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2022年3月5日土曜日

コースマイヤー『美学:ジェンダーの視点から』の翻訳について

このページは、多分2009年にコースマイヤーの『美学』が出てそれほどしないうちに自分のウェブサイトに掲載したもので、その後そのサイトがプロヴァイダーの消滅により消えてしまったのでそのままにしていたのですが、コースマイヤーを読みたい学生に私のページを紹介しているという先生がいらしたのでこちらに復活しました。もともと二ページなのを一つにまとめました。今では、ディッキーの芸術定義もダントーのアートワールド論も邦訳があり、彼らの議論についての誤解は減っていると思うのですが、コースマイヤーの邦訳で理解する人もいるでしょうから再掲しておいていいかと思いました。説明の中には私の誤解もあるでしょうが、ディッキーとダントーの議論をなるべく噛み砕いたものになっているとは思います。

(1) ディッキーの芸術制度論

 コースマイヤーの『美学:ジェンダーの視点から』の翻訳が出版された。最近はフェミニズムの視点からの芸術論も日米共に議論が盛んで、特に美術史の家父長主義的な記述の書き換えや、芸術実践でのジェンダーの前景化は欧米諸国ではかなり進展している。コースマイヤーは、美学という女性を対象化する傾向の強い学問領域にも、この新しい傾向を意識させようと努力している研究者の一人だ。その時に彼女の理論的根拠の一つとなる芸術哲学が、ジョージ・ディッキーの芸術制度論と、アーサー・ダントーのアートワールド論であり、彼女は一定のページを費やしてこれら二人の哲学者を論じている。このページと次のページでは彼女が紹介しているこれら二人の哲学者の議論が、この翻訳では誤って伝えられていることを示す。

ディッキーはアメリカの芸術哲学者で、ほぼ同世代のアーサー・ダントーの論文「アートワールド」に影響を受け、独特の芸術の定義を作り出した人だ。それは、「芸術と芸術でないものを区別するのはアートワールドだ」という見解である。「アートワールド」は耳慣れない言葉かも知れないけれど、ディッキーの場合、元々は、芸術を提示するための制度的枠組みを示していた。芸術家とか、批評家とか、そういった人々で構成される制度である。ディッキーはこれがダントーの「アートワールド」論文の見解だと当初は信じていたのだが、ダントーにおいては、「アートワールド」とは第一には芸術作品の世界であって、芸術作品そのものの相互連関を意味していた。ディッキーではまずそれは「芸術作品を取り巻く制度」であり「枠組み」だ。

で、ディッキーの芸術定義は、その初期の段階では次のように変遷する。(以下引用はGeorge Dickie:Art and Value(2001)より)

(1)「A work of art in the descriptive sense is (1) an artifact (2) upon which society or some sub-group of a society has conferred the status of candidate for appreciation.(記述的な意味での芸術作品とは、(1)人工物で、(2)社会や社会の下位集団が鑑賞候補の地位を授与するものである。)」

ディッキーはすぐにこの定義の欠点に気づく。これじゃまるで社会や社会の下位集団が一丸となって芸術作品を作るみたいだと。

で、彼はその定義を変更する。

(2) 「A work of art in the classifactory sense is (1) an artifact (2) upon which some person or persons acting on behalf of a certain social institution (the artworld) has conferred the status of candidate for appreciation.(分類的な意味での芸術作品とは(1)人工物で、(2)ある社会的制度(アートワールド)を代表して行動する何らかの一人ないし複数の人物が、鑑賞候補の地位をそれに授与したものだ。)」(1971)

あるいは

(3)「 A work of art in the classificatory sense is (1) an artifact (2) a set of the aspects of which has had conferrred upon it the status of candidate for appreciation by some person or persons acting on behalf of a certain social institution (the artworld).(分類的な意味での芸術作品とは、(1)人工物で、(2)その諸側面のある集合が、一定の社会的制度(アートワールド)を代表して行動する何らかの一人ないし複数の人物に、その人工物への鑑賞候補地位を授与させたものである。」(1974)
https://twitter.com/zmzizm/status/530413426615410688 によって訂正(2014/11/30)。以下の文章にはそんなに影響ないか)

(2)と(3)には違いは殆どない。鑑賞候補地位の授与は、いずれの場合も、アートワールドを代表して行動する一人ないし複数の人物によってなされる。(3)は(2)と、その人物による地位授与が作品の何らかの側面と全く無関係であるという可能性を明示的に排除しているという点でのみ異なる。

とりあえず(3)までをディッキーの芸術定義の初期ヴァージョンとして、その特徴は

  1. 「分類的な意味」での芸術作品の定義を行おうとしていること。つまり、ここで言われているのは、「芸術の域に達している」とか言うときに使われる価値評価のニュアンスを全く含まない限りでの芸術概念の定義だということ。
  2. アートワールドを代表して行動する人間が人工物を芸術にすると考えていること。
  3. 鑑賞候補の地位の「授与」行為の存在が人工物を芸術にすると考えていること。

の三点だろう。そのどれにも突っ込みが入ることになる。(1) 芸術って本当に価値自由に定義できるの? (2)アートワールドを代表して行動する人間って誰よ?誰がそいつにそんな権威を与えたんだよ。(3)「授与」行為って何よ。「汝芸術なり」と言って何かを芸術にすることなど出来るの?

最大の問題が(2)だった。ウォルハイムは次のように言う(大意)。「アートワールドってどうやって代議員選ぶん?選挙でもやんの?選ばれたとしてさ、すべての候補検証すんのん?地位の見直しはするの?そもそもそんな権威を持つアートワールドなんてあるの?」「そもそも誰かが地位を授与したとしてもさ、そのためには「理由」が要るやろ。そんなら、その「理由」がものを芸術作品にしていると考えた方がええんちゃう?」

さて、これは誤解だとディッキーは訴える。大体、鑑賞候補をいっこいっこ検証して芸術地位を授与するなんて言っていないし、鑑賞候補地位を「授与」する「アートワールドを代表して行動する一人ないし複数の人物」って元々は作者のことだと。アートワールドに属する他の人間が地位授与をやってはならないわけじゃないけれど、本来は芸術家である作者が「見てね」って差し出したものが芸術作品なんだ。集団制作の場合作者は複数ね(コンサートとか)。で、作者(であれ他の地位授与を行う人間であれ)、「見てね」って差し出す、つまり鑑賞候補の地位を授与するのには、何らかの権威を必要としていない。アートワールドに属していることで十分なんだと。

それで「代表して行動する」ことになるのか?なると思う。だって作者が純粋に何ものをも代表せずに「見てね」って誰かに何かを差し出すなら、それはラブレターだったり呪いだったり以下略する筈で、作者が芸術家として不特定の公衆に「見てね」って差し出している以上、彼女はアートワールドを代表して地位授与(鑑賞候補としての)を行っていることになる。勝手に代表するわけだ。日本人が海外でいろんな意味で「日本を代表する」のと同じ。

「代表して行動する一人ないし複数の人物」「地位授与」「分類的な意味」の三つはこの時期のディッキーの理論にとって決定的に重要な概念だ。「代表して行動する一人ないし複数の人物」は「代理人」ではないし、「鑑賞候補」「地位授与」の概念は省略できない。だから、74年ヴァージョンを次のように訳してはもはや翻訳ではなくなる。

芸術作品に分類されるものは(1)人工物であり、(2)ある種の社会制度(アートワールド)の代理人から評価されるに値する一連の諸相を備えたものである(コースマイヤー『美学:ジェンダーの視点から』191-2)。

ディッキーにとって何かを芸術作品にするのはその対象が備えている何らかの諸相ではなく、それが「鑑賞候補地位を授与されている」という事実なのだ。この訳だと何かアートワールドの代理人(って誰よ)から評価されるに値する(美的・知的・あるいは一般化して芸術的)価値を備えた人工物が芸術作品だと言うことになってしまう。これはディッキーとは正反対の見解で、制度論でも何でもない。『折れた腕の前で』が芸術作品で花火がそうでないのは、別に前者には後者が持っていない「評価されるに値する」諸相があるからではない。単に我々の社会が、花火を芸術作品とするアートワールドを持っていないということに過ぎない。

それにしても、授与とか、代表とかはきつい言い回しで、ディッキーの意図に反して、芸術の制度が非公式のものであるという性質を隠蔽することになってしまう。だからウォルハイムの揶揄が成り立ったので。それゆえ、ディッキーは84年以降、この言い回しを避けて次の五つの循環した定義によって芸術を特徴づけるという戦略に転換する。

芸術家とは理解しつつ芸術創作に参与する人物である。An artist is a person who participates with understanding in the making of a work of art.(芸術家とは、自覚的に芸術作品制作に参加している者である。)

芸術作品とはアートワールドの公衆に示されるように創造された一種の人工物である。A work of art is an artifact of a kind created to be presented to an artworld public.(芸術作品とは、アートワールドの公衆/愛好者に見せることを目的として制作される人工物である。)

公衆とは自らに示されたものをある程度理解する用意がある人々を要素とする集合である。A public is a set of persons the members of which are prepared in some degree to understand an object which is presented to them.(公衆/愛好者とは見せられる作品を何らかの形で理解する準備がある者である)

アートワールドとはすべてのアートワールドシステムの全体である。The artworld is the totality of all artworld systems(アートワールドとは、すべてのアートワールドシステム(すなわち、絵画、彫刻、パフォーマンス、音楽、小説といった芸術ジャンル)の総体である。)

アートワールドシステムとは芸術家が芸術作品をアートワールドの公衆に示すための枠組みである。An artworld system is a framework for the presentation of a work of art by an artist to an artworld public.(アートワールド・システムとは、アーティストがアートワールドの公衆/愛好者に芸術作品を見せるための枠組みである。

こちらの方は、コースマイヤー『美学』の訳は括弧内に示した。まあ、細かい誤訳がいろいろあるし、全部を指摘しないけれど、「一種の」人工物(an artifact of a kind)てのはディッキーの芸術作品に対する「人工物」規定への批判、「ダンスって人工「物」じゃないし、流木芸術って別に作ってないよね」に対応して出てきた限定で、「パフォームされたり、ただ置かれたりってのも入れるよ」って言い訳なので、「一種の」を省略するとまずいと思う。

四つ目の規定の(すなわち……といった芸術ジャンル)はディッキーが直後に付け加えた説明を文章の中に組み込んだもので、ここはディッキーからの直接の引用という形をとっていないのでコースマイヤーの議論も、その訳としても特に間違いではない。

私がここで問題にしたいのは、この誤訳が、表面上とても滑らかなテキストに包まれていて、何の問題もなく理解でき、なおかつ、少なくとも1974ヴァージョンの訳の方は出鱈目だということだ。ものが、「評価されるに値する一連の諸相を備え」ているかどうかは、ディッキーにとって芸術であるかどうかと全く無関係だ。つまり、ものを芸術作品にしているのは、「鑑賞候補地位を授与された」という事実であり、もの自体が「備えている」性質ではない。どんなすぐれた「諸相」を備えていようが、地位授与の事実がなければ、つまり芸術家によって「みてね」と差し出されなければ、それは芸術作品ではない。だから「制度論」なのだ。この箇所は、分からない部分をぶった切って辻褄を合わせるいわゆる超訳になっている。

⑵ダントーのアートワールド論

ジョージ・ディッキーと共に、アーサー・ダントーのアートワールド論も、コースマイヤーにとって、あるいはフェミニズム美学にとって貴重な理論的根拠になり得るものだ。だから、彼女はダントーのアートワールド論もある程度丁寧に紹介している。ところが、ディッキーの箇所と同様、ダントーの議論についても、この翻訳ではおよそダントーが主張するはずのないことをダントーに主張させてしまっている。

本書は共同訳で、ディッキーやダントーの議論の紹介は第五章「芸術とは何か」に入っている。ここの訳者(石田美紀さん)は映像文化論の専門家で、最近では初音ミク研究なんかもあるみたい。だからやたら概念や用語の厳密さが問題になるいかめしい「美学理論」に慣れていなくても仕方がないのかも知れない。なので、propertyという分析哲学では「性質」と訳さないと…みたいな単語を「固有性」と訳していてもまあそれは仕方がない。

でも例えば次の箇所なんぞ、そういうのとは随分違う問題があるようだ。(文ごとに数字を補う。また、問題にしたい箇所を赤字に変えている)

(1)ダントーの主張では、芸術―あらゆる時代・場所のすべての芸術―は何かについてのものであり、意味を備え、内容を伴っているはずのものである。(2)つまり芸術作品そのものにその意味は具現化されていなければならない。(3)ただし、それがいつの時代も同じ方法でおこなわれるわけではないことは、「芸術と言う概念」(原文傍点)芸術制作の中で果たしている役割示している。(4)たとえば、一九六〇年代の洗練されたニューヨーカーでも、アンディ・ウォーホールの『ブリロ・ボックス』を芸術と見なすことはできなかった。(5)以前は、こうしたコンセプチュアルな離れ業が不可能であるばかりか、無意味なものでしかなかったのである。(6)二〇世紀半ばまでの芸術概念の必要条件は、ポップ・アートを生み出したり、認めたりするようなものではなかった。(7)ダントーが述べるとおり、「何かを芸術と見なすには、芸術理論への親しみと美術史の知識が何よりも必要である。195-96

Kindleで原文を手に入れたので、この箇所の原文と試訳を提示してみる。なお、Kindle for PCはなぜかコピペできない仕様みたいで、キーボード入力なので誤記はご容赦。それとページ数が分からない。Kindle版にあるのは文の数なのかなぁ。引用は第五章のArt as a Mirror: Arthur Dantoの節から。

