしたりすることでそれに応えるハントケの『観客罵倒』や、リヴィング・シアターの『パラダイス・ナウ』の客いじりがそれに相当するようだ。一つのパフォーマンスを作り上げるのは、参加者全体である、と。
第一に、これは多分当たり前であって、例えばパレードや盆踊りへの参加を考えると分かる。上演は行為を含んでいるので、行為が行為遂行的であるのは(パフォーマンスがパフォーマティブであるのは)些末的に真だ。オースティンの議論が面白いのは、「記述文」と文法上全く違いのない文が「行為遂行的」であるという点であって、たとえば殴ったり殴られたりすることが、「けんか」や「ボクシング」を構成することは些末的に真であるのと彼女の議論は異ならないように思える。「ボクシング」は「上演」だけれど「けんか」はそうではないので、行為遂行性は必ずしも「上演」の有意義な構成要素ではない。(そうだ、パレードで思い出したけれど、「ラブパレード(263)」への割り注で「テクノ音楽に合わせて踊り練り歩き、性的マイノリティの権利などをアピールした、ベルリン発祥のイヴェント」と書かれているのは二種類の「パレード」が混じり合っている気がする。「ラブ・パレード」って「ラブ・ピース・飯」じゃなかったっけ。
第二に、私たちは例えばロックコンサートでウェイブが出来るだけではなく、ロックコンサートやサッカーの試合のライブ中継でも「ウェイブ」ができるししている。あるいはヤジを飛ばすこともある。スーパーヴィジョンでサッカーを見ている人たちの反応もまた、行為遂行的であり、『ロッキーホラーショーノーカット版』を見ながら突っ込みを入れている人たちの反応も行為遂行的だ。共在は行為遂行性の必要条件ではない。私たちは、見ている対象に関与せずに見続けることもあるのだから、共在は必ずしも行為遂行性を規定する条件ではない。それでも、典型的な上演の共在性が、典型的に上演の「行為遂行性」を引き起こすということは言えるだろう。しかしやはりそれは些末的に真である。

(2) 束の間性

上演の束の間性、それが物質的に固定される「作品」にはならないことは、上演の「物質性」、つまりその空間性・身体性・音響性への問いを導く。
1) 空間性。
空間の束の間性は雰囲気のうちに際だって現れる。(雰囲気の概念はベーメを参照)。
2) 身体性
好き勝手に加工できない、生成的である肉体的な世界内存在のあり方について述べた後、彼女は人間の身体の二重性について次のように言う。
人間は身体を持っており、それを他の対象と同じように操作し、道具として使い、何か別のものを表す記号として利用し、解釈することが出来る。しかし同時に、人間はこの肉体なのである。すなわち肉体としての主体なのである。(51)
この「ある」ものとしての「現象的」身体からの「脱肉体化」を果たし純粋に「記号的」な身体だけを残すように伝統的な演技はつとめてきた。それが心理主義的リアリズムで頂点に達する。アヴァンギャルドは現象的身体を強調した。六十年代以降、「身体であることと身体を持つこととの二重性から出発し、現象的身体と記号的身体の緊張関係を明確にする」(58)方法が試されてきた。このあたりの記述はとても分かりやすい。
この緊張関係はどのようにして生産的になるのだろうか。フィッシャー・リヒテが持ち出すのは「身体化embodiment」という概念だ。従来、この言葉は精神が身体に「現れる」ようにすることを意味していたが、一九九〇年代に、ショルダッシュが根本的な再定義を行ったと彼女は言う。
身体化という概念が意味するのは、現象的肉体が繰り返し自らをそのつど特別な肉体として作り出し、それと同時に特殊な意味を産出する束の間の身体的諸過程なのである。このように俳優はその現象的肉体を、しばしば現前(Präsenz)として経験される全く特殊な形で作り出し、同時に劇中人物—例えばハムレットやメデイア—を作り出す。(63)
言っていることは普通のことだけれど、「現前」という概念がよく分からない。フィッシャー・リヒテによるとそこには三重の意味があるそうだ。
1) 演者の現象的肉体の存在(弱い現前)
2) 観客の関心を否応なく引きつけることを可能にする存在感としての現前(強い現前)
3) 究極の現前。「演者/パフォーマーが自らの身体化過程でエネルギーを発生させ、このエネルギーが観客が感知できるように空間に循環し、観客を触発するのに成功したとき」(64)生じる現前。
なんかエネルギーが循環し云々のところで電波系に思えてしまうが、彼女が言いたいような瞬間が演劇の中にあることは分からないわけではない。そのとき、俳優は「エンボディード・マインドとして」観客に経験される(ここはカナで訳しては駄目な場所だと思う。身体を通じて精神を見る、という意味での「身体化」ではなく、「身体化された心」、身体として存在する精神という強い意味なのだから。)
3) 音響性
音も「束の間」だ。(ちょっとここはパス)。

