2013年11月26日火曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」(5)

11
11はまた間違いが増えた。議論は単純なので間違い訂正(大きいもののみ)。
ゲーアがここで述べているのは、そもそもグッドマンは、ジフが提示したような反例に対し、不充分な楽譜から習慣や趣味の洗練を通じて充分な楽譜が再構成されるという解決(§10)ではなく、それらは「作品」ではない、という解決を求め、その場合、それらは「作品」ではないのだから反例は反例になっていないという議論が可能だ、という話である。

identityを「同一性(同じであること)」ではなく、「本性」としてしまうのはこの訳書では一貫しているし、notationへの「表記」と「記譜」の揺れもここにとどまるものではないが、誤解を招くことに変わりはない。それを除いても、重要な間違いが結構ある。この単純な議論(反例は作品じゃないから反例じゃないよ)を理解していない気がする。

「不十全」を「十全」へと翻訳する」→「不適切な楽譜を適切な楽譜に翻訳する」(111)。
「すべてが表記されている楽譜に忠実な全演奏が、作品の同一性を指し示すわけではないという史実への言及に立ち戻ろう」→「すべての演奏がいつも、何もかも指定してある楽譜に演奏者が従うことによって実現するわけではないということを示す歴史的データを思い起こそう。
「一般的な意味での音楽作品と異なり、音楽作品概念は、音楽は十全たる指示事項を受け、[それを基に]演奏において多様に事例付けされるべきだという思考とどのような関わりを持つのか」→「より広くとらえられた音楽とは対照的に、音楽作品という概念は、音楽が演奏によって充分に指定され多数的に例示されねばならないという観念と、どこまで密接にかかわっているのだろうか」「より広い意味での」でも良いけれど、ここで対比の両方に「作品」を入れるのはゲーアの理屈への無理解を端的に明らかにする間違い。
「楽譜とは、…作品とその演奏の本性認識において厳然たる理念としての権威を持つ」→「楽譜が、…作品とその演奏の同一性にとっての権威ある原理なのだ。」identityという概念で問題になるのは、作品の演奏が他の作品のではなくその作品の演奏であるという「同一性」であり、それは、特に何らかの不可欠な名指しうる性質たる「本性」を前提としない。一つミスタッチしても同じ作品だけれど、別の音符の割合が増えてくると、どこかで(曖昧な)境界をこえて「別の作品の演奏になる」。でも、そう言うためには「楽譜」が必要って話。
「音楽」と「音楽作品」がいろいろごっちゃになっているから、次のようにわけわかな文になったり、端的に都合の悪い文を省略したりする。「もしもある音楽作品に十全たる記譜が存在しないのなら、そうした音楽との関わりは作品との関わりを意味することにはならない。またそれは、…」→「たぶん、理由は何であれ、適切な記譜が存在しない音楽を扱っているとき、私たちは作品を扱っているのではない。タルティーニのソナタは音楽だが、音楽作品ではない。またそれは、…
「(グッドマンの反対者)に必要なのは、我々が実践において作品と呼び、[グッドマンへの]反証事例として用いる事例はすべて、グッドマン自身による誤った事例として却下可能である、という事実の認識である(112)」→「彼らは、私たちが実践において作品と呼び、反例として役立つように作り出された例示を、グッドマンは常に不当な例示として却下できるのだ、ということを受けいれるように求められている。」「事実」じゃないしグッドマンが誤ったわけでもない。

12
急に訳語が良くなった。訳者が変わったように見えるほどだ。細かい間違いはいくつかあるが大意は分かる。二箇所だけ。「二つの演奏が「同一である」べきという思考」→「一つの作品の二つの演奏は「同じ音がする」べきだという観念」(113)「音楽作品は演奏の一類(a class)であり、そこではすべての適切な法則が遵守されることになる(114)」→「音楽作品とは、適切な規則がすべて守られている演奏のクラスである」。限定用法の関係代名詞だ。
「不適切」な楽譜は「適切」な楽譜に変更可能だ。現代音楽の場合、全く同じ音を各演奏で作り出すことも可能だ。コンピュータは、従来型の不適切な楽譜の適切な記譜をも可能にする。ただし、ここで作品を「構成している符号」はトーンとは限らない。リズム、デュナミーク、音価でもありうる。「音色や音高、調に関する伝統的記述は作家の任意事項となり、音楽作品創作の上での条件ではもはやなくなるのである(原訳)」(114) (「記述」がちょっといやなのと仮定法のニュアンスが出ていないけれど、まあいいか)。


2013年11月23日土曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」(4)



