2014年1月21日火曜日

iPad mini retinaで読書

と言っても、基本的にiPadとそんなに変わるわけがない。洋書をPDFにしてハイライトしてノートとりながら読む(iPadでノートとるのは面倒くさいので、iPadはハイライト専用、DropBoxで同期して、ノートとるときはMacで編集)。わたしの人生はDropBoxに全面依存だ。
iPadがあるのになぜiPad mini Retina(以下ミニ)を買おうと思ったのか(今年度の研究費のかなりの部分がこれに喰われた)、というと、長時間読んでいるのにはiPadは大きく重く、何となく開くのが面倒になるからだ。ミニの方が軽いし、今iPadで縦置きで本を読んでいるのだけれど、画面の下の方あまり見ていないのに気づいたからだ。ミニの縦の長さはiPadの横幅より大きいので、横置きにすれば、文字も今より大きくして読むことが出来る。
で、乗り換えて(前のもあるけれど)驚いた。レチーナディスプレイの精密さのおかげで、たてのままでもほぼ苦労なく読める。ハイライトを引く便利さは、かえってレチーナの方が良い(線を引くのに一旦本体から手を離す必要がない)。
問題は、本体をどうやって持つのか?だ。端っこを持つのは何時間もの読書を考えると落としそうで嫌だ。裏からがばっと持つのは指がつりそうで嫌だ。
というかこの問題はiPadのときにさんざん悩んで試行錯誤済みで、答えは最初から分かっている。裏にストラップかハンドルをつけるしかない。
常識的にはミニにハードケースをつけ、ハードケースにハンドルをつける、ないしハンドル付きのハードケースを買う、だけれど、ミニの厚さと重さが増えるのが嫌だ。ストラップだとその悩みは解消するのだけれど、引っかけるところが何か(イヤホンの穴、スイッチ、ボリューム、カメラなど)と干渉する。iPadの場合はカメラ使わないとか割り切ってストラップにしてたけれど(Heloのハンドル付きストラップ、TKOSolutionのX-Band、PadStrapの三種を使い分けていた)、Heloのハンドル付きストラップの場合ハンドルが本体の中央に来てしまって、それはかえって使い勝手が悪い。ハンドルが中央なので表側の指の位置も中央より少し上になって、ソフトキーボードのポップアップ位置と合わない。単なるストラップだと指を差し込む場所を上下にずらせるのだけれど、中央でないとややホールド感が弱い(両手でホールドできるX-Bandがこの点ではかなりまし)。最終的には最初に買ったX-Bandに戻ってしまった。でも両手をストラップに差し込むってのもハイライト時に少し不便だ(いちいち指を抜いてハイライトする)。
ここまであらかじめ悩んでいるので、答えは一つしかない。裏面のどこにでもハンドルをつけることができる製品、だ。
どんぴしゃなのがe-handleっての
http://www.amazon.com/dp/B0073GE9FG
Amazonの商品画面ではいまいちどんなものか分からないけれど、
接着剤を塗ったマジックテープを台にして、回転式のソフトハンドルをつけたものだ。
台を貼り付けたミニの裏面と取りつけるまえの回転式のソフトハンドルはこんな感じだ。
テープを貼り付ける
ソフトハンドル
合体
ハンドルを装着した
リンゴマークが完全に隠れてしまうので、デザインの美しさは損なわれるし、ハンドルをつけたままだとかさばるのがかなり難。外せば普通のスリーブにおさまるけれど、つけたままでも8インチタブレット用のスリーブなら入るような気がする。Kindle Fire HD用のスリーブ、例えば http://www.amazon.co.jp/dp/B00B5PJ19U はたぶん大丈夫だ。(風呂蓋つけて、ハードケースつけて、後述のBunker Ringつけて大丈夫みたいだから。わたしは革製のは嫌いなのでもっとぺらっとした安いのを買った。450円くらいの8インチタブレット用スリーブでちょっと膨らむけど入った。
スリーブに入れたところ
どこにでもつけられる回転ハンドルは魅力的で、実際三日ほど使用してとても満足しているのだけれど、マジックテープが接着剤でミニの背面にへばりついているのは見苦しい。それが気になる場合には、ストラップか、ストラップつきハンドル、ケース付きハンドルが良いように思う。
例えば、
DuraGadgetの Soft Grip Handle Caseなんかがそんな製品だ。特にLapWorksのはカスタマーレビューがとても良い。
単なるシリコンのストラップなんだけれど、Padlette D2も単純で心惹かれる。ただしこれは日本発送していない。
日本で、それに類した商品はないのかしら、と思って少し探してみたのだけれど、ケースにハンドルがついているのはいくつかあるけれど、重くなるし、マイク穴を塞ぎそうであまり気乗りがしない。e-handleにやや近似的な商品としてはBunker Ring3がある。これは指を金属のリングに引っかける。薄いし、スタンドにもなるらしいのは良いのだけれど、指を痛める原因になりそうなのがこわい。