It is Danto's contention that art - all art at any time or place - must be about something, must bear meaning, have content; and that its meaning must be embodied in the artwork itself. This is not and cannot be done the same way at all periods of history, a fact that indicates the role of concepts of art in the production of art. Sophisticated New Yorkers of the 1960s were just barely able to see Andy Warhol's Brillo Box as art, for example; such conceptual feat would have been not only impossible but nonsensical at an earlier period of history. Requisite conceptions of art were not in place to produce or to recognize Pop Art until the mid-twentieth century. As Danto puts it, "to see something as art at all demands nothing less than this, an atmosphere of artistic theory, a knowledge of the history of art."((1)芸術は、時代や場所を問わず全ての芸術は、何かについてであり、意味を持たねばならず、内容を持たねばならないというのが、(2)また、その意味は芸術作品それ自体のうちに具体化されていなければならないというのがダントーの主張である。(3)これは歴史のすべての時代に同じようになされているわけでもなくそんなことなど出来やしないという事実は、芸術創作において「芸術概念」が果たす役割の大きさを示している。(4)例えば、1960年代の洗練されたニューヨーカーはかろうじてなんとかウォーホールの『ブリロ・ボックス』を芸術として見ることが出来たのだ。(5)こうしたコンセプチュアルな離れ業は歴史のそれより前の時代には不可能だっただけでなくナンセンスでもあった。(6)二十世紀半ばまでは、ポップ・アートを作り出したり認めたりするのに必要な芸術の観念が存在していなかったのだ。(7)ダントーの言い方だと、「そもそも何かを芸術として見るためにはまさに次のことが必要だ。芸術理論の雰囲気と、芸術史の知識である。」)

この段落の文は(5)を除きほぼすべて訳が不適切で、それがダントーの議論を分からないものにしている。

(1)is about somethingを「何かについてのもの」と「もの」を補うのは芸術が何らかの「もの」でなければならないというダントーがコミットしない考え(コンセプチュアル・アートは「もの」じゃないし)を反映しているので良くないし、mustはここでは「はず」ではない。彼はここで何かが芸術であるための「必要条件」について語っているので、「ねばならない」の意味の方だ。

(2)「つまり」じゃない。芸術が「意味を持つ」ことと意味が「作品そのものに具現化されている」のは別のことだ。何かが作品そのものに具現化されていない意味を持つことはいくらでもある。ここでandは連言として訳さねばならない。

(3) 主語と目的語を逆転してしまった。ダントーが言うのは、歴史によって意味の作品への具体化のあり方が違うという事実があって、それが示しているのは、「芸術概念」の役割だってことだ。

(4) ブリロボックスっていつの作品だったっけ?60年代の洗練されたニューヨーカーがそれを芸術と見なせなかったとしたら、誰ができたんだろう?just barelyはここで「漸く何とか~した」という肯定のニュアンスだ。もちろん、ここを肯定的に訳すか否定的に訳すかは、ブリロ・ボックスの受容の知識が必要だろうけれど、これを単にnotと同じとして訳すのは不誠実だ。著者がそこに込めたニュアンスをぶった切ってしまうことになる。

(6)何かを生み出したり認めたりすることは「芸術概念の必要条件」なのではない。ポップアートを作り出したり認めたりするために必要なrequisite芸術の観念(conception of art)」がまだなかったと言われているのである。

(7)(a) nothing less thanは「何よりも」ではない。Dantoによると、「ブリロ・ボックス」に限らず、すべての芸術作品について、私たちはそれと知覚的には(見た目では)識別不可能だけれど芸術でない対象の存在する世界を想像することが出来る。そのような可能世界において、私たちはその両者を芸術作品が持つ「理論の雰囲気」によってのみ区別出来るのであり、他の仕方では区別出来ないのだ。
(b) see asはここでは「見なす」ではない。私たちはあるものを全く芸術として「見る」ことが出来なくても、それを芸術と「みなし」うる。お金持ちが壁にロスコーを飾るときとか、ウォーホールを競売にかける係員などがそうだ。
(c) ダントーの問題は、デュシャンやブリロのように知覚上識別できないものの一方が芸術作品で一方が芸術作品でないのはなんで?ということだから、知覚上ブリロの箱と識別出来ないウォーホールの作品を芸術「として見る」ために要求されることがらが重要であって、それが「理論の雰囲気と芸術の歴史の知識」なのだ。atmosphere of artistic theoryは確かに面倒な概念で、「芸術理論の雰囲気」では曖昧すぎるような気がする。 ただ、Dantoは決して、鑑賞者が何かを芸術作品と見なすために芸術理論をよく知ってなければならないということを主張しているのではない。鑑賞者は芸術理論を知らなくても、例えばラベルとか値段とか展示場所とかから、それを芸術作品と見なすことが出来る。何かを芸術作品として「見る」ためには、その何かが「理論の雰囲気」に包まれていること、アートワールドの中に置かれていることが根本的に重要だと言っているのだ。
(d) the history of artはこの場合は「美術史」に限定されない。

一段落だけを挙げたが、他の段落もここまで酷くはないが、小さな無理解が重なって、全体としてダントーの主張が歪められてしまう。たとえば次のダントー自身の引用。

チューリップやキリンを認識するように、知覚することで芸術を見分けられる、そんな時代があった。しかし、事情は変わってしまい、芸術は何でもありとなっている。だから見ただけでは、芸術かどうかは判断できない。もはや批評家の鑑識眼といった基準はふさわしくないのである。(194)

もし芸術が「何でもあり」なら、見ただけでなくても、どのような理論的な背景をもってしても芸術かどうかは判断できないだろう。

There used be a time when you could pick out something perceptually the way you can recognize, say, tulips or giraffes. But the way things have evoloved, art can look like anything, so you can't tell by looking. Criteria like the critic's good eye no longar apply. (例えばチューリップやキリンを見分けるように、知覚を通じて何かを芸術として選び出すことが出来た時代があった。しかし、事情は変わってしまい、芸術はどう見えても構わなくなっており、だから見ることによっては区別できない。批評家のすぐれた眼のような基準はもはや通用しないのである。)

知覚的に識別出来ないものの一方が芸術作品で一方がそうではないことがあり得るという事情は、芸術の「見え方」あるいは「知覚的性質」が「何でもあり」になったことを意味し、それは芸術が「何でもあり」になったこととは異なるのである。なお、「知覚を通じて何かを芸術として選び出すことが出来た時代」は現実世界には存在したという歴史認識と、常に、芸術作品と知覚的に識別不可能な非芸術作品が存在する可能世界があるという先ほどの哲学的議論は矛盾しない。

次の文章。

また、これらの作品は既定の芸術に備わるあらゆる価値を断固として認めまいとするにもかかわらず、いまや二十世紀の美術年鑑に記載されている。その理由の一つは、こうした作品が「アートワールドのなか」(原文傍点)で、美的判断と大衆文化について、価値と固有性について、芸術家と公衆/愛好者の役割について、意見を表明しているからである。それらは、芸術それ自体「について」(同上)核心をついた見解を提示するのである。(195)

「二十世紀の美術年鑑」は一見どこかおかしいとして、この文なんか素直に分かる。でも、よく考えると芸術作品が芸術それ自体について「核心をついた見解を提示する」というのはここであげられた(デュシャンやウォーホールなどの)芸術のあり方にもダントーの見解にも合わない。ダントーは決して、これらの芸術の芸術観が「核心を」ついていなければならないとは考えているわけではない。

ダントーにとって、何かを芸術にしているのはアートワールド、つまり芸術そのものにある理論の「雰囲気」だ。芸術は従って常に何かに「ついて」(about something)でなければならない。意味を持たねばならないからだ。肖像画はとりあえずは対象となった人に「ついて」の絵である。それは同時にあるスタイルに「ついて」かもしれず、あるイデオロギーに「ついて」かもしれないのだけれど。

とすれば、デュシャンの『泉』やウォーホールの『ブリロ・ボックス』のような作品は何に「ついて」なのだろうか。それらは知覚可能ないかなる形式的特徴によっても、「何かについて」ではない非芸術作品(ただの実物)と区別出来ないのだ。そうした芸術作品に関して、ダントーはそれが「芸術とは何か」という問いに「ついて」だと考える。何かが芸術であるということにとって重要なのはabout somethingであることつまりaboutness(「ついて性」)なのであり、それが核心をついているかどうかではない。

And yet, despite these efforts to repudiate every value of art establishment, these works are now included in the chronicle of twentieth-artworld. One reason for this is that such works are comments within artworld - about aesthetic judgment and mass culture, about value and property, about the role of the artist and the public. They are profoundly about art itself. しかしそれにもかかわらず、つまり芸術という体制のすべての価値を論駁しようというその努力にもかかわらず、これらの作品は今や20世紀のアートワールドの編年史の中に組み込まれている。その理由の一つは、そうした作品がアートワールド内部でのコメントだということだ。それらは美的判断とマスカルチャーについての、価値と性質についての、芸術家と公衆についてのコメントなのだ。それらは真底から芸術それ自体に「ついて」なのだ。


2015年8月18日火曜日

ブレヒト『アンティゴネ』光文社新訳文庫版について(2) 「第四のコロス』

私が、ブレヒトの『アンティゴネ』についての議論で特に興味があるのは、「アンティゴネの「英雄的行為」も長老たちによって批判の光にさらされる」(p.148)ってブレヒト理解として正しいの?って言う点だ。訳者の谷川さんは、その証拠として「だがあの女、すべてを悟りはしたが、ただただ敵を助けたばかり」というコロスの最後の言葉と、「第四コロス」(死出の道行きの後の合唱歌)での「不幸を隠す砦のかげで、ぬくぬくゆったり座っていたはず」という言葉を挙げる。前者が「コロスのアンティゴネ批判」になっていないこと、むしろ伝統的な「苦しみを通じて学ぶ(パテイ・マトス)」の構造を受け継いで、コロスが漸くアンティゴネの行為の意義を理解したことを示しているというのが、前回の私の解釈だけれど、後者に関しては、別にここでコロスがアンティゴネ批判しても悪くはないようには思う。ここのコロスは「長老」としてではなく、むしろ作者の声の代弁者として語っているのだから。問題はコロスがアンティゴネの何を批判しているのかだ。
(この箇所に関しては私は持田さんの解釈も良く分からないので持ち出さない。)

光文社版の訳
だがあの娘もかつては、/奴隷たちが焼いたパンを食べていたはず、/不幸を隠す砦のかげで、/ぬくぬくゆったり座っていたはず、/ラブダコス家の一族から、/人を殺しに出かけた戦争が人を殺しに帰ってくるまでは。/血まみれの手が戦争を身内のものにもさしだした、/しかし身内は受け取らず、/それを相手の手から奪い出す。/怒りに燃えたあの娘、誠の世界に身を投げる。/つまりはやっとあの娘、外の世界に身を置いた。」(p.86-7)。

ドイツ語
Aber auch die hat einst
Gegessen vom Brot, das in dunklem Fels
Gebacken war. In der Unglück bergenden
Türme Schatten: saß sie gemach, bis
Was von des Labdakus Häusern tödlich ausging
Tödlich zurückkam. Die blutige Hand
Teilt’s den Eigenen aus, und die
Nehmen es nicht, sondern reißen’s.
Hernach erst lag sie
Zornig im Freien auch
Ins Gute geworfen!

さて、コロスはアンティゴネがどうだと批判しているのだろう?「奴隷たちが焼いたパン」「ぬくぬくゆったり」という言葉からは、彼女が王族であることが批判されているようにも見える。でも「奴隷」は原文にないし「ぬくぬくゆったり」はgemachの訳としては悪意のニュアンスが強すぎる。直訳は「かつては暗い岩穴で焼かれたパンを彼女も食べていた」「彼女は静かに座っていた」で、前者は当然、アンティゴネがこれから閉じ込められる「人里離れた岩穴」からの連想で、後者は「lag sie zornig im Freien」との対比だ。
ここに「奴隷たち」を入れたのは例えばリヴィングシアターのジュディス・マリーナによる英訳で、当該箇所は次のように訳されている。

マリーナの英訳
But she too once
ate of the bread that was baked by slaves
 in the dark cliffs. She sat still in the shade 
of the prison towers that shelter sorrow, till all 
that had left the deadly doors of Labdacus' house 
re-entered dead. The bloody hand 
deals out to each his own, and they don't just take it, they grab it. 
Only thereafter she lay 
rebellious in her freedom, 
thrust into the good.

この訳の面白いところは、「不幸を隠す塔」の「塔」をprison towersと訳し、Schuldturmに似た意味、つまり監獄の意味で理解している点だ。アンティゴネは「悲しみを隠す監獄」が作り出す陰の中に、つまり監獄の外にいたとされている(塔が「陰」を作るのは塔の外の地面だ)。「奴隷」がパンを焼いた「岩穴」は、囚人が不幸のうちに収容されている「塔」と比喩的に等値なものとみなされ、彼女は壁一枚でそれと接しながらそこから「守られ」「静かに座っている」。

この訳から原文を見ると「奴隷」とか「監獄」とかの言葉は用いられていないけれど、ドイツ語の「不幸を隠す塔の陰」も、中に不幸が隠れた(つまり苦しむ人がいる)塔(複数形)があり、彼女はその外で、塔が作り出す影のなかで、それに気づかずに座っていたことを含意している。「塔」は収容所だ。人々は収容所の外を行き交いながら、そこがどんな暴虐を隠し秘めているのかをアンティゴネのように気づかずに、あるいは多くのドイツ人のように気づかないふりをして過ごしている。中での強制労働は、外の人たちの生活物資をも提供している。

壁一枚隔てた牢獄の悲惨に外の人たちが気づかないというこの構造は、クレオンがアンティゴネを岩穴の中に生きたまま閉じ込めながらも、「埋葬されたかのように」死者の贄に相応しい飲み物と食べ物を与えるのと対応している。岩穴の外を通る人は、中に不幸が隠れていることに気づかない。

その意味では、奴隷という言葉は余計だ。「暗い岩穴の中で」焼かれたパンを、「不幸を閉じ込めて隠す塔」の外で、そこに閉じ込められた人たちのために何かをすることなく静かに座って食べていた過去と、「暗い岩穴」へと投げ込まれることになる現在との対比は「奴隷」という言葉なしでも分かる。

これから放り込まれる「岩穴」の外で「かつては」生きていた(パンを食べていた)ことは、批判されるとしても、それはけっして、「ぬくぬくした生活」をおくってきたことへの批判ではない。