楽譜は、統辞論的要件を満たしているとグッドマンは言う。「実際に書かれた音符note markは、二つの音符・符号note characterのどちらなのか分からないことはあっても、両方だ、ということはない(103)」。統辞論的に分離され識別されている。
「テンポ記号などは記譜的ではなく…それゆえ作品を構成する性質には数えられない」テンポなどによって演奏はずいぶん変わる。それらは「演奏の質に影響するが作品の同一性には影響しない」(104 G185)。(同一性、とは作品が例えば第九かどうか。テンポなどは第九の演奏の質には関わるがそれが第九であるかどうかには関わらない。バーンスタインのもノリントンのも「第九」だ。)
統辞論的な違いと意味論的な同一性を含む場合(増二度=短三度、移調楽器と非移調楽器を両方指示する楽譜など)は?グッドマンは、それらは「明白で部分的な省略や修正」で対応可能とする。楽譜の記譜性を全体として覆さない。
批判者は「明白で部分的」な修正ではだめなので、グッドマンの理論は不充分だと考える。でもグッドマンによれば、彼は楽譜が理論上果たすべき要求を特定しただけ。「何が理論的に可能であり決定的なのか。なにが理論的に妥当でなければならないのか。理論という実験室の外側で楽譜がどのような条件と状況で機能しているのかは彼の関心対象ではない。」彼の関心が一貫した理論的説明であるのに対し、批判者は実践との一致に基づいてグッドマンを判断している。
7は、いくつかの訳語、ニュアンスの違い、そんなに本質的ではない誤訳があるものの、大きな間違いはない。このレベルのミスなら自分が訳してもやるかもしれない。グッドマン・ジフ論争の紹介のパートがこのレベルまで正しく訳されているのなら、これ以上些細な誤訳を言挙げするのはよくない。)

8
音楽作品の同一性を巡る論争では、どんな理論家であれ、ある特徴が作品を構成する特徴だと一般的で固定的な仕方で特定しようとすると危険が生じるのが常だ。この危険は、ある作品にとってどの性質が構成的でどれが偶有的なのかを特定しようとするよりも、永続的な、すべての音楽作品に当てはまる一般的特定を行おうとするときに大きい(105)」。ポール・ジフがタルティーニの「悪魔のトリル」をグッドマンへの反例として用いたときそれは生じた。ジフによると、グッドマンの要求はこの曲の本質的なトリルを偶有的なものにしてしまう。もしそうならグッドマンの理論には問題があるが、果たしてそうなのか
ジフは同一性と質に結びつきがあると考える。ある性質が同一性にとって本質的なら、すべての演奏で示されるべきだし、そのことは作品の質と性格に影響する。ジフは逆も言いたい。「質のために、トリルがタルティーニのソナタのすべての上演で演奏されるべきならば、それは楽譜化されて、ソナタの同一性を構成するものとみなされるべきだ(106)」。これはそう簡単には言えないが、言えたとして、ジフのグッドマン反駁は正しいか?
ジフの反論の力をどんな理由で判断できるのか?グッドマンは、タルティーニは自分の理論に当てはまらないけれど、理論はたいていの場合、標準的な場合に当てはまればOKと言うかも知れない。形式的な理論と実例はうまく合わないものだ。楽譜は「実質的に」記譜的だという主張と両立可能。その場合、グッドマンはなぜタルティーニのソナタが難しいケースなのかを語るなどしてジフの懸念を却けるべき。タルティーニの場合トリルは構成的な性質だと示唆してもよいだろう。でもその判断の根拠はなに?
タルティーニの場合、トリルの符号記号は複雑な音符パターンを簡略化した記号。グッドマンの言う複合符号。18世紀に典型的な、100以上の装飾一つ一つに記譜上のシンボルを割り当てた言語を用いていた。音楽家はそれをオプションとはみなさなかった。「最も重要な装飾で、ないとメロディがとても不完全になる」(Bénige de Bacilly)。「厳密に従うべきもの」(Friedrich Wilhelm Marpurg)。ただし、「どの音符に装飾が与えられるのか、メロディのどこであれこれの装飾が導入されるべきなのか」は「エレガントに演奏するという評判の人物を聴き、その演奏を、既に自分が知っている曲で聴いて」初めて趣味を作り出して同じようにすることが出来る。「すべての可能な場合に当てはまる規則を作り出すことは出来ないからだ」(FWM)。

(8は最初のパラグラフが良くないけれど、あとはほぼ邦訳で分かる)


9は18世紀における装飾音符の記譜の厳密化を歴史的にたどったもので、ほぼ読んで分かる。二箇所だけ、比較的目立つ間違いを指摘。

新種の記譜上の厳密さは、作曲家が決定したまさにそのままのありかたで音楽の同一性を保存したいという新しい欲望から帰結したものだった」(108)

どの音符がどの楽器で演奏されるのかを示したこうした指定は、常に楽譜の中で明瞭にされたわけでも、音楽の同一性にとって常に本質的だと考えられたわけでもなかった。」(109)