追記:台になるマジックテープは、写真よりももう少し下に貼った方が、入力用ソフトキーボードとの高さの関係を考えると吉。ここだけちょっと失敗。


2014年1月14日火曜日

ブログの始め方(M先生に)

西洋比較演劇研究会に久しぶりに出席したら、大御所のM先生がブログを始めたいとおっしゃっていた。主な目的は、自分の論文をいちいち紙媒体で発表するのではなく、ネットに直接掲示することだと伺った。
先生の目的からして、広告が出ないのが良いだろうし、また、設定が面倒くさくないのが良いだろうと考えると、Bloggerが最適解だろうと思った。自分のときもそれでBloggerに決めたのだし。Bloggerの始め方は、Bloggerのサイトにあるのだけれど、先生向けに特化してもう少し細かく始め方を書こうと思う。以下先生に宛てた文章として書いたので丁寧語。

1) Googleアカウントをとる。

https://mail.google.com/intl/ja/mail/help/about.html へ行って右上の「アカウントを作成」をクリック。図(1)のようなページが現れるので、アカウントを作成する。ブログの目的からしてずっと本名で通すことを前提にします。ユーザ名がすでに登録されていたら、適切な他の名前を付け加える(先生の場合なら自分の本名にnolaとか+してユーザ名にするとか)。パスワードを自分にとっては覚えやすく他人からは推測されない八文字以上のもので、なおかつ他のサイトのパスワードと違うものにすることがとても大事です。次へ、をクリックすると、携帯メールアドレスの登録をする必要があるので、登録をして携帯メールでアカウント利用のためのコードを受け取る。その次のページあたりでコードを入力してアカウントの利用を開始するはずです。
図(1) Googleアカウント登録画面
ともあれ、Gメールのアドレスを取得できたらグーグルアカウントがとれたと言うことですので、あとはとれてからのステップに移ります。アカウント設定に際してプロフィールの設定があると思いますが、このプロフィールは作られたブログの右横に表示されますので、先生が誰なのかについて読者に伝えたい内容を書きます。プロフィールの設定なしでアカウントをとった場合には、https://www.google.com/settings/personalinfo からいつでも編集できます。

2) Bloggerのブログを始める。

www.blogger.com/home へ行って、もしまだログイン状態になってなかったらログインします。そうするとBloggerダッシュボードってページが出て、「新しいブログを作成」のボタンが現れる筈ですので、それを押します。図(2)のような新しいブログを作成するポップアップが出ますので、ブログ(全体)のタイトルとアドレスを入力します。これは自由にお考え下さい。ブログのデザインなどは、後で考えることにして、今は「シンプル」を選び、「ブログを作成」ボタンをクリック。例えば図(2)では私は「M先生用テスト」というタイトルのブログを作る、ということにしています。これはブログ全体のタイトルおよび先生のブログに読者がアクセスする場合のアドレスになりますので、どちらも考えて分かりやすい物にされると良いでしょう。
図(2) 新しいブログを作成場面
で、「ダッシュボード」に自動的に戻り、ブログ一覧の中に私の例で言うと「M先生用テスト」が現れますので、その「ブログを開始する」をクリックすると、もう「投稿作成」ページが現れます。それでタイトルを記入して中身を書いていけばもうブログのできあがりです。簡単な画面装飾もできますし、見出し、小見出しなどもつけることが出来ます。写真の挿入もリンクも自由です。例えば書いている途中のこの投稿の編集場面は図(3)みたいな感じです。
図(3)投稿編集画面

