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2013年4月1日月曜日

オイディプス第二エペイソディオン582-600


582−600行


いいえ、私がしたのと同様にご自分に聞いて下さればわかります。まずお考えいただきたいのは、もし同じ権力を持つとしたら、安穏に何の恐れもなく支配するより恐怖の中で支配することを望むものかどうかです。少なくとも私には、国王の名を得ることの方が国王のように振る舞うことよりも望ましいとは思えない。思慮ある人間なら誰もがそうでしょう。現在、私はあらゆるものを、嫉妬されることもなくあなたから手に入れている。自分が国王であれば、嫌なこともたくさんしなければならないでしょう。苦労なしで権力があるという現状よりも王位の方が甘いなど、どうしてあるでしょう。自分の得になっている名誉を捨てて別のを求めるほど私は愚か者ではない。今は、私は誰とでも仲良くし、誰もが私に挨拶してくれます。今は、あなたに何かして欲しい者は私に頼みに来ている。うまく行くかどうかはすべて〔自分を指して〕ここ次第だからだ。私がこの暮らしを捨て、もう一方を求めるなどということがどうしてあるでしょうか。分別ある考えを持つ心は邪悪ではあり得ないのですから。(582-600)」

クレオンが宮殿に来るにあたって用意してきた長い弁明の前半部分だ。この弁明は、(1) テキスト解釈上、 (2) 作品解釈上、 (3) 制作年代の議論上の問題を含んでいる。(2)および(3)については北野(2014)を参照(今年の紀要に書く)。
583 「私がしたのと同様にご自分に聞いて下されば…」「自分に言葉を与える」=考える
585「恐怖の中で支配する」ξὺν φόβοισι 「恐怖とともに」だが、次行のἄτρεστον(「恐れに震えることなく」「何の恐れもなく」)および590行の「嫉妬されずに」からみて、国民が支配者を恐れる恐怖政治のことではなく、支配者が自分に嫉妬して自分を追い落とそうとする者を恐れることを意味する。ただし590行にはテクスト校訂上の議論があり、写本のφόβου (恐怖なしに)をφθόνουに読み替えるDawe(もともとはBlaydesの校訂)の解釈を採った。オイディプスはクレオンの陰謀を疑うとき(382)すでに「嫉妬」について語っており、五行前の単語が反復されるのは締まりがないとDaweは考える。
588「国王の名を得ることの方が国王のように振る舞うことよりも」やや意訳した。より直訳調にすれば「国王であることが国王の行為をするよりも」。ある (εἶναιbe)とする (δρᾶνdo) の対比、男性形のτύραννος (王である)と中性複数のτύραννα(王の行為をする≒王権をふるう)の対比がある。ここでのτύραννοςに否定的なニュアンスはない。
593「苦労なしで権力があるという現状」。意訳が入っている。「苦労なしの支配ἀρχήと権力δυναστεία」が、クレオンの現状のことだという点を強調した。「支配と権力」の二つの言葉はここではあまり意味の違いがないと考えた。
5967「今は、私は誰とでも仲良くし、誰もが私に挨拶してくれます。今は、あなたに何かして欲しい者は私に頼みに来ている。」「誰もが私に挨拶してくれます」の前にも、原文では「今は」がついている。
599「この暮らしを捨て、もう一方を求める。」直訳すると「これを捨ててあれを取る。」ただ、日本語では、「あれ」と言うときに、それが今まで述べてきた対比項である「王位」であることが明確にならないと考えた。また、「これ」「あれ」も何を指すのかいまいちはっきりしないので補った。「もう一方」は岡訳(「もう一つの方」)やJebb (those others)を参考にした。
600「分別ある考えを持つ心は邪悪ではあり得ないのですから。」Daweが言うように、ここには三つの解釈可能性がある。(1) 本訳、(2)「邪悪な心は立派なことを考えることは出来ないのですから。」(3)「立派な考えを保ちつつ、邪悪であるような心はありえないのですから。」(2)(3)は明らかにクレオンの弁明の文脈に合わない。DaweManuwaldなど削除記号を入れる研究者も多い。しかし、クレオンは、恐怖ある王位よりも苦痛なき権力を享受する方が快適だと考えていた。分別ある心が邪悪(この場合には王位簒奪を狙うこと)ではあり得ないのは、合理的に考えれば、悪をなすよりもなさない方が「甘く」「得になる」からだ。分別ある心が邪悪ではあり得ないという普遍命題は、ここでは、「犯罪は引き合わない。それゆえ、犯罪を試みることは分別のあることではない」という功利計算から導かれたものである。このことは、クレオンの態度と弁明に、さらに影を投げかけるだろう。