10

ジフが重視するような例は、グッドマンの立場からすると「記譜notation」ではない、というだけで、グッドマンの立場を脅かすものではない、という箇所。訳それ自体、というより[]で添えられた訳者の補足が間違っているのが気になる。ここだけ訳書の引用。
「他方グッドマンは、記譜習慣の歴史が指し示すものとは異なり、古楽における多くの楽譜は、彼が言うところの表記基準を満たしてはいな[く、故に作品と呼ぶことは出来な]いとする。最小限の事項のみ書かれている楽譜の本質的問題とは、準拠類において、[異なる作品の本性を巡り]重複が存在する[かもしれない]ことで、それは重大な欠陥と言える。[というのも]人が自身のアイデンティティに脅威を与えることなくして他人と身体部位を共有することが不可能であるのと同様、各楽曲の本性が保持されるためには、楽譜それぞれが詳細な規定機能を持つ必要があるからである。(183)」(110)
「グッドマンなら、楽譜制作の歴史には失礼だけれど、多くの初期の楽譜は彼の記譜への要求に適っていないと言いそうだ。最小限にしか記譜されていない楽譜の基本的な問題は、その従属クラスに重複があることであり、これは重大な欠点だ。個人の同一性に脅威を与えずに身体部分を共有できないのと同様に、作品の同一性が保持されるためには楽譜はユニークな指定を行うものであらねばならない。」グッドマンは楽譜を「作品」と呼ぶことが出来るなどとそもそも考えていないし、異なる楽譜が同じ演奏をその従属クラスのメンバーとすることは、楽譜の意味論的分離性に反している。
グッドマンにとって大事なのは、不充分な楽譜が存在しない、ということではなく、演奏から、充分な楽譜を構成することが出来るような記譜システムが存在するということなので、ジフのように反例を挙げてもそれは真の反例にならない。でもそうした解決は一番良いものなのかとゲーアは問う。

ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」(3)

さて、第六節からはグッドマンの「芸術の諸言語」の話になる。この訳も早く出て欲しいところ。基本的な訳語がいくつかあって確定していない(例えばdenotationが表示か外延指示かとか)のだけれど、グッドマンの『記号主義』と、ジュネットの『芸術の作品』のおかげで、彼の主張の大体は日本語でも分かる。ゲーアの議論は、グッドマンへのジフの批判を紹介しているところに大きな価値があるのかも知れない。ここではあまり訳語にこだわる必要はなく、一貫性と分かりやすさがあればよい。