先生の場合、主たる目的が論文やエッセイの公開にあるのですから、右側の「ラベル」が大事です。これは自分で自由に設定することが出来るので、例えば「論文」「劇評」などと分けると良いと思います。あるいは一つの論文を複数の投稿で公開される場合、論文タイトルをラベルにしても良いかもしれません。
また、右側の「オプション」で閲覧者のコメントを許可するかどうかを個別に決めることが出来ます。出来上がったら「プレビュー」で見て「公開」で公開すれば終わりです。新しい投稿をする場合には先ほどの「ダッシュボード」のページから鉛筆のマークをクリックします。

ブログの基本的な設定をする。

さて、以上の手順で作ったブログの見かけは図(4)みたいな感じです。(自己紹介欄だけ私のプロフィールになっていますが)。
図(4)出来たブログの見かけ
さて、これではどんなブログかトップページでは分からないので、設定でブログの説明を書きます。ダッシュボードから自分のブログのタイトルをクリックすると図(5)の「概要」画面に移ります。
図(5)概要画面
この中で大切なのは左一番下の「設定」の項目です。それをクリックすると下に項目が開くので、まず「基本」で「ブログの説明」のところを編集して、先生のブログの説明を書きます。この説明は基本的にブログタイトルの直下に現れます。このへんいつでも直せるのでとりあえず考えることを書いて下されば結構です(図(6))。
図(6)基本の設定

次に同様に「設定」下に開かれた「投稿とコメント」をクリックして「コメント」を承認するかどうかを決めます。迷惑コメントを避けるのならコメント不可にするのが確実でしょうし、議論したいというのであれば、Googleアカウントのユーザのコメントだけを許可する設定にすれば良いと思います。たいていの人はGoogleアカウントをお持ちでしょうから。私のようなマイナーなブログには、コメント来たことがないですけれど。「設定」の上の「テンプレート」を開けばブログの基本的なデザインをいろいろと変更できます。これはある程度慣れてから手をつければ良いと思います。とても大事なことは、自分が編集するときにアクセスするアドレス(基本的にはblogger.com/home)と公開されるアドレス(****.blogspot.com)とは異なっていますので、他の人にブログを教えられる場合には、後者の方を提示する必要がある、という点です。

ワードやPDFの論文をリンクする。

先生のご希望は自分が書く論文をブログなどで公開することだったと思いますが、その場合、論文そのものはBloggerに直書きするのではなく、ワードとかで作ると思いますので、それをどのようにブログに載せるかが問題になります。注の処理を気にしないならば、ワードで作ったものをコピーペーストでブログに貼れば良いのですけれど、そのとき書式がそのまま保たれる保証はあまりありません。たぶん崩れると思います。
それを避けるには
(1) ワードやPDFのファイルは別にアップロードしてそれへのリンクを貼り、ブログ上では簡単な説明に留める。
(2) ブログ上でワードやPDFがそのまま読めるような仕方で貼り付ける。
どちらも可能ですが、後者は結構面倒です。とりあえずは(1)の方法をお薦めします。その場合、自分の論文をアップロードする場所が必要になります。そうしたものとして無料でパソコンにインストール出来て5GBの容量があり、公開も簡単なDropBoxというサービスをお薦めします。

DropBoxというサービス(クラウドサービスと呼ばれるものの一つ)は、登録してソフトをインストールすると、自分のパソコンにDropBoxのフォルダが作られ、そのフォルダの中にあるファイルは自動的にインターネット上に保存され、同期されるというもので、その中でにあるPublicというフォルダに仕舞ったファイルは、自動的に誰でもダウンロード出来るように公開されている、という仕組みです。インストールも簡単ですし、ネットでつながっている限り、書き換えたファイルは直ちにネット上にも保存されます。注意点としては、Publicフォルダにまだ公開するつもりのない未完成のファイルを置かないことくらいです。Publicフォルダに入れたファイルを右クリックすると「公開リンクをコピー」という項目が現れますので、それをブログに貼り付けます。貼り付けるには、そのファイルをリンクしたい文ないし単語(たとえば「こんな論文を書きました」という文を選択した状態で、Blogger画面の上にある「リンク」をクリックすれば図(7)のような画面がポップアップしてきますので、「リンク先のURLを指定して下さい」という枠内に、コピーした「公開リンク」をペーストすればできあがりです。
図(7) リンクを編集する画面

