リュディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」の要約的紹介の(2)。5節。次の6節からがこの章の中心部で、グッドマンの議論を扱う。
5
これら四つの立場の説明から、分析哲学の理論のあり方についても音楽作品のあり方についてもたくさん外挿できる。「第一に、分析[哲学]が示している基本的な関心は、普遍・タイプ・種によって作品のあり方を記述することだ。」そこには山ほどの形而上学的な問題がある。もう一つの面倒は、「作品が同一性を持ち他から区別されるための条件を決定することだ。何かが音楽作品であるためにはどんな条件を満足させねばならないのか。時間がたってもそれが同じ作品であるのはどのようにしてなのか。一つの作品を別の作品から区別するための条件は何か。」分析哲学者はオッカム主義と還元主義の傾向があるので、「存在論にどこまでコミットするのかが主要な論点だとみなした。音楽作品について語るとき、抽象的存在にコミットする必要はあるのか。」
音楽の側からすれば、分析哲学が論じてきたことは、「音楽作品の本性を決定する際に創造性と作曲行為が果たす役割、作曲家による楽器の指定(どの音符がどの楽器で演奏されるか)の果たす役割、演奏と楽譜が相互に、また作品に対して持つ関係」だ。作品概念の中心にある特徴はすぐ分かる。作品とは「単なる任意の音のグループではなく、重要な仕方で作曲者、楽譜、演奏の所定のクラスと関わる複雑な音構造である。」これらが分かって音楽作品という観念がわかる。
哲学的関心と音楽的関心を調停するのが良い理論だ。「例えば創作についての哲学的理解と、作曲するとは何を意味するのかについての理解のバランスをとる」ような理論。「作品概念が実践において持つ役割(と持っていない役割)に敏感な」理論、「作品概念が実践でどのように機能しているのかの記述と両立するような仕方で作品とは何かを説明している」理論。「特定の理論に則して考えることで、説明したい現象の解明が、それもまさに私たちがそれらの現象を説明したいような仕方での解明が可能になるのだ、そのような理論はそう証明するだろう。この見地から、成功した分析哲学的な理論が生み出されたのかどうかを問うことができる。」
そのために本章ではグッドマンを、次章ではレヴィンソンを扱う。二人はそれぞれ独特だが、それでも分析美学の代表的議論だ。グッドマンの唯名論の方がレヴィンソンよりも存在論的なコミットが少ないので、グッドマンから始める。グッドマン理論への様々な批判が提示されると、もっとコミットしたいという[レヴィンソンの]動機が明らかになる。
「グッドマンは、作品の地位と同一性を決定するにあたって楽譜と演奏が中心となるという議論を提供している。レヴィンソンは、作品を創造する上で作曲家が果たす役割を強調している。グッドマンの関心は、音楽作品の様々な特徴がその特定の理論的要求を満たすような、そうした哲学的な理論だ。彼の説明は殆どの理論家にとっては反直観的に思われた。レヴィンソンはもっと前批判的な直観を大事にしている。彼は哲学理論への関心と、私たちの音楽現象へのもっと常識的な理解とのバランスをとろうとしている。私にはどちらもうまく行っていないように見える。この結論のゆえに、そもそも分析哲学の尺度の内部で考える限り、哲学的な理論と音楽実践の間の釣り合いを保つことは可能なのだろうか、という問いが引き出されることになる。私はそれが不可能だと論じることになるだろう。」
(訳は1-3と比べると良くなっている。四つの立場のうちグッドマンとレヴィンソンしか扱わないのと、レヴィンソンについての議論が次章回しにされ翻訳されていないので、1-5までは結局意味がないのも確か。それで「抄訳にしようか迷った」のか。さて、グッドマンパートの検証はどうしようかなぁ)
2013年11月22日金曜日
2013年11月21日木曜日
リディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」(1)
Twitterでちょっと触れたけれど、福中冬子氏が編集し翻訳している論集「ニュー・ミュージコロジー」には、リュディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」、ピーター・キヴィーの「オーセンティシティ」という、分析美学に位置づけられる二つの議論が翻訳されている。グッドマンの「芸術の諸言語」の訳も、またレヴィンソンの幾つもの著作の訳も未出版な状況で、分析系の音楽美学の議論が翻訳されることは喜ばしい。また、実際、キヴィーに関しては、翻訳で読んでもそんなに難しくはない議論が展開されている。
問題はゲーアの方で、語学的な問題、というよりも、分析美学系の議論の考え方との相性の問題で、とても読みにくいものになっている。この議論は序と16の部分からなるが、考え方としては素直な議論なので、訳に問題がある場合にはそれを修正しながら、紹介してゆきたい。今回は序から4くらいまで。(正直言うと「語学的問題」も大きいとは思う)
方針としては、基本的に自分でまとめ、訳すが、福中訳が誤解を招く間違いを含有している箇所は私が訂正した訳を青字で表記し、私のコメントは紫で表示、元訳は原則として示さない(ひどい間違いをいちいち示して晒し者にはしない)。ページ表記はページが変わったところで。(11/21方針修正)
序
序は、「音楽作品」とは何か、という問題設定を示す。ゲーアは「音楽は作品のうちに例示されている考えは、自明というにはほど遠い」(邦訳89に対応。以下同様。青字や字消しは修正したところ)というダールハウスの発言に同意し、次のように述べる。「音楽実践は〈作品概念〉により規定されうるが、それは必然ではない」。それは歴史によるし、偶然だ。偶然だということはしかしそれがすぐなくなるということを意味しない。概念は実践に浸食しまるで必然のような雰囲気と魅力をもつからだ。今日、作品概念と結びつけずに音楽、とくにクラシックについて考えることは出来ないほどだ。でも、ゲーアによると、「「芸術」音楽の伝統の歴史の大部分で、音楽は作品概念と結びつけて考えられてはこなかった」(90)。
「本書(『音楽作品の想像的博物館』)は、作品概念が成立した時期に関わるものだが、前段落の最後の言明は、本書の中心にある主張に直結する。この言明の含意は大きいが、そう分かるのは証拠がすべて提示されてからのことだ。」証拠は広範囲に及ぶ。「音楽の意味と美学理論についての歴史的記述、音楽実践の変容をもたらした様々な変化から、社会学的な記述、概念が実践を生み出すあり方についての存在論的な記述」にまで及ぶ。ゲーアはまず「狭義の哲学的問題、とりわけ音楽作品の存在論的地位を記述しようとする分析哲学者の試み」(えっとここの元訳ひどい。この章で言われるanalyticalはすべて分析哲学ないし分析美学のことだけれど、それが分かっていないような感じ)を取り上げる。
1
「音楽作品の分析的理論はいったい何を扱っているのか?」ゲーアは四つの基本的な立場を区別する。「本章ではこれからその四つの立場とその代表的な主張者を簡単に紹介し、分析的な理論がどういうことを行っているのか、読者に試食をしていただこう。」