エウリピデス『ヒッポリュトス』の弁明との比較。

クレオンの弁明はエウリピデスの悲劇におけるヒッポリュトスの弁明との類似がしばしば指摘される。ヒッポリュトスはファイドラの求愛を却け、ファイドラは彼が自分をレイプしたとの遺書を残して自殺する。父テセウスは、ファイドラの遺書を信じ、ヒッポリュトスが自分の王位を簒奪する意図を持っていたと難じる。ヒッポリュトスはそれに対して次のように答える。

「[私はあなたの女相続人をベッドに連れて行くことであなたの家を我がものにしようと望んでいるのでしょうか。そうだとしたら私は愚か者であり、全く分別を持っていないことになるでしょう。それとも、王になることτυραννεῖνは有徳な人間にとっても甘いとお考えでしょうか。そんなことはありません。王権は、だれであれそれを好む人間の心を腐らせてしまうからです。(1010-1014)]私としては、ギリシアの競技で一番強くありたいと望みますが、市では第二位で高貴な友人たちとともに幸せであり続けたいと望みます。そこには、目的を果たすチャンスがありますし、また、危険がないことは王権よりも大きな喜びを与えてくれます(1015-1020)。」

確かに、ヒッポリュトスの言葉はクレオンの言葉に似ている。とりわけ、議論の余地のある1014行以前の部分を削除しない場合にそうだ。どちらも、王であることよりも第二位であることの方がある美徳を持った人間には好ましいと述べている。また、どちらも、権力の中心にいないことの「危険のなさ」を強調している。しかし、違いも大きい。
(1)         第二(三)位であることが好ましいとする理由が異なる。ヒッポリュトスが第二位であることを好むのは、彼の関心がもっぱら「ギリシアの競技」にあるからであり、個人的な理由だ。かれは王と同じ権力を危険なしに楽しみたいがゆえに、ではなく、危険なく、自分の目的を追求出来るがゆえに、第二位の方が良いと考えるのだ。責任も、恐怖もなしに権力だけを楽しむことを是とするクレオンの考え方は、かれのsecond rated nature (Dawe)を明らかにするが、ヒッポリュトスは自分の理想追求を社会的地位よりも重視しているに過ぎない。
(2)         クレオンは第三位であることが「分別のある人間」すべてにとって王位よりも望ましいと述べている。王位より第三位の地位の方が甘く、得であり、それゆえ分別ある人間は王位簒奪など望まない。これらはクレオンの場合にだけ当てはまる特称命題ではなく、普遍命題だ。そして、先ほど述べたように、その根拠は王位より自分の第三の地位の方が「甘い」という点にある。なぜならば、そこでは権力は王と等しく、責任や恐怖といった「苦痛」は免れているからだ。分別ある人間はこの第三の地位を捨てて王位を選ぼうとはしないものだ。自分は分別ある人間であり、それゆえ、自分は王位簒奪など考えていない。
分別ある人間は、すべて、責任や恐怖なしの権力を好むものだ、というこの普遍命題はかれのsecond rated nature (Dawe)を示し、少なくとも高潔さとは無縁である。仮に1014までを残すとしても、ヒッポリュトスはこうしたソフィスト的推論を行ってはいない。ファイドラを籠絡することでファイドラに取って代わるという考えは愚かだ、というのがその第一の主張で、「王権は人を腐らせる」というのが第二の主張だった。どちらも、テセウスにそれを語りかける適切さはともあれ、ソフィスト的詭弁とは無関係だ。
クレオンの推論は、彼自身が今「危険なしに権力を楽しんでいる」どころか、王位簒奪の陰謀という疑いをかけられて追放ないし死という危険のただ中にあるという状況からして、一般論としても成り立たない。彼が、オイディプスという王個人への信頼に自分の議論を基づかせているのならば、それは皮肉な効果を持ちつつも、クレオンの忠誠を示すものにもなっただろう。しかし、「思慮ある人間ならすべて第一位よりも第三位を好む」という普遍命題として提示している点で、この推論は偽であり、クレオンがソフィスト的洗練を欠いていることも示している。



