赤旗に、平田オリザの「冒険王」「新・冒険王」の劇評を掲載していただきました。
「冒険王」は初めて観たときに、目の前にいる若者たちがまるで自分自身の過去のように見えて、とても衝撃を受けた作品です。久しぶりに観返して、同じ感触は抱いたものの、衝撃はそれほどでもなかったのは、二回目だからなのか、それとも私が年をとったからなのか…
出会ったことがない何かをダラダラと待っているという感覚は、20代終わりの頃の自分の感覚そのものでした。
「新・冒険王」は、テーマはやや違ってゆきますが、これも面白い作品でした。
アテネの知り合いに昔聞いたのですが、シェンゲン協定以前、ときどきトルコに行くと、(出国→入国)でヨーロッパにノービザで居続けることが出来ました。「冒険王」にはそのころの状況が反映しています。その知り合いもそうしてアテネに十年以上暮らしていて、登場人物の一人によく似ています。ギリシアがEUを脱けるとアテネはまたそうした感じになるかも知れません。
2015年6月18日木曜日
2014年9月21日日曜日
デーア・ローアー 『無実』東京演劇アンサンブル
デーア・ローアーは、岡田利規演出の「タトゥー」、東京演劇アンサンブルでの「忘却のキス」を見た記憶がある。「忘却のキス」がストーリーレベルで分からなかったのに対し、「無実」は分かりやすい。
なんか最近観劇を「外す」ことが多くて、今回はかなり外している可能性が高いと自分でも予想していた。
舞台は、ドイツの港町、ということは北海に面した町で、ケルンかハンブルク位しか行ったことないけれど、そんな感じのところ。不法滞在の移民が多く、港にはストリップバーもある。「元コミュニスト」を自称する女性が出てくるので、旧東ドイツの地域なのかもしれない。(西にはほとんどいなかったもの)。
(1)冒頭、不法滞在移民の二人の黒人が、海で溺れかけている女性を見つける。その一人エリージオは助けようとするが、不法滞在がばれると強制送還になるかもという相手ファドゥールと言い合いをしている間に、女性を見失ってしまう。エリージオは死んだその女性のことが頭から離れない。
ファドゥールは海辺で日傘と本を探す盲目の少女アプゾルートに出会う。彼女はストリッパーで、ファドゥールは彼女に恋をし、たまたま拾った大金でその目を手術しようとする。
(2)医学部を辞めたフランツと妻ローザの暮らす家にローザの母ツッカーが転がり込んでくる。ツッカーは糖尿病が悪化して足を切除しなければならなくなって一人暮らしが続けられない。フランツは遺体処理の仕事を見いだす。
(3)老女性哲学者(設定では)は、自分の書いた「世界の不確実性」の内容に絶望している。因果関係は後付けにすぎない。世界のすべては不確実だと。彼女は夫に八つ当たりして憂さを晴らしている。
(4)身寄りのない老女ハーバーザットは犯罪被害者の家を訪ねては、自分が犯人の母親だといつわってかえって同情されることを生きがいにしている。彼女の正体はばれ、その行為は禁止される。
物語はこれら最初は無関係な四組のグループに分かれ、その間に、飛び降り自殺する男たちのスキット、それをいらいらしながら見ている見物人のスキットが(かなり時間をおいて)挟まれる。無関係な人物群は、徐々に緩やかに結びついて行くが、そのキーになる言葉は「世界の不確実性」だ。
作品は、多分、ブラックユーモア、グロテスク・コミックでいっぱいだと思う。冒頭の、溺れる女性を助けようとしたエリージオが言い合いになっている間に肝心の女性を見失うところからして、笑いの種は溢れている。ファドゥールとアプゾルートの出会いもそうだ。「見える」「光」「金色」「ライト」などの言葉はかなり危ないのだけれど大丈夫かなとおもわせるところも含めてギャグ満載なんだと思う。「世界の不確実性(多分不確定性)」の話が出てきた後で、目の前にいるローザが実は水死した女性だったとか、それを知ったときに彼女の水死が確定するとかも、まあ、笑えるかどうかは別としてシュレジンガーの猫のギャグだろうしサプライズなエンディングの筈だ。ハーバーザットの詐欺(お金を要求するわけではないけれど)もいらいらする不条理な場面だけれど、こんなに不快なだけの場面ではないと思う。
冒頭の場面はエリージオとファドゥールも同じ方向を向いているために、エリージオが女性を見失う効果が出ない。おまけに(特にファドゥールが)台詞でアップアップしている。その台詞の翻訳もとても不自然で、話し言葉になっていないし、日本語としてどうかしらと思うところもある。演じていて、さいの目を振るなよサイコロを振れよとか思わなかった?。音楽がずっとケルティックハープ一本なので、ドタバタ演技の入り込む余地がないし演技もずっと同じテンポ。何でドイツでアフリカからの移住者の話で都会なのにケルティックハープなの?エンヤのテープじゃなかっただけラッキーだと思えば良いの?みんながずっと前を向いて感情を外して台詞を言うのが異化演技だっての止めようよ。そんな演技見ていて何か面白かったり有意義だったりするの?老哲学者がなんで若いの? バリバリの頃のクリステヴァみたいなことをその頃のクリステヴァみたいな年齢の女性が言って人生の失敗感がでるの? 盲目の少女が全然盲目に見えないのと服がお嬢さん方向なのはわざとだと思うのだけれど、どういう効果をねらったの?ファドゥールとエリージオが世紀末伝説の雑魚みたいなプロテクター付きシャツを着ているのは何なの?セットが「除染された土」を入れた袋なのは分かったけどそれ何か効いてるの? 飛び降り自殺する二人は、唯一演出上笑いを意図した場面ではあったのだけれど、この雰囲気の中であの衣装と演技で客が笑うと思っていたの?だいたいあそこだけコミックなのおかしいとか思わなかった?全体にわたる視覚的なだささはドイツ演劇だからわざとそうしたの?
なんか最近観劇を「外す」ことが多くて、今回はかなり外している可能性が高いと自分でも予想していた。
舞台は、ドイツの港町、ということは北海に面した町で、ケルンかハンブルク位しか行ったことないけれど、そんな感じのところ。不法滞在の移民が多く、港にはストリップバーもある。「元コミュニスト」を自称する女性が出てくるので、旧東ドイツの地域なのかもしれない。(西にはほとんどいなかったもの)。
(1)冒頭、不法滞在移民の二人の黒人が、海で溺れかけている女性を見つける。その一人エリージオは助けようとするが、不法滞在がばれると強制送還になるかもという相手ファドゥールと言い合いをしている間に、女性を見失ってしまう。エリージオは死んだその女性のことが頭から離れない。
ファドゥールは海辺で日傘と本を探す盲目の少女アプゾルートに出会う。彼女はストリッパーで、ファドゥールは彼女に恋をし、たまたま拾った大金でその目を手術しようとする。
(2)医学部を辞めたフランツと妻ローザの暮らす家にローザの母ツッカーが転がり込んでくる。ツッカーは糖尿病が悪化して足を切除しなければならなくなって一人暮らしが続けられない。フランツは遺体処理の仕事を見いだす。
(3)老女性哲学者(設定では)は、自分の書いた「世界の不確実性」の内容に絶望している。因果関係は後付けにすぎない。世界のすべては不確実だと。彼女は夫に八つ当たりして憂さを晴らしている。
(4)身寄りのない老女ハーバーザットは犯罪被害者の家を訪ねては、自分が犯人の母親だといつわってかえって同情されることを生きがいにしている。彼女の正体はばれ、その行為は禁止される。
物語はこれら最初は無関係な四組のグループに分かれ、その間に、飛び降り自殺する男たちのスキット、それをいらいらしながら見ている見物人のスキットが(かなり時間をおいて)挟まれる。無関係な人物群は、徐々に緩やかに結びついて行くが、そのキーになる言葉は「世界の不確実性」だ。
作品は、多分、ブラックユーモア、グロテスク・コミックでいっぱいだと思う。冒頭の、溺れる女性を助けようとしたエリージオが言い合いになっている間に肝心の女性を見失うところからして、笑いの種は溢れている。ファドゥールとアプゾルートの出会いもそうだ。「見える」「光」「金色」「ライト」などの言葉はかなり危ないのだけれど大丈夫かなとおもわせるところも含めてギャグ満載なんだと思う。「世界の不確実性(多分不確定性)」の話が出てきた後で、目の前にいるローザが実は水死した女性だったとか、それを知ったときに彼女の水死が確定するとかも、まあ、笑えるかどうかは別としてシュレジンガーの猫のギャグだろうしサプライズなエンディングの筈だ。ハーバーザットの詐欺(お金を要求するわけではないけれど)もいらいらする不条理な場面だけれど、こんなに不快なだけの場面ではないと思う。
冒頭の場面はエリージオとファドゥールも同じ方向を向いているために、エリージオが女性を見失う効果が出ない。おまけに(特にファドゥールが)台詞でアップアップしている。その台詞の翻訳もとても不自然で、話し言葉になっていないし、日本語としてどうかしらと思うところもある。演じていて、さいの目を振るなよサイコロを振れよとか思わなかった?。音楽がずっとケルティックハープ一本なので、ドタバタ演技の入り込む余地がないし演技もずっと同じテンポ。何でドイツでアフリカからの移住者の話で都会なのにケルティックハープなの?エンヤのテープじゃなかっただけラッキーだと思えば良いの?みんながずっと前を向いて感情を外して台詞を言うのが異化演技だっての止めようよ。そんな演技見ていて何か面白かったり有意義だったりするの?老哲学者がなんで若いの? バリバリの頃のクリステヴァみたいなことをその頃のクリステヴァみたいな年齢の女性が言って人生の失敗感がでるの? 盲目の少女が全然盲目に見えないのと服がお嬢さん方向なのはわざとだと思うのだけれど、どういう効果をねらったの?ファドゥールとエリージオが世紀末伝説の雑魚みたいなプロテクター付きシャツを着ているのは何なの?セットが「除染された土」を入れた袋なのは分かったけどそれ何か効いてるの? 飛び降り自殺する二人は、唯一演出上笑いを意図した場面ではあったのだけれど、この雰囲気の中であの衣装と演技で客が笑うと思っていたの?だいたいあそこだけコミックなのおかしいとか思わなかった?全体にわたる視覚的なだささはドイツ演劇だからわざとそうしたの?