第一はプラトニズムだ。プラトニズムのある立場だと、「音楽作品は、常識とは異なり、音の構造によって構成される普遍であり、おそらくは自然種ですらある。」(「普遍universal」とは「個別particular」に対応する名詞で、「赤」や「蛇」「車」など、ゼロないし一つないし複数の「赤いもの」や「へびさん」や「うちのプリウス」などをそれに対応する個別として持つ。自然種とは普遍の一部で人工的ではない種。)「それらは時空的性質を欠き(いつとかどことか言えず)、永遠に存続する。」作曲前も忘却された後も存在している。演奏されなくても複写楽譜が作られなくても存在している。「作曲するとは種を創造することであるよりもむしろ種を発見することである。」(91)
ウォルターストーフが、もっと洗練されているけれど、この種の見解を支持する。「彼は、芸術作品を、音構造として理解される、創作されない自然種だとみなしている。」だから、「当該の音構造が例化されることはいつも可能だった」(例化とは、ある普遍の実例を与えること。訳語も決まっている。第九は、ベートーヴェンが初めて例化したのだけれど、別にモーツァルト作でもよかったし、原始時代につくられててもよかった。無意識がフロイト前からあったのと同じ)「作曲者はそうした構造を発見することで作品を作る。彼らは正しい演奏のための条件を決定することで発見した構造を自分の作品にする。この見解では、作品は創造されない自然種であるばかりではなく、規範種でもある。というのもそれらは適切に形作られた実例と不適切に形作られた実例の両方を持ちうるからだ」
プラトニズムを特徴付ける別の方法もある。上演や楽譜と無関係という点では最初のと変わらないが、「作品が創造されるという理由でそれを準プラトン的な実体とみなしている点で異なる。」(この箇所は訳も特に間違いではない)。「演奏において例化されるので、作品はプラトン的な地位を保持している。」時空に制約され、作曲行為に依存し、普遍を例化する特殊(上演や楽譜)に依存している。
レヴィンソンの修正プラトン主義では、「作品は構造タイプないし種でありそのトークンは個々の具体的演奏である。」それは独特の構造タイプだ。つまり「開始されたタイプ」なのだ。(この箇所の訳は、指摘するのも可哀想なほどひどい。)レヴィンソンによれば、作品とは音構造であり演奏手段構造であるが、加えて、それは、特定の歴史的コンテクストの中で特定の作曲家によって特定の時に作られた、ということによっても同定される。
「プラトン主義の見解では、作品は自立した種であり、修正プラトン主義の見解では、作品は依存的な種だ」(92)。依存的な種は、存在を得るために人間の意図的な行為を要求し、存在を続けるために演奏やスコアを要求する。しかし作品ひとつひとつが異なった存在者であることに変わりはない。それぞれ異なった存在者であることは超越した存在であるとか、上演や楽譜に尽くされない存在であるとかいうのと同じではない。「作品それぞれが区別されることが抽象的ないし具体的な実体そのものとしての作品を特徴付けるし、依存性は、上演や楽譜と作品の関係を特徴付ける。」
(北野まとめ。)プラトン主義的な作品観は、作品を音の構造として理解する。構造はタイプなので、永遠的な存在で作曲者が作曲しなくても存在する。作曲は「発見」で演奏はその「例化」だ。これはまずいと考える修正プラトン主義では、作品は「開始されたタイプ」であり、音構造+演奏手段構造+特定の時期に特定の作者が特定の文脈で作ったこと、によって同定されるタイプだ。演奏がそのトークン。(タイプとトークンって何のこと?はググれ。)
2
アリストテレス主義。「作品は、演奏とその楽譜のうちに示されている本質(典型的には音構造)である」(94訳を少し変えた)。「いろんな演奏で例示される音パターン」である限りで抽象的だが、独自の実体ではなく他のものに属し含まれる「本質的構造ないしパターン」。「作品の実体性がどんなものであれ、それは演奏の実体性によって尽くされる」。プラトンのイデア論(形相論でも良いけどさ、「形象論」はないと思う)へのアリストテレスの批判が両者の違いを説明するだろう。プラトンでは、物質世界の外に何かものがあって、それは消滅しないという点以外では感覚的なものと同じだ、ということになるけれどそれは奇妙だ。ひとそれ自体とか健康それ自体とかがあって、それらは「それ自体」以外に限定されないのだもの。永遠のひとと言っているだけ。(とアリストテレスは言う)
アリストテレスは、本質が、「本質を具体化する具体物という一次的な存在から派生する二次的な存在を持っている」(93)と述べる。とすると、様々な作品は「パフォーマンスや楽譜のうちに複数的に実現された諸本質であるという理由でだけ、二次的な意味で、互いに異なる」というべきかも。そんな言い方をすれば、「本質は、おそらく実現されず実体化されない潜性態として、二次的な意味で独立に存在する」という意見もOKになるだろう。
このアリストテレス派がケンダル・ウォルトン。作品とは「すべての演奏のそれぞれにおいて提示される音パターン」(訳はパターンを「反復類型」ってしてるけど、時間的な繰り返しをここでの「パターン」は含意も排除もしていない。頑固に「複写楽譜」と訳されるスコア=コピーが「複写」を含意も排除もしていないのと同様。)作品は「特定の対象でも出来事」でもなく、演奏が「合っていたり合っていなかったりするような何か」だと言う。作品とは「楽譜が認知し特定する音と楽器の規定の階層化された構造パターン引くことの(マイナス)、『良い演奏のために楽譜に含まれるアドヴァイス』だ。」作品とは、「演奏が正しいあるいは欠点のない演奏であるために示さねばならない音性質のパターン」だ。とすると作品はレシピのように規範的ないし処方的だ。
(北野まとめ)アリストテレス的な(事物に潜在的に存在する)本質概念を用いて作品を説明するのがウォルトンで、作品とは「演奏一つ一つのうちに提示されている音のパターン」であり、それは規範的で演奏が正しい演奏であるためには、演奏は、その音性質のパターンを示さねばならない。
3
「作品」について考える第三の方法は「抽象的な存在」をどんな形でも認めないこと。存在するのは具体的な演奏と楽譜だけ。「作品について語るとは、作品が存在するかのように語ること」(94)でしかない。「作品とは「作品の演奏」の外延的に定義されたクラス(集合の意味)に他ならない。」「作品の演奏」っていうと演奏される作品があるみたいだけれど、これは「の演奏」がついて初めて存在する属性だ。「作品の演奏」はあっても「作品」はない。(「おろち」と「やまたのおろち」がいても、「やまた」がいないような。)演奏は、演奏が例化している抽象的パターン(つまり「作品」)に応じて分類されるのではなく、演奏同士で、あるいは楽譜との関係の適切さに応じて分類される。生物学的(ないし法的)に一定の関係を有するメンバーが同じ姓を持つのと同様に、作品も、一定の個別のクラス(「平均律」のありとあらゆる演奏)を指示する便利な言語的なアイテム(「平均律」)に過ぎない。これが唯名論的見解。作品と演奏との「垂直な」、「抽象とその具体的実現」の関係からは離れ、さまざまな演奏や楽譜の「水平の」関係について考えることになる。
作品を「タイプ」と呼ぶ、あるいはより注意深く、「作品名」をタイプと呼ぶ理論家たちもどことなく似た見解をとっている。「音楽作品名とその演奏の関係はタイプとトークンの関係と同じだ。トークンがタイプとの関係で同定されるのであっても、タイプは言葉の上で存在するだけなのだ。タイプを創造する際、作曲家は『タイプのトークン』を創造しているか、あるいは『タイプのトークン』を作る方法、つまり楽譜を創造しているだけだ。」(作曲家が「複写楽譜」を作るって訳したとき変だと思わないと…)