6
グッドマンの目標は「シンボルの一般的・外延主義的理論であり、そこで、シンボルは「文字、語、テクスト、画像picture、モデルを含む「とても一般的で中立的な」方法だととらえられている」(99)。作品はシンボル体系であり、そう理解することで「楽譜の主要な機能と、演奏が特定の作品の演奏として分類されることが説明される」。彼の作品理論の詳細は哲学上で詳細に提示され議論されているので、ここでは本書の議論に関係のある側面だけを取り上げる。(だから、ノーテーションはグッドマンの広い文脈では「記譜」に限定されないけれど、この論文に関して「記譜」と訳すのは、パフォーマンスを「演奏」と訳すのと同様、便宜的にOK)
ある作品をそれ以外から区別する特徴は、演奏や楽譜とは別に存在する抽象的存在者があるという点にではなく、一つ一つの作品に特別の種類の楽譜があるという点にある。グッドマンはそれを「記譜notationシステムにおけるユニークに指定された符号character」と呼ぶ。「記譜」が特別の役割を果たすのは、「他筆的allographc」な芸術においてだ。「他筆的芸術−典型的には演奏や朗読において例化される芸術−は、自筆的autographic芸術とは違い、『演奏performanceの制作に関わるどのような歴史的情報も結果に影響しえない』(Goodman 118)がゆえに、それが芸術作品のオリジナルのインスタンス(例)なのか偽造されたインスタンスなのかの区別が重要ではない」ような芸術だ。記譜符号に完全に従うときかつそのときに限り、どのように作られようと、インスタンスは本物のインスタンスだ。「『歌や朗読のように作品が一時的であるときや、…制作に多くの人間が必要なとき、時間と人間の制約を超えるために記譜が考案されるかもしれない。このことは、作品を構成する性質と作品にとって偶然的な性質との区別が確立されることを意味する。』」
多くの異なった場で提示される一時的な作品の中心に記譜がある。一人では制作できない作品にとってもそうだ。音楽作品はこの条件を満たすようだが、そのことから、「音楽作品の同一性がこの記譜によって説明されるべきだということが帰結するだろうか。」グッドマンは帰結すると考える。「楽譜に示された音に演奏が従っているのだから、演奏は所与の作品〈の〉演奏として分類される」(G128-9)。
「楽譜に従う演奏クラスとして考えられる音楽とは何か?楽譜は記譜システムで書かれた符号だ。記譜システムはある指示領域と相関する符号からなる。符号はそれぞれ書き込み文字(ないし発話やマーク)だ。記譜システムは、演奏クラスと相関する楽譜(多分唯一の)からなる。作品ごとに、演奏の単一クラスと相関する単一楽譜が存在する。ここで「相関」とは「従う」ということ。従属項が符号・書き込み文字に、演奏が楽譜に従う一方向的な従属関係(楽譜—演奏—楽譜—演奏—…)。
記譜言語を構成するのは原子符号であり、それは結合して複合符号になる。音高符号(音符)は原子符号だ。それ以外は複合符号だ。複合符号の構成要素は互いに結合関係、「結合を支配する規則によって定められた関係」にある。それは音楽だと和声、リズム、和音などの規則。符号の結合には上限はなく、楽譜それ自体が一つの複合符号だ。
「楽譜は、ある作品を構成する特徴をその複合性のすべてにわたって記録するので、作品の同一性を保持している。」それが可能なのは、記譜言語の独特な性質によるといのがグッドマン説。記譜言語であるためには五つの統辞論的・意味論的要求を満足すべき。この要求によって、符号や従属項の内部での、あるいはそれら相互の曖昧さ、重なり、不確定性を排除。
「(1) 統辞論的分離性
 符号は、ふたつ以上の符号に属する書き込み文字がないように、分離していていなければならない。すべての書き込み文字は統辞論的に等価であり、統辞論的帰結なしに置換可能であらねばならない。このことは、ある符号の書き込み文字の間では、各書き込み文字が他のすべての書き込み文字の「レプリカ」である場合に保証される。これらの書き込み文字は、それゆえ、「符号に対して無差別的」である。符号への無差別性は再帰的、シンメトリー的、推移的な関係であって、そのようにされると、この関係によって生み出された部分に、符号に無差別的な書き込み文字のクラスを作り出す。
(2) 統辞論的識別性
 符号は有限に識別されていなければならない。『ふたつの符号KとK'のすべてと、このどちらにも事実上属さないすべてのマーク[書き込み文字]Mに対して、MがKに属さないことか、MがK'に属さないことのどちらかの決定が理論的に可能である。』(G 135-6)(たとえば事実上「i」でも「j」でもないようなマークについて、これが英語のマークならば、iではないかjではないのどちらかを決定できなければならない。ラテン語のマークならば、決定できなくても良い。)
(3) 単一決定
 各符号はある外延をユニークに決定しなければならず、それに属するかどうかはコンテクストを超えて不変である。こうして書き込み文字の曖昧さが禁止される。(G148)
(4) 意味論的分離性
 従属クラスは分離的であらねばならない。従属クラスの交差は禁止される(G150-1)。それゆえ、
(5) 意味論的識別性
 従属項が与えられたとき、それは他のものから充分に区別され、それが当該の符号に従うという決定が可能であらねばならない。」(101-102)
これらの要求を満たしたとき楽譜は主要な理論的機能を果たすとグッドマンは言う。楽譜が記譜的なら、どの楽譜を見てもどの演奏を聴いても作品を同定できる。これらの要求は作品の同一性が楽譜や演奏に保持されているかどうかの決定テスト。ゲーアはそれを「復元テスト」と呼ぶ。楽譜があれば作品と、それゆえその演奏を構成する性質を同定できるし、演奏を聴いて楽譜を復元できる。同定手続きはどちらの方向でも機能する。

5あたりから急に訳が良くなってきた。このレベルならば、何とか読めるかもしれない。少なくともグッドマンを全く分かってない、という感じではない。1−3のあのでたらめさは何なのだろう。

2013年11月22日金曜日

リディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」(2)

リュディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」の要約的紹介の(2)。5節。次の6節からがこの章の中心部で、グッドマンの議論を扱う。