2014年9月17日水曜日
新国立劇場『三文オペラ』(赤旗劇評)
赤旗に新国立劇場の「三文オペラ」の劇評を書きました。
ソニン最高!最後の面会の場面での退場にダンディ坂野の持ちネタを持ってくる所なども素晴らしい。「示す」演技に徹している。
メッキーが「起伏が少ない」のは演出の意向か?って書いたのは、たとえば嫉妬の二重唱の場面でのメッキーの必死のごまかしがカットされていたり、いくつか、メッキーが面白くなるところをあえて抑えているように見えたから。ピーチャムに関しては、私が観たのが二日目というのもあり、第一幕冒頭の最初の見せ場がちょっと淡々としすぎているようにも見えた。笑いをとれていなかった。
字数の関係で書けなかったけれど、ピーチャム夫人のあめくみちこもとても良い。
台本は、ドスのメッキー、メッキース、匕首マックと主人公の名前が場面によって変わるのが気になった。総じて上品。でも、元になった(と書かれていた)光文社文庫(谷川道子)訳よりはずっと生きた日本語になっている(多分訳者本人の監修)。
翻訳戯曲のテキストと上演台本の関係としてはこれで良いと思う。戯曲テキストは語学的な正確さを崩せないけれど、上演台本はそうでもないのだから。
劇評はこちら
ソニン最高!最後の面会の場面での退場にダンディ坂野の持ちネタを持ってくる所なども素晴らしい。「示す」演技に徹している。
メッキーが「起伏が少ない」のは演出の意向か?って書いたのは、たとえば嫉妬の二重唱の場面でのメッキーの必死のごまかしがカットされていたり、いくつか、メッキーが面白くなるところをあえて抑えているように見えたから。ピーチャムに関しては、私が観たのが二日目というのもあり、第一幕冒頭の最初の見せ場がちょっと淡々としすぎているようにも見えた。笑いをとれていなかった。
字数の関係で書けなかったけれど、ピーチャム夫人のあめくみちこもとても良い。
台本は、ドスのメッキー、メッキース、匕首マックと主人公の名前が場面によって変わるのが気になった。総じて上品。でも、元になった(と書かれていた)光文社文庫(谷川道子)訳よりはずっと生きた日本語になっている(多分訳者本人の監修)。
翻訳戯曲のテキストと上演台本の関係としてはこれで良いと思う。戯曲テキストは語学的な正確さを崩せないけれど、上演台本はそうでもないのだから。
劇評はこちら
2014年5月22日木曜日
地人会新社「休暇」Holidays
久しぶりの赤旗劇評。思い起こせば半年ぶりだ。
タイトルがようわからんものになってしまった。ともかく保坂さんあまり心理主義的ではないけれど熱演。作品は問題多い。医学的ガン治療への偏見が強すぎて気持ち悪いレベルだ。
ハーブだのにんじんジュースだのなんだのっていう代替治療のことを緩和ケアって呼んでいるのは原作がそうなのかもしれないけれど、主人公のガンの進行がいまいち不明なのは翻訳の問題なのか作品の問題なのか。素直に観ていると、乳がん発見通常医療三ヶ月で再発代替治療で根治、七年経過後肺に転移(?)代替治療で一旦消えたけれどまた七年たってあちこちに転移っていう物語に聞こえる。全14年。それはあまりになさそうなのだけれど、どうなのだろう。
タイトルがようわからんものになってしまった。ともかく保坂さんあまり心理主義的ではないけれど熱演。作品は問題多い。医学的ガン治療への偏見が強すぎて気持ち悪いレベルだ。
ハーブだのにんじんジュースだのなんだのっていう代替治療のことを緩和ケアって呼んでいるのは原作がそうなのかもしれないけれど、主人公のガンの進行がいまいち不明なのは翻訳の問題なのか作品の問題なのか。素直に観ていると、乳がん発見通常医療三ヶ月で再発代替治療で根治、七年経過後肺に転移(?)代替治療で一旦消えたけれどまた七年たってあちこちに転移っていう物語に聞こえる。全14年。それはあまりになさそうなのだけれど、どうなのだろう。
2014年1月4日土曜日
浙江京劇団「オイディプス王」劇評@ワンダーランド
こちらに書くのを忘れていた。
小劇場レビューサイト&メールマガジンの「ワンダーランド」に去年11月に観た浙江京劇団の「オイディプス王」の劇評を掲載していただいた。
小劇場レビューサイト&メールマガジンの「ワンダーランド」に去年11月に観た浙江京劇団の「オイディプス王」の劇評を掲載していただいた。
タイトルはそのまんまだし、文章はちょっとだらだらしたけれど、掲載いただいて感謝。シェクナーの京劇版「オレステイア」のヴィデオへのリンクもあるのがお得な劇評です(読んでもらいたいのでこちらにはリンク載せない)。
2013年11月27日水曜日
2013年11月15日金曜日
今年のいろいろベストon 15/11/2013
年末になったらまた考えるとして、
今年観た演劇系ベスト4
(1) ザ・スーツ (2) レミング (3) 熱帯のアンナ (4) 黄金の馬車
(FTを見るのでまた変わるかも知れない。MIWAを見られなかったのが残念)
今年読んだミステリベスト3
(1) 冬のフロスト (2) われらが背きし者 (3) かかし
本当は(1)フロスト(2)フロスト(3)フロスト。
(3)の「かかし」はコナリーにしては少し弱い。ボッシュじゃないし。
レヘインもミステリ的な面白さじゃないし。
ドイツ系に面白いのが多かった。「白雪姫には死んでもらう」とか。
今年観た映画のベスト3
(1) ジャンゴ (2) ハンナ・アレント (3) 天使の分け前
ヴィック・ムニーズがかなり良かったけど、映画として良かったのかと言われると…
スター・トレックが、 せっかくのカンバーバッチなのに…
感動系を観てない。来年の一番の楽しみは「マチェーテ・キルズ」。
今年買った音楽
でiTunes探ってみて、今年殆どアルバムを買っていないのに気づく。去年はマッケラスを一生懸命買っていた。それを含め、最近ピリオド系しか買いたくない感じ。
キアロスクーロ四重奏団のベートーヴェン。
今年行ったコンサート
ウォーターズとリセウの蝶々夫人しか行ってない。
今年観た演劇系ベスト4
(1) ザ・スーツ (2) レミング (3) 熱帯のアンナ (4) 黄金の馬車
(FTを見るのでまた変わるかも知れない。MIWAを見られなかったのが残念)
今年読んだミステリベスト3
(1) 冬のフロスト (2) われらが背きし者 (3) かかし
本当は(1)フロスト(2)フロスト(3)フロスト。
(3)の「かかし」はコナリーにしては少し弱い。ボッシュじゃないし。
レヘインもミステリ的な面白さじゃないし。
ドイツ系に面白いのが多かった。「白雪姫には死んでもらう」とか。
今年観た映画のベスト3
(1) ジャンゴ (2) ハンナ・アレント (3) 天使の分け前
ヴィック・ムニーズがかなり良かったけど、映画として良かったのかと言われると…
スター・トレックが、 せっかくのカンバーバッチなのに…
感動系を観てない。来年の一番の楽しみは「マチェーテ・キルズ」。
今年買った音楽
でiTunes探ってみて、今年殆どアルバムを買っていないのに気づく。去年はマッケラスを一生懸命買っていた。それを含め、最近ピリオド系しか買いたくない感じ。
キアロスクーロ四重奏団のベートーヴェン。
今年行ったコンサート
ウォーターズとリセウの蝶々夫人しか行ってない。
「起て、飢えたる者よ」劇評@ワンダーランド
小劇場レビューメルマガとウェブサイトの「ワンダーランド」に、劇団チョコレートケーキ「起て、飢えたる者よ」の劇評を書きました。
直リンで
http://www.wonderlands.jp/archives/24646/
編集者とのちょっとしたご縁(同級生)で書かせていただきました。2000字以上で、他の人が読むこと前提に書いたのは初めてかも知れない。
ご縁が続くと良いのですが…
直リンで
http://www.wonderlands.jp/archives/24646/
編集者とのちょっとしたご縁(同級生)で書かせていただきました。2000字以上で、他の人が読むこと前提に書いたのは初めてかも知れない。
ご縁が続くと良いのですが…
2013年9月12日木曜日
ダイ・ハード5
ダイ・ハード6が日本を舞台にして制作進行中なのだそうな。武器の入手がとても難しそうに見えるけれど、原点の舞台が日本企業のビルだったのを思い出した。忍者は出てくるのだろうか。
そう言えばダイ・ハード5はチェルノブイリで放射能汚染のただ中でドンパチやるわ、核兵器用濃縮ウランを満載したヘリコプターが大爆発するわのトンデモだった。埃の放射能濃度を下げるコスモリバース(コスモクリーナー)みたいなスプレーも出てきて、そんなんあったら良いよね。4から5まで結構時間がかかったので、6早く作らないとウィリスおじいさんになっちゃう。
で、ダイハードファンも含め人気が低いのだけれど、わりと共通している批判の一箇所は的外れだと思う。Amazonの感想だと「劇場版ではトランクを開けると大量の銃器を難なく発見していたが(そんな都合よく見つけられるかよ!というトンデモな場面)」と書かれているシーンだけれど、これ高級ディスコかなんかの駐車場でおまけに高級車のトランクだから、今のロシアでそんな車でそんな場所に行くのはギャングに決まっていて、かつディスコは武器携帯不可だから車のトランクに仕舞って行くはずだ、という息子の判断に基づくもので、一応の整合性はある。息子ディスコの用心棒やってた設定もあるし。無差別にロシアの駐車場のトランクには死体や武器が詰まっていると言っているわけではないから。