それでも彼女はあるときまでは闘わずに「静かに座っていた」。そのことが長老たちによって批判されているのだろうか?それをテキストから知るためには、いつ、彼女に変化が生じたとされているのかが大事だ。光文社訳だと「戦争」が自国に迫るまで、ということになるだろう。でも直訳すると「ラブダコスの家から死をもたらすために(tödlich)出て行ったものが、死とともに(tödlich)帰ってくるまで」だ。

アンティゴネは兄弟の死によって反逆に目覚めたのだから、「死とともに(tödlich)帰ってきた」の死 (Tod) が意味するのがポリュネイケスとエテオクレスの死であることは明らかだと思われる。エテオクレスの死によって恐怖に駆られ逃亡したポリュネイケスがクレオンによって殺され禿鷹のえさにするようにと埋葬を拒否された、それが彼女が立ち上がったきっかけだ。

ラブダコスの家から「死をもたらしに出て行き」「死とともに戻った」ものを「戦争」と訳してしまうと、間違いとまでは言えないけれど話がぼやけてしまう。国家のふるう暴力は戦争だけではないし、彼女が立ち上がったのは「戦争」が戻ってきたからではなくて国家の不正な暴力が自分の兄弟に襲いかかったからだ。「人を殺しに帰ってくる」は間違いと言って良いと思う。

それに続く箇所の「血まみれの手 (die blutige Hand)はポリュネイケスを自ら惨殺したクレオンだとして、クレオンが「それを分け与えた(Teilt’s)」眷属(den Eigenen)とは、クレオンがポリュネイケスの遺骸を食わせようとした「禿鷹」だろう。(「嘆く者もなく、墓もなく、その亡骸を/禿鷹のごちそうにせよと。」(p.25))。reißen's はそうすると「引き裂く」「八つ裂きにする」だ。(ちなみに、リヴィング・シアターの『アンティゴネ』上演では、コロスがこの禿鷹を当て振りのように演じていた。)

そうなって初めてアンティゴネは怒りとともに「陰」から飛び出す。しかしその行為は彼女の岩穴への生きたままの埋葬をもたらす。彼女は自由と善を得たが、それは岩穴に「投げ込まれ」、その中で「倒れる」ことによってなのだ。最後の「自由の中で倒れ伏し、善の中へと投げ込まれた」はそんなに難しい比喩ではないだろう。

なのでこの箇所の試訳はつぎのようになる。

でもかつては彼女も暗い岩穴で焼かれたパンを食べていた。不幸を閉じ込め隠す塔の陰で。彼女は静かに座っていた。でもそれは、死をもたらすためにラブダコスの家から出かけたものが死を持ち込んで帰ってくるまでのこと。血まみれの手がそれを自分の眷属に分け与えるが、眷属はそれを受け取るのではなく八つ裂きにする。そうなって初めて彼女は自由の中で怒りとともに倒れ伏し、善の中へと投げ込まれた。

これが批判だとすれば、アンティゴネが身内の死によって初めて塔の中に不幸が閉じ込め隠れていることに気づいたことへの批判ではありうるかもしれない。アンティゴネは兄の死と埋葬拒否によって祖国の非道に漸く目を向けた。石壁一枚隔てた塔の中には多くの絶望がありながら、彼女はそれから隔てられ、塔の外の日陰で静かに座っていた。気づいていなかったのかも知れない、でも気づくべきだったのかも知れない。身内が非道の犠牲になって、初めて、自由のために闘い、倒れ、善がこの国で唯一存在できる場所へと投げ込まれたのだと。それでは遅すぎるという「批判」は可能だろう。でも、彼女が「ぬくぬくゆったり」暮らしていたかどうか、「王族だった」とか「奴隷」もいただろうとかはこの「批判」とは全く無関係だ。

ブレヒト『アンティゴネ』光文社新訳文庫版について(1) 最初と最後

ブレヒトの『アンティゴネ』の邦訳が酷く、その酷さが一つの先行訳の間違いを他の訳が引き継いだために生じたのではないかというのはすでに持田睦さんがブログで数度にわたって検討されている。これは常識的に考えると翻訳にクリーンルーム方式がなされていないということを意味する。つまり、右手に原文、左手に既訳を置いて、それで日本語をいじって訳を作っているのではという疑いを招く。かつて岩淵達治がブレヒトの別の作品のある訳について怒っていたのを思い出す。そのときは、「同じ原文の訳だから似ることもあるでしょ」と思ったし、自分が『オイディプス』を訳したときのことを考えると、若いときに読んだ訳本の表現が無意識に出ることはあるので、表現の類似で「自分の訳のパクリだ」と主張するのは筋が悪いなと思っていたのだけれど、間違いが引き継がれ続けるというのはまた別の話だ。但し、著作権法で保護されるのは表現であるため、このことは法的に問題があるわけではない。また、持田さんが指摘している箇所について、訳者がたまたま同じ間違いをしでかしているという可能性も数学的にはある。ちなみに、持田さんの推論では、谷川訳は「誤訳の伝染」の源であって、他の訳がそれを参照しているらしい。
『アンティゴネー』と誤訳の伝染 (2009)
ストローブ=ユイレ「アンティゴネー」のDVDに付された字幕について (2011)
ブレヒト版『アンティゴネー』の誤訳の伝染を防ぐために (2014)

持田さんの議論は、誤訳の伝染(つまり先行訳を参照して新しい訳を作ったために先行訳の誤訳がいかに引き継がれるか)を中心にしているので、とても面白いのだけれど、読んでいて分かりにくいのも確かだ。また、若干解釈が分かれる所もあるので、持田さんの解釈に頼りつつも、挙げられた箇所に関する自分の理解を光文社古典新訳文庫の谷川道子訳と対比する形で書いておくことにする。
テキストにいろいろ面倒な面はあるものの、間違い自体は単純ミスのレベルも多い。テキスト原文は持田さんのブログにあるものが正しいと仮定する。

(1) 冒頭のアンティゴネとイスメネの会話
アンティゴネがイスメネに死んだ兄たちについて何か知らないかと問いかけるのに対してイスメネは次のように答える。
私は広場には行かなかったの、アンティゴネ。親しかった人たちでさえ、もう誰も言葉なんぞかけてくれはしない。優しい言葉どころか、哀しい言葉だって。だからこれ以上、嬉しくなりようも哀しくなりようもないわ
"Nicht auf dem Markte zeigte ich mich, Antigone.
Nicht ein Wort kam zu mir von Lieben mehr
Nicht ein liebliches und auch kein trauriges
Und bin nicht glücklicher und nicht betrübter."

問題はvon Liebenって何?ってことなんだけれど、この訳それ以外にも随分いい加減だ。2行目のkamが「言葉なんぞかけてくれはしない」と現在になっているし、単なる bin (英語のam) に「嬉しくなりようも哀しくなりようもない」って変なニュアンスがついている。
言っているのは素っ気ないほど簡単なことで「広場に出なかった→アンティゴネが伝えたこと以上の言葉は、嬉しい言葉も哀しい言葉も聞いていない→だからそれ以上に嬉しくも哀しくもない」ってだけだ。大体この時点でイスメネもアンティゴネも別に村八分にされている訳ではないので、「もう誰も言葉なんぞかけてくれはしない」なんてはずはない。それ以上のことを知らないのは、イスメネが最初の兄弟の死のニュースを聞いてから「広場にでなかった」からだ。
で、ここのvon Liebenは、ソフォクレスの原文では、アンティゴネとイスメネにとっての肉親φίλοιであるポリュネイケスとエテオクレスを指すと理解するのが多数派で、解釈上決着がほぼついたところである。「私は広場には行かなかったの、アンティゴネ。親しい人たちについての話は、それ以上一言も聞いていないの。優しいのも悲しいのも。だから、より喜んでもないし悲しんでもないの
語学的には、ソフォクレスでもブレヒトでも、「親しい人たちからの言葉を聞いていないの」も可能ではある。実際19世紀末あたりのJebbのソフォクレス英訳では"To me no word of our friends"になっている。でも、文脈的にこのvon Liebenを、アンティゴネの最後の言葉「滅び行くオイディプス一族(つまりポリュネイケスとエテオクレス)」と理解しないことはブレヒト版では難しい。

(2) クレオンがなぜコロス(長老たち)を呼び出したのかを説明する場面。コロスがクレオンに戦利品と勝利した兵士を乗せた戦車のイメージを出してクレオンを褒め称えるのに対してのクレオンの言葉。コロスは戦争が多くの利益をもたらすことを期待している。
それに対してクレオンは、その期待に応えようとして語り始める。
「すぐだ、我が友よ、それももうすぐだ。/さて、仕事にかかろう。/諸君はまだ、わしが神の館に剣を戻すのを見ていない。/つまりここに集まって貰ったのには、二つの理由がある。/その一つ、諸君は戦の神に支払う、敵を踏みつぶす戦車の代金の収支をないがしろにし、/戦場で捧げる息子たちの血も、出し惜しんでおる。/だが、もし戦の神が弱りはて、敗けて/ぬくぬくした屋根の下に帰ってきたりしたら、/その代償は高くつくことになる。/だからテーバイの民に、失ったテーバイの血は尋常ならざるものではないことを/即刻知らせてほしい。
「すぐだ、我が友よ」って始めているように、クレオンはコロスにここでは友好的。コロスが集められた目的は二つ。二つ目は、ポリュネイケスの埋葬禁止を伝えることだけれど、一つ目は、この訳だとテーバイの犠牲者が少ないことをテーバイ市民に伝えること。赤色の部分、戦勝の知らせでこんなこと言っても意味ない。「敵を踏みつぶす戦車の代金の収支をないがしろにする」って端的に訳(わけ)が分からないし「血も、出し惜しんでおる」って戦争に勝ったんだからそんなこと言わないよね。次の二行も意味不明。「負けたら大変だよ、だからもっと兵を出せ」って意味だろうと思うのだけれど、戦争に勝ったんだし。それだとその後の「犠牲は少なかったと知らせて」というのと整合性がない。
で原文
Euch nämlich rief aus zwei Ursachen ich
Aus den Gesamten; einmal, weil ich weiß
Ihr rechnet nicht dem Kriegsgott die Räder nach
Am feindzermalmenden Wagen, noch geizt ihm
Das Blut der Söhne im Kampfe, doch ist
Kehrt er geschwächt unters wohlgeschirmte Dach
Viel Rechnen am Markt, daß ihr mir also
Den Blutverlust der Thebe zeitig beibringt
als übers Übliche nicht gehend.

試訳(持田さんともちょっとずれた)「まず第一に、諸君は軍神の乗る、敵を踏みつぶす戦車の車輪を数え直したりはせず、戦場で軍神に捧げる息子たちの血も出し惜しみしていないことは知っている。それでも、良く保護された(テバイの)屋根に戦車が弱くなって戻るときには、多くの計算が市場ではなされることも分かっているのだ。だからテーバイの失われた血は通常を超えていないことを、直ちに私に伝えて貰いたい
持田さんとずれた部分は私の間違いの可能性も大いにあるのだけれど、谷川訳の間違いは3行目のnicht〜と4行目のnoch〜が対応していて、「〜も〜もない」を意味することを無視したこと、「車輪の代金の収支をないがしろにする」ってのを非難の意味で取ったこと。収支をないがしろにしてるんだから、そんだけ総力戦で臨んだということだ。
持田さんとの解釈が違うところを述べておくと、私は、戦車(単数)が軍隊、車輪は軍事費の比喩だと考え、ここでクレオンは、軍隊が戻ったら直ちに損失の度合いを自分に教えてくれるようにコロスに頼んでいると理解した。それによって戦争の収支を考えねばならない立場に彼はいるからだ。彼自身も戦果と損失の割合をまだ把握していない。

(3) コロスの退場歌
〆の部分。コロスが教訓を歌うところ。ここは光文社訳は一体どうなったの?って感じ。
我らもまた、あの男の後についていこう、あの世の底へと。/我らを無理強いした手は打ち落とされて、/もはや我らを打ちのめしはしない。/だがあの女、すべてを悟りはしたが、ただただ敵を助けたばかり、/その敵が今ここに攻め入って、すぐにも我らを皆殺し。/なぜなら時は短く、まわりは災いばかり、/だから何も考えずに生きのびたり、/忍耐に忍耐を重ねたり、/悪虐非道へ走ったり、/年とってからやっと賢くなったり、/そんな余裕は、人間には決してないのじゃ。」

Wir aber
Folgen auch jetzt ihm all’, und
Nach unten ist’ s. Abgehaun wird
Daß sie nicht zuschlag mehr
Uns die zwingbare Hand. Aber die alles sah
Konnte nur noch helfen dem Feind, der jetzt
Kommt und uns austilgt gleich. Denn kurz ist die Zeit
Allumher ist Verhängnis, und nimmer genügt sie
Hinzuleben, undenkend und leicht
Von Duldung zu Frevel und

Weise zu werden im Alter.