マゴーリスがほぼこの見解(昆虫亀の人にマーゴリスではなくマゴーリスだと教えて貰った)。「しかし彼は厳格な唯名論からは離れる。タイプを「抽象的個別」とみなしているからだ」(95)。本人は否定するが、マゴーリスは修正プラトン主義に近い。「抽象的個別が抽象的なのは例化されうるからであり、個別なのは、創造されるという点で普遍ではないからだ。」(普遍は生成消滅しないので)「作品は物理的な対象のうちに実体化embodiedされるがそれと同一ではない。」(マゴーリスのembodimentの訳語には自信がないなぁ。ステッカーの森訳では「具現」か。)。「実体化の「である」は同一性の「である」とは異なる、と彼は論じる」(ここはDantoの芸術的述定の「である」は同一性の「である」ではないという議論を知らないと訳しにくいか)。前者は、「文化的な個別(particular)について私たちが語るのを簡単にするために、文化的な文脈の中に持ち込まれている。」作品タイプとは、「文化的に出現する存在者である。ここで出現というのは特定の文化空間内部で個別の対象のうちに実体化されているという意味だ」。
グッドマンはさらに唯名論にコミットしている。彼の提案では、作品とは、楽譜に完全に従った上演のクラスだ。彼の理論は、作品と呼ばれる別個の、あるいは抽象的な実体へのそれ以上のコミットを含まない。クラスという概念にコミットしているから完全に唯名論的だ、ということにはならない。クラスは抽象的存在者だからだ。「でも、グッドマンは、自分がクラスという言葉を使うのは便宜上のことであり、自分の理論の本質は真に唯名論的だと主張している。」
(北野まとめ) 唯名論的作品概念は、「抽象」を一切拒絶。「作品の演奏」の存在は「作品」の存在を含意しない。作品は、同じ名前で呼ばれる様々な演奏のクラスを指示する便宜上の産物。「作品名」はタイプだと考える。作曲家は、「タイプのトークン」あるいは「タイプのトークンの製造法」を創作している。ある上演について、「これは第九である」と言うとき、この「である」は「実体化の〈である〉」であって、「同一性の〈である〉」ではない。目の前で起きている演奏という物理的な対象のうちに実体化(文化的に出現)しているものとして「第九」をとらえている。作品とは楽譜に適った上演のクラスへの便宜的符丁とみなすグッドマンも唯名論的。
4
クローチェとコリングウッド。彼らは分析理論をしていない。それでも「観念論的」見解を外挿可能。「作品はそこでは作曲者の心の中に形成される観念と同一視される」(96)。これらの観念は、(心の中に)形成されたら、楽譜や演奏のうちに、客体化された表現を見いだしうるし、公的にアクセス可能になる。作品≠客体化された表現。作品=観念。
コリングウッドによると、作曲家が歌って作ろうが、楽譜に書こうがそれはどうでもいい。「実際の曲作りは他の場所ではなくかれの頭の中でだけ起きている何かなのだ」それは「想像上の曲imagenary tune」。曲作りとは想像上の曲作りで、それが創造だ。この想像上のものを伝えたり思い出したりするために曲を紙に書くなら、それは創造ではなく加工だ。「曲は想像経験の文脈の内部にだけ存在する」。そうした経験にあっては、曲は聞こえたりしない。想像されるだけ。「但し、曲とはこれらの想像上の音に過ぎないというのは間違っているだろう。曲とは、むしろ、これらの音を想像し、理解し、意識するようになる全行為の経験全体のことなのだ」。
観念論は分析の伝統では上手く受容されてこなかった。「想像的・美的経験の内部に作品を同定しようという考えは、求められていた存在論的な理論とは全くあわないと判断されてきた。」想像経験全体=心的実体(観念)ってのもまずい。「何であれ、心の中に存在するなにかと作品を同一視することはとても不充分な戦略だとみなされてきたのだ」(97)。
(北野まとめ)コリングウッド流の「観念論」は作品=想像的経験=心の中にある何か=観念、とみなすが、これは分析美学の伝統ではあまり受けいれられてこなかった。(コリングウッドになって急に間違いが減った。分析哲学との相性がこの結果につながったことが窺える。)
解題を読んで驚いた。訳者、アメリカでゲーアのゼミに参加してるんだ。こんだけ分かってなくてゼミに出るのは大変だったろうなぁ……解題で「ジェロルド・レヴィンスンを巡る議論はたとえば、レヴィンスンの議論に少しでも通じている読者には多少違和感を持って読まれるのではないだろうか」(129)と書いてあるけれど、レヴィンソンの議論に少しでも通じている人が、彼のinitiated typeを「潜在型」と訳し「潜在」に「〈=明瞭なる特徴付けがなされていない〉」と注記できるのだろうか?なんかいろいろ信じがたい。
著者名をゲールってしてたのを訳書にあわせてゲーアに修正。
問題はゲーアの方で、語学的な問題、というよりも、分析美学系の議論の考え方との相性の問題で、とても読みにくいものになっている。この議論は序と16の部分からなるが、考え方としては素直な議論なので、訳に問題がある場合にはそれを修正しながら、紹介してゆきたい。今回は序から4くらいまで。(正直言うと「語学的問題」も大きいとは思う)
方針としては、基本的に自分でまとめ、訳すが、福中訳が誤解を招く間違いを含有している箇所は私が訂正した訳を青字で表記し、私のコメントは紫で表示、元訳は原則として示さない(ひどい間違いをいちいち示して晒し者にはしない)。ページ表記はページが変わったところで。(11/21方針修正)
序
序は、「音楽作品」とは何か、という問題設定を示す。ゲーアは「音楽は作品のうちに例示されている考えは、自明というにはほど遠い」(邦訳89に対応。以下同様。青字や字消しは修正したところ)というダールハウスの発言に同意し、次のように述べる。「音楽実践は〈作品概念〉により規定されうるが、それは必然ではない」。それは歴史によるし、偶然だ。偶然だということはしかしそれがすぐなくなるということを意味しない。概念は実践に浸食しまるで必然のような雰囲気と魅力をもつからだ。今日、作品概念と結びつけずに音楽、とくにクラシックについて考えることは出来ないほどだ。でも、ゲーアによると、「「芸術」音楽の伝統の歴史の大部分で、音楽は作品概念と結びつけて考えられてはこなかった」(90)。
「本書(『音楽作品の想像的博物館』)は、作品概念が成立した時期に関わるものだが、前段落の最後の言明は、本書の中心にある主張に直結する。この言明の含意は大きいが、そう分かるのは証拠がすべて提示されてからのことだ。」証拠は広範囲に及ぶ。「音楽の意味と美学理論についての歴史的記述、音楽実践の変容をもたらした様々な変化から、社会学的な記述、概念が実践を生み出すあり方についての存在論的な記述」にまで及ぶ。ゲーアはまず「狭義の哲学的問題、とりわけ音楽作品の存在論的地位を記述しようとする分析哲学者の試み」(えっとここの元訳ひどい。この章で言われるanalyticalはすべて分析哲学ないし分析美学のことだけれど、それが分かっていないような感じ)を取り上げる。
1
「音楽作品の分析的理論はいったい何を扱っているのか?」ゲーアは四つの基本的な立場を区別する。「本章ではこれからその四つの立場とその代表的な主張者を簡単に紹介し、分析的な理論がどういうことを行っているのか、読者に試食をしていただこう。」
第一はプラトニズムだ。プラトニズムのある立場だと、「音楽作品は、常識とは異なり、音の構造によって構成される普遍であり、おそらくは自然種ですらある。」(「普遍universal」とは「個別particular」に対応する名詞で、「赤」や「蛇」「車」など、ゼロないし一つないし複数の「赤いもの」や「へびさん」や「うちのプリウス」などをそれに対応する個別として持つ。自然種とは普遍の一部で人工的ではない種。)「それらは時空的性質を欠き(いつとかどことか言えず)、永遠に存続する。」作曲前も忘却された後も存在している。演奏されなくても