旧共産圏の高級ディスコでギャングやテロリストに会うって設定は、XXXにもあったので、ハリウッドでは、そういう人しかそういうところに行かない、っていうお約束なのだろう。
そう言えばダイ・ハード5はチェルノブイリで放射能汚染のただ中でドンパチやるわ、核兵器用濃縮ウランを満載したヘリコプターが大爆発するわのトンデモだった。埃の放射能濃度を下げるコスモリバース(コスモクリーナー)みたいなスプレーも出てきて、そんなんあったら良いよね。4から5まで結構時間がかかったので、6早く作らないとウィリスおじいさんになっちゃう。
で、ダイハードファンも含め人気が低いのだけれど、わりと共通している批判の一箇所は的外れだと思う。Amazonの感想だと「劇場版ではトランクを開けると大量の銃器を難なく発見していたが(そんな都合よく見つけられるかよ!というトンデモな場面)」と書かれているシーンだけれど、これ高級ディスコかなんかの駐車場でおまけに高級車のトランクだから、今のロシアでそんな車でそんな場所に行くのはギャングに決まっていて、かつディスコは武器携帯不可だから車のトランクに仕舞って行くはずだ、という息子の判断に基づくもので、一応の整合性はある。息子ディスコの用心棒やってた設定もあるし。無差別にロシアの駐車場のトランクには死体や武器が詰まっていると言っているわけではないから。
旧共産圏の高級ディスコでギャングやテロリストに会うって設定は、XXXにもあったので、ハリウッドでは、そういう人しかそういうところに行かない、っていうお約束なのだろう。
「なぜ,ヘカベ」東京演劇集団風
マテイ・ヴィスニユックの「なぜ、ヘカベ」を観た。風の公演だ。わたしこの劇団が苦手だということは覚えていたけれど、そうか「第三帝国の恐怖と悲惨」を観ていたのか……
えっとかなりバイアスがかかっているのでその点を念頭に置いて下さい。
彼らはレパートリーシアターだから、これでヴィスニユックのこの作品は彼らのレパートリーとして継続的に上演されるだろう。エウリピデスにはトロイア滅亡後のトロイアの女たちを描いた作品が、『トロイアの女たち』以外にも一つあって、それが『ヘカベ』だ。上演年は不明だが『女たち』よりも前なのは確かなようだ。そこでは、アキレスの墓に生け贄にささげられるヘカベの娘ポリュクセネがまず描かれ、その後、ヘカベの末子ポリュドロスの惨殺の報せと、それに対するヘカベとトロイアの女たちの復讐が描かれる。ヴィスニユックの戯曲もポリュドロスとポリュクセネの運命を描く。エウリピデスの『ヘカベ』は、ひょっとしたら『トロイアの女』よりも面白いかもしれないのに、日本ではほとんど上演されずに可哀想な作品なので、タイトルつながりでエウリピデスの『ヘカベ』にも興味を持つ人が増えると良いなぁ。
一人の盲目の男(ホメロスらしい)がたたずむヘラの神殿の廃墟に、羊飼いとその娘がやって来る。彼女は満月になると、変になるらしい。男はその治癒を女神に嘆願しに来た。夜になると犬の鳴き声が聞こえ、盲目の男はそれがヘカベだと教える。
で、ヘカベの物語が始まる。
ホメロスたち三人が枠芝居で、ヘカベの話がその場所で起きた過去の物語なのだけれど、この作品には枠芝居がもう一つあって面倒。それは、ヘカベの話を「悲劇」として上演する神々の枠芝居だ。人間の悲惨は神様にとっての見世物だというわけで、それはそれで面白いけれど、二つの枠芝居の関係がとても曖昧。舞台は二幕。
前半のヘカベをめぐる芝居はヘカベという女性の紹介に終わった。舞台上での出来事と言えばヘカベが19人の息子たちの遺灰を数えて食べることくらい。これはある種象徴性を持つ行為だと思うのだけれど、抽象度が高すぎてつらさが伝わらない。「遺灰を数える」ように強いる男性のコロスがとても抑圧的なのだけれどこのコロスが誰(何)なのか分からないのもつらい。もっとも居心地が悪いのは「遺灰を数える」という行為がどういうことなのか(象徴の面ではなく具体的に)がよく分からないところだ。だって灰だよ。一個二個と数えられないじゃん。「見分ける」ということだと思うんだけれど、それにしても、舞台では何かを数えてたし。たとえば積み重なったものを「ああ、これはあの子だ、はっきり分かる」とか(それに類した台詞はあったと思う)所作を加えて分別して「数え」させたらまた別だけれど、立ったまま指さして数えたと言われても…
翻訳もいろいろ変だ。「ただの犬じゃなくて、雌犬だ」とか、「最初に生まれたパリス」とか(これは翻訳者ご本人に誤訳ではなく原文通りと指摘された。そのちょっと前に、「年若の息子、パリス」とあるのでテキストの問題とは思わず訳の問題だと思った。) エジスト(アイギストスのこと)とか。これらには訳ではなくテキストの問題(ちょい殴り書き)もあるのかもしれない。「ヘカベは十九人の子を産んだが、全員死んでしまった。トロイア占領の時に、ギリシャ人たちに全員、虐殺されたのだ」もテキストが悪いのだと思う。
たとえば、次のような台詞のシークエンスも、訳者が間違えるようなものではないので、テキストの問題(あるいはヴィスニユックの母語がルーマニア語だとしたら翻訳のもとになったフランス語テキストの問題)に見える。
これらは多分、戦争が始まってからの十年のことを語っている台詞で、語り手(神々)の語りの現在から十年前に何があったかを語っている台詞ではないだろう。「十年前」ではなく「十年間」。役者もスタッフも、何か思わなかったのかしら。それとも稽古の中で、こうしたことを役者が問題に出来ないタイプの劇団なのだろうか。オデュッセウスの「帰還には二十年かかる」という台詞も、多分訳じゃなくてテキストの問題。
たくさんのギリシア悲劇への言及が(主に神々の対話で)出てくるのだけれど、これ、知らなければ多分わけわかだし、知ってても別に面白くないくすぐりにしかなってない気がする。このあたり、ルーマニア人のヴィスニユックは、観客が知っていることを想定して書いているように思うのだけどどうなのかしら。
第二幕がポリュドロスとポリュクセネの話。エウリピデスではヘカベはトロイアの敗北の可能性を考え、国の滅亡を避けるために、トラキア王ポリュメストルに末子ポリュドロスを預けていた。ポリュドロスはトロイアの敗北を知ったポリュメストルに、ヘカベが預けるのに託した黄金目当てで殺される。その遺体がギリシアの宿営地に流れ着くところから『ヘカベ』は始まる。『ヘカベ』の後半は復讐劇で、息子の末路を知った彼女とトロイアの女たちは、ポリュメストルの子供たちを殺し料理して、ポリュメストルに食べさせる。そしてポリュメストルの目玉をくりぬく。この復讐は成就するが、それは彼女たちの運命に何一つ良い結果をもたらすわけではない。そのむなしさが『ヘカベ』の魅力だ。
ヴィスニユックは自分のヘカベをもっと受動的にしたかったのだと思う。それだけではなく、戦争の悲惨を個人の悪意の所為にしたくなかったのだとも思う。だから、ポリュメストルからも、ポリュクセネを生け贄にするオデュッセウスからも敵意や悪意を取り除く。その代わりに持ち出されるのが、「慣習(伝統)」で、敗戦国の王子をかくまわずに殺すのも、アキレスの墓に娘を生け贄にするのも「慣習」のせいなのだ。でもそんな慣習があったら、敗戦の可能性を見越して王子を他国に預けるという設定が成り立たない。ポリュクセネの生け贄に関して言えば、「それどんな慣習」? 慣習として記述できない。むりやり記述すれば、「戦争が終わったときには、勝利の国の一番の死んだ英雄に女を生け贄にする慣習があった。」なにそれ?(エウリピデスの『ヘカベ』では、アキレスの亡霊が「置いて行くなぁ。女をよこせ。でないと風を送ってやらん」と言ったことになっている。)
で、ヘカベが受動的になると次々彼女に襲いかかる不幸は加算されているだけで、深まって行かない。なにか(ヘレネに言い勝つとか復讐するとかの)能動的行為があってはじめて、それを含めての空しさと絶望の深まりが表現される。
もう一つヴィスニユックが意図的に取り除いているのは、王妃としてのヘカベの独特の存在だ。だから彼女はトロイアの女たちを登場させない。王妃としてのヘカベの存在は、トロイアの女たちの境遇を代表するものでもあるし、時にはそれと対立するものでもある。女たちがいれば「栄華を極めた王妃の位から奴隷の身に落とされたもっとも哀れな人」というヘカベについての台詞は相対化される。ふつうの暮らしをしてきた女性が「奴隷にされる」のは王妃がそうなるより悲惨さがまし、などということはない。でも、この舞台ではその台詞はそのまま通用してしまう。
第二幕の後半はポリュクセネの生け贄で、ヴィスニユックはポリュクセネとアキレスの恋愛関係の設定を入れることで、かえってその悲痛さを和らげてしまった気がする。それでも婚礼(=生け贄)の場面そのものはいたましいので、ここは良かった。良かったところはそれ以外に、ホメロス枠芝居のホメロスとヘルナンダ(彼女が現代ラテン系の名前に見えるのはヘカベの悲劇の普遍性の暗示だと思うが、違和感あり)の心根の優しさ。神々の仮面のおおざっぱにグロテスクなところ。(伎楽面に似ているという指摘があった。なるほど)。セットの廃墟感。