(3) 意味の生成

演者と観客の肉体の共在が上演の成立に不可欠であり、上演が束の間のものなら、「上演における意味はけっして「固定されたもの」ではなく、上演の経過において初めて生成するものであり、しかも参加者ごとに異なる多様な意味として生成する」(71)。だから、参加者がどのような意味を産出するのかは予見不可能だ。現前において人や物(俳優やセット)を知覚するとき、私たちはそれを「意味を欠いた」ものとして知覚するのでもない。鋳鉄製のストーブは「一つの極めて特殊な鋳鉄製のストーブ」を意味し、観客の関心をその物質性に向ける。私たちは何かを知覚してから、その意味を解釈するのではない。意味は知覚行為において既に成立している。
ただし、この現象が現れると、「全く別種の意味創出」が可能になる。「知覚された物は能記すなわち記号媒体として知覚され、その能記に多種多様な連想—観念、思い出、心情、思考—がその所記つまりその可能な意味として結びつく」(73)。これがどのようなものになるのかは観客によって様々。みんな別々の連想を持つ。それは「好き勝手」ということではない。連想は観客を「不意に襲う」ものだ(「コンブレー」)。
現象そのものへの集中と現象が引き起こす連想への集中の間を揺れ動くことが、「現前(Gegenwart)の知覚秩序」だ。他方、「表象=再現(Repräsentation)」の知覚秩序は人や物を「記号として知覚する」ことに対応する。「登場人物とその虚構世界あるいはまた他の象徴秩序」がそれで創出される。
この二つの知覚秩序はいずれも、どちらか一方の秩序が安定する場合に支配的になる他の諸原理に従って意味を産出する」(74)が何を言っているのか分からない。「この二つの知覚秩序が意味を産出する原理は異なっていて、それぞれ、どちらかの秩序が安定する(?)ときに支配的になっているのだ」という意味なのかなぁ。そうみたい。例えば、表象=再現の知覚のモードが安定すると、「後はもう、知覚者という主体にとって登場人物、虚構の世界、象徴的秩序を生み出すという観点で重要な要素しか知覚されず…」ってあるから。
私はポスト構造主義には疎いので書いて良いのかどうか(合っているかどうか)悩むけれど、ここでのRepräsentationは「表象=再現」と訳さない方が良いと思う。「表象」概念の持つ範囲はこの文脈には広すぎる。端的に再現か、あるいはどうしても「表象」の語を使いたいなら「再現的表象」「再現表象」じゃないかなぁ。現前で連想が現れること(コンブレー)だって「表象」じゃないのかしら。
いずれにせよ、二つの秩序のどちらかだけが支配的であるような上演はあまりない。知覚の二つのモードの間を観客はさまよう。

(4) 上演の出来事性 (Ereignishaftigkeit)

ここで「出来事」と訳されているEreignisは、私には「生起」と訳した方が良いように見える*。まあ、どう訳しても問題のある言葉(ハイデガー全集では「性起」だっけ?)だけれど、フィッシャー・リヒテがEreignisの五つの特徴として挙げていることがらは、「出来事」という訳語からは直感的に納得できないのではないかしら。