2013年3月28日木曜日

オイディプス第二エペイソディオン574-581行


574-575

クレオン「あの人がもしそう言ったのなら、それはあなた自身がご存知のことです。あなたは今私に尋ねたのだから、私もあなたに尋ねるのが正しいと思う。」

オイディプスの尋問をクレオンは簡単に受け流す。テイレシアスの予言内容をクレオンが知っていたと考えないほうが良いだろう。彼はその件に触れないことを望む。「あなた自身がご存じのこと」は「私の知ったことではない」を含意する(Kamerbeek)。そのニュアンスを強調するなら「あの人がそう言ったとしても、それは私のあずかり知らぬことです。」と訳すことも出来よう。しかし「あなたが知っていることだ」は「私の知ったことではない」と同義ではないので、そこまでやると訳としては解釈過剰にも思える。
575行「あなたが今私に聞いた同じこと(ταὔθ' ἅπερ)を、私もあなたに聞くのが正しいと思う。」但し写本では指示代名詞のταῦθ’。既述のことではないので、刊本はほぼこの形に変更している。「同じこと」とは問いの内容が同じ、というのではなく、問いの仕方が同じ、ということで、オイディプスが一行対話でクレオンに尋ねたように、クレオンも581行まで一行対話でオイディプスに尋ねる。「あなたが今私に尋ねたのと同じやりかたであなたに尋ねるのが正しいと思う」の方が直訳としては良かったかも知れないが、クレオンがオイディプスに問いかけを行う正当性の「理由」が関係節で示されていると考えた。岡訳「わたしにおたずねがあったからには、同様にわたしもおたずねしたい」はこの二つの点では優れているが、δικαιῶのニュアンスを伝えるには弱い気がする。

579581

オイディプスの予測に反して、クレオンはライオス殺しのことなど尋ねはしない。オイディプスが姉と結婚しており、姉のイオカステはオイディプスと同等の権力を持っており、「三番目に私も等しい権力を持っている」ことを確認する。「あなたは姉と、この地を等しく統治しておられるな?579Ἄρχεις δ' ἐκείνῃ ταὐτὰ γῆς ἴσον νέμων;」は問題を孕んでいる。
νέμωという動詞の両義性のゆえに、(1)「あなたは彼女と同等にこの土地を支配し、等しい権力を持っているな?」、(2)「あなたは彼女と同等にこの土地を支配し、等しい権力を彼女に分け与えているな?」という二つの解釈の可能性があるからだ。(2)なら、オイディプスが一番、イオカステが二番、という順位だが、(1)はそこが曖昧になる。オイディプスの「あれの望むことはすべて私から与えられている(580)」という答え、またその後のやりとりは、クレオンが(2)を含意していたように進む。しかしもし(2)を言うのであれば、王弟の王への問いかけとしては、二人称を用いて「あなたが」姉と同じかどうかを等のではなく、三人称を用いて「姉が」あなたと同じ権力を持っているかどうかを問うのが適切だろうからだ。しかし、「あなたは姉と結婚しているな?」に続く上記の問いは、(1)の含意を響かせている。オイディプスが結婚によって王位を与えられたことが背景にあるからである。また、「あなたたちふたりに加えて三番目に私も等しい権力を持っているのではないですか?ἰσοῦμαι σφῷν ἐγὼ δυοῖν τρίτος; 581)」もイオカステが権力の中心にあることを暗示する。オイディプスはイオカステと結婚したことによって彼女とἴσον(同等)な権力を持ち、クレオンはイオカステの弟であることによって彼ら二人とἰσοῦμαι(対等)であると。「三番目として対等」という矛盾を内包した言い方は面白い。