私には、ヴィスニユックは、日本の劇作家と比べても、きちんとした物語を作るのが得意ではないように見える。具体的なイメージを練るのも得意ではないように見える。オイディプスとライオスに棍棒合戦をさせる(それもライオスは「二股の棍棒」)のとどっちが、と言うと悩むところだが。
演技と演出に関しては、わたしこの劇団がかなり苦手だ、ということを再確認。間が多すぎて、言葉と動きが遅いとか、盲目を演じるのは苦労があると思うけれどサングラスはないだろうとか、ポリュドロスの年齢設定がみえないとか…もっと速いテンポでテキスト省略せずにやって欲しい。でもポリュクセネとその最期の演出と演技は好き。
主演女優を念頭に置いての宛書きとは言え初演だし、もう少しこなれてくれば即興性と自在さが出てくるとは思うので、レパートリー化には期待。細かいところを含めて作者や訳者ともっと詰めて冗漫さを減らせばある程度面白いものになるかもしれない。
後記:「最初に生まれたパリス」は原作通り、また、原作はもっと長く、上演にあたり刈り込んだとのご指摘を翻訳者よりいただいた。「テアトロ」の訳も参照して、記憶で書いた本文に手を入れた。
えっとかなりバイアスがかかっているのでその点を念頭に置いて下さい。
彼らはレパートリーシアターだから、これでヴィスニユックのこの作品は彼らのレパートリーとして継続的に上演されるだろう。エウリピデスにはトロイア滅亡後のトロイアの女たちを描いた作品が、『トロイアの女たち』以外にも一つあって、それが『ヘカベ』だ。上演年は不明だが『女たち』よりも前なのは確かなようだ。そこでは、アキレスの墓に生け贄にささげられるヘカベの娘ポリュクセネがまず描かれ、その後、ヘカベの末子ポリュドロスの惨殺の報せと、それに対するヘカベとトロイアの女たちの復讐が描かれる。ヴィスニユックの戯曲もポリュドロスとポリュクセネの運命を描く。エウリピデスの『ヘカベ』は、ひょっとしたら『トロイアの女』よりも面白いかもしれないのに、日本ではほとんど上演されずに可哀想な作品なので、タイトルつながりでエウリピデスの『ヘカベ』にも興味を持つ人が増えると良いなぁ。
一人の盲目の男(ホメロスらしい)がたたずむヘラの神殿の廃墟に、羊飼いとその娘がやって来る。彼女は満月になると、変になるらしい。男はその治癒を女神に嘆願しに来た。夜になると犬の鳴き声が聞こえ、盲目の男はそれがヘカベだと教える。
で、ヘカベの物語が始まる。
ホメロスたち三人が枠芝居で、ヘカベの話がその場所で起きた過去の物語なのだけれど、この作品には枠芝居がもう一つあって面倒。それは、ヘカベの話を「悲劇」として上演する神々の枠芝居だ。人間の悲惨は神様にとっての見世物だというわけで、それはそれで面白いけれど、二つの枠芝居の関係がとても曖昧。舞台は二幕。
前半のヘカベをめぐる芝居はヘカベという女性の紹介に終わった。舞台上での出来事と言えばヘカベが19人の息子たちの遺灰を数えて食べることくらい。これはある種象徴性を持つ行為だと思うのだけれど、抽象度が高すぎてつらさが伝わらない。「遺灰を数える」ように強いる男性のコロスがとても抑圧的なのだけれどこのコロスが誰(何)なのか分からないのもつらい。もっとも居心地が悪いのは「遺灰を数える」という行為がどういうことなのか(象徴の面ではなく具体的に)がよく分からないところだ。だって灰だよ。一個二個と数えられないじゃん。「見分ける」ということだと思うんだけれど、それにしても、舞台では何かを数えてたし。たとえば積み重なったものを「ああ、これはあの子だ、はっきり分かる」とか(それに類した台詞はあったと思う)所作を加えて分別して「数え」させたらまた別だけれど、立ったまま指さして数えたと言われても…
翻訳もいろいろ変だ。「ただの犬じゃなくて、雌犬だ」とか、
たとえば、次のような台詞のシークエンスも、訳者が間違えるようなものではないので、テキストの問題(あるいはヴィスニユックの母語がルーマニア語だとしたら翻訳のもとになったフランス語テキストの問題)に見える。
「十年前、トロイアの美しい街の前で血が流れた。」「十年前、…英雄たちは、トロイアの街の城壁前の戦いで疲弊していた。」「ギリシアの最も苛烈な兵士アキレスは死んだ…」でトロイアの木馬の話になって、
「さようならトロイア市民」「十年も面倒をかけてすまなかった。」
これらは多分、戦争が始まってからの十年のことを語っている台詞で、語り手(神々)の語りの現在から十年前に何があったかを語っている台詞ではないだろう。「十年前」ではなく「十年間」。役者もスタッフも、何か思わなかったのかしら。それとも稽古の中で、こうしたことを役者が問題に出来ないタイプの劇団なのだろうか。オデュッセウスの「帰還には二十年かかる」という台詞も、多分訳じゃなくてテキストの問題。
たくさんのギリシア悲劇への言及が(主に神々の対話で)出てくるのだけれど、これ、知らなければ多分わけわかだし、知ってても別に面白くないくすぐりにしかなってない気がする。このあたり、ルーマニア人のヴィスニユックは、観客が知っていることを想定して書いているように思うのだけどどうなのかしら。
第二幕がポリュドロスとポリュクセネの話。エウリピデスではヘカベはトロイアの敗北の可能性を考え、国の滅亡を避けるために、トラキア王ポリュメストルに末子ポリュドロスを預けていた。ポリュドロスはトロイアの敗北を知ったポリュメストルに、ヘカベが預けるのに託した黄金目当てで殺される。その遺体がギリシアの宿営地に流れ着くところから『ヘカベ』は始まる。『ヘカベ』の後半は復讐劇で、息子の末路を知った彼女とトロイアの女たちは、ポリュメストルの子供たちを殺し料理して、ポリュメストルに食べさせる。そしてポリュメストルの目玉をくりぬく。この復讐は成就するが、それは彼女たちの運命に何一つ良い結果をもたらすわけではない。そのむなしさが『ヘカベ』の魅力だ。
ヴィスニユックは自分のヘカベをもっと受動的にしたかったのだと思う。それだけではなく、戦争の悲惨を個人の悪意の所為にしたくなかったのだとも思う。だから、ポリュメストルからも、ポリュクセネを生け贄にするオデュッセウスからも敵意や悪意を取り除く。その代わりに持ち出されるのが、「慣習(伝統)」で、敗戦国の王子をかくまわずに殺すのも、アキレスの墓に娘を生け贄にするのも「慣習」のせいなのだ。でもそんな慣習があったら、敗戦の可能性を見越して王子を他国に預けるという設定が成り立たない。ポリュクセネの生け贄に関して言えば、「それどんな慣習」? 慣習として記述できない。むりやり記述すれば、「戦争が終わったときには、勝利の国の一番の死んだ英雄に女を生け贄にする慣習があった。」なにそれ?(エウリピデスの『ヘカベ』では、アキレスの亡霊が「置いて行くなぁ。女をよこせ。でないと風を送ってやらん」と言ったことになっている。)
で、ヘカベが受動的になると次々彼女に襲いかかる不幸は加算されているだけで、深まって行かない。なにか(ヘレネに言い勝つとか復讐するとかの)能動的行為があってはじめて、それを含めての空しさと絶望の深まりが表現される。
もう一つヴィスニユックが意図的に取り除いているのは、王妃としてのヘカベの独特の存在だ。だから彼女はトロイアの女たちを登場させない。王妃としてのヘカベの存在は、トロイアの女たちの境遇を代表するものでもあるし、時にはそれと対立するものでもある。女たちがいれば「栄華を極めた王妃の位から奴隷の身に落とされたもっとも哀れな人」というヘカベについての台詞は相対化される。ふつうの暮らしをしてきた女性が「奴隷にされる」のは王妃がそうなるより悲惨さがまし、などということはない。でも、この舞台ではその台詞はそのまま通用してしまう。
第二幕の後半はポリュクセネの生け贄で、ヴィスニユックはポリュクセネとアキレスの恋愛関係の設定を入れることで、かえってその悲痛さを和らげてしまった気がする。それでも婚礼(=生け贄)の場面そのものはいたましいので、ここは良かった。良かったところはそれ以外に、ホメロス枠芝居のホメロスとヘルナンダ(彼女が現代ラテン系の名前に見えるのはヘカベの悲劇の普遍性の暗示だと思うが、違和感あり)の心根の優しさ。神々の仮面のおおざっぱにグロテスクなところ。(伎楽面に似ているという指摘があった。なるほど)。セットの廃墟感。
私には、ヴィスニユックは、日本の劇作家と比べても、きちんとした物語を作るのが得意ではないように見える。具体的なイメージを練るのも得意ではないように見える。オイディプスとライオスに棍棒合戦をさせる(それもライオスは「二股の棍棒」)のとどっちが、と言うと悩むところだが。
演技と演出に関しては、わたしこの劇団がかなり苦手だ、ということを再確認。間が多すぎて、言葉と動きが遅いとか、盲目を演じるのは苦労があると思うけれどサングラスはないだろうとか、ポリュドロスの年齢設定がみえないとか…もっと速いテンポでテキスト省略せずにやって欲しい。でもポリュクセネとその最期の演出と演技は好き。
主演女優を念頭に置いての宛書きとは言え初演だし、もう少しこなれてくれば即興性と自在さが出てくるとは思うので、レパートリー化には期待。細かいところを含めて作者や訳者ともっと詰めて冗漫さを減らせばある程度面白いものになるかもしれない。
後記:「最初に生まれたパリス」は原作通り、また、原作はもっと長く、上演にあたり刈り込んだとのご指摘を翻訳者よりいただいた。「テアトロ」の訳も参照して、記憶で書いた本文に手を入れた。