1) 上演が演者と観客の相互作用から生じる自己創出(オートポイエーシス)的プロセスで生み出されるのだとすれば、それは作品ではなく出来事の性質を持つ。つまり上演は上演の過程としてのみ、過程においてのみ生じる。上演は出来事としてのみ生じる。
2) 出来事ならば反復不可能
3) 誰も完全な支配力を持たないという点でも出来事的。意味の「創発emergence」だ。フィッシャー・リヒテの言う創発とは、簡単に言えば、全体の知識がいかに完全であったとしても部分の知識から予測不可能であるような状態のことなのだろう。「予測不可能性」が創発性の必要条件である。知覚も、知覚に結びついた意味の創出も、参加者の誰一人にとっても予測できず、「降りかかる」「起きる」ものだ。
4)上演の持つ出来事性のゆえに、観客には独特の経験が可能になる。参加者は決定し決定される主体になる。完全に自律的でも、完全に他律的でもない。
二項対立的な対概念で把握できるもの—自律的主体vs他律的主体、芸術vs社会/政治、現前vs表象=再現—が上演においては二者択一のモードではなく二者共立のモードにおいて経験される(78)
5) 二者択一ではなく共立なら、両者の移行、不安定性、境界の解消に関心が向き、それもまた「出来事」になる。そこで重要なのは両者の「間zwischen」だ。「この対立するもの同士の間に、それらを分け隔てる空間が開かれ 、一方から他方へと通ずる境界になる。間はこのように特別に重視されるカテゴリーになる。原文分からないけれどdas Zwischenならますますハイデガー的。
さて、境界経験はターナーの概念で、文化上演で重要だ(通過儀礼など)。でも文化上演ではそれは取り消し不可能な境界経験だが、芸術経験はその点で独自だ。
芸術経験の場合、それが可能にする境界経験は、何か別の目標にいたる過程ではなく、それ自体が目標なのである。この種の経験を私は美的経験と呼ぶ。つまり、美的経験では、境界、通過、通行それ自体を経験すること、すなわち変化の過程そのものが重要であり、それに対して、非美的な境界経験では何かにいたるための通過、あれやこれやに変わるための変容が重要なのである。…美的経験を一種の境界経験と規定することで美的なるものの新たな理解が導入される。83
こうして、ようやく、芸術的な上演経験を他の上演経験から区別する特徴が得られた。これらが、上演は全員が同じ場所に集まる行為遂行的な「催し」だ、という作業定義から演繹的に導き出されるのがフィッシャー・リヒテの偉いところだと思う。
訳者の後書きだと第一部をきちんと理解することが大事だそうなので、第二部以降はもう少し簡単にまとめたい。

* この本にはハイデガーの名前は引用されていないのだけれど、「世界内存在」「間」とかいかにもハイデガーを前提にしているような言葉はちりばめられていて、その中でもこの「出来事」性は最たるものだ。訳者はいずれもフィッシャー・リヒテの直弟子さんなので、よそ者が「ハイデガーじゃない?」とは言えないけれど…
なお、訳者は解説で、彼女の使う「現象」は「とりあえず哲学以前の意味で用いている」(330)と書き、その根拠として、フッサールの「現象」概念と違うから、と言っているけれど、ここは同意できない。フッサールにとってはcogito的な「意識」の志向性との関係で「現象」が問題になっていたのだけれど、この本で見る限り、彼女の「現象」への関心は、見ている誰か一人の意識のありようにはないのであって、フッサールはとりあえず無関係なのはその通りだが、哲学的に「現象」を使えばフッサールになるわけでもない。「現象」自体はプラトン以来、哲学的にはありふれた概念で、彼女もその伝統に従っている。
もう一つ、訳者解説に同意できないところは、次の記述だ。
ここを素直に読めば、観客は「鋳鉄製のストーブ」「針のない時計」という「意味」を知覚していることになる。そしてこの局面をフィッシャー・リヒテは「ある現象を…現象的存在において知覚する行為」(同所)であるとしている。だが、ある物体が単なる(例えば)赤茶色をしたずんぐりした物体ではなく「ストーブ」で(中略)あると知覚することは、すでにある程度、「表象=再現の知覚秩序」ないし「象徴的秩序」に入り込んでいるといえるのではないだろうか。(331)
しかし私たちはまず知覚し、そしてそれからその意味を解釈するのではなく、まず何かをまさにそのものであるとして知覚するというのが、彼女の基本的な考えであり、現象的知覚は意味を欠いたものではない。 あるものが「ストーブ」として私たちに見えるとき、私たちはそれを「ストーブ」として知覚するのだ。もし、それが「赤茶色のずんぐりした物体」にしか見えないなら、私たちは再現秩序の中に持ち込んで、つまり虚構世界的文脈から、それを「ストーブ」として理解するだろう(例としては野田のThe Beeにおける割り箸=指が良いかな。その場合でも、私たち(日本人)は、まずそれを「割り箸」として現象的に知覚するが、西欧人は違うかもしれない)。だが「ストーブ」に見えるときには、現象的にそれは「ストーブ」なんだ。