ウォルターストーフが、もっと洗練されているけれど、この種の見解を支持する。「彼は、芸術作品を、音構造として理解される、創作されない自然種だとみなしている。」だから、「当該の音構造が例化されることはいつも可能だった」(例化とは、ある普遍の実例を与えること。訳語も決まっている。第九は、ベートーヴェンが初めて例化したのだけれど、別にモーツァルト作でもよかったし、原始時代につくられててもよかった。無意識がフロイト前からあったのと同じ)「作曲者はそうした構造を発見することで作品を作る。彼らは正しい演奏のための条件を決定することで発見した構造を自分の作品にする。この見解では、作品は創造されない自然種であるばかりではなく、規範種でもある。というのもそれらは適切に形作られた実例と不適切に形作られた実例の両方を持ちうるからだ」
プラトニズムを特徴付ける別の方法もある。上演や楽譜と無関係という点では最初のと変わらないが、「作品が創造されるという理由でそれを準プラトン的な実体とみなしている点で異なる。」(この箇所は訳も特に間違いではない)。「演奏において例化されるので、作品はプラトン的な地位を保持している。」時空に制約され、作曲行為に依存し、普遍を例化する特殊(上演や楽譜)に依存している。
レヴィンソンの修正プラトン主義では、「作品は構造タイプないし種でありそのトークンは個々の具体的演奏である。」それは独特の構造タイプだ。つまり「開始されたタイプ」なのだ。(この箇所の訳は、指摘するのも可哀想なほどひどい。)レヴィンソンによれば、作品とは音構造であり演奏手段構造であるが、加えて、それは、特定の歴史的コンテクストの中で特定の作曲家によって特定の時に作られた、ということによっても同定される。
「プラトン主義の見解では、作品は自立した種であり、修正プラトン主義の見解では、作品は依存的な種だ」(92)。依存的な種は、存在を得るために人間の意図的な行為を要求し、存在を続けるために演奏やスコアを要求する。しかし作品ひとつひとつが異なった存在者であることに変わりはない。それぞれ異なった存在者であることは超越した存在であるとか、上演や楽譜に尽くされない存在であるとかいうのと同じではない。「作品それぞれが区別されることが抽象的ないし具体的な実体そのものとしての作品を特徴付けるし、依存性は、上演や楽譜と作品の関係を特徴付ける。」
(北野まとめ。)プラトン主義的な作品観は、作品を音の構造として理解する。構造はタイプなので、永遠的な存在で作曲者が作曲しなくても存在する。作曲は「発見」で演奏はその「例化」だ。これはまずいと考える修正プラトン主義では、作品は「開始されたタイプ」であり、音構造+演奏手段構造+特定の時期に特定の作者が特定の文脈で作ったこと、によって同定されるタイプだ。演奏がそのトークン。(タイプとトークンって何のこと?はググれ。)
2
アリストテレス主義。「作品は、演奏とその楽譜のうちに示されている本質(典型的には音構造)である」(94訳を少し変えた)。「いろんな演奏で例示される音パターン」である限りで抽象的だが、独自の実体ではなく他のものに属し含まれる「本質的構造ないしパターン」。「作品の実体性がどんなものであれ、それは演奏の実体性によって尽くされる」。プラトンのイデア論(形相論でも良いけどさ、「形象論」はないと思う)へのアリストテレスの批判が両者の違いを説明するだろう。プラトンでは、物質世界の外に何かものがあって、それは消滅しないという点以外では感覚的なものと同じだ、ということになるけれどそれは奇妙だ。ひとそれ自体とか健康それ自体とかがあって、それらは「それ自体」以外に限定されないのだもの。永遠のひとと言っているだけ。(とアリストテレスは言う)
アリストテレスは、本質が、「本質を具体化する具体物という一次的な存在から派生する二次的な存在を持っている」(93)と述べる。とすると、様々な作品は「パフォーマンスや楽譜のうちに複数的に実現された諸本質であるという理由でだけ、二次的な意味で、互いに異なる」というべきかも。そんな言い方をすれば、「本質は、おそらく実現されず実体化されない潜性態として、二次的な意味で独立に存在する」という意見もOKになるだろう。
このアリストテレス派がケンダル・ウォルトン。作品とは「すべての演奏のそれぞれにおいて提示される音パターン」(訳はパターンを「反復類型」ってしてるけど、時間的な繰り返しをここでの「パターン」は含意も排除もしていない。頑固に「複写楽譜」と訳されるスコア=コピーが「複写」を含意も排除もしていないのと同様。)作品は「特定の対象でも出来事」でもなく、演奏が「合っていたり合っていなかったりするような何か」だと言う。作品とは「楽譜が認知し特定する音と楽器の規定の階層化された構造パターン引くことの(マイナス)、『良い演奏のために楽譜に含まれるアドヴァイス』だ。」作品とは、「演奏が正しいあるいは欠点のない演奏であるために示さねばならない音性質のパターン」だ。とすると作品はレシピのように規範的ないし処方的だ。
(北野まとめ)アリストテレス的な(事物に潜在的に存在する)本質概念を用いて作品を説明するのがウォルトンで、作品とは「演奏一つ一つのうちに提示されている音のパターン」であり、それは規範的で演奏が正しい演奏であるためには、演奏は、その音性質のパターンを示さねばならない。
3
「作品」について考える第三の方法は「抽象的な存在」をどんな形でも認めないこと。存在するのは具体的な演奏と楽譜だけ。「作品について語るとは、作品が存在するかのように語ること」(94)でしかない。「作品とは「作品の演奏」の外延的に定義されたクラス(集合の意味)に他ならない。」「作品の演奏」っていうと演奏される作品があるみたいだけれど、これは「の演奏」がついて初めて存在する属性だ。「作品の演奏」はあっても「作品」はない。(「おろち」と「やまたのおろち」がいても、「やまた」がいないような。)演奏は、演奏が例化している抽象的パターン(つまり「作品」)に応じて分類されるのではなく、演奏同士で、あるいは楽譜との関係の適切さに応じて分類される。生物学的(ないし法的)に一定の関係を有するメンバーが同じ姓を持つのと同様に、作品も、一定の個別のクラス(「平均律」のありとあらゆる演奏)を指示する便利な言語的なアイテム(「平均律」)に過ぎない。これが唯名論的見解。作品と演奏との「垂直な」、「抽象とその具体的実現」の関係からは離れ、さまざまな演奏や楽譜の「水平の」関係について考えることになる。
作品を「タイプ」と呼ぶ、あるいはより注意深く、「作品名」をタイプと呼ぶ理論家たちもどことなく似た見解をとっている。「音楽作品名とその演奏の関係はタイプとトークンの関係と同じだ。トークンがタイプとの関係で同定されるのであっても、タイプは言葉の上で存在するだけなのだ。タイプを創造する際、作曲家は『タイプのトークン』を創造しているか、あるいは『タイプのトークン』を作る方法、つまり楽譜を創造しているだけだ。」(作曲家が「複写楽譜」を作るって訳したとき変だと思わないと…)