2013年9月11日水曜日
2013年8月13日火曜日
旅行記録
旅行記録は、一応Twitterの方に帰国してからしこしことアップしている。ヴェネチア美術展の話にようやく入った。
やっぱり調べたりして書いた方が自分的に気持ちが良いので、その場でツイートは出来なくて正解だった気はする。
http://twilog.org/MasahiroKitano/date-130809/allasc
8月9日あたりから始まってまだアルセナーレの途中。
やっぱり調べたりして書いた方が自分的に気持ちが良いので、その場でツイートは出来なくて正解だった気はする。
http://twilog.org/MasahiroKitano/date-130809/allasc
8月9日あたりから始まってまだアルセナーレの途中。
2013年8月8日木曜日
こまつ座 頭痛肩こり樋口一葉 (赤旗劇評)
こまつ座の「頭痛肩こり樋口一葉」の劇評を赤旗に書いた。私が日本を出発した二日後の七月二四日付で掲載になったので、ウェブに載せるのが遅れた。
私はあまり井上ひさしの熱心な観客ではないのだけれど、この舞台に関しては、もう少し速くて鋭い動きだと笑いが強まるのにと思った。見に行ったのが初日に近かったのかも知れないし、観客層が比較的年配なのにあわせたのかも知れないけれど、やや笑いが微温的。
劇評は作品紹介にほぼ留まっている。最近またあまり演技について書けなくなっている気がする。
私はあまり井上ひさしの熱心な観客ではないのだけれど、この舞台に関しては、もう少し速くて鋭い動きだと笑いが強まるのにと思った。見に行ったのが初日に近かったのかも知れないし、観客層が比較的年配なのにあわせたのかも知れないけれど、やや笑いが微温的。
劇評は作品紹介にほぼ留まっている。最近またあまり演技について書けなくなっている気がする。
2013年8月6日火曜日
Roger Waters The Wall Concert
ローマで観てきた。元フロイドのリーダー、ロジャー・ウォーターズの「壁」コンサートだ。観たときの感想はツイッターで書いたので(投稿は遅れたけれど)http://twilog.org/MasahiroKitano の八月四日あたりを見て下さい。
どこかに書いたけれど、フロイドの、「ウォール」は思い入れのある作品だ。というか、アルバムの時は、そんなにでもなかった。ぼくにはフロイドはウォーターズ・バンドで、「原子心母」「狂気」あたりが好きだった。バレット・バンドだった「夜明けの口笛吹き」が分かりにくかったのに対し、メロディや盛り上げの分かりやすさも好ましかった。シンフォニックで長い曲が一つ含まれているのも好きなところだ。ギルモア・バンドになってからのコンサートに一度行ったが、前半の新作アルバムはつまらなかった。豚は飛んだけれど、スペクタクルにそんなに金をかけてないのもがっかり。
でも、「ウォール」は一曲が短く、ストーリーがはっきりしすぎで、コンサート形式でやるロックオペラみたいだった。何となく物足りない。
印象が変わったのは、ボブ・ゲルドフの映画版を見てからだ。東京まで行って一日に三回見た。劇中のピンク・フロイド青年が、奥さんに浮気されて自分もファンの女の子をアパートに連れ込んで急に狂ったように暴れ出し部屋のものをめちゃくちゃに壊した後、それを床の上にアートのように並べ(廃品アート)、独特の秩序への志向を示し、そのご、カミソリで髪の毛と眉、さらには乳首までそり落として、スキンヘッドの極右ロッカーに生まれ変わったところは、その内部の空虚さに怖気がした。(奥さんとは長髪で反原発運動にも参加していたのに)。
彼はその後むりやり連れ出されたコンサートで次のように歌う。
今回の公演で、大きな違いは、実際にピンクの新しいファシストグループは現れず、すべてウォーターズの内面の妄想のように描かれているところだ。旗も、壁に映像で描写されるだけだ。ウォーターズはだから最後に実際に(おもちゃの)機関銃を乱射する。映像に凝った分だけ、舞台上の劇的アクションは減らした感じ。巨大な人形(母、妻、教師)も、全部出てきたっけ?教師だけは覚えている。Another Brick in the Wall part 2で子供たちのコーラスグループが出てきて教師人形に抗議する09年版の趣向はそのまま。ツアー先の地元の子供たちを使っている。人形はベルリンの時ほどは動かない。壁自体は、主人公の内面の孤独の象徴の面よりも、巨大なスクリーンの面が強くなった。演奏も写すし、メッセージも写す。メッセージは結構はっきりしていて、冒頭にウォーターズが「すべての国家によるテロに対抗しよう」みたいなことを言うのに観客は大受けしていた。Rogerwaters.comの最新のメッセージもトルコ人民への連帯声明だし。
最初に飛行機が舞台奥に突っ込み、最後に黒い猪が空を飛ぶのはフロイドらしい。
さっきのギャグみたいな極右シーンにはネタ元がある。フロイドのアルバムの三年前、1976年にエリック・クラプトンは次の発言をバーミンガムのコンサートでしている。(翻訳はEAZEART (http://www.eazeart.com/rock-against-racism/2973/) のものを引用)
ウォーターズの「ウォール」コンサートは、2009年のユタのが、テレビ画像かな、比較的できの良い状態でYoutubeにアップされていて、なんか変な裏声のコーラスグループに頼りすぎな気がした。今回は基本同じだけれど彼がもう少し歌っているように思った。
このアルバムでなんか誤解していて、今回修正できたのは、Bring the Boys Back Homeという歌のBoysは「子供たち」ではなく「軍人たち」を意味するんだってこと。昔のアルバムの歌詞対訳に引きずられていた。父親が戦死したことが、ピンクの個人的な破滅の根底にあるって話。
観客は老若男女そろっていて、半分くらいが写真撮っているし、有名な歌では一緒に歌っているし、まあ楽しそうだった。
どこかに書いたけれど、フロイドの、「ウォール」は思い入れのある作品だ。というか、アルバムの時は、そんなにでもなかった。ぼくにはフロイドはウォーターズ・バンドで、「原子心母」「狂気」あたりが好きだった。バレット・バンドだった「夜明けの口笛吹き」が分かりにくかったのに対し、メロディや盛り上げの分かりやすさも好ましかった。シンフォニックで長い曲が一つ含まれているのも好きなところだ。ギルモア・バンドになってからのコンサートに一度行ったが、前半の新作アルバムはつまらなかった。豚は飛んだけれど、スペクタクルにそんなに金をかけてないのもがっかり。
でも、「ウォール」は一曲が短く、ストーリーがはっきりしすぎで、コンサート形式でやるロックオペラみたいだった。何となく物足りない。
印象が変わったのは、ボブ・ゲルドフの映画版を見てからだ。東京まで行って一日に三回見た。劇中のピンク・フロイド青年が、奥さんに浮気されて自分もファンの女の子をアパートに連れ込んで急に狂ったように暴れ出し部屋のものをめちゃくちゃに壊した後、それを床の上にアートのように並べ(廃品アート)、独特の秩序への志向を示し、そのご、カミソリで髪の毛と眉、さらには乳首までそり落として、スキンヘッドの極右ロッカーに生まれ変わったところは、その内部の空虚さに怖気がした。(奥さんとは長髪で反原発運動にも参加していたのに)。
彼はその後むりやり連れ出されたコンサートで次のように歌う。
なぁ、みんな、悪いニュースがあるんだ。ピンクは調子が悪くてホテルから出てこない。で俺らが代理で送り込まれた。それでこれからお前らファンの品定めからやる。今夜この劇場に、ホモはいるか?壁にたたせろ。スポットライトを浴びてるやつ、あいつもまともには見えない。壁にたたせろ。ありゃユダヤにみえるぜ、あいつぁクロじゃねぇか。こんな屑どもを入れたのは誰だ。クサ吸ってる奴がいる。注射針の跡が見える(spotってそういう意味じゃないのかしら)奴もいる。出来るなら、お前らみんな撃ち殺してやる!映画ではそこから「ラン・ライク・ヘル」に変わって背後では彼らの自警団が異人種カップルをレイプしたり 蛮行の限りを尽くす。そして屑のスキンヘッズになったピンクはその先頭に立って拡声器でがなりまくる。この辺ぞくぞくした。1990年のベルリンのウォールコンサートでは、舞台上に親衛隊の制服のような衣装のグループが登場し、ナチの旗を想像させる彼らの金槌二個を組み合わせたマークの旗が翻る。Youtubeでベルリンコンサートを誰かが分割アップロードしていた時も、この場面だけはすぐに削除された。
今回の公演で、大きな違いは、実際にピンクの新しいファシストグループは現れず、すべてウォーターズの内面の妄想のように描かれているところだ。旗も、壁に映像で描写されるだけだ。ウォーターズはだから最後に実際に(おもちゃの)機関銃を乱射する。映像に凝った分だけ、舞台上の劇的アクションは減らした感じ。巨大な人形(母、妻、教師)も、全部出てきたっけ?教師だけは覚えている。Another Brick in the Wall part 2で子供たちのコーラスグループが出てきて教師人形に抗議する09年版の趣向はそのまま。ツアー先の地元の子供たちを使っている。人形はベルリンの時ほどは動かない。壁自体は、主人公の内面の孤独の象徴の面よりも、巨大なスクリーンの面が強くなった。演奏も写すし、メッセージも写す。メッセージは結構はっきりしていて、冒頭にウォーターズが「すべての国家によるテロに対抗しよう」みたいなことを言うのに観客は大受けしていた。Rogerwaters.comの最新のメッセージもトルコ人民への連帯声明だし。
