2013年5月14日火曜日

フィッシャー・リヒテ『演劇学へのいざない』読書ノート(2)

フィッシャー・リヒテの『演劇学へのいざない』だが、第二部に入って急にこちらのテンションが下がった。

さて、その第二部だが、「研究領域・理論・方法」と題され、三つの章からなる。
第四章「上演研究」
第五章「演劇史研究」
第六章「理論形成」

第四章は、(1) 理論的予備考察、(2)分析の実践、(3)上演と戯曲の三つのパートに分かれる。
興味深いのは「理論的予備考察」だ。
さて、フィッシャー・リヒテにとって、演劇学の対象は上演であり、(演劇学の対象としての)上演とは、観客と演者の共在、束の間性、意味生成、出来事性によって特徴付けられる。
だから、上演分析も、そのようなものとしての上演の分析だ、ということになる。演劇学研究者は実際に見た舞台について分析を行わねばならない。ビデオによる分析は「演劇史研究」に属する。
これは、「演劇学研究者たるものこうあるべき」という学生に対する説教(規範的言明)としては有意義だろう。しかし、「上演分析」を「演劇史研究」から区別する条件の記述にはならない。その理由はあとで書く。まずは彼女の主張を追って行こう。

(1) 理論的予備考察
上演分析はテクスト分析と異なり、対象への複数のアクセスを可能としない。それは一度限りの束の間の出来事である。また、対象にアクセスしながらの分析も不可能である。そうすることで上演の重要だったかもしれない別の側面を見逃してしまうかもしれないからだ。分析は上演が終わって初めて可能であると彼女は言う。

だから、分析は「上演の間に知覚したものについての、その人の想起(Erinnerung)から出発しなければならない」(91)。さて、上演の感覚的対象の全てを同等に知覚することは出来ず、選択や不注意は不可避的に生じ、知覚が主観的であることは分析の根本条件だとされる。
ともあれ、上演が終わった後で思い出すことが大事だ。二種類の記憶、舞台空間の細部についてのエピソード記憶と言語的な意味についての意味記憶を区別すべきだ。意味記憶は、台詞だけではなく、分析者が知覚について行った「翻訳」(赤いとか急だとか)も含まれる。これらは支え合うけれど、いずれにせよ記憶は当てにならない。それをどう補うのか。「何度も見に行く」「直後にメモを取る」「ヴィデオ録画(を見る)」などの方法があるが、フィッシャー・リヒテのお薦めは、「直後にメモ」だ。ヴィデオは「具体的な箇所の想起のためにはとても重要で役に立つ」が、「別の面から見るとヴィデオ録画は役に立たなかったり、あるいはかえってマイナスの働きをしたりもする」(96)。空間的な記憶の助けにはならず、演者と観客のエネルギーの流れは伝わらない。
さらに、一般にヴィデオ録画は、分析者の記憶を助けて再活性化するというよりも、むしろ記憶を上書きしてしまい、そのため上演を想起させるどころかその忘却に貢献する危険がある。(97)
クロスカッティングとかクローズアップとか、観客には不可能なカメラ移動のことを彼女は考えている。そう言えば同じような戯言ことを、昔西洋比較演劇研究会で大まじめに語っていた研究者(複数)がいた。 NHKの「芸術劇場」がカメラワークするのが気にくわないんだったっけ。どこまで表象=再現の形而上学に浸っているのかと小一時間問い詰め…。
勿論、フィッシャー・リヒテはこれらの手段が補助手段として有効だということは認める。しかしそれはあくまでも補助手段だ。
上演分析において、上演中にノートを取ること、記憶に基づく記録の作成、あるいはヴィデオ録画といった手段を用いるのであれば、そのことは、批評や観客の証言や、ヴィデオ・クリップに基づいて、上演を何らかの問題設定の下で研究するというやり方、つまり私が演劇史研究的と名付けた研究法とどこが違うのか、(中略)上演分析の場合の補助手段は、上演中に知覚に留まったもの、体験したものを記憶に呼び起こすのに対して、演劇史研究の場合に問題になるのは自分の記憶ではなく、上演についての記録なのである。(略)このことは多くの問題設定を申し分なく満たすかも知れないが、それにもかかわらず上演分析の資格は持たない。というのも、上演分析は常に、上演中における自分の知覚と経験に発するものだからである。(97-8)
私の思うに、この主張が整合的なのは、上演分析が一人称現象学を含まねばならないという主張を含意している場合に留まる。しかし一人称現象学は自己分析であって「上演分析」ではない。分析の中に含まれた任意の一人称文(ないし一人称を目的語等に取る文。以下この意味で用いる)は、多くの場合私についての言及であって、上演についての言及ではない。上演分析が一人称現象学を含むべきだという主張は反直感的だ。参与観察文を含むことはあるテクストが上演分析であるための必要条件でも十分条件でもない。
もし、一人称文を含む必要がないとしたら、つまり「上演中における自分の知覚と経験に発する」にせよ三人称文で分析が進むとしたら、形式上、それを、ヴィデオなどに基づく、あるいは、ヴィデオなどによって喚起された「知覚と経験」に基づく「分析」文から区別することは必ずしも可能ではなくなる。つまり、私たちは、研究結果から、それが上演分析なのか演劇史研究なのかを区別することが必ずしも出来なくなる。だからこの主張は、学生への心構えの説教(規範命題)以上のものではあり得ない。