マゴーリスがほぼこの見解(昆虫亀の人にマーゴリスではなくマゴーリスだと教えて貰った)。「しかし彼は厳格な唯名論からは離れる。タイプを「抽象的個別」とみなしているからだ」(95)。本人は否定するが、マゴーリスは修正プラトン主義に近い。「抽象的個別が抽象的なのは例化されうるからであり、個別なのは、創造されるという点で普遍ではないからだ。」(普遍は生成消滅しないので)「作品は物理的な対象のうちに実体化embodiedされるがそれと同一ではない。」(マゴーリスのembodimentの訳語には自信がないなぁ。ステッカーの森訳では「具現」か。)。「実体化の「である」は同一性の「である」とは異なる、と彼は論じる」(ここはDantoの芸術的述定の「である」は同一性の「である」ではないという議論を知らないと訳しにくいか)。前者は、「文化的な個別(particular)について私たちが語るのを簡単にするために、文化的な文脈の中に持ち込まれている。」作品タイプとは、「文化的に出現する存在者である。ここで出現というのは特定の文化空間内部で個別の対象のうちに実体化されているという意味だ」。
グッドマンはさらに唯名論にコミットしている。彼の提案では、作品とは、楽譜に完全に従った上演のクラスだ。彼の理論は、作品と呼ばれる別個の、あるいは抽象的な実体へのそれ以上のコミットを含まない。クラスという概念にコミットしているから完全に唯名論的だ、ということにはならない。クラスは抽象的存在者だからだ。「でも、グッドマンは、自分がクラスという言葉を使うのは便宜上のことであり、自分の理論の本質は真に唯名論的だと主張している。」
(北野まとめ) 唯名論的作品概念は、「抽象」を一切拒絶。「作品の演奏」の存在は「作品」の存在を含意しない。作品は、同じ名前で呼ばれる様々な演奏のクラスを指示する便宜上の産物。「作品名」はタイプだと考える。作曲家は、「タイプのトークン」あるいは「タイプのトークンの製造法」を創作している。ある上演について、「これは第九である」と言うとき、この「である」は「実体化の〈である〉」であって、「同一性の〈である〉」ではない。目の前で起きている演奏という物理的な対象のうちに実体化(文化的に出現)しているものとして「第九」をとらえている。作品とは楽譜に適った上演のクラスへの便宜的符丁とみなすグッドマンも唯名論的。
4
クローチェとコリングウッド。彼らは分析理論をしていない。それでも「観念論的」見解を外挿可能。「作品はそこでは作曲者の心の中に形成される観念と同一視される」(96)。これらの観念は、(心の中に)形成されたら、楽譜や演奏のうちに、客体化された表現を見いだしうるし、公的にアクセス可能になる。作品≠客体化された表現。作品=観念。
コリングウッドによると、作曲家が歌って作ろうが、楽譜に書こうがそれはどうでもいい。「実際の曲作りは他の場所ではなくかれの頭の中でだけ起きている何かなのだ」それは「想像上の曲imagenary tune」。曲作りとは想像上の曲作りで、それが創造だ。この想像上のものを伝えたり思い出したりするために曲を紙に書くなら、それは創造ではなく加工だ。「曲は想像経験の文脈の内部にだけ存在する」。そうした経験にあっては、曲は聞こえたりしない。想像されるだけ。「但し、曲とはこれらの想像上の音に過ぎないというのは間違っているだろう。曲とは、むしろ、これらの音を想像し、理解し、意識するようになる全行為の経験全体のことなのだ」。
観念論は分析の伝統では上手く受容されてこなかった。「想像的・美的経験の内部に作品を同定しようという考えは、求められていた存在論的な理論とは全くあわないと判断されてきた。」想像経験全体=心的実体(観念)ってのもまずい。「何であれ、心の中に存在するなにかと作品を同一視することはとても不充分な戦略だとみなされてきたのだ」(97)。
(北野まとめ)コリングウッド流の「観念論」は作品=想像的経験=心の中にある何か=観念、とみなすが、これは分析美学の伝統ではあまり受けいれられてこなかった。(コリングウッドになって急に間違いが減った。分析哲学との相性がこの結果につながったことが窺える。)
解題を読んで驚いた。訳者、アメリカでゲーアのゼミに参加してるんだ。こんだけ分かってなくてゼミに出るのは大変だったろうなぁ……解題で「ジェロルド・レヴィンスンを巡る議論はたとえば、レヴィンスンの議論に少しでも通じている読者には多少違和感を持って読まれるのではないだろうか」(129)と書いてあるけれど、レヴィンソンの議論に少しでも通じている人が、彼のinitiated typeを「潜在型」と訳し「潜在」に「〈=明瞭なる特徴付けがなされていない〉」と注記できるのだろうか?なんかいろいろ信じがたい。
著者名をゲールってしてたのを訳書にあわせてゲーアに修正。
2013年11月15日金曜日
今年のいろいろベストon 15/11/2013
年末になったらまた考えるとして、
今年観た演劇系ベスト4
(1) ザ・スーツ (2) レミング (3) 熱帯のアンナ (4) 黄金の馬車
(FTを見るのでまた変わるかも知れない。MIWAを見られなかったのが残念)
今年読んだミステリベスト3
(1) 冬のフロスト (2) われらが背きし者 (3) かかし
本当は(1)フロスト(2)フロスト(3)フロスト。
(3)の「かかし」はコナリーにしては少し弱い。ボッシュじゃないし。
レヘインもミステリ的な面白さじゃないし。
ドイツ系に面白いのが多かった。「白雪姫には死んでもらう」とか。
今年観た映画のベスト3
(1) ジャンゴ (2) ハンナ・アレント (3) 天使の分け前
ヴィック・ムニーズがかなり良かったけど、映画として良かったのかと言われると…
スター・トレックが、 せっかくのカンバーバッチなのに…
感動系を観てない。来年の一番の楽しみは「マチェーテ・キルズ」。
今年買った音楽
でiTunes探ってみて、今年殆どアルバムを買っていないのに気づく。去年はマッケラスを一生懸命買っていた。それを含め、最近ピリオド系しか買いたくない感じ。
キアロスクーロ四重奏団のベートーヴェン。
今年行ったコンサート
ウォーターズとリセウの蝶々夫人しか行ってない。
今年観た演劇系ベスト4
(1) ザ・スーツ (2) レミング (3) 熱帯のアンナ (4) 黄金の馬車
(FTを見るのでまた変わるかも知れない。MIWAを見られなかったのが残念)
今年読んだミステリベスト3
(1) 冬のフロスト (2) われらが背きし者 (3) かかし
本当は(1)フロスト(2)フロスト(3)フロスト。
(3)の「かかし」はコナリーにしては少し弱い。ボッシュじゃないし。
レヘインもミステリ的な面白さじゃないし。
ドイツ系に面白いのが多かった。「白雪姫には死んでもらう」とか。
今年観た映画のベスト3
(1) ジャンゴ (2) ハンナ・アレント (3) 天使の分け前
ヴィック・ムニーズがかなり良かったけど、映画として良かったのかと言われると…
スター・トレックが、 せっかくのカンバーバッチなのに…
感動系を観てない。来年の一番の楽しみは「マチェーテ・キルズ」。
今年買った音楽
でiTunes探ってみて、今年殆どアルバムを買っていないのに気づく。去年はマッケラスを一生懸命買っていた。それを含め、最近ピリオド系しか買いたくない感じ。
キアロスクーロ四重奏団のベートーヴェン。
今年行ったコンサート
ウォーターズとリセウの蝶々夫人しか行ってない。
「起て、飢えたる者よ」劇評@ワンダーランド
小劇場レビューメルマガとウェブサイトの「ワンダーランド」に、劇団チョコレートケーキ「起て、飢えたる者よ」の劇評を書きました。
直リンで
http://www.wonderlands.jp/archives/24646/
編集者とのちょっとしたご縁(同級生)で書かせていただきました。2000字以上で、他の人が読むこと前提に書いたのは初めてかも知れない。