書いた論文は、Googleなんかでも検索されますし、また、学会などで「会員サイト」などのリンクを作るのも一つの考えとしてあるかも知れません。

それでは、良きブログ生活をお楽しみ下さいますように。






2014年1月4日土曜日

浙江京劇団「オイディプス王」劇評@ワンダーランド

こちらに書くのを忘れていた。
小劇場レビューサイト&メールマガジンの「ワンダーランド」に去年11月に観た浙江京劇団の「オイディプス王」の劇評を掲載していただいた。
タイトルはそのまんまだし、文章はちょっとだらだらしたけれど、掲載いただいて感謝。シェクナーの京劇版「オレステイア」のヴィデオへのリンクもあるのがお得な劇評です(読んでもらいたいのでこちらにはリンク載せない)。

2014年1月3日金曜日

ネットのクラシック音楽

ほとんどCDを買わなくなった。CDを買ってもスピーカーで聴くことがなくなり、iPhoneかiPodに入れて聞いているので、音源をモノで持っている意味がよく分からない(スピーカーで聴くと何となく音質が違うような気はするのだけれど)。一番大きな要素は値段の違いだけれど。

クラシックの場合、常にiTunes Storeにあるとは限らないし、圧縮音源とは言え出来るだけ良い音で聞きたいしで、いくつかのサイトで買っている。今の視聴環境は音源の善し悪しなどあまり分からないけれど、いつか高級ヘッドホンを買うかもしれないし…
iTunes Storeだと大体一枚9.99ドル(参考価格:実際に買うにはアメリカに住所が必要だし、アメリカで決済できるカードがなければeBayでiTunes Giftcardを買わねばならないので一割近く高くなる)、日本のiTunesだと1500円が標準かしら。

www.classicsonline.comも大体同価格帯で、商品によってiTunesより高かったり安かったりする。320kbpsのMP3なので、同価格の場合にはこちらの方が良い。ここは、一部の商品だけ日本には売れない、って言われるけれどほとんどの場合大丈夫だ。

今日、新年だしマッケラス指揮のドヴォルザークの「新世界」でも買おうと思って、いろいろ見てたけれど、http://xw.7digital.comってところで、プラハ交響楽団との「新世界」を含む六枚組のアルバム( Life with Czech Music)が10.99ドルで売っているのを発見。変なサイトではないのかと疑ったが、iPhone用ソフトを出しているところだし、まあ詐欺サイトではなさそうだと判断して購入した。iTunes Storeだと29.99(4500円)ドルだ。320kpbsのAACなので、iTunes Storeよりも音質は良い筈。

このサイトはもともとイギリスのなので、マッケラスの演奏がとても多いのも魅力的だ。また、ほとんどの音源が、組み物も含めて上限10.99ドルで買えるので、一所懸命探せばお買い得は他にもありそうだ。

「新世界」はこれで、ダウスゴー、ノリントン、マッケラス、マーツァル、マゼール、バーンスタインを持っているのか。ピリオド志向だ(マッケラスもビブラートは使うけれど基本的にはピリオドの人、というかイギリスのピリオドのパイオニアの一人で、指揮台にストップウォッチを持ち込んでいた)。

日本とヨーロッパでは(いくつか例外があるけれど)レコードの著作隣接権保護が演奏後50年なので、そろそろステレオの結構音質の良いのがパブリック・ドメインで出てくるようになる(永井幸輔弁護士の解説がこちら)。レコード産業は、クラシックに関しては、ピリオドにしないと生き延びられないだろうなぁ(法律が変わって70年とか100年になるとまた話は変わってくるだろうけれど)。まあ、たとえフリーでないにしても、音質がとても上がったのが実感できるということでもない限り、クラシックのレコードは過去のレコードとの敵がどんどん多くなる戦いを生き延びないと行けない。一つ一つを安くしてカジュアルに買えるようにする(HJ Limのベートーヴェンピアノソナタ全曲9.99ドルみたいな)、これまでになかった響き(ピリオド演奏、マーラー版のベートーヴェン第九、ブルックナーの改定版演奏など)を追求する。あまり知られなかった作曲家や作品を出す。カジュアルに出すようにする(演奏会の「記録」としてレコードをサクッと出す)のが良いのだろうなぁ(デュダメルのレコードやコンセルトヘボウの配信なんかそんな感じ)。名盤・決定盤を何度も聞くよりも面白そうな新しい演奏をダウンロードして聴くってなって行くと、クラシックも敷居が低くなって親しみやすくなるかもしれない。