5
これら四つの立場の説明から、分析哲学の理論のあり方についても音楽作品のあり方についてもたくさん外挿できる。「第一に、分析[哲学]が示している基本的な関心は、普遍・タイプ・種によって作品のあり方を記述することだ。」そこには山ほどの形而上学的な問題がある。もう一つの面倒は、「作品が同一性を持ち他から区別されるための条件を決定することだ。何かが音楽作品であるためにはどんな条件を満足させねばならないのか。時間がたってもそれが同じ作品であるのはどのようにしてなのか。一つの作品を別の作品から区別するための条件は何か。」分析哲学者はオッカム主義と還元主義の傾向があるので、「存在論にどこまでコミットするのかが主要な論点だとみなした。音楽作品について語るとき、抽象的存在にコミットする必要はあるのか。
音楽の側からすれば、分析哲学が論じてきたことは、「音楽作品の本性を決定する際に創造性と作曲行為が果たす役割、作曲家による楽器の指定(どの音符がどの楽器で演奏されるか)の果たす役割、演奏と楽譜が相互に、また作品に対して持つ関係」だ。作品概念の中心にある特徴はすぐ分かる。作品とは「単なる任意の音のグループではなく、重要な仕方で作曲者、楽譜、演奏の所定のクラスと関わる複雑な音構造である。」これらが分かって音楽作品という観念がわかる。
哲学的関心と音楽的関心を調停するのが良い理論だ。「例えば創作についての哲学的理解と、作曲するとは何を意味するのかについての理解のバランスをとる」ような理論。「作品概念が実践において持つ役割(と持っていない役割)に敏感な」理論、「作品概念が実践でどのように機能しているのかの記述と両立するような仕方で作品とは何かを説明している」理論。「特定の理論に則して考えることで、説明したい現象の解明が、それもまさに私たちがそれらの現象を説明したいような仕方での解明が可能になるのだ、そのような理論はそう証明するだろう。この見地から、成功した分析哲学的な理論が生み出されたのかどうかを問うことができる。」
そのために本章ではグッドマンを、次章ではレヴィンソンを扱う。二人はそれぞれ独特だが、それでも分析美学の代表的議論だ。グッドマンの唯名論の方がレヴィンソンよりも存在論的なコミットが少ないので、グッドマンから始める。グッドマン理論への様々な批判が提示されると、もっとコミットしたいという[レヴィンソンの]動機が明らかになる。
「グッドマンは、作品の地位と同一性を決定するにあたって楽譜と演奏が中心となるという議論を提供している。レヴィンソンは、作品を創造する上で作曲家が果たす役割を強調している。グッドマンの関心は、音楽作品の様々な特徴がその特定の理論的要求を満たすような、そうした哲学的な理論だ。彼の説明は殆どの理論家にとっては反直観的に思われた。レヴィンソンはもっと前批判的な直観を大事にしている。彼は哲学理論への関心と、私たちの音楽現象へのもっと常識的な理解とのバランスをとろうとしている。私にはどちらもうまく行っていないように見える。この結論のゆえに、そもそも分析哲学の尺度の内部で考える限り、哲学的な理論と音楽実践の間の釣り合いを保つことは可能なのだろうか、という問いが引き出されることになる。私はそれが不可能だと論じることになるだろう。

訳は1-3と比べると良くなっている。四つの立場のうちグッドマンとレヴィンソンしか扱わないのと、レヴィンソンについての議論が次章回しにされ翻訳されていないので、1-5までは結局意味がないのも確か。それで「抄訳にしようか迷った」のか。さて、グッドマンパートの検証はどうしようかなぁ)

2013年11月21日木曜日

リディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」(1)

Twitterでちょっと触れたけれど、福中冬子氏が編集し翻訳している論集「ニュー・ミュージコロジー」には、リュディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」、ピーター・キヴィーの「オーセンティシティ」という、分析美学に位置づけられる二つの議論が翻訳されている。グッドマンの「芸術の諸言語」の訳も、またレヴィンソンの幾つもの著作の訳も未出版な状況で、分析系の音楽美学の議論が翻訳されることは喜ばしい。また、実際、キヴィーに関しては、翻訳で読んでもそんなに難しくはない議論が展開されている。
問題はゲーアの方で、語学的な問題、というよりも、分析美学系の議論の考え方との相性の問題で、とても読みにくいものになっている。この議論は序と16の部分からなるが、考え方としては素直な議論なので、訳に問題がある場合にはそれを修正しながら、紹介してゆきたい。今回は序から4くらいまで。(正直言うと「語学的問題」も大きいとは思う)
方針としては、基本的に自分でまとめ、訳すが、福中訳が誤解を招く間違いを含有している箇所は私が訂正した訳青字で表記し、私のコメントはで表示、元訳は原則として示さない(ひどい間違いをいちいち示して晒し者にはしない)。ページ表記はページが変わったところで。(11/21方針修正)


序は、「音楽作品」とは何か、という問題設定を示す。ゲーアは「音楽は作品のうちに例示されている考えは、自明というにはほど遠い」(邦訳89に対応。以下同様。青字や字消しは修正したところ)というダールハウスの発言に同意し、次のように述べる。「音楽実践は〈作品概念〉により規定されうるが、それは必然ではない」。それは歴史によるし、偶然だ。偶然だということはしかしそれがすぐなくなるということを意味しない。概念は実践に浸食しまるで必然のような雰囲気と魅力をもつからだ。今日、作品概念と結びつけずに音楽、とくにクラシックについて考えることは出来ないほどだ。でも、ゲーアによると、「「芸術」音楽の伝統の歴史の大部分で、音楽は作品概念と結びつけて考えられてはこなかった」(90)。

本書(『音楽作品の想像的博物館』)は、作品概念が成立した時期に関わるものだが、前段落の最後の言明は、本書の中心にある主張に直結する。この言明の含意は大きいが、そう分かるのは証拠がすべて提示されてからのことだ。」証拠は広範囲に及ぶ。「音楽の意味と美学理論についての歴史的記述、音楽実践の変容をもたらした様々な変化から、社会学的な記述、概念が実践を生み出すあり方についての存在論的な記述」にまで及ぶ。ゲーアはまず「狭義の哲学的問題、とりわけ音楽作品の存在論的地位を記述しようとする分析哲学者の試み」(えっとここの元訳ひどい。この章で言われるanalyticalはすべて分析哲学ないし分析美学のことだけれど、それが分かっていないような感じ)を取り上げる。