ご縁が続くと良いのですが…
直リンで
http://www.wonderlands.jp/archives/24646/
編集者とのちょっとしたご縁(同級生)で書かせていただきました。2000字以上で、他の人が読むこと前提に書いたのは初めてかも知れない。
ご縁が続くと良いのですが…
2013年9月19日木曜日
iOS7にした。
iPhone4SとiPad2をiOS7にした。今のところ特に日本語入力がもたつく感じはない。フラットデザイン、とくにアプリのアイコンの変化にはまだ慣れないけど、まああんまりOS使うわけじゃないから。時計とか、ソフトの中のフラット化の違和感が大きい。私の機種はまだ4S。
今のところ不具合はアプリ関係で、Goodreaderでパスワード入れたらアプリが落ちることと(これはアップデートで解消した)、iAnnotate PDFで内蔵辞書が落ちることくらい。
マルチタスクの感じは悪くないが、アプリ切り替えの間、前のアプリの画面から離れてしまうのは良し悪しかなぁ。例えばPDF閲覧ソフトから外部辞書ソフトに切り替える時、切り替える瞬間まで閲覧ソフトを見ていたい。
Youtubeの音楽が(Safari上でもアプリでも)、裏に回すと止まるのは変わらず。6.1位で裏でYoutube鳴らすことが出来て「神」と思ったものだが。
切り替えた最初の画面表示はややもたつく。アニメーション効果をオフにできないかしらん。
あと、ギリシャ語Polytonicの配列とロシア語phoneticのキーボード配列がつけ加わり、前者では古典ギリシア語入力と、後者ではasdf配列の入力の選択が可能になったはず(朗報)のだけれど、実際の入力場面では変化なし。どうすればできるのかしら。(これらの配列はハードウェアキーボードにのみ対応だった。これは結構朗報ではあるが、なんでそんな中途半端な…)。
メッセージの背景が真っ白なのと自分のメッセージが白抜きなのが読みにくい。この辺は改善されずに押し通されそう。(一日でだいぶん慣れた。アップル教徒は教団のなすがままにならざるを得ないのだし。)
今のところ不具合はアプリ関係で、
![]() |
| アプリの切り替え |
Youtubeの音楽が(Safari上でもアプリでも)、裏に回すと止まるのは変わらず。6.1位で裏でYoutube鳴らすことが出来て「神」と思ったものだが。
切り替えた最初の画面表示はややもたつく。アニメーション効果をオフにできないかしらん。
メッセージの背景が真っ白なのと自分のメッセージが白抜きなのが読みにくい。この辺は改善されずに押し通されそう。(一日でだいぶん慣れた。アップル教徒は教団のなすがままにならざるを得ないのだし。)
2013年9月12日木曜日
ダイ・ハード5
ダイ・ハード6が日本を舞台にして制作進行中なのだそうな。武器の入手がとても難しそうに見えるけれど、原点の舞台が日本企業のビルだったのを思い出した。忍者は出てくるのだろうか。
そう言えばダイ・ハード5はチェルノブイリで放射能汚染のただ中でドンパチやるわ、核兵器用濃縮ウランを満載したヘリコプターが大爆発するわのトンデモだった。埃の放射能濃度を下げるコスモリバース(コスモクリーナー)みたいなスプレーも出てきて、そんなんあったら良いよね。4から5まで結構時間がかかったので、6早く作らないとウィリスおじいさんになっちゃう。
で、ダイハードファンも含め人気が低いのだけれど、わりと共通している批判の一箇所は的外れだと思う。Amazonの感想だと「劇場版ではトランクを開けると大量の銃器を難なく発見していたが(そんな都合よく見つけられるかよ!というトンデモな場面)」と書かれているシーンだけれど、これ高級ディスコかなんかの駐車場でおまけに高級車のトランクだから、今のロシアでそんな車でそんな場所に行くのはギャングに決まっていて、かつディスコは武器携帯不可だから車のトランクに仕舞って行くはずだ、という息子の判断に基づくもので、一応の整合性はある。息子ディスコの用心棒やってた設定もあるし。無差別にロシアの駐車場のトランクには死体や武器が詰まっていると言っているわけではないから。
旧共産圏の高級ディスコでギャングやテロリストに会うって設定は、XXXにもあったので、ハリウッドでは、そういう人しかそういうところに行かない、っていうお約束なのだろう。
そう言えばダイ・ハード5はチェルノブイリで放射能汚染のただ中でドンパチやるわ、核兵器用濃縮ウランを満載したヘリコプターが大爆発するわのトンデモだった。埃の放射能濃度を下げるコスモリバース(コスモクリーナー)みたいなスプレーも出てきて、そんなんあったら良いよね。4から5まで結構時間がかかったので、6早く作らないとウィリスおじいさんになっちゃう。
で、ダイハードファンも含め人気が低いのだけれど、わりと共通している批判の一箇所は的外れだと思う。Amazonの感想だと「劇場版ではトランクを開けると大量の銃器を難なく発見していたが(そんな都合よく見つけられるかよ!というトンデモな場面)」と書かれているシーンだけれど、これ高級ディスコかなんかの駐車場でおまけに高級車のトランクだから、今のロシアでそんな車でそんな場所に行くのはギャングに決まっていて、かつディスコは武器携帯不可だから車のトランクに仕舞って行くはずだ、という息子の判断に基づくもので、一応の整合性はある。息子ディスコの用心棒やってた設定もあるし。無差別にロシアの駐車場のトランクには死体や武器が詰まっていると言っているわけではないから。
旧共産圏の高級ディスコでギャングやテロリストに会うって設定は、XXXにもあったので、ハリウッドでは、そういう人しかそういうところに行かない、っていうお約束なのだろう。
「なぜ,ヘカベ」東京演劇集団風
マテイ・ヴィスニユックの「なぜ、ヘカベ」を観た。風の公演だ。わたしこの劇団が苦手だということは覚えていたけれど、そうか「第三帝国の恐怖と悲惨」を観ていたのか……
えっとかなりバイアスがかかっているのでその点を念頭に置いて下さい。
彼らはレパートリーシアターだから、これでヴィスニユックのこの作品は彼らのレパートリーとして継続的に上演されるだろう。エウリピデスにはトロイア滅亡後のトロイアの女たちを描いた作品が、『トロイアの女たち』以外にも一つあって、それが『ヘカベ』だ。上演年は不明だが『女たち』よりも前なのは確かなようだ。そこでは、アキレスの墓に生け贄にささげられるヘカベの娘ポリュクセネがまず描かれ、その後、ヘカベの末子ポリュドロスの惨殺の報せと、それに対するヘカベとトロイアの女たちの復讐が描かれる。ヴィスニユックの戯曲もポリュドロスとポリュクセネの運命を描く。エウリピデスの『ヘカベ』は、ひょっとしたら『トロイアの女』よりも面白いかもしれないのに、日本ではほとんど上演されずに可哀想な作品なので、タイトルつながりでエウリピデスの『ヘカベ』にも興味を持つ人が増えると良いなぁ。
一人の盲目の男(ホメロスらしい)がたたずむヘラの神殿の廃墟に、羊飼いとその娘がやって来る。彼女は満月になると、変になるらしい。男はその治癒を女神に嘆願しに来た。夜になると犬の鳴き声が聞こえ、盲目の男はそれがヘカベだと教える。
で、ヘカベの物語が始まる。
ホメロスたち三人が枠芝居で、ヘカベの話がその場所で起きた過去の物語なのだけれど、この作品には枠芝居がもう一つあって面倒。それは、ヘカベの話を「悲劇」として上演する神々の枠芝居だ。人間の悲惨は神様にとっての見世物だというわけで、それはそれで面白いけれど、二つの枠芝居の関係がとても曖昧。舞台は二幕。