二行目のauch jetztが「我らもまた」になっているのは単純な語学的ミスだと思う。「私たちはしかし、この期に及んでもあの男について行く、つまり落ちてゆく」その次の箇所が持田さん訳だと「切り払われてしまうのだ/もはや振り下ろされることのないようにと/私たちの身から、拘束されるべき手は」となっていて、確かにこの箇所でコロスがクレオンに無理強いされていたなんて弁解するのはおかしいし、コロスがこの芝居でクレオンに「打ちのめされて」いたわけではないので、die zwingbare Hand はコロス自身の手なんだろう。...barは他動詞について「せられ得る」 「せられるべき」(クラウン独和)を表すので(持田さんの説明のとおり)「縛られるべき手は私たちから切り落とされて、もう殴ることはない」で、これはジュディス・マリーナのリヴィングシアター上演テキストでの「 Our violent hand shall now be cut off so that it shall not strike again.」とも対応している。そういう「私たち」と「すべてを見て取った」彼女とが「でもすべてを見て取った彼女は」と対比されている。Feindの後の関係代名詞のderは限定用法だと思う。「すべてを見通した彼女は、いまややってきて間もなく私たちを滅ぼす敵を助けるしかなかった。なぜなら、時間は短くあたり一面に不幸があり、何も考えずに気楽に(受動的)忍耐から(積極的)邪悪までだらだらと生き続けて、それから歳を取って賢くなるには、時間は充分ではないからだ。」マリーナの訳は"it isn't enough just to live unthinking and happy / and patiently bear oppression / and only learn wisdom with age." で、patiently bear oppression (抑圧を我慢強く耐える)になっていて、持田さんの「悪事を黙認しながら生き」と構文の理解では一致している。ただ、Von Duldung zu Frevelは、「時間が短く不幸が至る所にある」状況で、その不幸を考えなしに消極的に耐えたり積極的に加えたりするような人生をだらだら生きるhinleben (hinは「成り行き任せ」の感じを表すのかなぁ(大独和))その振れ幅をvon..zu..(〜から〜まで)で表しているのではないかしら。論理ははっきりしていて、「私たちはクレオンに従って滅びる。だがすべてを知った彼女は敵を助けるしかなかった。不幸が充ち、時間がなく、日和って生きて年を重ねて賢くなるほどの余裕はなかったからだ」で、これを「コロスのアンティゴネ批判」と読むのは端的に間違いなので、この訳本の解説を論文に使おうとする人は注意が必要。




2014年5月31日土曜日

福中冬子編訳『ニュー・ミュージコロジー』所収、キヴィ「オーセンティシティー」について

福中冬子編訳『ニュー・ミュージコロジー』、ゲーアの論文は、日本語一ページ読むだけで、訳がでたらめだと分かったのだけれど、ゲーアが紹介しているグッドマンの議論自体難解なのかもしれず、ある程度仕方がない。それでも全体の三分の一くらい誤訳、っていうのには驚いたけれど。
学生の卒論のテーマに重なるのでこの章は注意深く読み、大きな誤訳はほぼ指摘した。そのとき、同じ分析美学仲間のピーター・キヴィの「オーセンティシティ」はどうなのかしらと気にはなったんだけれど、何となく読めば分かる感じの文章に見えたので検討しなかった。
で、その学生さんと「オーセンティシティー」の箇所を読み出して仰天する箇所に出会うことになる。それは、看護婦になりたいと言っている貧しい少女ワンダについての文だ。
もちろん、<ワンダ>は一度も医者になりたいなどと口にしたことはない。彼女は常に看護婦になりたいと公言していたが、まともな思考が出来る人間ならば誰しも、彼女の能力や人格、行動に鑑み、医療現場で働くならば−彼女の言葉とは裏腹に−看護婦よりも医者の方がやりがいがあること、そして状況が許すならば彼女自身医者になりたいと思っていることを認識できるだろう。(148)
「まともな思考が出来る人間ならば誰しも…医療現場で働くならば…看護婦よりも医者の方がやりがいがあること…を認識できるだろう」はおそらく翻訳者の思い込みが誤訳に反映した例である。そしてその思い込みはずいぶんと看護婦を馬鹿にしている。誤訳であることに気づくまで、キヴィってこんなあほなことを書く人なのかと唖然とした。
もちろん、ワンダは自分が医者になりたいと言ったことはない。そのポイントはどこにあるのだろう?彼女が医者になることが不可能だったという点だ。だから彼女はいつも看護婦になりたいと言っていたのだ。しかしながら、彼女の能力と個性を知っており、その振る舞いを何年にもわたって観察しており、医療の領域で看護婦よりも医者になるほうが彼女の人生がどれほど満足できるものになるのかを知っている知性ある人ならだれでも、これらすべてのことがらから、それまでの何年間もの間ずっとワンダが語ってきた言葉に反して、 ワンダが、現在の状況では、看護婦よりも医者になることを望んでいると推論できるのである。Of course, Wanda never said she wanted to be a doctor. What would have been the point? She couldn't be one. So she always said she wanted to be a nurse. However, any reasonably intelligent person who knows Wanda's capabilities and personality,has observed her behavior over the years, and knows how much more gratifying her life would be, in the healing arts, as a doctor rather than a nurse can infer from all this, pace what Wanda has been saying all these years, that Wanda, under present circumstances, wants to be a doctorrather than a nurse (.Peter Kivy: Authenticities (Cornell University, 1995) 24)
キヴィは翻訳者とは違って、「医療現場で働くなら看護婦より医者がやりがいがある」なんてことは書いていない。ワンダを知っていて、何年も観察していて、彼女にとっては医者になる方がどれほど望ましいことなのかを知っている人が、「彼女は医者になりたい」と推論できると主張しているだけである。knowとinferの違いとか、主語を修飾する関係節と主文の違いとか、指摘するのも徒労になってしまいそうだ。
もう一つ、この訳の大きな問題は、これが(間違った)要約であって翻訳ではないということだ。彼女は、自分が理解出来る形に原文を縮め、まとめている。ところがキヴィは彼女が理解できるほど単純なことを言ってくれていないので、何となく分かったような読後感はするけれど実は出鱈目な翻訳ができあがった。
その前のページでも「身体を持たない思考プロセス」(147)とか笑わせる訳文が出てくるし、このあたり、文単位でみると正しい訳ひょっとしたら一つもないのではないだろうか。「身体を持たない思考プロセス」の直後もこんな感じ。
ここでツッコミが入るとすればそれは、人は実際、あらゆるものを「望む」ことは出来るが、あらゆるものを「意図」することはできない、ということだ。もしその「なりたい[望む]」が不可能であったとしてもである。「Xになること意図する」と私が言ったところで、そのXが不可能であるならそれは意味を成さないが、「Xになりたい」と発言すること自体を阻止するものではない。(同147)
この訳に実際に「ツッコミを入れ」、出来るならばその流通を「阻止したい」のだけれど、出来るのは試訳を置いておくこと位かしら。
結局のところ、人は何でも「意図する」ことは出来ないけれど、 何でも本当に「望む」ことは出来ると言われるかもしれない。Xが私にとって完全に不可能であるとき、「私はXになることを意図している」と私が言うのは明らかに意味がない。他方、「私はXになりたい」と言うのは、それでも意味があるようにみえるかもしれない。It might be interjected here that, after all, one can really "want" anything, even though one cannot "intend" anything. It makes no sense, clearly, for me to say "I intend to be X," where X is flat-out impossible for me, whereas it may seem, anyway, to make sense for me to say "I want to be X."(同23)
 卒論の学生さんのためには、ゲーアの場合同様、論文全体にわたって見直してあげるべきなのだろうけれど、今回は全訳になりそうで、時間や著作権の関係もありそれは控える。

2014年4月5日土曜日

四月

エリオット「荒れ地」冒頭、てきとー訳

四月が一番酷い月。死んだ
土地からリラの芽を出させ、記憶と
欲望を混ぜ合わせ、春の雨で
鈍な根っこの小さな生き物が活気づく。
冬は僕らはあったかい。忘却の雪が
地面を覆う。乾いた球根で命が育つ。
夏は突然でびっくり。シュタルンベルク湖から
雨と一緒にやってきた。僕ら柱廊で足止めで、
そんで晴れたら歩いてホフガルテンへ、
そんでコーヒー飲んで一時間おしゃべり。
うちロシア人ちゃうよ。リトアニアや。ほんもんのドイツ人
子供の頃、うちら大公さんのとこに行ってたやん。
いとこのひと。うちをそりで連れ出して
怖かった。大公さん言わはんの。「マリー
マリー、しっかり捕まっときや。」そんで下ってったんよ、
山の中に。山は自由な感じやね。
今は夜はだいたい読書。そんで冬には南やね。


絡まっている根っこは何? この石混じりのがらくたから
どんな枝だが育ってくるのか? 人の子よ、
お前には語りも想像も出来ない。分かっているのは
壊れたイメージの山だけだもの。陽射しが照りつけ
朽ちた木は陽射しをさえぎらない。虫が息つくこともできない。
乾いた石は水音を立てない。ただ
この赤い岩の下にだけ影がある。
(この赤い岩の影の下においで)
あさ君の後ろで拡がる影とも、
夕方すっとのびて君の前に立つ影とも
違うものを見せてあげる。
一握りの砂のうちに恐怖を見せてあげる。
さわやかな風がさとの方にふいてゆく。わしのアイルランドの子、われどこをさまようとる?

「最初にヒヤシンスくれたんは一年前やったよね。
ヒヤシンス娘って呼ばれたわ」

−でも僕らが、遅くに、ヒヤシンスの庭から戻ったとき、
君の両手はいっぱいで、髪は濡れていて、ぼくは
しゃべれなかった。見えなかった。ぼくは
生きてもなかったし死んでもなかった。何も知らずに
光の奥を見つめていた、沈黙を。
海は果てしなくて何もない

2013年11月30日土曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」8

ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」の翻訳の検討・訂正もようやく最後の2節まで来た。
16〜17節はやっとゲーアの評価らしきものに出会う。
16
完全な遵守という条件に適う、ということの問題としてよく知られている含意は、どんなに退屈な演奏でも、ミスがない限り、記譜上の要件を満足させるという点だ。(121)」逆にどんな優れた演奏でも一つでもミスがあれば作品の演奏にならない。作品の同一性が保持されるべきならばそうならざるを得ないとG。
一つの音符だけが違う演奏は同じ作品のインスタンスだという素朴に見える原理は、同一性の遷移を考えると、どんな演奏でも同じ作品の演奏になるという帰結を生み出す危険がある。少しでも逸脱を認めると作品保持と楽譜保持の保証は失われる。一つの音符の省略や追加を続けることで…ベートーヴェンの第五交響曲から「三匹の目の見えないネズミ」にたどり着くことが出来るからだ。(G186-7) (122)(「どんな演奏でも同じ作品の演奏になる」の前に訳者補足で[同じ楽譜を使用している限り]をつけているのは無理解。そんな意味ではない。)
楽譜は作品を構成するものすべてを特定し、演奏は楽譜の記譜上の特定のすべてに完全に従わねばならない。 これはありふれた連鎖式問題(あるいは積み重ね問題)a=b, b=c, c=dならばa=dという問題、塵を積み重ねても山にはならない(いつまで、どこまで?)という問題。滑りやすい坂slippy slopeの問題でもあるか。原訳では「三段論法的問題」!)。「楽譜だけに頼る場合、一つの作品の上演に幾つの間違いが許されるかをどのような基準で決定できるだろうか?
「禿」になるには何本の毛が抜けねばならないのか?このサウンドイベントは作品演奏ではないと言われるまえに何カ所の間違った音符を弾けるか。「同じクラスに属する二つの演奏は、たとえ最小限の違いはあるとしても同じように個別化されているという観念は却けねばならない。」そうでないと遷移性のゆえに、ふさふさでも「禿」だ、第五は「三匹の…」だという結論しなければならなくなる。
髪の毛と違い演奏のすべての部分は互いに関連し合っている。演奏や作品で基本単位は一個一個の音ではなく隔たりのある構造、リズムやハーモニーのゲシュタルト、旋律だろう。「より複合的な部分の同一性が保たれれば、一つ一つの音符の間違いは容認できる。旋律のゲシュタルトが認識出来る限り、音符が一つや二つ間違ってても構わない」(123)(ゲシュタルトという言葉は普通の心理学用語で「外郭的音型」(って言葉あるのか。音楽学は複雑だ)ではない。)
この提案の問題。(1)ゲシュタルト認知は外延主義にあわないので、外延を諦め複合単位の遵守だけを語るべき。(2)連鎖式問題のレベルが高くなるだけ。ある旋律をミスで弾かなかったとして、演奏の同一性は保持されるか? それに答えられたとしても、メロディの同一性は部分に頼らずに説明できるのか。「旋律を例化するために我々はその原子的部分のそれぞれを例化せねばならないのではないか?(原子的部分とはいっこいっこの音符のこと。原訳を挙げておく「旋律の事例を挙げるには、その原子レヴェルでの構成要素の事例付けをも必要とななってこないだろうか?」えっと、「旋律を例化する」とは、メロディを演奏することです。)

間違った音符の数を数える量的モデルでは、完全な遵守は一番満足のゆく条件になろう。(complianceはこれまで「したがうこと」で訳してたけれど「遵守」も良いと思った。ビジネス用語でもそういう訳語もあったし。遅まきながら「遵守」も取り入れ。)これは正しい結論なの?「遵守率は80パーセントにしよう、といえばグッドマンの理論に影響を与えるのだろうか。このレベルのフレクシビリティないし間違いマージンを認めておけば、いろんな演奏の一つ一つを所与の作品の演奏として個別化できるだろうか?でもなぜこの特定のパーセントであって他のでないのかは、明らかではない。そして恣意的に見えるこの選択の理論的な満足度は低くなるだろう。グッドマンが完全な遵守という条件を採用するには、遷移問題以外にも理由が隠れているかもしれないのだ。」
(要約:音符の完全な遵守というグッドマンの要求は、一個でも違う音符を弾いたら同じ作品の演奏でなくなるという帰結を生みだし、それをさけると「同一性の遷移」問題を引き起こすので、ゲーアは二つの可能性を提示する。第一は、基本単位を音符ではなくメロディなどのゲシュタルトにしたら?というもの。外延主義とゲシュタルト概念はあわないので外延主義を捨てるとしても、「遷移」問題はメロディでも生じるし、メロディの同一性は音符の同一性で保証するしかないのでは?という問題がある。第二は、量的モデル(例えば音符遵守率80%)はどうか?ってのだけれど、特定の量にこだわる理由がない。どちらもいまいち。)