追記1:7digitalの価格、やっぱり安すぎるのがある。ブロムシュテットやインマゼールのシューベルト交響曲全集もクリヴィヌのベートーヴェン交響曲全集もゲルギエフLSOのマーラー全集も9.99ドルだ。組み物狙いだなぁ。

追記2:調子に乗ってミンコフスキーのハイドン『ロンドン』交響曲集を買ったらダウンロード出来なかった。いまクレーム中。お返事くれるといいなぁ。これ、iTunesだと15.99ドルで結構安い。classicsonline.comだと39ドルくらいする。←これは結局ダウンロード出来ないと言うことでrefundされた。たぶん値段設定がいい加減だったのだろう。上記のゲルギエフのマーラーも買おうかと思っていたが、これも出来ない可能性があるか。

追記3:あと去年はHyperion recordsでもダウンロードで買った。何を買ったのか覚えていないのだけれど…。

2013年12月28日土曜日

Mac版Word2011で傍点をつける(備忘)

Mac版のMicrosoft Word 2011で傍点をつけるショートカットの作成。
上のメニューのツールから「ショートカットキーのユーザー設定」を選ぶ。
・の傍点だと「分類」→「すべてのコマンド」から「コマンド」DotAccentを選ぶ。
、の傍点だと、同様にCommaAccentを選ぶ。
適当にショートカットキーを設定。(私は、シフト+リンゴ+D、もともと二重下線のショートカットキーだったみたい。二重下線使わないし…)

リンゴ+Dから
ショートカットキーの設定
いちいち、選択して「書式」から「フォント」を選んで(あるいはリンゴ+Dで)傍点を設定ってのより数等楽。ショートカットキーを押してから文字入力をすると、その文字に傍点がつく。同じショートカットキーで解除。

2013年12月13日金曜日

低品質のPDFをきれいにする(欧文の場合)

持っている洋書をほぼ自炊しPDF化したのだけれど(三年がかりくらい)、初めの頃は、「重いのは嫌だ」と考え、最終的に解像度を落としてOCRしたので、結構文字がギザギザのファイルで我慢していた。実際iPadやパソコンで読んでいると気になるし頭が痛い。この頃はFineReader Proを使っていて、この場合画像の下のレイヤーにテキストを埋め込むので、文字がベクトルデータになっておらず、ギザギザは直らない。おまけに、ノートやハイライトをたくさん入れていたりして、どうしようかと悩んでいた(印刷してからスキャンしなおすにもハイライトが邪魔だし、まあ面倒くさすぎる)。再OCRかけるにも本はもう裁断しているし…。
で、次の順序で解決。Adobe AcrobatとFineReader Proの両方を使う。
(1) Acrobatの「ツール」→「保護」→「すべての非表示情報を削除」を使って、ノートやハイライトをすべて削除して新規保存。
(2) (1)で出来たPDFファイルをFineReader Proで読み込み、テキスト認識させた上で、画像のみのPDFとして書き出す。
(3) (2)で出来たPDFファイルをAcrobatの「テキスト認識」を使ってクリアスキャンで認識する。
本当は(1)で出来たファイルは画像のみのPDFファイルになっていて、(2)のプロセスは不要なはずなのだけれど、なぜか(1)からすぐに(3)に移ろうとすると、「このPDFにはすでにテキストが含まれており、純粋な画像ファイルではありません」と言われ出来ないので、別のソフトで純粋な画像PDFにする必要がある。ノートやハイライトのないPDFなら、(1)の作業は省略して二手間だけ。テキスト認識したPDFでも普通にFineReaderで読み込める。FineReader Proには、スキャンした書類を保存するときに「ページ画像のみ」という謎のオプションがあるので便利だ。なぜか一旦テキスト認識をさせないとこのオプションで保存できないのだけれど。ファイルサイズは、処理前が4.5MB、処理後が3.5MBで、クリアスキャンのおかげでかえって小さくなった。時間はある程度かかるけれど、別についていなければならないわけではない。パソコンが仕事しているだけだし。