1
音楽作品の分析的理論はいったい何を扱っているのか?」ゲーアは四つの基本的な立場を区別する。「本章ではこれからその四つの立場とその代表的な主張者を簡単に紹介し、分析的な理論がどういうことを行っているのか、読者に試食をしていただこう。」
第一はプラトニズムだ。プラトニズムのある立場だと、「音楽作品は、常識とは異なり、音の構造によって構成される普遍であり、おそらくは自然種ですらある。」(「普遍universal」とは「個別particular」に対応する名詞で、「赤」や「蛇」「車」など、ゼロないし一つないし複数の「赤いもの」や「へびさん」や「うちのプリウス」などをそれに対応する個別として持つ。自然種とは普遍の一部で人工的ではない種。)「それらは時空的性質を欠きいつとかどことか言えず)、永遠に存続する。」作曲前も忘却された後も存在している。演奏されなくても複写楽譜が作られなくても存在している。「作曲するとは種を創造することであるよりもむしろ種を発見することである。」(91)
ウォルターストーフが、もっと洗練されているけれど、この種の見解を支持する。「彼は、芸術作品を、音構造として理解される、創作されない自然種だとみなしている。」だから、「当該の音構造が例化されることはいつも可能だった」(例化とは、ある普遍の実例を与えること。訳語も決まっている。第九は、ベートーヴェンが初めて例化したのだけれど、別にモーツァルト作でもよかったし、原始時代につくられててもよかった。無意識がフロイト前からあったのと同じ)「作曲者はそうした構造を発見することで作品を作る。彼らは正しい演奏のための条件を決定することで発見した構造を自分の作品にする。この見解では、作品は創造されない自然種であるばかりではなく、規範種でもある。というのもそれらは適切に形作られた実例と不適切に形作られた実例の両方を持ちうるからだ
プラトニズムを特徴付ける別の方法もある。上演や楽譜と無関係という点では最初のと変わらないが、「作品が創造されるという理由でそれを準プラトン的な実体とみなしている点で異なる。」(この箇所は訳も特に間違いではない)。「演奏において例化されるので、作品はプラトン的な地位を保持している。」時空に制約され、作曲行為に依存し、普遍を例化する特殊(上演や楽譜)に依存している。
レヴィンソンの修正プラトン主義では、「作品は構造タイプないし種でありそのトークンは個々の具体的演奏である。」それは独特の構造タイプだ。つまり「開始されたタイプ」なのだ。(この箇所の訳は、指摘するのも可哀想なほどひどい。)レヴィンソンによれば、作品とは音構造であり演奏手段構造であるが、加えて、それは、特定の歴史的コンテクストの中で特定の作曲家によって特定の時に作られた、ということによっても同定される。
プラトン主義の見解では、作品は自立した種であり、修正プラトン主義の見解では、作品は依存的な種だ」(92)。依存的な種は、存在を得るために人間の意図的な行為を要求し、存在を続けるために演奏やスコアを要求する。しかし作品ひとつひとつが異なった存在者であることに変わりはない。それぞれ異なった存在者であることは超越した存在であるとか、上演や楽譜に尽くされない存在であるとかいうのと同じではない。「作品それぞれが区別されることが抽象的ないし具体的な実体そのものとしての作品を特徴付けるし、依存性は、上演や楽譜と作品の関係を特徴付ける。
(北野まとめ。)プラトン主義的な作品観は、作品を音の構造として理解する。構造はタイプなので、永遠的な存在で作曲者が作曲しなくても存在する。作曲は「発見」で演奏はその「例化」だ。これはまずいと考える修正プラトン主義では、作品は「開始されたタイプ」であり、音構造+演奏手段構造+特定の時期に特定の作者が特定の文脈で作ったこと、によって同定されるタイプだ。演奏がそのトークン。(タイプとトークンって何のこと?はググれ。)