17
グッドマンは「曖昧な対象」へのコミットを避けたかったのかも。ネイサン・サーモン曰く〈連鎖式による議論は曖昧さという現象に混乱を引き起こす〉。「直感的には、「作品の演奏」という概念は、そこに属する対象が(それを構成する)性質が厳密に共通であるということを共有なくても良いようなものであって欲しいと我々は望む。所与の作品の複数の演奏が全く同じ(構成的な)性質を結局は示さなくても、演奏はそれでも、演奏が例化しようと意図し、例化していると認知している作品のゆえに、同じ作品の演奏として同一性を認められるのだ。プラトニズムに傾く人は、固定した不変の性質集合を持つのは作品だと論じることが出来よう。演奏はその不完全な近似ないしコピーだと。(124)」ウォルターストーフなら、音楽作品は〈内在する本質的な性質に関して不変〉。
ここには前批判的直観。作曲者が厳密に特定した産物としての作品。「作品の構造的(また可能な限り美的)性質の特定に関する作曲者の決定は一般に尊重される。それでも、演奏は完全であると期待されていない(奏者は完全にしようと努力するのだけれど)。なぜなら、鑑賞者が作品それ自体に完全で、決定され、理想化された観念を持っているならば、演奏の不完全性を判定し無視することすら出来るからだ。」(文同士のつながりがきちんと訳されていないので、細部の間違いはあまりないのに理解出来ない訳になっている。)
グッドマンは意図と認知の条件を認められず、外延主義にコミット。演奏の曖昧さと作品の完全性の両方を同時に支持できなかった。「作品は存在論的に演奏に還元されるからだ。作品とは楽譜を遵守する演奏に他ならないのだ。」反直感的な二つの選択肢しか残っていない。「作品とその演奏の両方に一定の曖昧さがあるか、どちらもそれを構成する性質に関しては等しく完全に決定されているか。彼は後者を選ぶ。(125)」
グッドマンは前批判的理解を放棄。
少ししか間違った音符を弾いていない演奏が作品のインスタンスではないする見解に、作曲家や音楽家は怒って抗議しそうだ。通常の言葉の使用法がその時彼に味方するのは確かだ。でも通常の使用法はここでは理論にとっては破滅に導くものなのだ。(G.n.120)
グッドマン批判者の不満はおさまらない。批判者たちは、唯名論・外延主義・前批判的直観との断絶のすべてを受けいれない。 彼の理論と私たちの考え方との違いは大きすぎる。不満には責任が伴う。「批判者たちは、理論的に一貫していて音楽現象との充分な関係を維持している説明を与えられるのだろうか。この二〇年の間、多くの理論が生み出される動機をもたらしたのはこの問いである。次章で、私たちは、これまでに提供されたなかで一番尤もらしい説明の一つを考察するつもりだ。」
要約:演奏は、同一の性質をすべて実際に例化していなくても、例化しようと意図し、例化していると認知している作品の同一性のゆえに、同じ作品の演奏と呼びうるのではないか。この考えからは、作品のプラトニズム的ないしアリストテレス主義的観念生じる。同一性を持ち性質が不変なのは「作品」だ。これはしかし素朴な直観でもある。グッドマンはその直観を拒絶したが、批判者たちは、むしろグッドマンによる唯名論・外延主義・直観との断絶を拒絶する。では、彼らは、そうした理論を提供できるだろうか。もっとも成功した試みはレヴィンソンだ)


2013年11月29日金曜日

リディア・ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」7

第14節
第14節は再び精度が上がる。但しグッドマンの翻訳二箇所は間違い。
グッドマンにとって問題は、何かが楽譜として機能するために満足すべき条件と、何かが演奏であるために満足すべき条件の両方だ。だから、記譜と記譜に従うもの(演奏)の関係は完全であらねばならない。
以下、グッドマンの引用二箇所の原訳と試訳を並べる。

原訳「楽譜が要求する楽音を特定・実践する上で必要な能力は、当の楽曲の複雑度に即して増すものだが、実践[の質]を見極める上での決定的な理論的検証というものが存在する。そして解釈上の忠義や独自の価値がいかようなものであろうと、演奏は、—この検証によれば—対象作品の組成的属性を持つか持たないか、そして当の楽曲の厳密なる演奏であるか否かの、どちらかなのである。」(まあそれはどちらかなのでしょうけれど…)
試訳「楽譜が要求する音をそれと見分けたり作り出したりするために要求される能力は、楽曲の複雑さとともに増大するが、それでも、理論的には、楽譜に従っているかどうかの決定テストが存在する。解釈上の忠実さや独自のメリットが何であれ、演奏は、このテストをパスするかどうかで、当の作品を構成する性質のすべてを持っているかどうか、厳密に言ってその作品の演奏なのかどうかが決まる。(G117-8)」(118)

原訳「作品の真なる事例化に唯一必要なもの、それは楽譜への完全な準拠である。つまり楽譜自体は演奏に関する特徴を明示せず、一定の限度内において多くの変容を許容するかもしれないが、既に記述されている詳述事項への完全な準拠は無条件に必須である」
試訳「楽譜に完全に従うことが作品の真なるインスタンスへの唯一の要求である。…だから、楽譜は演奏の多くの特徴を特定しないままにしておくかもしれないし、それ以外の特徴については一定のあらかじめ定められた範囲の中でかなりのヴァリエーションを許すかもしれないけれど、与えられた指定に従うことは無条件に求められている(G187)。」(119)
(complianceを「準拠」と訳すことに文句をつけないとしても、間違いは「つまり…」以下にある。「特定しない」のと「ヴァリエーションを許す」のは原文では排他的だ。)

グッドマンによると、作品には、「自由な遊び」を作曲家が許さない性質がある。典型的には音高・音価・調性。これらは作品の構成要素なので、特定される必要がある。「ある程度のヴァリエーション、解釈の自由、「お好きにどうぞ」が認められる性質は偶然的で予見不可能な性質だ。
一定の自由があることは音楽システムの記譜的性質を脅かさない。楽譜が記譜要件を満たす限り、作品を権威的に同定することが可能。この見解に何か問題があるのだろうか?

本節は、大体半分くらいの文が正しく訳されているように見える。肝心なグッドマンの引用が×なので分からなくなっているけれど。

15節
前節で、「何か問題が?」と問いかけているので、問題の実例を挙げている。演奏者の一人が途中でくしゃみをしたら、「完全に従う」という条件は壊れ、その作品の演奏ではなくなってしまうのか?
楽譜が演奏を構成する性質を規定し、何かが演奏なのは完全にその性質に従う時だとすれば、くしゃみで壊れることはない。偶然的要素はあるし、二つの演奏が完全に同じ音を出すなどまずない。つまり、「演奏を構成する性質を妨げない限り、どんな特徴を加えても構わないのだ。その結果が演奏であることに変わりはない。これは望ましくない帰結だ。果たしてそうなのか?」(120)
Gなら、それが望ましくないのは実践ないし質に関してだけ、と言うだろう。「彼は多分、楽譜が複合符号であり、作品を演奏するというのは各個別符号に従うというよりもむしろ結合した形での符号に従うということの問題だ、と想起させるかもしれない。作品を構成する符号に従っているなら、結合した形でそれに従っていたのであり、このことは、すべての楽譜の間にくしゃみがあった、という可能性を排除するのに充分だろう。」
「多分、くしゃみが一つぽつんとあってもそれは、グッドマンの言葉だと、演奏の同一性ではなく質に影響する偶然的な特徴の一つに見えるかもかもしれない。」くしゃみは奏者の加えるヴィブラートみたいなものかも。くしゃみを「加える」という選択を妨げるために、未確定という意味での「記譜上の偶然的な性質」と、記譜上の規定とは無関係な「アクシデント的性質」を区別することも出来る。くしゃみや雷などは後者。(iPhoneの呼び出し音や教会の鐘も)前者は演奏に際して選択可能だけれど後者は不可。でもこの区別は不要だし何の役にも立たない。
Gだと、演奏は、それを構成する作り出された音によって、その音がどこまで楽譜を守るかに応じて説明されるべき。偶然的な音は無関係。くしゃみややり過ぎのグリッサンド(メンゲルベルクだ)が演奏の同一性をおかすのは、作品を構成する符号の遵守を妨げたときだけだ。そこまで来ると、演奏は不適当ないし不完全だ。そうした演奏があっても、完全な遵守が演奏の同一性に充分で同一性を決定するかどうかには無関係。
グッドマン説が崩せないのには認識論的な問題もある。演奏かどうかを判定できないような例を作り出すことは出来ない。その考察は無関係だとグッドマンは反駁するだろう。あるサウンドイベントが楽譜に従っているかどうかを我々がどのように知るのかは、演奏が完全に楽譜に従うことを要求する存在論的な条件とは無関係だ。(前者は認識論的問題だ)。この点は記譜上の偶然的な性質とアクシデント的な性質の区別についても当てはまる。
くしゃみはグッドマン説の妥当性と無関係。でも批判者は、くしゃみよりも、当の楽譜に完全に従わない多くのイベントを演奏のうちに数え入れたい。それがグッドマンとの不一致の核だ。グッドマンの場合、くしゃみはいくらあっても良いが、一つのミス(ひとつの間違った音)を持つ演奏でも演奏とは認めない。どんな理論的問題が彼にこんな立場をとらせたのか?
後半は原訳のままでほぼ問題はない。)

2013年11月27日水曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」(6) 13節

13
13節に入って、翻訳は再びほぼ出鱈目なものに戻った(後半はレベルが上がる)。ここではアラン・トーミーのグッドマン批判が取り上げられる。これはジフの批判よりもおそらくは重要であり、節としてもこの章の中で一番長い。再び、重要な誤訳箇所は青字にして翻訳(ないし要約)を行うやり方に戻る。どう間違っているのかは訳書を見て下さい。もとの翻訳に重要な間違いがない場合は「」内の私の訳も黒字。

アラン・トーミーは、楽譜の符号characterモデルに代えて規則モデルを採用する説得的な理由を提示した。かれがそうしたのは、グッドマンのモデルを支持するためではなくその代案モデルを与えるためだ。」第一に、トーミーは、不適切楽譜は音楽を作品ではないものにするというグッドマン説を拒絶する。「偶然性をもちいる楽譜はグッドマンが記譜に求める要求を満たさないという事実からは、「そのシステムは異なる演奏の間での作品の同一性を決定する手段を提供しない」という結論は帰結しないからだ。我々は実際偶然性を用いる作品を同定するのである。」だから、同一性には記譜以外の保証が必要だ。第二に、トーミーは、規則モデルが非グッドマン的な事例だけではなく全事例を説明する理由を示している。非記譜的な「同一性の保証」を与える点で規則モデルは符号モデルにまさるのである。
不適正楽譜を適正楽譜に翻訳する必要はない。「記譜の正確さ以外にも作品の同一性を保持する役に立つ条件が存在するからだ。グッドマンの線で考えられた記譜が、一連の演奏における作品の同一性を説明するのに不充分であることを証明するなら、「作品」クラスのなかにより多くの種類の音楽を入れることが出来る。」記譜以外に、信念や意図などの非外延的条件が必要。それらを認めることで外延・記譜条件はフレクシブルになる。重なりあうクラスの作品や演奏の同一性を決定するのにこれらの条件は役立ちうる。
「「同一性」という言葉にはとても多くのものが詰め込まれている。」GもTも、聴かれるもの、楽譜などで読まれるもの、聴くことになるだろうと語られることによって作品の同一性を決めようとはしていない。「彼(T)は同一性という語をテクニカルに用いている。つまり、何かが同一性を持つのはそれが一定の外延的あるいは非外延的条件、あるいはその両方を満足する場合であり、かつその場合に限る、と。トーミーとグッドマンの違いは、どんな種類の条件を作品の同一性に関係がある条件として認める気があるか、という点にあることが分かる。」
「符号に従うことに代えて規則を満たすことを持ち出すことで、楽譜が作品の同一性決定のための権威となる原理だ、というグッドマンの主張は影響を受けるのか?外延主義へのコミットは脅かされるだろう。でも、もしグッドマンが規則モデルを外延的に定式化できたら、規則も結局符号と同じことをする、という結果にならないか?」Gの符号=(トーミーたちの)規則でどこに障害がある?
「障害は次の点にある。グッドマンの記譜システムは取り出しプロセスを通じての作品の二方向の同一性決定を許す。」(北野コメント identificationは「同定」でも構わないが、このあたりでは特にidentity(同一性)が問題になっているので「同一性(の)決定」としてみた。)楽譜からも作品の適切な演奏を「取り出しうる」し、演奏からもそれが適切である作品の「楽譜」を取り出しうる。「符号モデルを規則モデルで置き換えることで、この二方向の同一性決定は脅かされるだろうか? 演奏を聴くことで、どんな規則に従ったのか、その規則の同定を行うことが出来るだろうか? 私には疑わしい。でも、それが規則モデルの問題であるなら、それは記譜モデルの問題でもあるのだ。」ジフは、記譜上の性質だけからは演奏を聴いて作品を取り出すことは出来ないと批判した。伝統も考慮しなければ。だからZもTも、「楽譜はそれ自体で作品を定義できないと結論する。」
楽譜を読み、演奏を聴く際に、何が作品を構成する性質になるのかについての理解を持っていなければならないことをグッドマンは認めるだろう。」人が読むのは黒いしるしではなく意味ある記号なのだ(G117)。しるしを楽音に変換する規則を知っていること、「一点ハ(の記号)にしたがうもの(音)を作り出すことのうちに何が含まれているのかを知っていること」が前提とされる。つまり「記譜符号の意味は当該の伝統の文脈で測られるべきであることが前提とされている。同様に、演奏を聴くときには、音がしたがっているのはどの符号なのかを私たち(あるいは少なくとも誰か)は知っていると想定されねばならない。」
「グッドマンがこれをすべて認めるかどうかは彼の理論とは殆ど無関係だ。取り出しテストが語っているのは理論的に可能でなければならないことだけだからだ。」実践において何が可能であらねばならないかは語られていない。理論の検証のためではなく、単なる興味のために、モーツァルトがグレゴリオ・アレグリのMiserereの演奏を聴いて記憶して楽譜を書いた(法王の怒りを買う危険を冒して)ことを思い起こすこともできよう。
 でも「規則モデルを主張する人たちも同様に自分の立場を弁護できる。取り出しテストをパスすることを、規則モデルは原理的に要求するだけだからだ。規則が守られているとき私たちが原理的にそれを認識しておりその規則を同定できることが、規則を理解することの部分をなしている。その規則を実践において正しく同定できるかどうかは別の問題だ。」取り出しテストが理論的可能性の問題なら、それは符号モデルと規則モデルの優劣を決めるのに役立たない。理論的にはどちらも上手くパスする。
「あらかじめ外延主義に与するのでないなら、取り出し手続きを助ける非外延的条件の可能性を(外延的条件に加えて)追求しても構わないだろう。」同じ外延的語彙で考えた二つのモデルの優劣ではなく、たぶん全く異なる存在論的なコミットを行っている二つのモデルの優劣が問題になる。
トーミーの規則モデルは偶然性音楽と古楽を説明できるという利点があり、これは大きな利点だ。でもグッドマンはそれを利点とみなさないだろう。彼はそれらを翻訳によっても、また作品カテゴリーからの除去によっても扱える。もう一つ、グッドマンがそうした例を気にしない理由がある。「彼の意図は、音楽世界の理想化に基づいた作品の同一性の説明を作り出すことだった。現実世界で何が作品とみなされているのかにも、彼の理論的条件を満足させる作品が現実世界にそもそも存在するのかにも直接の関心はなかったのだ。
この論点も批判者には受けいれられない。理想化とは、そもそも現実世界の実例への知識に基づくものであり、グッドマンが求める理論的純粋さを保つことは出来ない。「自分の関心が「[音楽の記譜の]起源や発展にではなく、楽譜の言語がどこまで充分に真に記譜システムとして認められるのか(G181)にある」というグッドマン自身の但し書きにもかかわらず、彼の主張の多くはなおも実例の知識を前提としている。もし、グッドマンが、自分はいかなる経験的知識も前提としていないと主張し、「作品」「楽譜」「演奏」といった語彙の使用は理論内部でのみ正当だと断言するなら、私たちは、彼は何について話しているのかと、彼に問うことが出来るだろう。彼の理論は何の理論なのか? 彼の主張は実際の音楽作品と関係があるのか? あるとしたら、結びつきはどこにあるのか? ないとしたら、どうしてこのような語彙を使うのか? 彼の語彙使用は、同じ語彙を非理論的な意味と結びつける人々を混乱させるものではないのだろうか?」
批判者に対してグッドマンは、どんなこの世の現象についての理論であっても、現象そのものへの忠誠をときに上書きするような要求を満たさねばならない場合があることを思い起こさせるだろう。実際にかれはしばしばそうしたことを言う。」かれのこの応答の背景や問題を理解するには演奏についての彼の説明に向かう必要がある。