2013年5月8日水曜日

Chim↑Pom展@岡本太郎記念館を観てきました。

岡本太郎記念館のChim↑Pom展を観てきました。「明日の神話」事件の時、岡本太郎記念館長がメジャーなメディアで唯一肯定的に捉えていたことを思い出しました。それがきっかけになった展覧会です。最大の目玉は、岡本太郎の遺骨を使った"Pavillion"。四〜五メートル四方のホワイト・キューブの奥に骨片を展示してあります。まあ、それはコンセプチュアルには分かりやすいです。
展示は一階のアトリエ、二階、庭に分かれ、アトリエでは二年前に話題になった「明日の神話」補完作品(Level 7 feat. 「明日の神話」)がオリジナルのデッサンとともに飾られています。
二階のヴィデオ作品はカラスを使ってカラスを呼び寄せるというアイデアを、渋谷と原発の立ち入り禁止地域でやったもの。去年のワタリウムの展示では国会議事堂前あたりでやっていたような記憶があります。これがインパクトは強かったなぁ。庭に、岡本太郎の作品と並べて解説なしで置かれた"Level 7..."の立体作品も印象的。
Chim↑Pomの展覧会は、当時MOTの近所でやったもの、去年ワタリウムでやったもの、今回と観たのですが、だんだん余裕が出てきた気がします。今回はどことなく馴れ合い感もあります。ただし、この点、私が遺骨とかそう言ったものへの感慨を殆ど持たない人間であることが大きく影響して社会とずれた感想になっているのかも。

こうやって岡本の作品がChim↑Pomと並んでいるのをみると、Chim↑Pomに目立つ「悪意」が岡本の作品群には全くないのに驚きました。
あの時に自分のサイトに書いたのですが、東京電力は、「明日の神話」渋谷誘致プロジェクトの協賛企業でもありました。そういうことも考えると、「悪意」が余裕と結びつくとちょっと危険な感じではあります。
http://www.peeep.us/46ea06ce (もとは展覧会トップページなのでpeep.usで保存)
にある館長の余裕綽々の言葉に彼らが飲み込まれているのか、それとも悪意はそれを嘲笑する強度を保っているのでしょうか…
(なお、本展覧会は写真撮影可でした)

ゴミ袋のレプリカ
Pavillion奥に遺骨
Level 7
庭にあった

2013年5月7日火曜日

『レミング』赤旗劇評五月一日


Masahiro Kitano
五月一日の「赤旗」に、松本雄吉演出の『レミング』の劇評が掲載されていました。メーデーの名刺広告の影響で、いつもと文化欄のページが違っていて見落としていました。今日掲載誌が送られてきて確認。 時間をおいて改めて読むと、ちょっと今回の劇評の不出来にげんなりします。抽象的でなにも伝えられていない。反省。言いたかったことを箇条書きにすると次のような感じです。
 (1) 『レミング』は寺山のさまざまなコンプレックスが寓意的に表された面倒くさい作品。それは役者の「身体性」を強調する演技によって過剰にグロテスクに表現されることを求めている。
 (2) 他方、『維新派』はすべてを断片化し、ミニマリズム的な「差異と反復」によって強度を与える単純な舞台。松本的世界には「白塗り」で表情のそれほどない「少年たち」とその大阪弁によるスタイリッシュな様式化が不可欠。
 (3) 両者はもともと水と油で、観客としての私の関心は松本が寺山的世界をどう破壊するかにあった。
 (4) でも意外にテキストはいじられていない。断片化は限定的。
 (5) 等身大で、人間的魅力に溢れた俳優たちは、(1)とも(2)とも違うのだけれど、どちらの要素もある程度上手く取り入れていて、乳化剤の役割を果たしていた。(もちろんそれは演出意図でもあるのだろう)。
 (6) 音楽かっこいい。
 (7) 常盤貴子さんきれい。