最初に飛行機が舞台奥に突っ込み、最後に黒い猪が空を飛ぶのはフロイドらしい。
さっきのギャグみたいな極右シーンにはネタ元がある。フロイドのアルバムの三年前、1976年にエリック・クラプトンは次の発言をバーミンガムのコンサートでしている。(翻訳はEAZEART (http://www.eazeart.com/rock-against-racism/2973/) のものを引用)
今日の客のなかに外人はいるか?Wogs(有色人種を指す差別用語)だ。いたら手を挙げろ。この間アラブ人が俺の嫁さんのケツを触りやがったんだ。この国にいる外人、Wogsはみんなそんな胸クソが悪くなるような奴らばっかりだ。そんな奴らは出てけばいい。ただこの会場を出てくんじゃない、俺達の国から出て行け。ここにも、この国にも、お前らみたいなのはいらねえんだ。みんな、よく聞け。俺達はみんなイノック・パウエルに投票するべきだ。彼は正しい。あんな奴ら、みんなまとめて国に送り返しちまったほうがいい。イギリスが黒人の植民地になるのはまっぴらだ。外人を追い出せ!Wogsを追い出せ!Coons(黒人を指す差別用語)を追い出せ!イギリスは白くあるべきだ!俺は昔はヤクにはまってたけど、今は人種差別にはまってるんだ。クソWogsめ!ロンドンなんかサウジの奴らに占領されちまってる。黒いWogsもCoonsもアラブ人もジャマイカ人もここにはいらねえんだ。ここはイギリスだ!ここは白人の国だ!WogsもCoonsもここにはいらねえ!イギリスは白人のための国だ!汚ねえWogsが隣に住んでるなんてまっぴらごめんだ!イノックを首相にして、もう一度イギリスを白く染めようぜ!。このショッキングな言葉が直ちにロッカーに反レイシズム運動を組織させたことは、引用元のEAZEARTページに詳しい。
ウォーターズの「ウォール」コンサートは、2009年のユタのが、テレビ画像かな、比較的できの良い状態でYoutubeにアップされていて、なんか変な裏声のコーラスグループに頼りすぎな気がした。今回は基本同じだけれど彼がもう少し歌っているように思った。
このアルバムでなんか誤解していて、今回修正できたのは、Bring the Boys Back Homeという歌のBoysは「子供たち」ではなく「軍人たち」を意味するんだってこと。昔のアルバムの歌詞対訳に引きずられていた。父親が戦死したことが、ピンクの個人的な破滅の根底にあるって話。
観客は老若男女そろっていて、半分くらいが写真撮っているし、有名な歌では一緒に歌っているし、まあ楽しそうだった。
![]() |
| 冒頭 In the Flesh? |
![]() |
| 壁完成してIn the Flesh |
![]() |
| 壁無事崩れました |
2013年6月22日土曜日
メディアマシーン
柴崎正道プロジェクト公演。岸田理生作。
柴崎さんは10年前に死んだ岸田理生の仲間だったらしい。
クナウカのメデイアで使われていた、「これはメデイアではない」はこの作品からの引用だったのか。ハイナー・ミュラーだとばかり思っていた。
演劇学会を途中抜け出して中野まで行って鑑賞。身体の動きは完成に近いと言って良さそうな人たちだ。ダンスにそれほど詳しくないものの目には、姿勢のアンバランスと痙攣的な動きのリアリティ、指への関心、左右の非対称性など、十分に九十年代以降のものに見える。とくにリアントさんのエキゾチック(ポストモダン的引用)と坂本さんの滑らかさに感銘を受けた。二人の旅人はオレステスとエレクトラに見える。
ただ、グランドピアノ一個で即興的に演奏されるクールなフリージャズ風の音楽(どう考えてもせいぜい60年代の音だ)との落差が激しい。せめてピアノの音をもう少しノイジーな感じで、たとえばプリペアド・ピアノにするとずいぶん変わると思う。また、動きと音楽をあわせすぎに見えた。もう少し無関係にする、あるいはせめてずらさないと、動きが予定調和的に見える。
台詞を喋り出すと途端に退屈になるのは、演技の調子の幅がとても狭いからと、台詞自体が陳腐なのが大きい。説教くさい。
最後の台詞が、「Quo vadis domine? 我らどこからきてどこへ行くのか?」の二度の反復なんだけど、ひょっとしてクォヴァディスってその意味だと思ってないか?少なくともラテン語知らないお客はそう思うぞ。演者(作者?)もそうだとしたらずいぶん恥ずかしい勘違いだし、そうでないとしたら、訳が分からない。もちろん、「主よ、あなたはどこへいらっしゃるのですか?」の意味で、この言葉の文脈はググればすぐ分かる。シェンケヴィッチの小説は子供の頃の愛読書だった。(一方で中野重治やぬやまひろしの詩を、他方でシェンケヴィッチを、さらにもう一方でアリステア・マクリーンを子供に与える親はずいぶん変わった人たちだったとは思う。一番影響を与えたのは「女王陛下のユリシーズ号」だったが…)。
柴崎さんは10年前に死んだ岸田理生の仲間だったらしい。
クナウカのメデイアで使われていた、「これはメデイアではない」はこの作品からの引用だったのか。ハイナー・ミュラーだとばかり思っていた。
演劇学会を途中抜け出して中野まで行って鑑賞。身体の動きは完成に近いと言って良さそうな人たちだ。ダンスにそれほど詳しくないものの目には、姿勢のアンバランスと痙攣的な動きのリアリティ、指への関心、左右の非対称性など、十分に九十年代以降のものに見える。とくにリアントさんのエキゾチック(ポストモダン的引用)と坂本さんの滑らかさに感銘を受けた。二人の旅人はオレステスとエレクトラに見える。
ただ、グランドピアノ一個で即興的に演奏されるクールなフリージャズ風の音楽(どう考えてもせいぜい60年代の音だ)との落差が激しい。せめてピアノの音をもう少しノイジーな感じで、たとえばプリペアド・ピアノにするとずいぶん変わると思う。また、動きと音楽をあわせすぎに見えた。もう少し無関係にする、あるいはせめてずらさないと、動きが予定調和的に見える。
台詞を喋り出すと途端に退屈になるのは、演技の調子の幅がとても狭いからと、台詞自体が陳腐なのが大きい。説教くさい。
最後の台詞が、「Quo vadis domine? 我らどこからきてどこへ行くのか?」の二度の反復なんだけど、ひょっとしてクォヴァディスってその意味だと思ってないか?少なくともラテン語知らないお客はそう思うぞ。演者(作者?)もそうだとしたらずいぶん恥ずかしい勘違いだし、そうでないとしたら、訳が分からない。もちろん、「主よ、あなたはどこへいらっしゃるのですか?」の意味で、この言葉の文脈はググればすぐ分かる。シェンケヴィッチの小説は子供の頃の愛読書だった。(一方で中野重治やぬやまひろしの詩を、他方でシェンケヴィッチを、さらにもう一方でアリステア・マクリーンを子供に与える親はずいぶん変わった人たちだったとは思う。一番影響を与えたのは「女王陛下のユリシーズ号」だったが…)。
ヴェネチア・ビエンナーレ2013(山口大学の藤川哲さんのブログ)
この夏、バルセロナでのIFTR(国際演劇学会)での発表の後ローマでex Pink FloydのRoger Watersを見て(懐かしのThe WALLだ。映画が日本で最初に公開されたとき、大阪から東京に見に行って(なぜだろう、大阪でやっていなかったのか、東京で美学会の全国大会のついでだったのか)、一日中、三回見た。去年も吉祥寺で爆音上映を見た)、それからヴェネチアへ行こうと思っている。その感想をまたちまちまブログで書こうかと思っていたのだけれど、山口大の藤川先生のブログで、とても強度のある、同時に詳細な紹介がアップされていたので、これを見れば、そして何らかの形で画像が手に入れば、わざわざ行くことなくね?という感じの調査および分析を見た。すごいので紹介。
山口大学美学・美術史研究室:So-netブログ (2013年五月末頃から)
まあ、もう飛行機のチケットも買ったし大学にも届け出したので行くけれど、このブログで書けることはないなぁ。(ちょー個人的な感想は書くと思うけれど)。ウォーターズ👴はやっぱり見たいし。
藤川先生はこれまで二度、わたしがヴェネチアへ行くとき、いろいろと手助けをいただいたし、去年カッセルへ行ったときにも本当にお世話になった(現地で会った、という意味ではない)。あのブログには、カッセルのことも、二年前のヴェネチアのことも徹底的に分析・報告されていて、まあ、すごい。
The WALLは、子供の頃父親が戦死していじめにもあったピンク・フロイト少年が長じてロッカーになり、不幸な結婚の結果おかしくなって極右のミュージシャンに変身するって話だけれど、極右になったピンクのヘイト・スピーチが、極右になったエリック・クラプトンのヘイト・スピーチ(これは実話)を元にしているのが丸わかりで、それはとても面白かったけれど、当時そのこと誰も教えてくれなかったなぁ。クラプトンのファンだったことがなくて良かった。