2013年11月26日火曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」(5)

11
11はまた間違いが増えた。議論は単純なので間違い訂正(大きいもののみ)。
ゲーアがここで述べているのは、そもそもグッドマンは、ジフが提示したような反例に対し、不充分な楽譜から習慣や趣味の洗練を通じて充分な楽譜が再構成されるという解決(§10)ではなく、それらは「作品」ではない、という解決を求め、その場合、それらは「作品」ではないのだから反例は反例になっていないという議論が可能だ、という話である。

identityを「同一性(同じであること)」ではなく、「本性」としてしまうのはこの訳書では一貫しているし、notationへの「表記」と「記譜」の揺れもここにとどまるものではないが、誤解を招くことに変わりはない。それを除いても、重要な間違いが結構ある。この単純な議論(反例は作品じゃないから反例じゃないよ)を理解していない気がする。

「不十全」を「十全」へと翻訳する」→「不適切な楽譜を適切な楽譜に翻訳する」(111)。
「すべてが表記されている楽譜に忠実な全演奏が、作品の同一性を指し示すわけではないという史実への言及に立ち戻ろう」→「すべての演奏がいつも、何もかも指定してある楽譜に演奏者が従うことによって実現するわけではないということを示す歴史的データを思い起こそう。
「一般的な意味での音楽作品と異なり、音楽作品概念は、音楽は十全たる指示事項を受け、[それを基に]演奏において多様に事例付けされるべきだという思考とどのような関わりを持つのか」→「より広くとらえられた音楽とは対照的に、音楽作品という概念は、音楽が演奏によって充分に指定され多数的に例示されねばならないという観念と、どこまで密接にかかわっているのだろうか」「より広い意味での」でも良いけれど、ここで対比の両方に「作品」を入れるのはゲーアの理屈への無理解を端的に明らかにする間違い。
「楽譜とは、…作品とその演奏の本性認識において厳然たる理念としての権威を持つ」→「楽譜が、…作品とその演奏の同一性にとっての権威ある原理なのだ。」identityという概念で問題になるのは、作品の演奏が他の作品のではなくその作品の演奏であるという「同一性」であり、それは、特に何らかの不可欠な名指しうる性質たる「本性」を前提としない。一つミスタッチしても同じ作品だけれど、別の音符の割合が増えてくると、どこかで(曖昧な)境界をこえて「別の作品の演奏になる」。でも、そう言うためには「楽譜」が必要って話。
「音楽」と「音楽作品」がいろいろごっちゃになっているから、次のようにわけわかな文になったり、端的に都合の悪い文を省略したりする。「もしもある音楽作品に十全たる記譜が存在しないのなら、そうした音楽との関わりは作品との関わりを意味することにはならない。またそれは、…」→「たぶん、理由は何であれ、適切な記譜が存在しない音楽を扱っているとき、私たちは作品を扱っているのではない。タルティーニのソナタは音楽だが、音楽作品ではない。またそれは、…
「(グッドマンの反対者)に必要なのは、我々が実践において作品と呼び、[グッドマンへの]反証事例として用いる事例はすべて、グッドマン自身による誤った事例として却下可能である、という事実の認識である(112)」→「彼らは、私たちが実践において作品と呼び、反例として役立つように作り出された例示を、グッドマンは常に不当な例示として却下できるのだ、ということを受けいれるように求められている。」「事実」じゃないしグッドマンが誤ったわけでもない。

12
急に訳語が良くなった。訳者が変わったように見えるほどだ。細かい間違いはいくつかあるが大意は分かる。二箇所だけ。「二つの演奏が「同一である」べきという思考」→「一つの作品の二つの演奏は「同じ音がする」べきだという観念」(113)「音楽作品は演奏の一類(a class)であり、そこではすべての適切な法則が遵守されることになる(114)」→「音楽作品とは、適切な規則がすべて守られている演奏のクラスである」。限定用法の関係代名詞だ。
「不適切」な楽譜は「適切」な楽譜に変更可能だ。現代音楽の場合、全く同じ音を各演奏で作り出すことも可能だ。コンピュータは、従来型の不適切な楽譜の適切な記譜をも可能にする。ただし、ここで作品を「構成している符号」はトーンとは限らない。リズム、デュナミーク、音価でもありうる。「音色や音高、調に関する伝統的記述は作家の任意事項となり、音楽作品創作の上での条件ではもはやなくなるのである(原訳)」(114) (「記述」がちょっといやなのと仮定法のニュアンスが出ていないけれど、まあいいか)。


2013年11月23日土曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」(4)



楽譜は、統辞論的要件を満たしているとグッドマンは言う。「実際に書かれた音符note markは、二つの音符・符号note characterのどちらなのか分からないことはあっても、両方だ、ということはない(103)」。統辞論的に分離され識別されている。
「テンポ記号などは記譜的ではなく…それゆえ作品を構成する性質には数えられない」テンポなどによって演奏はずいぶん変わる。それらは「演奏の質に影響するが作品の同一性には影響しない」(104 G185)。(同一性、とは作品が例えば第九かどうか。テンポなどは第九の演奏の質には関わるがそれが第九であるかどうかには関わらない。バーンスタインのもノリントンのも「第九」だ。)
統辞論的な違いと意味論的な同一性を含む場合(増二度=短三度、移調楽器と非移調楽器を両方指示する楽譜など)は?グッドマンは、それらは「明白で部分的な省略や修正」で対応可能とする。楽譜の記譜性を全体として覆さない。
批判者は「明白で部分的」な修正ではだめなので、グッドマンの理論は不充分だと考える。でもグッドマンによれば、彼は楽譜が理論上果たすべき要求を特定しただけ。「何が理論的に可能であり決定的なのか。なにが理論的に妥当でなければならないのか。理論という実験室の外側で楽譜がどのような条件と状況で機能しているのかは彼の関心対象ではない。」彼の関心が一貫した理論的説明であるのに対し、批判者は実践との一致に基づいてグッドマンを判断している。
7は、いくつかの訳語、ニュアンスの違い、そんなに本質的ではない誤訳があるものの、大きな間違いはない。このレベルのミスなら自分が訳してもやるかもしれない。グッドマン・ジフ論争の紹介のパートがこのレベルまで正しく訳されているのなら、これ以上些細な誤訳を言挙げするのはよくない。)

8
音楽作品の同一性を巡る論争では、どんな理論家であれ、ある特徴が作品を構成する特徴だと一般的で固定的な仕方で特定しようとすると危険が生じるのが常だ。この危険は、ある作品にとってどの性質が構成的でどれが偶有的なのかを特定しようとするよりも、永続的な、すべての音楽作品に当てはまる一般的特定を行おうとするときに大きい(105)」。ポール・ジフがタルティーニの「悪魔のトリル」をグッドマンへの反例として用いたときそれは生じた。ジフによると、グッドマンの要求はこの曲の本質的なトリルを偶有的なものにしてしまう。もしそうならグッドマンの理論には問題があるが、果たしてそうなのか
ジフは同一性と質に結びつきがあると考える。ある性質が同一性にとって本質的なら、すべての演奏で示されるべきだし、そのことは作品の質と性格に影響する。ジフは逆も言いたい。「質のために、トリルがタルティーニのソナタのすべての上演で演奏されるべきならば、それは楽譜化されて、ソナタの同一性を構成するものとみなされるべきだ(106)」。これはそう簡単には言えないが、言えたとして、ジフのグッドマン反駁は正しいか?
ジフの反論の力をどんな理由で判断できるのか?グッドマンは、タルティーニは自分の理論に当てはまらないけれど、理論はたいていの場合、標準的な場合に当てはまればOKと言うかも知れない。形式的な理論と実例はうまく合わないものだ。楽譜は「実質的に」記譜的だという主張と両立可能。その場合、グッドマンはなぜタルティーニのソナタが難しいケースなのかを語るなどしてジフの懸念を却けるべき。タルティーニの場合トリルは構成的な性質だと示唆してもよいだろう。でもその判断の根拠はなに?
タルティーニの場合、トリルの符号記号は複雑な音符パターンを簡略化した記号。グッドマンの言う複合符号。18世紀に典型的な、100以上の装飾一つ一つに記譜上のシンボルを割り当てた言語を用いていた。音楽家はそれをオプションとはみなさなかった。「最も重要な装飾で、ないとメロディがとても不完全になる」(Bénige de Bacilly)。「厳密に従うべきもの」(Friedrich Wilhelm Marpurg)。ただし、「どの音符に装飾が与えられるのか、メロディのどこであれこれの装飾が導入されるべきなのか」は「エレガントに演奏するという評判の人物を聴き、その演奏を、既に自分が知っている曲で聴いて」初めて趣味を作り出して同じようにすることが出来る。「すべての可能な場合に当てはまる規則を作り出すことは出来ないからだ」(FWM)。

(8は最初のパラグラフが良くないけれど、あとはほぼ邦訳で分かる)


9は18世紀における装飾音符の記譜の厳密化を歴史的にたどったもので、ほぼ読んで分かる。二箇所だけ、比較的目立つ間違いを指摘。

新種の記譜上の厳密さは、作曲家が決定したまさにそのままのありかたで音楽の同一性を保存したいという新しい欲望から帰結したものだった」(108)

どの音符がどの楽器で演奏されるのかを示したこうした指定は、常に楽譜の中で明瞭にされたわけでも、音楽の同一性にとって常に本質的だと考えられたわけでもなかった。」(109)

10

ジフが重視するような例は、グッドマンの立場からすると「記譜notation」ではない、というだけで、グッドマンの立場を脅かすものではない、という箇所。訳それ自体、というより[]で添えられた訳者の補足が間違っているのが気になる。ここだけ訳書の引用。
「他方グッドマンは、記譜習慣の歴史が指し示すものとは異なり、古楽における多くの楽譜は、彼が言うところの表記基準を満たしてはいな[く、故に作品と呼ぶことは出来な]いとする。最小限の事項のみ書かれている楽譜の本質的問題とは、準拠類において、[異なる作品の本性を巡り]重複が存在する[かもしれない]ことで、それは重大な欠陥と言える。[というのも]人が自身のアイデンティティに脅威を与えることなくして他人と身体部位を共有することが不可能であるのと同様、各楽曲の本性が保持されるためには、楽譜それぞれが詳細な規定機能を持つ必要があるからである。(183)」(110)
「グッドマンなら、楽譜制作の歴史には失礼だけれど、多くの初期の楽譜は彼の記譜への要求に適っていないと言いそうだ。最小限にしか記譜されていない楽譜の基本的な問題は、その従属クラスに重複があることであり、これは重大な欠点だ。個人の同一性に脅威を与えずに身体部分を共有できないのと同様に、作品の同一性が保持されるためには楽譜はユニークな指定を行うものであらねばならない。」グッドマンは楽譜を「作品」と呼ぶことが出来るなどとそもそも考えていないし、異なる楽譜が同じ演奏をその従属クラスのメンバーとすることは、楽譜の意味論的分離性に反している。
グッドマンにとって大事なのは、不充分な楽譜が存在しない、ということではなく、演奏から、充分な楽譜を構成することが出来るような記譜システムが存在するということなので、ジフのように反例を挙げてもそれは真の反例にならない。でもそうした解決は一番良いものなのかとゲーアは問う。

ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」(3)

さて、第六節からはグッドマンの「芸術の諸言語」の話になる。この訳も早く出て欲しいところ。基本的な訳語がいくつかあって確定していない(例えばdenotationが表示か外延指示かとか)のだけれど、グッドマンの『記号主義』と、ジュネットの『芸術の作品』のおかげで、彼の主張の大体は日本語でも分かる。ゲーアの議論は、グッドマンへのジフの批判を紹介しているところに大きな価値があるのかも知れない。ここではあまり訳語にこだわる必要はなく、一貫性と分かりやすさがあればよい。