2013年3月26日火曜日

オイディプス 第二エペイソディオン561-569行


561行

クレオン「数えればずいぶん昔のこと。かなりになります。」

すでにプロロゴスで、ライオス殺害犯の捜査は、それに続いて起きたスフィンクスの厄災への対処のために満足に行えなかったとクレオンは語っている。だから、ここで、オイディプスが「どれ位になるのか」を聞くことに意味があるとすれば、オイディプスはスフィンクスがどの程度の期間テバイに厄災をもたらしていたのかを知らないのだろう。その終点の時期はオイディプスは知っているのだから。クレオンの答えはプロロゴスよりも明確さを欠いている。
以下の応答は基本的にはプロロゴスで得られた情報の確認のための反復だが、オイディプスは、それに、テイレシアスが当時予言者であるなら何もしなかったのはなぜなのか?を付け加えている。次の推論プロセスがここでは前提とされている。(1)テイレシアスの予言の術はいかさまである、あるいは少なくとも、テイレシアスにはライオス殺害犯を知る「知恵」はない。(2)テイレシアスが当時役立たずだったことをクレオンは知っているのだから、(1)をクレオンは知っている。(3)もし、(2)が正しいなら、オイディプスにテイレシアスの言葉を得るようにとのアドヴァイスを行ったのには別の意図がある。(4)実際のテイレシアスの言葉からして、その意図は王位簒奪でしかありえない。
568のオイディプスの「ではどうしてその時、あの「賢者」は何も言わなかったのだ?」は(1)の確認である。それに対するクレオンの返答は上手い肩すかしになっている。
「分かりません。知らないことについては黙っていたいです。」569
「黙っていたいですσιγᾶν φιλῶφιλέωは「愛する、好む」から、「〜するのが好みだ、〜するのが流儀だ」の含意が生まれる。「黙っていたいです」はそのニュアンスを外していないだろう。この言葉はクレオンという人の性格を暗示するものになっているが、ここではまだ曖昧だ。しっぽを掴ませないための狡猾さとみることも出来るし、無責任なことを言わない高潔さとみることも出来る。

57073行

オイディプス「だが次の点だけは分かっているはずだし、まともならば喋ることになるだろう。」
クレオン「それは何です? 知っていればお答えします。」
オイディプス「こうだ。お前とぐるでなければ、ライオス殿を殺したのが私だとあいつが言う筈がないということだ。」

オイディプスは、問い詰める形でクレオンから自白を引き出すことが出来なかったので、自ら主要論点を持ち出さざるを得ない。文法的には571570572に割り込む形になる。572は名詞節で、ややもったいぶった接続詞がついている(ὅτιのかわりにὁθούνεκ’)。しかし、行頭を「次のことだけは(τοσόνδε γ' )」で始め、とあらかじめ名詞節の内容を指示代名詞でうけている570はクレオンが「どんなことを」と問いかけるのをあらかじめ予測している。ここで間を置き、クレオンから問いを引き出そうとしているのである。だから、ὁθούνεκ’(こうだ、と訳した)は意味の上では570の「次のこと」と571の「それは何です」の両方を受けている。