映像的には、ゲルドフが演じていたピンクよりも、ウォーターズのベルリン・ウォールコンサートでのそれが格好良かった気がする。よくまあベルリンであのコンサートやれたものだ。
楽しみ……
山口大学美学・美術史研究室:So-netブログ (2013年五月末頃から)
まあ、もう飛行機のチケットも買ったし大学にも届け出したので行くけれど、このブログで書けることはないなぁ。(ちょー個人的な感想は書くと思うけれど)。ウォーターズ👴はやっぱり見たいし。
藤川先生はこれまで二度、わたしがヴェネチアへ行くとき、いろいろと手助けをいただいたし、去年カッセルへ行ったときにも本当にお世話になった(現地で会った、という意味ではない)。あのブログには、カッセルのことも、二年前のヴェネチアのことも徹底的に分析・報告されていて、まあ、すごい。
The WALLは、子供の頃父親が戦死していじめにもあったピンク・フロイト少年が長じてロッカーになり、不幸な結婚の結果おかしくなって極右のミュージシャンに変身するって話だけれど、極右になったピンクのヘイト・スピーチが、極右になったエリック・クラプトンのヘイト・スピーチ(これは実話)を元にしているのが丸わかりで、それはとても面白かったけれど、当時そのこと誰も教えてくれなかったなぁ。クラプトンのファンだったことがなくて良かった。
映像的には、ゲルドフが演じていたピンクよりも、ウォーターズのベルリン・ウォールコンサートでのそれが格好良かった気がする。よくまあベルリンであのコンサートやれたものだ。
楽しみ……
2013年6月13日木曜日
2013年6月10日月曜日
ベルリン・フォルクスビューネ 「脱線!スパニッシュ・フライ」
夏にヴェネチアへ行く前に、出来るだけ11年と09年のヴェネチア・ビエンナーレの作品の感想をあげたいのだけれど、なかなか時間が取れない。それと、記憶が新しい12年のドクメンタの方が先になってしまう。今日のアップも別の話題で、静岡のふじのくにせかい演劇祭で土曜に見た「スパニッシュ・フライ」について。SPACの「黄金の馬車」も同じ日に見たのだけれど、これは『赤旗』に書いたので、それが出てから。
「スパニッシュ・フライ」はもともと100年程前の喜劇で、「スパニッシュ・フライ」は催淫剤の原料になった昆虫の名前で、催淫剤の名前にも転用された。今回、演出のフリッチェはsを括弧に入れて「パニックの」という意味のpanischeを浮かび上がらせる。「脱線!スパニッシュ・フライ」はそっちの方には良い訳だ。「スパニッシュ・フライ=催淫剤」の意味が日本では一般的でないので、なぜ主人公(の一人)が昔の女のことをスパニッシュ・フライと呼んでいたのかが見ている間は分からなかった。
昔の愛人との隠し子がやって来たと勘違いした男がそのことを誤魔化そうとじたばたあがく、というどーでもいー内容の喜劇なのだけれど、それを演技と演出の仕掛けで笑わせ、見せようとするお話。トランポリンを利用した各演技者の動きが半端ではなく強いので、パニック的でヒステリックな笑いは存分に楽しめる。言語的なギャグも満載されているような気がするのだけれど、そちらの方は分からない。奥さんがルートヴィヒという名の夫のことを「ルードヴィシュ」と発音していたのがどんなニュアンスを持つのか、方言ネタも分からない。一番近い舞台経験は新喜劇だと思うけれど、動きははるかに激しくアクロバティックだ。そこはとても面白かった。絨毯の下に押し込むとか、言語的なギャグに由来する動きもまあ面白かった。新喜劇なら個人の持ちギャグとして保存されるネタが、この芝居のためだけにつくられ消費されているのも贅沢な感じで面白い。
でも、面白さの多くの部分は、普段こんな芝居をしない人たちが超スピーディに新喜劇ギャグをやっている、という点にあるのだとも思うのだけれど、その辺は日本では分からないのが残念。隠し子と間違われる青年が時々差し挟む「えー?」って言う言語ギャグはとても効果的だった。東野幸治の感じかなぁ。こわい奥さんはある時期の中山美保だ。コメディア・デラルテ以来の伝統ギャグもいくつも使われているのだろうけれど、私に分かったのは飛んでいるハエを食べるやつだけ。
舞台は大きな絨毯が一枚、少し高くなった台から舞台全面に拡がっているだけ、絨毯の一部はトランポリンになっていて動きにアクセントをつけている。ギャグ以外での登場人物の動きは構成主義的(どう見てもブレヒト的じゃない←ポストパフォーマンストークで、「ブレヒトの影響は?」って聞いてた人がいた。リアリズムじゃなきゃ何でもブレヒトって思わないで)。ライトの使い方もそうだ。ほぼ二時間の芝居。「どんな内容でもやり方で芸術作品になる」ってのはロシアフォルマリズムの基本原理なので(「手法としての芸術」)、その伝統に則った舞台。
「スパニッシュ・フライ」はもともと100年程前の喜劇で、「スパニッシュ・フライ」は催淫剤の原料になった昆虫の名前で、催淫剤の名前にも転用された。今回、演出のフリッチェはsを括弧に入れて「パニックの」という意味のpanischeを浮かび上がらせる。「脱線!スパニッシュ・フライ」はそっちの方には良い訳だ。「スパニッシュ・フライ=催淫剤」の意味が日本では一般的でないので、なぜ主人公(の一人)が昔の女のことをスパニッシュ・フライと呼んでいたのかが見ている間は分からなかった。
昔の愛人との隠し子がやって来たと勘違いした男がそのことを誤魔化そうとじたばたあがく、というどーでもいー内容の喜劇なのだけれど、それを演技と演出の仕掛けで笑わせ、見せようとするお話。トランポリンを利用した各演技者の動きが半端ではなく強いので、パニック的でヒステリックな笑いは存分に楽しめる。言語的なギャグも満載されているような気がするのだけれど、そちらの方は分からない。奥さんがルートヴィヒという名の夫のことを「ルードヴィシュ」と発音していたのがどんなニュアンスを持つのか、方言ネタも分からない。一番近い舞台経験は新喜劇だと思うけれど、動きははるかに激しくアクロバティックだ。そこはとても面白かった。絨毯の下に押し込むとか、言語的なギャグに由来する動きもまあ面白かった。新喜劇なら個人の持ちギャグとして保存されるネタが、この芝居のためだけにつくられ消費されているのも贅沢な感じで面白い。
でも、面白さの多くの部分は、普段こんな芝居をしない人たちが超スピーディに新喜劇ギャグをやっている、という点にあるのだとも思うのだけれど、その辺は日本では分からないのが残念。隠し子と間違われる青年が時々差し挟む「えー?」って言う言語ギャグはとても効果的だった。東野幸治の感じかなぁ。こわい奥さんはある時期の中山美保だ。コメディア・デラルテ以来の伝統ギャグもいくつも使われているのだろうけれど、私に分かったのは飛んでいるハエを食べるやつだけ。
舞台は大きな絨毯が一枚、少し高くなった台から舞台全面に拡がっているだけ、絨毯の一部はトランポリンになっていて動きにアクセントをつけている。ギャグ以外での登場人物の動きは構成主義的(どう見てもブレヒト的じゃない←ポストパフォーマンストークで、「ブレヒトの影響は?」って聞いてた人がいた。リアリズムじゃなきゃ何でもブレヒトって思わないで)。ライトの使い方もそうだ。ほぼ二時間の芝居。「どんな内容でもやり方で芸術作品になる」ってのはロシアフォルマリズムの基本原理なので(「手法としての芸術」)、その伝統に則った舞台。
2013年6月5日水曜日
燐光群「帰還」
病院に付設された養老施設で暮らす老画家、横田正(藤田びん)のもとに、長く会わなかった息子昭信(猪熊恒和)が訪ねてくる。息子は、自分が末期ガンであることを告げるとともに、美大をでた自分の娘に絵を教えてくれるよう父親に頼みにきた。あまり気乗りがしない様子で孫娘に会う正。何気なくつけたテレビを見て叫ぶ。「戻らねば。約束を果たさないと。」
正が孫娘の運転でやって来たのは九州のある山村。テレビに写っていたのは、ダム予定地の村に暮らす麻里。彼女を除いて全ての村民はあるいは代替地に移り、あるいは代替地で暮らして行けず村を離れた。彼女一人が土地の明け渡しを拒否しほとんど自給自足で暮らしている。正に会った麻里は、彼の「帰還」をずっと待っていたと語り、彼らは近隣の村人たちをも巻き込み、ダム反対運動に新しいうねりを加えて行く。
以下はネタバレになるかなぁ。これから述べるのは、簡単に言うと、「主人公への批判的視点が足りないよね」ということに過ぎない。でもこの欠如は私には堪えたので一通り文章化してみる(以下、公演期間中は白文字にしていたものを復元)。
実は正は60年前、共産党の武装革命方針に基づく山村工作隊員としてこの村に潜入し、山林中心でほとんど耕作が行われていなかった村に個人で可能な農業技術を伝え、畑の開墾の先頭に立って地主をも含む村人の信頼を得、ダム問題の対策をも伝えて村を去っていった。彼がこの村で一緒に暮らしていた大野すえは彼の教えを娘の麻里に伝え、娘はその教えをずっと守ってきたのだ。
枠組みとなっている物語はアンゲロプーロスの「シテール島への船出」で、作劇のスタイルはブレヒトの教育劇だと思われた。村人たちは、まるでコロスのように、ダム問題の歴史を台詞を割りあてて分かりやすく伝えて行く。観客はありそうもない物語に乗っかった上で、ダム問題についての認識を獲得して行く。このあたり、坂手の作劇法は最近図式的すぎないか?