同じ問題でお悩みの人に…
(いるのかそんな奴)


処理前
処理後



2013年11月30日土曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」8

ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」の翻訳の検討・訂正もようやく最後の2節まで来た。
16〜17節はやっとゲーアの評価らしきものに出会う。
16
完全な遵守という条件に適う、ということの問題としてよく知られている含意は、どんなに退屈な演奏でも、ミスがない限り、記譜上の要件を満足させるという点だ。(121)」逆にどんな優れた演奏でも一つでもミスがあれば作品の演奏にならない。作品の同一性が保持されるべきならばそうならざるを得ないとG。
一つの音符だけが違う演奏は同じ作品のインスタンスだという素朴に見える原理は、同一性の遷移を考えると、どんな演奏でも同じ作品の演奏になるという帰結を生み出す危険がある。少しでも逸脱を認めると作品保持と楽譜保持の保証は失われる。一つの音符の省略や追加を続けることで…ベートーヴェンの第五交響曲から「三匹の目の見えないネズミ」にたどり着くことが出来るからだ。(G186-7) (122)(「どんな演奏でも同じ作品の演奏になる」の前に訳者補足で[同じ楽譜を使用している限り]をつけているのは無理解。そんな意味ではない。)
楽譜は作品を構成するものすべてを特定し、演奏は楽譜の記譜上の特定のすべてに完全に従わねばならない。 これはありふれた連鎖式問題(あるいは積み重ね問題)a=b, b=c, c=dならばa=dという問題、塵を積み重ねても山にはならない(いつまで、どこまで?)という問題。滑りやすい坂slippy slopeの問題でもあるか。原訳では「三段論法的問題」!)。「楽譜だけに頼る場合、一つの作品の上演に幾つの間違いが許されるかをどのような基準で決定できるだろうか?
「禿」になるには何本の毛が抜けねばならないのか?このサウンドイベントは作品演奏ではないと言われるまえに何カ所の間違った音符を弾けるか。「同じクラスに属する二つの演奏は、たとえ最小限の違いはあるとしても同じように個別化されているという観念は却けねばならない。」そうでないと遷移性のゆえに、ふさふさでも「禿」だ、第五は「三匹の…」だという結論しなければならなくなる。
髪の毛と違い演奏のすべての部分は互いに関連し合っている。演奏や作品で基本単位は一個一個の音ではなく隔たりのある構造、リズムやハーモニーのゲシュタルト、旋律だろう。「より複合的な部分の同一性が保たれれば、一つ一つの音符の間違いは容認できる。旋律のゲシュタルトが認識出来る限り、音符が一つや二つ間違ってても構わない」(123)(ゲシュタルトという言葉は普通の心理学用語で「外郭的音型」(って言葉あるのか。音楽学は複雑だ)ではない。)
この提案の問題。(1)ゲシュタルト認知は外延主義にあわないので、外延を諦め複合単位の遵守だけを語るべき。(2)連鎖式問題のレベルが高くなるだけ。ある旋律をミスで弾かなかったとして、演奏の同一性は保持されるか? それに答えられたとしても、メロディの同一性は部分に頼らずに説明できるのか。「旋律を例化するために我々はその原子的部分のそれぞれを例化せねばならないのではないか?(原子的部分とはいっこいっこの音符のこと。原訳を挙げておく「旋律の事例を挙げるには、その原子レヴェルでの構成要素の事例付けをも必要とななってこないだろうか?」えっと、「旋律を例化する」とは、メロディを演奏することです。)

