ようやく読めた。
芸術の様々な実践の存在様式のあり方を、ネルソン・グッドマン由来の「自筆的autographic」vs「他筆的(allographic)」や、「唯一的」vs「多数的」、「超越的」vs「内在的」、「多数的」vs「複数的」などの対概念を用いて分類し、見通しを与えたもの。現代芸術においては、とりわけ従来の伝統的なジャンル概念が有効でないことが多いだけに、こうした演繹的で包括的な分類はありがたい。目の前にある(よく分からない)芸術作品を既知の芸術作品との関係で位置づける(つまり芸術作品として理解する)助けになる。この危機意識は、これから読むフィッシャー・リヒテの『演劇学へのいざない』も共有するものだ。
『泉』はモノが美的なのではなくそれを芸術として提示する作者のジェスチャが美的なんだ、というところあたりは、「美的」という言葉はそこでは相応しくないのでは、という疑念が残るけれど、それ以外は殆ど同意。「美的」については続編の「美的関係」で集中的に論じられるのだろう。邦訳で読みたいけれど出るのに時間がかかるようなら英訳を買おうっと。
同じテキストであっても複数的な(つまり別の)作品は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』とピエール・メナールの偶然それと全く同一のテキストというまあありそうにもない例だけでなく、アプロプリエーションの作品でもそうだし、あるいはフェルメールだと思われている絵とメーヘルンの贋作であることが分かった同一の絵画でもそうだし、さまざまな時代の解釈の下で読まれている同一のテキストに関しても言える、という主張にいたるまで、ほぼ違和感なく読み終えた。
芸術の存在論では、Gregory Currieが、作者をその作品の創造にいたらせたheuristic pathを含めたその前史も作品なのだと主張しているけれど、作品の成立後の影響関係もその作品を形成している、という主張は、私は自分が思っているだけ(ではないにしても美学ではそんなに仲間がいないのではない)かと考えていたら、十年以上前にジュネットに言われていた(もっとも、解釈共同体批評が身近な文学理論の領域では、これはそんなに突飛な考えではない)。私が授業で時々出すのは、『アヴィニョンの娘たち』の完成直後にピカソが交通事故で死んでいた可能世界において、『アヴィニョンの娘たち』は私たちが今持つのと同じ作品だろうか、という例えだけれど。
翻訳も分かりやすい。間違いがないわけではないが(原文見ずに間違いだろうなと思える箇所が幾つか)、それは訳文だけから簡単に修正できるレベルだし、訳の分からない箇所は殆どなかった。
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