前半のヘカベをめぐる芝居はヘカベという女性の紹介に終わった。舞台上での出来事と言えばヘカベが19人の息子たちの遺灰を数えて食べることくらい。これはある種象徴性を持つ行為だと思うのだけれど、抽象度が高すぎてつらさが伝わらない。「遺灰を数える」ように強いる男性のコロスがとても抑圧的なのだけれどこのコロスが誰(何)なのか分からないのもつらい。もっとも居心地が悪いのは「遺灰を数える」という行為がどういうことなのか(象徴の面ではなく具体的に)がよく分からないところだ。だって灰だよ。一個二個と数えられないじゃん。「見分ける」ということだと思うんだけれど、それにしても、舞台では何かを数えてたし。たとえば積み重なったものを「ああ、これはあの子だ、はっきり分かる」とか(それに類した台詞はあったと思う)所作を加えて分別して「数え」させたらまた別だけれど、立ったまま指さして数えたと言われても…
翻訳もいろいろ変だ。「ただの犬じゃなくて、雌犬だ」とか、「最初に生まれたパリス」とか(これは翻訳者ご本人に誤訳ではなく原文通りと指摘された。そのちょっと前に、「年若の息子、パリス」とあるのでテキストの問題とは思わず訳の問題だと思った。) エジスト(アイギストスのこと)とか。これらには訳ではなくテキストの問題(ちょい殴り書き)もあるのかもしれない。「ヘカベは十九人の子を産んだが、全員死んでしまった。トロイア占領の時に、ギリシャ人たちに全員、虐殺されたのだ」もテキストが悪いのだと思う。
たとえば、次のような台詞のシークエンスも、訳者が間違えるようなものではないので、テキストの問題(あるいはヴィスニユックの母語がルーマニア語だとしたら翻訳のもとになったフランス語テキストの問題)に見える。
これらは多分、戦争が始まってからの十年のことを語っている台詞で、語り手(神々)の語りの現在から十年前に何があったかを語っている台詞ではないだろう。「十年前」ではなく「十年間」。役者もスタッフも、何か思わなかったのかしら。それとも稽古の中で、こうしたことを役者が問題に出来ないタイプの劇団なのだろうか。オデュッセウスの「帰還には二十年かかる」という台詞も、多分訳じゃなくてテキストの問題。
たくさんのギリシア悲劇への言及が(主に神々の対話で)出てくるのだけれど、これ、知らなければ多分わけわかだし、知ってても別に面白くないくすぐりにしかなってない気がする。このあたり、ルーマニア人のヴィスニユックは、観客が知っていることを想定して書いているように思うのだけどどうなのかしら。
第二幕がポリュドロスとポリュクセネの話。エウリピデスではヘカベはトロイアの敗北の可能性を考え、国の滅亡を避けるために、トラキア王ポリュメストルに末子ポリュドロスを預けていた。ポリュドロスはトロイアの敗北を知ったポリュメストルに、ヘカベが預けるのに託した黄金目当てで殺される。その遺体がギリシアの宿営地に流れ着くところから『ヘカベ』は始まる。『ヘカベ』の後半は復讐劇で、息子の末路を知った彼女とトロイアの女たちは、ポリュメストルの子供たちを殺し料理して、ポリュメストルに食べさせる。そしてポリュメストルの目玉をくりぬく。この復讐は成就するが、それは彼女たちの運命に何一つ良い結果をもたらすわけではない。そのむなしさが『ヘカベ』の魅力だ。
ヴィスニユックは自分のヘカベをもっと受動的にしたかったのだと思う。それだけではなく、戦争の悲惨を個人の悪意の所為にしたくなかったのだとも思う。だから、ポリュメストルからも、ポリュクセネを生け贄にするオデュッセウスからも敵意や悪意を取り除く。その代わりに持ち出されるのが、「慣習(伝統)」で、敗戦国の王子をかくまわずに殺すのも、アキレスの墓に娘を生け贄にするのも「慣習」のせいなのだ。でもそんな慣習があったら、敗戦の可能性を見越して王子を他国に預けるという設定が成り立たない。ポリュクセネの生け贄に関して言えば、「それどんな慣習」? 慣習として記述できない。むりやり記述すれば、「戦争が終わったときには、勝利の国の一番の死んだ英雄に女を生け贄にする慣習があった。」なにそれ?(エウリピデスの『ヘカベ』では、アキレスの亡霊が「置いて行くなぁ。女をよこせ。でないと風を送ってやらん」と言ったことになっている。)
で、ヘカベが受動的になると次々彼女に襲いかかる不幸は加算されているだけで、深まって行かない。なにか(ヘレネに言い勝つとか復讐するとかの)能動的行為があってはじめて、それを含めての空しさと絶望の深まりが表現される。
もう一つヴィスニユックが意図的に取り除いているのは、王妃としてのヘカベの独特の存在だ。だから彼女はトロイアの女たちを登場させない。王妃としてのヘカベの存在は、トロイアの女たちの境遇を代表するものでもあるし、時にはそれと対立するものでもある。女たちがいれば「栄華を極めた王妃の位から奴隷の身に落とされたもっとも哀れな人」というヘカベについての台詞は相対化される。ふつうの暮らしをしてきた女性が「奴隷にされる」のは王妃がそうなるより悲惨さがまし、などということはない。でも、この舞台ではその台詞はそのまま通用してしまう。
第二幕の後半はポリュクセネの生け贄で、ヴィスニユックはポリュクセネとアキレスの恋愛関係の設定を入れることで、かえってその悲痛さを和らげてしまった気がする。それでも婚礼(=生け贄)の場面そのものはいたましいので、ここは良かった。良かったところはそれ以外に、ホメロス枠芝居のホメロスとヘルナンダ(彼女が現代ラテン系の名前に見えるのはヘカベの悲劇の普遍性の暗示だと思うが、違和感あり)の心根の優しさ。神々の仮面のおおざっぱにグロテスクなところ。(伎楽面に似ているという指摘があった。なるほど)。セットの廃墟感。
私には、ヴィスニユックは、日本の劇作家と比べても、きちんとした物語を作るのが得意ではないように見える。具体的なイメージを練るのも得意ではないように見える。オイディプスとライオスに棍棒合戦をさせる(それもライオスは「二股の棍棒」)のとどっちが、と言うと悩むところだが。
演技と演出に関しては、わたしこの劇団がかなり苦手だ、ということを再確認。間が多すぎて、言葉と動きが遅いとか、盲目を演じるのは苦労があると思うけれどサングラスはないだろうとか、ポリュドロスの年齢設定がみえないとか…もっと速いテンポでテキスト省略せずにやって欲しい。でもポリュクセネとその最期の演出と演技は好き。
主演女優を念頭に置いての宛書きとは言え初演だし、もう少しこなれてくれば即興性と自在さが出てくるとは思うので、レパートリー化には期待。細かいところを含めて作者や訳者ともっと詰めて冗漫さを減らせばある程度面白いものになるかもしれない。
後記:「最初に生まれたパリス」は原作通り、また、原作はもっと長く、上演にあたり刈り込んだとのご指摘を翻訳者よりいただいた。「テアトロ」の訳も参照して、記憶で書いた本文に手を入れた。
えっとかなりバイアスがかかっているのでその点を念頭に置いて下さい。
彼らはレパートリーシアターだから、これでヴィスニユックのこの作品は彼らのレパートリーとして継続的に上演されるだろう。エウリピデスにはトロイア滅亡後のトロイアの女たちを描いた作品が、『トロイアの女たち』以外にも一つあって、それが『ヘカベ』だ。上演年は不明だが『女たち』よりも前なのは確かなようだ。そこでは、アキレスの墓に生け贄にささげられるヘカベの娘ポリュクセネがまず描かれ、その後、ヘカベの末子ポリュドロスの惨殺の報せと、それに対するヘカベとトロイアの女たちの復讐が描かれる。ヴィスニユックの戯曲もポリュドロスとポリュクセネの運命を描く。エウリピデスの『ヘカベ』は、ひょっとしたら『トロイアの女』よりも面白いかもしれないのに、日本ではほとんど上演されずに可哀想な作品なので、タイトルつながりでエウリピデスの『ヘカベ』にも興味を持つ人が増えると良いなぁ。