間違った音符の数を数える量的モデルでは、完全な遵守は一番満足のゆく条件になろう。(complianceはこれまで「したがうこと」で訳してたけれど「遵守」も良いと思った。ビジネス用語でもそういう訳語もあったし。遅まきながら「遵守」も取り入れ。)これは正しい結論なの?「遵守率は80パーセントにしよう、といえばグッドマンの理論に影響を与えるのだろうか。このレベルのフレクシビリティないし間違いマージンを認めておけば、いろんな演奏の一つ一つを所与の作品の演奏として個別化できるだろうか?でもなぜこの特定のパーセントであって他のでないのかは、明らかではない。そして恣意的に見えるこの選択の理論的な満足度は低くなるだろう。グッドマンが完全な遵守という条件を採用するには、遷移問題以外にも理由が隠れているかもしれないのだ。」
(要約:音符の完全な遵守というグッドマンの要求は、一個でも違う音符を弾いたら同じ作品の演奏でなくなるという帰結を生みだし、それをさけると「同一性の遷移」問題を引き起こすので、ゲーアは二つの可能性を提示する。第一は、基本単位を音符ではなくメロディなどのゲシュタルトにしたら?というもの。外延主義とゲシュタルト概念はあわないので外延主義を捨てるとしても、「遷移」問題はメロディでも生じるし、メロディの同一性は音符の同一性で保証するしかないのでは?という問題がある。第二は、量的モデル(例えば音符遵守率80%)はどうか?ってのだけれど、特定の量にこだわる理由がない。どちらもいまいち。)

17
グッドマンは「曖昧な対象」へのコミットを避けたかったのかも。ネイサン・サーモン曰く〈連鎖式による議論は曖昧さという現象に混乱を引き起こす〉。「直感的には、「作品の演奏」という概念は、そこに属する対象が(それを構成する)性質が厳密に共通であるということを共有なくても良いようなものであって欲しいと我々は望む。所与の作品の複数の演奏が全く同じ(構成的な)性質を結局は示さなくても、演奏はそれでも、演奏が例化しようと意図し、例化していると認知している作品のゆえに、同じ作品の演奏として同一性を認められるのだ。プラトニズムに傾く人は、固定した不変の性質集合を持つのは作品だと論じることが出来よう。演奏はその不完全な近似ないしコピーだと。(124)」ウォルターストーフなら、音楽作品は〈内在する本質的な性質に関して不変〉。
ここには前批判的直観。作曲者が厳密に特定した産物としての作品。「作品の構造的(また可能な限り美的)性質の特定に関する作曲者の決定は一般に尊重される。それでも、演奏は完全であると期待されていない(奏者は完全にしようと努力するのだけれど)。なぜなら、鑑賞者が作品それ自体に完全で、決定され、理想化された観念を持っているならば、演奏の不完全性を判定し無視することすら出来るからだ。」(文同士のつながりがきちんと訳されていないので、細部の間違いはあまりないのに理解出来ない訳になっている。)
グッドマンは意図と認知の条件を認められず、外延主義にコミット。演奏の曖昧さと作品の完全性の両方を同時に支持できなかった。「作品は存在論的に演奏に還元されるからだ。作品とは楽譜を遵守する演奏に他ならないのだ。」反直感的な二つの選択肢しか残っていない。「作品とその演奏の両方に一定の曖昧さがあるか、どちらもそれを構成する性質に関しては等しく完全に決定されているか。彼は後者を選ぶ。(125)」
グッドマンは前批判的理解を放棄。
少ししか間違った音符を弾いていない演奏が作品のインスタンスではないする見解に、作曲家や音楽家は怒って抗議しそうだ。通常の言葉の使用法がその時彼に味方するのは確かだ。でも通常の使用法はここでは理論にとっては破滅に導くものなのだ。(G.n.120)
グッドマン批判者の不満はおさまらない。批判者たちは、唯名論・外延主義・前批判的直観との断絶のすべてを受けいれない。 彼の理論と私たちの考え方との違いは大きすぎる。不満には責任が伴う。「批判者たちは、理論的に一貫していて音楽現象との充分な関係を維持している説明を与えられるのだろうか。この二〇年の間、多くの理論が生み出される動機をもたらしたのはこの問いである。次章で、私たちは、これまでに提供されたなかで一番尤もらしい説明の一つを考察するつもりだ。」
要約:演奏は、同一の性質をすべて実際に例化していなくても、例化しようと意図し、例化していると認知している作品の同一性のゆえに、同じ作品の演奏と呼びうるのではないか。この考えからは、作品のプラトニズム的ないしアリストテレス主義的観念生じる。同一性を持ち性質が不変なのは「作品」だ。これはしかし素朴な直観でもある。グッドマンはその直観を拒絶したが、批判者たちは、むしろグッドマンによる唯名論・外延主義・直観との断絶を拒絶する。では、彼らは、そうした理論を提供できるだろうか。もっとも成功した試みはレヴィンソンだ)