6
グッドマンの目標は「シンボルの一般的・外延主義的理論であり、そこで、シンボルは「文字、語、テクスト、画像picture、モデルを含む「とても一般的で中立的な」方法だととらえられている」(99)。作品はシンボル体系であり、そう理解することで「楽譜の主要な機能と、演奏が特定の作品の演奏として分類されることが説明される」。彼の作品理論の詳細は哲学上で詳細に提示され議論されているので、ここでは本書の議論に関係のある側面だけを取り上げる。(だから、ノーテーションはグッドマンの広い文脈では「記譜」に限定されないけれど、この論文に関して「記譜」と訳すのは、パフォーマンスを「演奏」と訳すのと同様、便宜的にOK)
ある作品をそれ以外から区別する特徴は、演奏や楽譜とは別に存在する抽象的存在者があるという点にではなく、一つ一つの作品に特別の種類の楽譜があるという点にある。グッドマンはそれを「記譜notationシステムにおけるユニークに指定された符号character」と呼ぶ。「記譜」が特別の役割を果たすのは、「他筆的allographc」な芸術においてだ。「他筆的芸術−典型的には演奏や朗読において例化される芸術−は、自筆的autographic芸術とは違い、『演奏performanceの制作に関わるどのような歴史的情報も結果に影響しえない』(Goodman 118)がゆえに、それが芸術作品のオリジナルのインスタンス(例)なのか偽造されたインスタンスなのかの区別が重要ではない」ような芸術だ。記譜符号に完全に従うときかつそのときに限り、どのように作られようと、インスタンスは本物のインスタンスだ。「『歌や朗読のように作品が一時的であるときや、…制作に多くの人間が必要なとき、時間と人間の制約を超えるために記譜が考案されるかもしれない。このことは、作品を構成する性質と作品にとって偶然的な性質との区別が確立されることを意味する。』」
多くの異なった場で提示される一時的な作品の中心に記譜がある。一人では制作できない作品にとってもそうだ。音楽作品はこの条件を満たすようだが、そのことから、「音楽作品の同一性がこの記譜によって説明されるべきだということが帰結するだろうか。」グッドマンは帰結すると考える。「楽譜に示された音に演奏が従っているのだから、演奏は所与の作品〈の〉演奏として分類される」(G128-9)。
「楽譜に従う演奏クラスとして考えられる音楽とは何か?楽譜は記譜システムで書かれた符号だ。記譜システムはある指示領域と相関する符号からなる。符号はそれぞれ書き込み文字(ないし発話やマーク)だ。記譜システムは、演奏クラスと相関する楽譜(多分唯一の)からなる。作品ごとに、演奏の単一クラスと相関する単一楽譜が存在する。ここで「相関」とは「従う」ということ。従属項が符号・書き込み文字に、演奏が楽譜に従う一方向的な従属関係(楽譜—演奏—楽譜—演奏—…)。
記譜言語を構成するのは原子符号であり、それは結合して複合符号になる。音高符号(音符)は原子符号だ。それ以外は複合符号だ。複合符号の構成要素は互いに結合関係、「結合を支配する規則によって定められた関係」にある。それは音楽だと和声、リズム、和音などの規則。符号の結合には上限はなく、楽譜それ自体が一つの複合符号だ。
「楽譜は、ある作品を構成する特徴をその複合性のすべてにわたって記録するので、作品の同一性を保持している。」それが可能なのは、記譜言語の独特な性質によるといのがグッドマン説。記譜言語であるためには五つの統辞論的・意味論的要求を満足すべき。この要求によって、符号や従属項の内部での、あるいはそれら相互の曖昧さ、重なり、不確定性を排除。
「(1) 統辞論的分離性
 符号は、ふたつ以上の符号に属する書き込み文字がないように、分離していていなければならない。すべての書き込み文字は統辞論的に等価であり、統辞論的帰結なしに置換可能であらねばならない。このことは、ある符号の書き込み文字の間では、各書き込み文字が他のすべての書き込み文字の「レプリカ」である場合に保証される。これらの書き込み文字は、それゆえ、「符号に対して無差別的」である。符号への無差別性は再帰的、シンメトリー的、推移的な関係であって、そのようにされると、この関係によって生み出された部分に、符号に無差別的な書き込み文字のクラスを作り出す。
(2) 統辞論的識別性
 符号は有限に識別されていなければならない。『ふたつの符号KとK'のすべてと、このどちらにも事実上属さないすべてのマーク[書き込み文字]Mに対して、MがKに属さないことか、MがK'に属さないことのどちらかの決定が理論的に可能である。』(G 135-6)(たとえば事実上「i」でも「j」でもないようなマークについて、これが英語のマークならば、iではないかjではないのどちらかを決定できなければならない。ラテン語のマークならば、決定できなくても良い。)
(3) 単一決定
 各符号はある外延をユニークに決定しなければならず、それに属するかどうかはコンテクストを超えて不変である。こうして書き込み文字の曖昧さが禁止される。(G148)
(4) 意味論的分離性
 従属クラスは分離的であらねばならない。従属クラスの交差は禁止される(G150-1)。それゆえ、
(5) 意味論的識別性
 従属項が与えられたとき、それは他のものから充分に区別され、それが当該の符号に従うという決定が可能であらねばならない。」(101-102)
これらの要求を満たしたとき楽譜は主要な理論的機能を果たすとグッドマンは言う。楽譜が記譜的なら、どの楽譜を見てもどの演奏を聴いても作品を同定できる。これらの要求は作品の同一性が楽譜や演奏に保持されているかどうかの決定テスト。ゲーアはそれを「復元テスト」と呼ぶ。楽譜があれば作品と、それゆえその演奏を構成する性質を同定できるし、演奏を聴いて楽譜を復元できる。同定手続きはどちらの方向でも機能する。

5あたりから急に訳が良くなってきた。このレベルならば、何とか読めるかもしれない。少なくともグッドマンを全く分かってない、という感じではない。1−3のあのでたらめさは何なのだろう。

2013年11月22日金曜日

リディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」(2)

リュディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」の要約的紹介の(2)。5節。次の6節からがこの章の中心部で、グッドマンの議論を扱う。

5
これら四つの立場の説明から、分析哲学の理論のあり方についても音楽作品のあり方についてもたくさん外挿できる。「第一に、分析[哲学]が示している基本的な関心は、普遍・タイプ・種によって作品のあり方を記述することだ。」そこには山ほどの形而上学的な問題がある。もう一つの面倒は、「作品が同一性を持ち他から区別されるための条件を決定することだ。何かが音楽作品であるためにはどんな条件を満足させねばならないのか。時間がたってもそれが同じ作品であるのはどのようにしてなのか。一つの作品を別の作品から区別するための条件は何か。」分析哲学者はオッカム主義と還元主義の傾向があるので、「存在論にどこまでコミットするのかが主要な論点だとみなした。音楽作品について語るとき、抽象的存在にコミットする必要はあるのか。
音楽の側からすれば、分析哲学が論じてきたことは、「音楽作品の本性を決定する際に創造性と作曲行為が果たす役割、作曲家による楽器の指定(どの音符がどの楽器で演奏されるか)の果たす役割、演奏と楽譜が相互に、また作品に対して持つ関係」だ。作品概念の中心にある特徴はすぐ分かる。作品とは「単なる任意の音のグループではなく、重要な仕方で作曲者、楽譜、演奏の所定のクラスと関わる複雑な音構造である。」これらが分かって音楽作品という観念がわかる。
哲学的関心と音楽的関心を調停するのが良い理論だ。「例えば創作についての哲学的理解と、作曲するとは何を意味するのかについての理解のバランスをとる」ような理論。「作品概念が実践において持つ役割(と持っていない役割)に敏感な」理論、「作品概念が実践でどのように機能しているのかの記述と両立するような仕方で作品とは何かを説明している」理論。「特定の理論に則して考えることで、説明したい現象の解明が、それもまさに私たちがそれらの現象を説明したいような仕方での解明が可能になるのだ、そのような理論はそう証明するだろう。この見地から、成功した分析哲学的な理論が生み出されたのかどうかを問うことができる。」
そのために本章ではグッドマンを、次章ではレヴィンソンを扱う。二人はそれぞれ独特だが、それでも分析美学の代表的議論だ。グッドマンの唯名論の方がレヴィンソンよりも存在論的なコミットが少ないので、グッドマンから始める。グッドマン理論への様々な批判が提示されると、もっとコミットしたいという[レヴィンソンの]動機が明らかになる。
「グッドマンは、作品の地位と同一性を決定するにあたって楽譜と演奏が中心となるという議論を提供している。レヴィンソンは、作品を創造する上で作曲家が果たす役割を強調している。グッドマンの関心は、音楽作品の様々な特徴がその特定の理論的要求を満たすような、そうした哲学的な理論だ。彼の説明は殆どの理論家にとっては反直観的に思われた。レヴィンソンはもっと前批判的な直観を大事にしている。彼は哲学理論への関心と、私たちの音楽現象へのもっと常識的な理解とのバランスをとろうとしている。私にはどちらもうまく行っていないように見える。この結論のゆえに、そもそも分析哲学の尺度の内部で考える限り、哲学的な理論と音楽実践の間の釣り合いを保つことは可能なのだろうか、という問いが引き出されることになる。私はそれが不可能だと論じることになるだろう。

訳は1-3と比べると良くなっている。四つの立場のうちグッドマンとレヴィンソンしか扱わないのと、レヴィンソンについての議論が次章回しにされ翻訳されていないので、1-5までは結局意味がないのも確か。それで「抄訳にしようか迷った」のか。さて、グッドマンパートの検証はどうしようかなぁ)

2013年11月21日木曜日

リディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」(1)

Twitterでちょっと触れたけれど、福中冬子氏が編集し翻訳している論集「ニュー・ミュージコロジー」には、リュディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」、ピーター・キヴィーの「オーセンティシティ」という、分析美学に位置づけられる二つの議論が翻訳されている。グッドマンの「芸術の諸言語」の訳も、またレヴィンソンの幾つもの著作の訳も未出版な状況で、分析系の音楽美学の議論が翻訳されることは喜ばしい。また、実際、キヴィーに関しては、翻訳で読んでもそんなに難しくはない議論が展開されている。
問題はゲーアの方で、語学的な問題、というよりも、分析美学系の議論の考え方との相性の問題で、とても読みにくいものになっている。この議論は序と16の部分からなるが、考え方としては素直な議論なので、訳に問題がある場合にはそれを修正しながら、紹介してゆきたい。今回は序から4くらいまで。(正直言うと「語学的問題」も大きいとは思う)
方針としては、基本的に自分でまとめ、訳すが、福中訳が誤解を招く間違いを含有している箇所は私が訂正した訳青字で表記し、私のコメントはで表示、元訳は原則として示さない(ひどい間違いをいちいち示して晒し者にはしない)。ページ表記はページが変わったところで。(11/21方針修正)


序は、「音楽作品」とは何か、という問題設定を示す。ゲーアは「音楽は作品のうちに例示されている考えは、自明というにはほど遠い」(邦訳89に対応。以下同様。青字や字消しは修正したところ)というダールハウスの発言に同意し、次のように述べる。「音楽実践は〈作品概念〉により規定されうるが、それは必然ではない」。それは歴史によるし、偶然だ。偶然だということはしかしそれがすぐなくなるということを意味しない。概念は実践に浸食しまるで必然のような雰囲気と魅力をもつからだ。今日、作品概念と結びつけずに音楽、とくにクラシックについて考えることは出来ないほどだ。でも、ゲーアによると、「「芸術」音楽の伝統の歴史の大部分で、音楽は作品概念と結びつけて考えられてはこなかった」(90)。

本書(『音楽作品の想像的博物館』)は、作品概念が成立した時期に関わるものだが、前段落の最後の言明は、本書の中心にある主張に直結する。この言明の含意は大きいが、そう分かるのは証拠がすべて提示されてからのことだ。」証拠は広範囲に及ぶ。「音楽の意味と美学理論についての歴史的記述、音楽実践の変容をもたらした様々な変化から、社会学的な記述、概念が実践を生み出すあり方についての存在論的な記述」にまで及ぶ。ゲーアはまず「狭義の哲学的問題、とりわけ音楽作品の存在論的地位を記述しようとする分析哲学者の試み」(えっとここの元訳ひどい。この章で言われるanalyticalはすべて分析哲学ないし分析美学のことだけれど、それが分かっていないような感じ)を取り上げる。