一人の盲目の男(ホメロスらしい)がたたずむヘラの神殿の廃墟に、羊飼いとその娘がやって来る。彼女は満月になると、変になるらしい。男はその治癒を女神に嘆願しに来た。夜になると犬の鳴き声が聞こえ、盲目の男はそれがヘカベだと教える。
で、ヘカベの物語が始まる。
ホメロスたち三人が枠芝居で、ヘカベの話がその場所で起きた過去の物語なのだけれど、この作品には枠芝居がもう一つあって面倒。それは、ヘカベの話を「悲劇」として上演する神々の枠芝居だ。人間の悲惨は神様にとっての見世物だというわけで、それはそれで面白いけれど、二つの枠芝居の関係がとても曖昧。舞台は二幕。
前半のヘカベをめぐる芝居はヘカベという女性の紹介に終わった。舞台上での出来事と言えばヘカベが19人の息子たちの遺灰を数えて食べることくらい。これはある種象徴性を持つ行為だと思うのだけれど、抽象度が高すぎてつらさが伝わらない。「遺灰を数える」ように強いる男性のコロスがとても抑圧的なのだけれどこのコロスが誰(何)なのか分からないのもつらい。もっとも居心地が悪いのは「遺灰を数える」という行為がどういうことなのか(象徴の面ではなく具体的に)がよく分からないところだ。だって灰だよ。一個二個と数えられないじゃん。「見分ける」ということだと思うんだけれど、それにしても、舞台では何かを数えてたし。たとえば積み重なったものを「ああ、これはあの子だ、はっきり分かる」とか(それに類した台詞はあったと思う)所作を加えて分別して「数え」させたらまた別だけれど、立ったまま指さして数えたと言われても…
翻訳もいろいろ変だ。「ただの犬じゃなくて、雌犬だ」とか、
たとえば、次のような台詞のシークエンスも、訳者が間違えるようなものではないので、テキストの問題(あるいはヴィスニユックの母語がルーマニア語だとしたら翻訳のもとになったフランス語テキストの問題)に見える。
「十年前、トロイアの美しい街の前で血が流れた。」「十年前、…英雄たちは、トロイアの街の城壁前の戦いで疲弊していた。」「ギリシアの最も苛烈な兵士アキレスは死んだ…」でトロイアの木馬の話になって、
「さようならトロイア市民」「十年も面倒をかけてすまなかった。」
これらは多分、戦争が始まってからの十年のことを語っている台詞で、語り手(神々)の語りの現在から十年前に何があったかを語っている台詞ではないだろう。「十年前」ではなく「十年間」。役者もスタッフも、何か思わなかったのかしら。それとも稽古の中で、こうしたことを役者が問題に出来ないタイプの劇団なのだろうか。オデュッセウスの「帰還には二十年かかる」という台詞も、多分訳じゃなくてテキストの問題。
たくさんのギリシア悲劇への言及が(主に神々の対話で)出てくるのだけれど、これ、知らなければ多分わけわかだし、知ってても別に面白くないくすぐりにしかなってない気がする。このあたり、ルーマニア人のヴィスニユックは、観客が知っていることを想定して書いているように思うのだけどどうなのかしら。
第二幕がポリュドロスとポリュクセネの話。エウリピデスではヘカベはトロイアの敗北の可能性を考え、国の滅亡を避けるために、トラキア王ポリュメストルに末子ポリュドロスを預けていた。ポリュドロスはトロイアの敗北を知ったポリュメストルに、ヘカベが預けるのに託した黄金目当てで殺される。その遺体がギリシアの宿営地に流れ着くところから『ヘカベ』は始まる。『ヘカベ』の後半は復讐劇で、息子の末路を知った彼女とトロイアの女たちは、ポリュメストルの子供たちを殺し料理して、ポリュメストルに食べさせる。そしてポリュメストルの目玉をくりぬく。この復讐は成就するが、それは彼女たちの運命に何一つ良い結果をもたらすわけではない。そのむなしさが『ヘカベ』の魅力だ。
ヴィスニユックは自分のヘカベをもっと受動的にしたかったのだと思う。それだけではなく、戦争の悲惨を個人の悪意の所為にしたくなかったのだとも思う。だから、ポリュメストルからも、ポリュクセネを生け贄にするオデュッセウスからも敵意や悪意を取り除く。その代わりに持ち出されるのが、「慣習(伝統)」で、敗戦国の王子をかくまわずに殺すのも、アキレスの墓に娘を生け贄にするのも「慣習」のせいなのだ。でもそんな慣習があったら、敗戦の可能性を見越して王子を他国に預けるという設定が成り立たない。ポリュクセネの生け贄に関して言えば、「それどんな慣習」? 慣習として記述できない。むりやり記述すれば、「戦争が終わったときには、勝利の国の一番の死んだ英雄に女を生け贄にする慣習があった。」なにそれ?(エウリピデスの『ヘカベ』では、アキレスの亡霊が「置いて行くなぁ。女をよこせ。でないと風を送ってやらん」と言ったことになっている。)
で、ヘカベが受動的になると次々彼女に襲いかかる不幸は加算されているだけで、深まって行かない。なにか(ヘレネに言い勝つとか復讐するとかの)能動的行為があってはじめて、それを含めての空しさと絶望の深まりが表現される。
もう一つヴィスニユックが意図的に取り除いているのは、王妃としてのヘカベの独特の存在だ。だから彼女はトロイアの女たちを登場させない。王妃としてのヘカベの存在は、トロイアの女たちの境遇を代表するものでもあるし、時にはそれと対立するものでもある。女たちがいれば「栄華を極めた王妃の位から奴隷の身に落とされたもっとも哀れな人」というヘカベについての台詞は相対化される。ふつうの暮らしをしてきた女性が「奴隷にされる」のは王妃がそうなるより悲惨さがまし、などということはない。でも、この舞台ではその台詞はそのまま通用してしまう。
第二幕の後半はポリュクセネの生け贄で、ヴィスニユックはポリュクセネとアキレスの恋愛関係の設定を入れることで、かえってその悲痛さを和らげてしまった気がする。それでも婚礼(=生け贄)の場面そのものはいたましいので、ここは良かった。良かったところはそれ以外に、ホメロス枠芝居のホメロスとヘルナンダ(彼女が現代ラテン系の名前に見えるのはヘカベの悲劇の普遍性の暗示だと思うが、違和感あり)の心根の優しさ。神々の仮面のおおざっぱにグロテスクなところ。(伎楽面に似ているという指摘があった。なるほど)。セットの廃墟感。
私には、ヴィスニユックは、日本の劇作家と比べても、きちんとした物語を作るのが得意ではないように見える。具体的なイメージを練るのも得意ではないように見える。オイディプスとライオスに棍棒合戦をさせる(それもライオスは「二股の棍棒」)のとどっちが、と言うと悩むところだが。
演技と演出に関しては、わたしこの劇団がかなり苦手だ、ということを再確認。間が多すぎて、言葉と動きが遅いとか、盲目を演じるのは苦労があると思うけれどサングラスはないだろうとか、ポリュドロスの年齢設定がみえないとか…もっと速いテンポでテキスト省略せずにやって欲しい。でもポリュクセネとその最期の演出と演技は好き。
主演女優を念頭に置いての宛書きとは言え初演だし、もう少しこなれてくれば即興性と自在さが出てくるとは思うので、レパートリー化には期待。細かいところを含めて作者や訳者ともっと詰めて冗漫さを減らせばある程度面白いものになるかもしれない。
後記:「最初に生まれたパリス」は原作通り、また、原作はもっと長く、上演にあたり刈り込んだとのご指摘を翻訳者よりいただいた。「テアトロ」の訳も参照して、記憶で書いた本文に手を入れた。
登録:
投稿 (Atom)