2013年5月2日木曜日

Let's Note復活

四年ほど前に買ったLet's Note CF-N8がとても重くて使い物にならなくなっていた。スタートメニューを開くのに数秒かかるし文字も0.5秒くらい遅れて表示される。CPUメーターとかメモリメーターで余裕があるのに鈍いから、てっきりハードディスクの異常だと思い込み、お金が出来たらSSDに換装しようと考えていた。メインの環境は今Macだし日常的にはWindows必要なのは昔のPerseus 2.0とFineReader、それから事務から送られてくる一太郎書類開く時くらいでそれらはParallelsであまり不自由はしていない。(Oxford Classical Dictionaryのwindows版とか、OEDのWindows版とか、Mac上のParallelsに移したいな、と思って移せていないのはあるのだけれど、どちらも使わなくなった。)だからSSD購入計画は後回しになる一方。ハードディスクと同容量の500GBのSSDは高くてなかなか手が出ないし…

今回、Windows実機が必要になる事情があって、半年ぶりくらいで起動したら、あれをアップデートしろこれが最新じゃないととても煩い。昔はGoogle Desktopが便利だったけどとても不細工だ。そう言えばGoogle Desktopってとっくになくなったし、アンインストールしよう。アンチウイルスソフトもなんか古いし新しいのにしよう、ああ(パソコンを最適化するという売りの)こんな変な常駐ソフトも入れてたんだ。試用期間がすぎて警告が出ているしアンインストールしようとしたらまず終了せよと言ってくるけれどトレイから終了メニューが出ないよ—。あれ、アンチウイルスソフトもアンインストールに失敗する。失敗しましたとだけ言うからどうすれば良いのかも分からない。ググるとメーカーサイトにアンインストール専用ソフトが置いてある。ダウンロードして起動するも動かない。なぜ?。あっ、このパソコンはWindows 64bitだったのに32bit用のをダウンロードしたんだ。やりなおし……さっきのトレイから終了メニューが出ないやつはmsconfigでスタートアップ項目から外して再起動か……なにこのスタートアップ項目? なんかやたら知らないものがある。同じ名前のもいくつもある。これはFinder機能を拡張するやつだ。そう言えばそんなソフト使ってたなぁ、これも今の僕には要らないなぁ。マウスの機能拡張もあるけどそのマウスもう持ってないや。ついでに殆ど使わないソフトのアップデート通知も外して再起動だ。あーWindows Updateが山ほどあって再起動がまだ出来な……

のろいパソコンに切れそうになり、アンチウイルスソフトのアンインストールに何度も失敗するのに泣きながらいろいろ外した。こりごりしたのでアンチウイルスソフトは同じメーカーのではなくMicrosoft Security Essentialsに変更。

……嘘のようにサクサク動いた。

たくさんまとめて外したので、「どーれのせいなのか、いーまもわからない。なーにがわーるいのーか、いまもーわからーなーいー」状況なのだけれど、ちょっと驚きの結果。そういえば、昔、パソコンを初めて買った同僚が、買って何もしていない状態なののにフリーズする、というのでプレインストールされていた山ほどの試用ソフト、ダイヤルアップ接続ソフトをスタートアップ項目から外してあげたら復活したことがあるのだけれど、自分が同じ罠に嵌まっていたとは…

思い込みでSSD換装しなくてよかった。これでまたDropBoxの常駐とか戻すと遅くなるのかしら。このパソコンは常時接続はしないので、Dropboxは要らない……ことにしよう。

その後Dropbox常駐戻したが大丈夫だった。