アリストテレス主義。「作品は、演奏とその楽譜のうちに示されている本質(典型的には音構造)である」(94訳を少し変えた)。「いろんな演奏で例示される音パターン」である限りで抽象的だが、独自の実体ではなく他のものに属し含まれる「本質的構造ないしパターン」。「作品の実体性がどんなものであれ、それは演奏の実体性によって尽くされる」。プラトンのイデア論形相論でも良いけどさ、「形象論」はないと思う)へのアリストテレスの批判が両者の違いを説明するだろう。プラトンでは、物質世界の外に何かものがあって、それは消滅しないという点以外では感覚的なものと同じだ、ということになるけれどそれは奇妙だ。ひとそれ自体とか健康それ自体とかがあって、それらは「それ自体」以外に限定されないのだもの。永遠のひとと言っているだけ。(とアリストテレスは言う)
アリストテレスは、本質が、「本質を具体化する具体物という一次的な存在から派生する二次的な存在を持っている」(93)と述べる。とすると、様々な作品は「パフォーマンスや楽譜のうちに複数的に実現された諸本質であるという理由でだけ、二次的な意味で、互いに異なる」というべきかも。そんな言い方をすれば、「本質は、おそらく実現されず実体化されない潜性態として、二次的な意味で独立に存在する」という意見もOKになるだろう。
このアリストテレス派がケンダル・ウォルトン。作品とは「すべての演奏のそれぞれにおいて提示される音パターン」(訳はパターンを「反復類型」ってしてるけど、時間的な繰り返しをここでの「パターン」は含意も排除もしていない。頑固に「複写楽譜」と訳されるスコア=コピーが「複写」を含意も排除もしていないのと同様。)作品は「特定の対象でも出来事」でもなく、演奏が「合っていたり合っていなかったりするような何か」だと言う。作品とは「楽譜が認知し特定する音と楽器の規定の階層化された構造パターン引くことの(マイナス)、『良い演奏のために楽譜に含まれるアドヴァイス』だ。」作品とは、「演奏が正しいあるいは欠点のない演奏であるために示さねばならない音性質のパターン」だ。とすると作品はレシピのように規範的ないし処方的だ。
(北野まとめ)アリストテレス的な(事物に潜在的に存在する)本質概念を用いて作品を説明するのがウォルトンで、作品とは「演奏一つ一つのうちに提示されている音のパターン」であり、それは規範的で演奏が正しい演奏であるためには、演奏は、その音性質のパターンを示さねばならない。


「作品」について考える第三の方法は「抽象的な存在」をどんな形でも認めないこと。存在するのは具体的な演奏と楽譜だけ。「作品について語るとは、作品が存在するかのように語ること」(94)でしかない。「作品とは「作品の演奏」の外延的に定義されたクラス(集合の意味)に他ならない。」「作品の演奏」っていうと演奏される作品があるみたいだけれど、これは「の演奏」がついて初めて存在する属性だ。「作品の演奏」はあっても「作品」はない。(「おろち」と「やまたのおろち」がいても、「やまた」がいないような。)演奏は、演奏が例化している抽象的パターン(つまり「作品」)に応じて分類されるのではなく、演奏同士で、あるいは楽譜との関係の適切さに応じて分類される。生物学的(ないし法的)に一定の関係を有するメンバーが同じ姓を持つのと同様に、作品も、一定の個別のクラス「平均律」のありとあらゆる演奏を指示する便利な言語的なアイテム「平均律」に過ぎない。これが唯名論的見解。作品と演奏との「垂直な」、「抽象とその具体的実現」の関係からは離れ、さまざまな演奏や楽譜の「水平の」関係について考えることになる。
作品を「タイプ」と呼ぶ、あるいはより注意深く、「作品名」をタイプと呼ぶ理論家たちもどことなく似た見解をとっている。「音楽作品名とその演奏の関係はタイプとトークンの関係と同じだ。トークンがタイプとの関係で同定されるのであっても、タイプは言葉の上で存在するだけなのだ。タイプを創造する際、作曲家は『タイプのトークン』を創造しているか、あるいは『タイプのトークン』を作る方法、つまり楽譜を創造しているだけだ。」(作曲家が「複写楽譜」を作るって訳したとき変だと思わないと…)
マゴーリスがほぼこの見解(昆虫亀の人にマーゴリスではなくマゴーリスだと教えて貰った)。「しかし彼は厳格な唯名論からは離れる。タイプを「抽象的個別」とみなしているからだ」(95)。本人は否定するが、マゴーリスは修正プラトン主義に近い。「抽象的個別が抽象的なのは例化されうるからであり、個別なのは、創造されるという点で普遍ではないからだ。」(普遍は生成消滅しないので)「作品は物理的な対象のうちに実体化embodiedされるがそれと同一ではない。」(マゴーリスのembodimentの訳語には自信がないなぁ。ステッカーの森訳では「具現」か。)。「実体化の「である」は同一性の「である」とは異なる、と彼は論じる」(ここはDantoの芸術的述定の「である」は同一性の「である」ではないという議論を知らないと訳しにくいか)。前者は、「文化的な個別(particular)について私たちが語るのを簡単にするために、文化的な文脈の中に持ち込まれている。」作品タイプとは、「文化的に出現する存在者である。ここで出現というのは特定の文化空間内部で個別の対象のうちに実体化されているという意味だ」。
グッドマンはさらに唯名論にコミットしている。彼の提案では、作品とは、楽譜に完全に従った上演のクラスだ。彼の理論は、作品と呼ばれる別個の、あるいは抽象的な実体へのそれ以上のコミットを含まない。クラスという概念にコミットしているから完全に唯名論的だ、ということにはならない。クラスは抽象的存在者だからだ。「でも、グッドマンは、自分がクラスという言葉を使うのは便宜上のことであり、自分の理論の本質は真に唯名論的だと主張している。」
(北野まとめ) 唯名論的作品概念は、「抽象」を一切拒絶。「作品の演奏」の存在は「作品」の存在を含意しない。作品は、同じ名前で呼ばれる様々な演奏のクラスを指示する便宜上の産物。「作品名」はタイプだと考える。作曲家は、「タイプのトークン」あるいは「タイプのトークンの製造法」を創作している。ある上演について、「これは第九である」と言うとき、この「である」は「実体化の〈である〉」であって、「同一性の〈である〉」ではない。目の前で起きている演奏という物理的な対象のうちに実体化(文化的に出現)しているものとして「第九」をとらえている。作品とは楽譜に適った上演のクラスへの便宜的符丁とみなすグッドマンも唯名論的。