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音楽作品の分析的理論はいったい何を扱っているのか?」ゲーアは四つの基本的な立場を区別する。「本章ではこれからその四つの立場とその代表的な主張者を簡単に紹介し、分析的な理論がどういうことを行っているのか、読者に試食をしていただこう。」
第一はプラトニズムだ。プラトニズムのある立場だと、「音楽作品は、常識とは異なり、音の構造によって構成される普遍であり、おそらくは自然種ですらある。」(「普遍universal」とは「個別particular」に対応する名詞で、「赤」や「蛇」「車」など、ゼロないし一つないし複数の「赤いもの」や「へびさん」や「うちのプリウス」などをそれに対応する個別として持つ。自然種とは普遍の一部で人工的ではない種。)「それらは時空的性質を欠きいつとかどことか言えず)、永遠に存続する。」作曲前も忘却された後も存在している。演奏されなくても複写楽譜が作られなくても存在している。「作曲するとは種を創造することであるよりもむしろ種を発見することである。」(91)
ウォルターストーフが、もっと洗練されているけれど、この種の見解を支持する。「彼は、芸術作品を、音構造として理解される、創作されない自然種だとみなしている。」だから、「当該の音構造が例化されることはいつも可能だった」(例化とは、ある普遍の実例を与えること。訳語も決まっている。第九は、ベートーヴェンが初めて例化したのだけれど、別にモーツァルト作でもよかったし、原始時代につくられててもよかった。無意識がフロイト前からあったのと同じ)「作曲者はそうした構造を発見することで作品を作る。彼らは正しい演奏のための条件を決定することで発見した構造を自分の作品にする。この見解では、作品は創造されない自然種であるばかりではなく、規範種でもある。というのもそれらは適切に形作られた実例と不適切に形作られた実例の両方を持ちうるからだ
プラトニズムを特徴付ける別の方法もある。上演や楽譜と無関係という点では最初のと変わらないが、「作品が創造されるという理由でそれを準プラトン的な実体とみなしている点で異なる。」(この箇所は訳も特に間違いではない)。「演奏において例化されるので、作品はプラトン的な地位を保持している。」時空に制約され、作曲行為に依存し、普遍を例化する特殊(上演や楽譜)に依存している。
レヴィンソンの修正プラトン主義では、「作品は構造タイプないし種でありそのトークンは個々の具体的演奏である。」それは独特の構造タイプだ。つまり「開始されたタイプ」なのだ。(この箇所の訳は、指摘するのも可哀想なほどひどい。)レヴィンソンによれば、作品とは音構造であり演奏手段構造であるが、加えて、それは、特定の歴史的コンテクストの中で特定の作曲家によって特定の時に作られた、ということによっても同定される。
プラトン主義の見解では、作品は自立した種であり、修正プラトン主義の見解では、作品は依存的な種だ」(92)。依存的な種は、存在を得るために人間の意図的な行為を要求し、存在を続けるために演奏やスコアを要求する。しかし作品ひとつひとつが異なった存在者であることに変わりはない。それぞれ異なった存在者であることは超越した存在であるとか、上演や楽譜に尽くされない存在であるとかいうのと同じではない。「作品それぞれが区別されることが抽象的ないし具体的な実体そのものとしての作品を特徴付けるし、依存性は、上演や楽譜と作品の関係を特徴付ける。
(北野まとめ。)プラトン主義的な作品観は、作品を音の構造として理解する。構造はタイプなので、永遠的な存在で作曲者が作曲しなくても存在する。作曲は「発見」で演奏はその「例化」だ。これはまずいと考える修正プラトン主義では、作品は「開始されたタイプ」であり、音構造+演奏手段構造+特定の時期に特定の作者が特定の文脈で作ったこと、によって同定されるタイプだ。演奏がそのトークン。(タイプとトークンって何のこと?はググれ。)


アリストテレス主義。「作品は、演奏とその楽譜のうちに示されている本質(典型的には音構造)である」(94訳を少し変えた)。「いろんな演奏で例示される音パターン」である限りで抽象的だが、独自の実体ではなく他のものに属し含まれる「本質的構造ないしパターン」。「作品の実体性がどんなものであれ、それは演奏の実体性によって尽くされる」。プラトンのイデア論形相論でも良いけどさ、「形象論」はないと思う)へのアリストテレスの批判が両者の違いを説明するだろう。プラトンでは、物質世界の外に何かものがあって、それは消滅しないという点以外では感覚的なものと同じだ、ということになるけれどそれは奇妙だ。ひとそれ自体とか健康それ自体とかがあって、それらは「それ自体」以外に限定されないのだもの。永遠のひとと言っているだけ。(とアリストテレスは言う)
アリストテレスは、本質が、「本質を具体化する具体物という一次的な存在から派生する二次的な存在を持っている」(93)と述べる。とすると、様々な作品は「パフォーマンスや楽譜のうちに複数的に実現された諸本質であるという理由でだけ、二次的な意味で、互いに異なる」というべきかも。そんな言い方をすれば、「本質は、おそらく実現されず実体化されない潜性態として、二次的な意味で独立に存在する」という意見もOKになるだろう。
このアリストテレス派がケンダル・ウォルトン。作品とは「すべての演奏のそれぞれにおいて提示される音パターン」(訳はパターンを「反復類型」ってしてるけど、時間的な繰り返しをここでの「パターン」は含意も排除もしていない。頑固に「複写楽譜」と訳されるスコア=コピーが「複写」を含意も排除もしていないのと同様。)作品は「特定の対象でも出来事」でもなく、演奏が「合っていたり合っていなかったりするような何か」だと言う。作品とは「楽譜が認知し特定する音と楽器の規定の階層化された構造パターン引くことの(マイナス)、『良い演奏のために楽譜に含まれるアドヴァイス』だ。」作品とは、「演奏が正しいあるいは欠点のない演奏であるために示さねばならない音性質のパターン」だ。とすると作品はレシピのように規範的ないし処方的だ。
(北野まとめ)アリストテレス的な(事物に潜在的に存在する)本質概念を用いて作品を説明するのがウォルトンで、作品とは「演奏一つ一つのうちに提示されている音のパターン」であり、それは規範的で演奏が正しい演奏であるためには、演奏は、その音性質のパターンを示さねばならない。


「作品」について考える第三の方法は「抽象的な存在」をどんな形でも認めないこと。存在するのは具体的な演奏と楽譜だけ。「作品について語るとは、作品が存在するかのように語ること」(94)でしかない。「作品とは「作品の演奏」の外延的に定義されたクラス(集合の意味)に他ならない。」「作品の演奏」っていうと演奏される作品があるみたいだけれど、これは「の演奏」がついて初めて存在する属性だ。「作品の演奏」はあっても「作品」はない。(「おろち」と「やまたのおろち」がいても、「やまた」がいないような。)演奏は、演奏が例化している抽象的パターン(つまり「作品」)に応じて分類されるのではなく、演奏同士で、あるいは楽譜との関係の適切さに応じて分類される。生物学的(ないし法的)に一定の関係を有するメンバーが同じ姓を持つのと同様に、作品も、一定の個別のクラス「平均律」のありとあらゆる演奏を指示する便利な言語的なアイテム「平均律」に過ぎない。これが唯名論的見解。作品と演奏との「垂直な」、「抽象とその具体的実現」の関係からは離れ、さまざまな演奏や楽譜の「水平の」関係について考えることになる。
作品を「タイプ」と呼ぶ、あるいはより注意深く、「作品名」をタイプと呼ぶ理論家たちもどことなく似た見解をとっている。「音楽作品名とその演奏の関係はタイプとトークンの関係と同じだ。トークンがタイプとの関係で同定されるのであっても、タイプは言葉の上で存在するだけなのだ。タイプを創造する際、作曲家は『タイプのトークン』を創造しているか、あるいは『タイプのトークン』を作る方法、つまり楽譜を創造しているだけだ。」(作曲家が「複写楽譜」を作るって訳したとき変だと思わないと…)
マゴーリスがほぼこの見解(昆虫亀の人にマーゴリスではなくマゴーリスだと教えて貰った)。「しかし彼は厳格な唯名論からは離れる。タイプを「抽象的個別」とみなしているからだ」(95)。本人は否定するが、マゴーリスは修正プラトン主義に近い。「抽象的個別が抽象的なのは例化されうるからであり、個別なのは、創造されるという点で普遍ではないからだ。」(普遍は生成消滅しないので)「作品は物理的な対象のうちに実体化embodiedされるがそれと同一ではない。」(マゴーリスのembodimentの訳語には自信がないなぁ。ステッカーの森訳では「具現」か。)。「実体化の「である」は同一性の「である」とは異なる、と彼は論じる」(ここはDantoの芸術的述定の「である」は同一性の「である」ではないという議論を知らないと訳しにくいか)。前者は、「文化的な個別(particular)について私たちが語るのを簡単にするために、文化的な文脈の中に持ち込まれている。」作品タイプとは、「文化的に出現する存在者である。ここで出現というのは特定の文化空間内部で個別の対象のうちに実体化されているという意味だ」。
グッドマンはさらに唯名論にコミットしている。彼の提案では、作品とは、楽譜に完全に従った上演のクラスだ。彼の理論は、作品と呼ばれる別個の、あるいは抽象的な実体へのそれ以上のコミットを含まない。クラスという概念にコミットしているから完全に唯名論的だ、ということにはならない。クラスは抽象的存在者だからだ。「でも、グッドマンは、自分がクラスという言葉を使うのは便宜上のことであり、自分の理論の本質は真に唯名論的だと主張している。」
(北野まとめ) 唯名論的作品概念は、「抽象」を一切拒絶。「作品の演奏」の存在は「作品」の存在を含意しない。作品は、同じ名前で呼ばれる様々な演奏のクラスを指示する便宜上の産物。「作品名」はタイプだと考える。作曲家は、「タイプのトークン」あるいは「タイプのトークンの製造法」を創作している。ある上演について、「これは第九である」と言うとき、この「である」は「実体化の〈である〉」であって、「同一性の〈である〉」ではない。目の前で起きている演奏という物理的な対象のうちに実体化(文化的に出現)しているものとして「第九」をとらえている。作品とは楽譜に適った上演のクラスへの便宜的符丁とみなすグッドマンも唯名論的。


クローチェとコリングウッド。彼らは分析理論をしていない。それでも「観念論的」見解を外挿可能。「作品はそこでは作曲者の心の中に形成される観念と同一視される」(96)。これらの観念は、(心の中に)形成されたら、楽譜や演奏のうちに、客体化された表現を見いだしうるし、公的にアクセス可能になる。作品≠客体化された表現。作品=観念。
コリングウッドによると、作曲家が歌って作ろうが、楽譜に書こうがそれはどうでもいい。「実際の曲作りは他の場所ではなくかれの頭の中でだけ起きている何かなのだ」それは「想像上の曲imagenary tune」。曲作りとは想像上の曲作りで、それが創造だ。この想像上のものを伝えたり思い出したりするために曲を紙に書くなら、それは創造ではなく加工だ。「曲は想像経験の文脈の内部にだけ存在する」。そうした経験にあっては、曲は聞こえたりしない。想像されるだけ。「但し、曲とはこれらの想像上の音に過ぎないというのは間違っているだろう。曲とは、むしろ、これらの音を想像し、理解し、意識するようになる全行為の経験全体のことなのだ」。
観念論は分析の伝統では上手く受容されてこなかった。「想像的・美的経験の内部に作品を同定しようという考えは、求められていた存在論的な理論とは全くあわないと判断されてきた。」想像経験全体=心的実体(観念)ってのもまずい。「何であれ、心の中に存在するなにかと作品を同一視することはとても不充分な戦略だとみなされてきたのだ」(97)。

(北野まとめ)コリングウッド流の「観念論」は作品=想像的経験=心の中にある何か=観念、とみなすが、これは分析美学の伝統ではあまり受けいれられてこなかった。(コリングウッドになって急に間違いが減った。分析哲学との相性がこの結果につながったことが窺える。)

解題を読んで驚いた。訳者、アメリカでゲーアのゼミに参加してるんだ。こんだけ分かってなくてゼミに出るのは大変だったろうなぁ……解題で「ジェロルド・レヴィンスンを巡る議論はたとえば、レヴィンスンの議論に少しでも通じている読者には多少違和感を持って読まれるのではないだろうか」(129)と書いてあるけれど、レヴィンソンの議論に少しでも通じている人が、彼のinitiated typeを「潜在型」と訳し「潜在」に「〈=明瞭なる特徴付けがなされていない〉」と注記できるのだろうか?なんかいろいろ信じがたい。

著者名をゲールってしてたのを訳書にあわせてゲーアに修正。

2013年6月28日金曜日

レヘインの「夜に生きる」

デニス・レヘインの『夜に生きる』を読みました。レヘインのベスト、とは言えませんが、淡々としたハードボイルドは面白いです。今年読んだミステリのなかでは、ル・カレの「我らが背きし者」、コナリーの「かかし」、ダフィの「KGBから来た男」の次に面白かったです。レヘインは、ワンパターンになる前にシリーズを終えるという、あまり出来ない離れ業が出来るひとで、シリーズ外にも傑作の多い作家(「シャッター・アイランド」と「ミスティック・リバー」)です。シリーズのパトリックとアンジーのカップル探偵ものは、雰囲気も主人公のパターンもロバート・パーカーのスペンサーシリーズととてもよく似ていながら、スペンサーよりも重厚で骨太のハードボイルドを作り出したのにも驚きました。勿論、スペンサーシリーズは、ワンパターンなプロット(主人公たちは悪党に嫌がらせをし、相手が手を出すのを待って皆殺しにする)と、チープと言って良い程の主人公の万能感は欠点ではなく魅力になっているのですが(一度だけ瀕死の目に遭います)。シリーズの締め方も完璧です。
このシリーズは、正義観が最後まで一貫しているところも素晴らしい。コナリーの「ボッシュ」シリーズは途中で一旦ぐたぐたになってしまうのに、彼らはそんなことはない。彼らは万能ではなく、そのことに納得して引退します。それが敗北ではなく、シリーズのなかで一番苦いエンディングを迎えた作品(『愛しき者はすべて去りゆく』)で揺らいだ自分の正義へのけじめになっているのが良いです。
今回の作品はパトリックアンドアンジーではなく、「運命の日」に続くコグリン兄弟を描いたのピカレスクロマンですが、「運命の日」と直接結びつくわけではないです。「運命の日」の長男ダニーが警官なのに対して「夜に生きる」の三男ジョーはギャング。多分次男を描いた作品がそのうち出るのでしょう(次男は映画界にいる設定です)。ここでも主人公は自分なりの正義の意識を確立し、なんとか貫きます。主人公の成長を描くという意味では典型的な教養小説です。ラッキー・ルチアーノも登場する禁酒法時代末期のギャング小説(主人公はずっとアウトローだと自己規定していますが、ある事件を機に、自分でも「ギャング」となります)ですが、ライバルや法秩序の側があまりに非道いので、私たちは主人公への共感を失わないで済みます。エンディングの苦さは教養小説の定番であると同時にノンシリーズのレヘインのいつもの魅力そのもの(「ミスティック・リバー」の苦さに近いかしら)。

(さいしょフェイスブックに書くつもりでですます調にしていたのが残った。なお、シリーズで劣化が激しい作家の一番に誰もが挙げるのは多分スティーブン・ハンターの「スワガー・サーガ」だろう。さすがに最近は買わなくなった。ジャック・ヒギンズもそう、というか、「鷲は舞い降りた」「死に行く者への祈り」の二つが例外的に素晴らしかった気がする。マイク・コナリーのボッシュは長いシリーズで主人公がだんだん高齢化して行くのに質を維持しているのが素晴らしい。リーバスは三作目から良くなり、上げ下げがやや大きい。リンカーン・ライムは二つ目からワンパターンだ。なぜ全部買ってしまうのだろう…)