この作品と「シテール島への船出」とが関係ありそうだという評論はなさそうなので、この点については説明。アンゲロプーロスの映画では、 ギリシアの民主化に伴い、ソビエトに亡命していた共産党員が帰国することになった。彼は故郷に帰還すると、観光業者に村を売り渡そうとする村人たちの大勢に抗して畑を耕し始め、特に内戦時代に血で血を洗う抗争を行った村の有力者と対立する。映画では、結局彼はギリシアをふたたび追放され、行く当てのない船出に立つことになるが、この芝居のエンディングは、初演時民主党政権下でダム計画の凍結があったためか随分と楽観的だ。
でも私には、つまらないノスタルジーが本作を(たとえ三年前だとしても)台無しにしているように見えて仕方がない。
新国立劇場の「エネミイ」は、「三里塚闘争」を現在の地点からノスタルジーにおいて正当化し、そこにあった非道、無慈悲を無化し、現在の世代にその視点から説教するひどい芝居だった。この連中の現在を思うとき(猪瀬が信州大全共闘議長だったことを忘れてはならない)、私たちはもはやこの手の芝居を受けいれられない。また、文革の悲惨を思うとき、私たちはもう60年代のマオイストが知ったかぶりを言っている芝居を受けいれられない。それは、50年代のスターリニストが社会主義の未来を語るのと同じくらい欺瞞的だ。
で、この芝居では、私たちにとって何とか受容可能なグルとして、50年代共産党臨時中央委員会(臨中)派のアーティストを持ち出してくる。(「臨中派」と書いたが、末端の党員のほとんどは臨中派だったと思う。)そしてその中でも、純粋な革命の理念に燃えて農村に潜った山村工作隊を持ち出してくる。彼のイデオロギーはこの芝居の中では全面肯定だ。このイメージが少しなりとも肯定的にとらえうるのは、私たちが彼らの非道と悲惨についてもはや十分な知識を持っていないからに他ならない。搾取からの解放を理想とする若者にとってその当時他にどうしようもなかったとは言え、彼らが代理しているのは二十世紀後半に最大の苦しみをもたらしたイデオロギーの一つだ。当時それを信じたのは仕方がない。今それを回顧的に正当化するのは最大の欺瞞だ。私はごく身近な身内が山村工作隊で「球根栽培法」所持で捕まって警察署内のトイレに隠して難を逃れたこともあるし、正と麻里の母「すえ」の仮想の会話は子供の頃の日常会話のターミノロジーと同じなので当時の主観的な正当性はよく分かる。60年前、純真な若者はあんなことを信じていた(農村から都市を包囲するとか、武力革命とか)。いまそれを反復するのはグロテスク以外のなにものでもない。
アンゲロプーロスは、武装闘争時代の生活の細部が現代に甦る(両方の側にとっての)悪夢を悪夢として描き出した。ここではそれは「夢」だ。五木の反ダム闘争は素晴らしい成果を上げてきた。巨大ダムが自然を、共同体を破壊することも、それに対する闘いの意義も今なお変わらないがゆえに過去のこの美化は痛い。
正が孫娘の運転でやって来たのは九州のある山村。テレビに写っていたのは、ダム予定地の村に暮らす麻里。彼女を除いて全ての村民はあるいは代替地に移り、あるいは代替地で暮らして行けず村を離れた。彼女一人が土地の明け渡しを拒否しほとんど自給自足で暮らしている。正に会った麻里は、彼の「帰還」をずっと待っていたと語り、彼らは近隣の村人たちをも巻き込み、ダム反対運動に新しいうねりを加えて行く。
以下はネタバレになるかなぁ。これから述べるのは、簡単に言うと、「主人公への批判的視点が足りないよね」ということに過ぎない。でもこの欠如は私には堪えたので一通り文章化してみる(以下、公演期間中は白文字にしていたものを復元)。
実は正は60年前、共産党の武装革命方針に基づく山村工作隊員としてこの村に潜入し、山林中心でほとんど耕作が行われていなかった村に個人で可能な農業技術を伝え、畑の開墾の先頭に立って地主をも含む村人の信頼を得、ダム問題の対策をも伝えて村を去っていった。彼がこの村で一緒に暮らしていた大野すえは彼の教えを娘の麻里に伝え、娘はその教えをずっと守ってきたのだ。
枠組みとなっている物語はアンゲロプーロスの「シテール島への船出」で、作劇のスタイルはブレヒトの教育劇だと思われた。村人たちは、まるでコロスのように、ダム問題の歴史を台詞を割りあてて分かりやすく伝えて行く。観客はありそうもない物語に乗っかった上で、ダム問題についての認識を獲得して行く。このあたり、坂手の作劇法は最近図式的すぎないか?
この作品と「シテール島への船出」とが関係ありそうだという評論はなさそうなので、この点については説明。アンゲロプーロスの映画では、 ギリシアの民主化に伴い、ソビエトに亡命していた共産党員が帰国することになった。彼は故郷に帰還すると、観光業者に村を売り渡そうとする村人たちの大勢に抗して畑を耕し始め、特に内戦時代に血で血を洗う抗争を行った村の有力者と対立する。映画では、結局彼はギリシアをふたたび追放され、行く当てのない船出に立つことになるが、この芝居のエンディングは、初演時民主党政権下でダム計画の凍結があったためか随分と楽観的だ。
でも私には、つまらないノスタルジーが本作を(たとえ三年前だとしても)台無しにしているように見えて仕方がない。
新国立劇場の「エネミイ」は、「三里塚闘争」を現在の地点からノスタルジーにおいて正当化し、そこにあった非道、無慈悲を無化し、現在の世代にその視点から説教するひどい芝居だった。この連中の現在を思うとき(猪瀬が信州大全共闘議長だったことを忘れてはならない)、私たちはもはやこの手の芝居を受けいれられない。また、文革の悲惨を思うとき、私たちはもう60年代のマオイストが知ったかぶりを言っている芝居を受けいれられない。それは、50年代のスターリニストが社会主義の未来を語るのと同じくらい欺瞞的だ。
で、この芝居では、私たちにとって何とか受容可能なグルとして、50年代共産党臨時中央委員会(臨中)派のアーティストを持ち出してくる。(「臨中派」と書いたが、末端の党員のほとんどは臨中派だったと思う。)そしてその中でも、純粋な革命の理念に燃えて農村に潜った山村工作隊を持ち出してくる。彼のイデオロギーはこの芝居の中では全面肯定だ。このイメージが少しなりとも肯定的にとらえうるのは、私たちが彼らの非道と悲惨についてもはや十分な知識を持っていないからに他ならない。搾取からの解放を理想とする若者にとってその当時他にどうしようもなかったとは言え、彼らが代理しているのは二十世紀後半に最大の苦しみをもたらしたイデオロギーの一つだ。当時それを信じたのは仕方がない。今それを回顧的に正当化するのは最大の欺瞞だ。私はごく身近な身内が山村工作隊で「球根栽培法」所持で捕まって警察署内のトイレに隠して難を逃れたこともあるし、正と麻里の母「すえ」の仮想の会話は子供の頃の日常会話のターミノロジーと同じなので当時の主観的な正当性はよく分かる。60年前、純真な若者はあんなことを信じていた(農村から都市を包囲するとか、武力革命とか)。いまそれを反復するのはグロテスク以外のなにものでもない。
アンゲロプーロスは、武装闘争時代の生活の細部が現代に甦る(両方の側にとっての)悪夢を悪夢として描き出した。ここではそれは「夢」だ。五木の反ダム闘争は素晴らしい成果を上げてきた。巨大ダムが自然を、共同体を破壊することも、それに対する闘いの意義も今なお変わらないがゆえに過去のこの美化は痛い。
2013年5月31日金曜日
ごたまぜの面白さ〜山の手事情社の「道成寺」
山の手事情社の「道成寺」を見た。この夏の「ヨーロッパ三大演劇祭」の一つ、シビウ国際演劇祭での公演のゲネプロだそうだ。稽古場での「公演」だが、実際には山の上の教会で、舞台上に鐘の作り物をつけての上演らしい。
とても面白かった。安珍清姫の説話は幾つかの異版があるが、娘ヴァージョンと寡婦ヴァージョンの両方を舞台化する。また、その後日譚の「鐘供養」物語も白拍子の出てくる能の話の他に郡虎彦のおどろおどろしいヴァージョンも舞台化し、物語圏の持つ広がりを90分に収めようとしたのは意欲的だ。一番有名な白拍子の話がきちんと回収されなかったけれど他の物語はほぼ最後まで示される。
上演も、語り口や動きが様々なスタイルのつぎはぎを徹底化しているのが面白い。今昔そのものの語りはいま風の感情表現と接続され、新喜劇のようなコミカルな動きは時代がかった見栄と接続される。昔『オイディプス』を見たときも、複数様式の並列が面白いと思ったのだけれど、この舞台ではそれが徹底的に「多数化」されていた。能・狂言・歌舞伎・新劇・アングラの動きの特徴が、ぎゅっと詰め込まれている。勿論、一つ一つの様式の完成度はとても高いというわけではないし、またそれが目指されているわけでもない。ある種の「見本市」的な舞台で、そのニュアンスがどこまでルーマニアで通じるかは分からないけれど、日本人としては納得の面白さだ。アフタートークは、「女の人こわい」以上の意味がない話を「女性原理」とか言い出した時点で聞いていても仕方がないと思い退出。
さて、今年日本ではシビウ国際演劇祭を「ヨーロッパ三大演劇祭」と呼んで持ち上げるのがはやりみたい。今年のプログラムを見たら、期間は一週間ほど(六月七日から十六日まで)だけれど朝から晩まで何かしらやっているのが素敵ななかなか盛んな演劇祭。海外からの参加は半分くらいじゃないのかしら。2007年が一番規模が大きく70カ国から2500人のゲストがやって来たらしい。楽しそうだ。
とても面白かった。安珍清姫の説話は幾つかの異版があるが、娘ヴァージョンと寡婦ヴァージョンの両方を舞台化する。また、その後日譚の「鐘供養」物語も白拍子の出てくる能の話の他に郡虎彦のおどろおどろしいヴァージョンも舞台化し、物語圏の持つ広がりを90分に収めようとしたのは意欲的だ。一番有名な白拍子の話がきちんと回収されなかったけれど他の物語はほぼ最後まで示される。
上演も、語り口や動きが様々なスタイルのつぎはぎを徹底化しているのが面白い。今昔そのものの語りはいま風の感情表現と接続され、新喜劇のようなコミカルな動きは時代がかった見栄と接続される。昔『オイディプス』を見たときも、複数様式の並列が面白いと思ったのだけれど、この舞台ではそれが徹底的に「多数化」されていた。能・狂言・歌舞伎・新劇・アングラの動きの特徴が、ぎゅっと詰め込まれている。勿論、一つ一つの様式の完成度はとても高いというわけではないし、またそれが目指されているわけでもない。ある種の「見本市」的な舞台で、そのニュアンスがどこまでルーマニアで通じるかは分からないけれど、日本人としては納得の面白さだ。アフタートークは、「女の人こわい」以上の意味がない話を「女性原理」とか言い出した時点で聞いていても仕方がないと思い退出。
![]() |
| ラスト 黒い桜の花が舞うのだけれど、桜だと思わなかったorz |
さて、今年日本ではシビウ国際演劇祭を「ヨーロッパ三大演劇祭」と呼んで持ち上げるのがはやりみたい。今年のプログラムを見たら、期間は一週間ほど(六月七日から十六日まで)だけれど朝から晩まで何かしらやっているのが素敵ななかなか盛んな演劇祭。海外からの参加は半分くらいじゃないのかしら。2007年が一番規模が大きく70カ国から2500人のゲストがやって来たらしい。楽しそうだ。
登録:
コメント (Atom)