クローチェとコリングウッド。彼らは分析理論をしていない。それでも「観念論的」見解を外挿可能。「作品はそこでは作曲者の心の中に形成される観念と同一視される」(96)。これらの観念は、(心の中に)形成されたら、楽譜や演奏のうちに、客体化された表現を見いだしうるし、公的にアクセス可能になる。作品≠客体化された表現。作品=観念。
コリングウッドによると、作曲家が歌って作ろうが、楽譜に書こうがそれはどうでもいい。「実際の曲作りは他の場所ではなくかれの頭の中でだけ起きている何かなのだ」それは「想像上の曲imagenary tune」。曲作りとは想像上の曲作りで、それが創造だ。この想像上のものを伝えたり思い出したりするために曲を紙に書くなら、それは創造ではなく加工だ。「曲は想像経験の文脈の内部にだけ存在する」。そうした経験にあっては、曲は聞こえたりしない。想像されるだけ。「但し、曲とはこれらの想像上の音に過ぎないというのは間違っているだろう。曲とは、むしろ、これらの音を想像し、理解し、意識するようになる全行為の経験全体のことなのだ」。
観念論は分析の伝統では上手く受容されてこなかった。「想像的・美的経験の内部に作品を同定しようという考えは、求められていた存在論的な理論とは全くあわないと判断されてきた。」想像経験全体=心的実体(観念)ってのもまずい。「何であれ、心の中に存在するなにかと作品を同一視することはとても不充分な戦略だとみなされてきたのだ」(97)。

(北野まとめ)コリングウッド流の「観念論」は作品=想像的経験=心の中にある何か=観念、とみなすが、これは分析美学の伝統ではあまり受けいれられてこなかった。(コリングウッドになって急に間違いが減った。分析哲学との相性がこの結果につながったことが窺える。)

解題を読んで驚いた。訳者、アメリカでゲーアのゼミに参加してるんだ。こんだけ分かってなくてゼミに出るのは大変だったろうなぁ……解題で「ジェロルド・レヴィンスンを巡る議論はたとえば、レヴィンスンの議論に少しでも通じている読者には多少違和感を持って読まれるのではないだろうか」(129)と書いてあるけれど、レヴィンソンの議論に少しでも通じている人が、彼のinitiated typeを「潜在型」と訳し「潜在」に「〈=明瞭なる特徴付けがなされていない〉」と注記できるのだろうか?なんかいろいろ信じがたい。

著者名をゲールってしてたのを訳書にあわせてゲーアに修正。

2013年11月15日金曜日

今年のいろいろベストon 15/11/2013

年末になったらまた考えるとして、
今年観た演劇系ベスト4
(1) ザ・スーツ (2) レミング (3) 熱帯のアンナ (4) 黄金の馬車
(FTを見るのでまた変わるかも知れない。MIWAを見られなかったのが残念)

今年読んだミステリベスト3
(1) 冬のフロスト (2) われらが背きし者 (3) かかし
本当は(1)フロスト(2)フロスト(3)フロスト。
(3)の「かかし」はコナリーにしては少し弱い。ボッシュじゃないし。
レヘインもミステリ的な面白さじゃないし。
ドイツ系に面白いのが多かった。「白雪姫には死んでもらう」とか。

今年観た映画のベスト3
(1) ジャンゴ (2) ハンナ・アレント (3) 天使の分け前
ヴィック・ムニーズがかなり良かったけど、映画として良かったのかと言われると…
スター・トレックが、 せっかくのカンバーバッチなのに…
感動系を観てない。来年の一番の楽しみは「マチェーテ・キルズ」。

今年買った音楽
でiTunes探ってみて、今年殆どアルバムを買っていないのに気づく。去年はマッケラスを一生懸命買っていた。それを含め、最近ピリオド系しか買いたくない感じ。
キアロスクーロ四重奏団のベートーヴェン。

今年行ったコンサート
ウォーターズとリセウの蝶々夫人しか行ってない。

「起て、飢えたる者よ」劇評@ワンダーランド

小劇場レビューメルマガとウェブサイトの「ワンダーランド」に、劇団チョコレートケーキ「起て、飢えたる者よ」の劇評を書きました。
直リンで
http://www.wonderlands.jp/archives/24646/
編集者とのちょっとしたご縁(同級生)で書かせていただきました。2000字以上で、他の人が読むこと前提に書いたのは初めてかも知れない。

ご縁が続くと良いのですが…