で、この本の性格がマジに学生指導の手引き、だと分かって、私のテンションはとても下がった。

ともあれ、知覚と想起に続く第三のプロセスが「言語化」である。エピソード記憶を言語化することは難しいし、意味記憶も言語化において歪曲される。言語からくる限界は乗りこえられない。
あらゆる言語的記述や解釈はテクストの生産につながるが、その際固有の規則に従うため、テクストの生産過程が自立化し、出発点だった上演中の知覚の想起からどんどん離れてしまいかねない。分析プロセスの到着点は、独自のテクストの生産なのである。これは上演分析の一見矛盾したもう一つの条件であり、それには十分考慮を払わねばならない。(99)

(2) 分析の実践
現象学的アプローチと記号論的アプローチがある。これはとりあえずは現前と意味とに対応。
現象学的アプローチに際しては 、観客が「上演によって初めて経験が書き込まれていく白紙の存在ではない」(103)ことに注意が必要。知覚は主観的だ。この主観性は恣意性ではない。
記号論的アプローチに関して、彼女は、演劇の記号として可能なものを「音響」「音楽」「言語」「準言語」という聴覚的記号と、「表情」「身振り」「近接学的記号」「仮面」「髪型」「衣装」「空間コンセプト」「舞台装置」「小道具」「照明」という視覚的記号に分けるが、化粧は仮面に入れるとして、嗅覚・味覚・触覚がないことは他の箇所に比べると意外。特に「知覚されるものはすべて記号として解釈される」(104)のだからこの欠落は目立つ。
さて、彼女は、記号論的分析は、観賞経験を「薄める」可能性があると指摘する。それは演出意図の研究に堕してしまう危険があると。だから記号論的分析においても、観客反応を考慮すべきだ。
演出を、そのタイトルの元となっている戯曲(略)の特定の解釈として「読む」ことにこだわる人は、上演のメディア的および物質的条件を見誤っているだけではない。そういう人はテクストと上演のあいだに特定の関係があることを当然と考えているが、そのような関係には問題がある。(108)
まあ、それはその通り。上演と戯曲の関係について、上演分析の実例がなされた後、補足がなされる。この補足は常識的なもの(褒めてます)。上演とテクストの関係については、テクストの解釈とみなすことが可能な上演と、そうでない上演とに分けるというコンサバな立場(たくさん)から、いかなる上演もテクストの解釈ではないというラジカルな立場(J.R. Hamilton: The Art of Theater (2007))まで分かれるだろうが、フィッシャー・リヒテは後者に近い。
(『トレイン・スポッティング』を扱った分析実例については、スマートだと思うが、この場合においても、一人称文は分析結果にとってそれを用いなければならないというほどのものではなく、かつそれを取り去ったときに、映像資料および言語資料によっては書き得ないもの、とは思われなかった。ここから一人称現象学を取り除いて三人称現象学で置き換えたときに、分析の価値が下がるとは思えなかったのだ。)

第五章は、演劇史研究についてで、この問題に関して、私はフィッシャー・リヒテのような大研究者について何か言えるほどの見識がないので、パス。

第六章は理論形成と題され、演劇研究における理論の重要性を論じている。
第三章に関する私の疑問についての重要な主張がここにある。
第三章では上演の概念を定義するに当たってかなり用心深く、特殊なメディア的条件(肉体の共在)、特別な物質的性質(束の間性)、特別の意味生産の様態(意味の創発)、なされうる一種の美的経験(リミナリティの経験)によって基礎付けた。従ってこの定義に合う現象は、すべて上演として理解されるべきである。このような定義に反対して、現象Xや現象Yが、例えば肉体の共在の条件は満たしていないが、それでもやはり上演である、などと述べることは全く無意味だと思われる。 なぜなら定義は、概念が理解可能にしようとしている対象の「本質」を捉えるのではなく、当面の理論の文脈において重要な側面を捉えるものだからだ。
これも些末的に真だ。それは「芸術」を「再現」として定義したり、「美的経験をもたらす人工物」として定義したりすることが些末的に真であるのと同様だ。一貫性を持っているけれど、その定義は「対象の重要な側面を見落としている」と批判を変えるだけで瓦解する。私たちは、芸術を「再現」として定義することは出来る。じっさい多くの芸術作品は、現代においても「再現」だ。Jasper Johnsは星条旗を「再現」したし、ウォーホールはブリロの箱を「再現」した。Sherrie LevineはWalker Evansの写真をそっくりに「再現」した。芸術を「再現」として定義するのに反対するのは、非再現的な作品を芸術領域から追い出すことが私たちの芸術理解を歪めるということと、「再現」的ではあるがそれを「再現」として理解することが作品の理解を歪める多くの重要な作品があることが理由になるだろう。 「上演」を共在によって定義することに反対する人は、単に「共在」が不在の上演があると言っているのではなく、それを含まないことは共在であるような「上演」の理解をも歪めることになるといっているのである。

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