2013年6月5日水曜日

燐光群「帰還」

病院に付設された養老施設で暮らす老画家、横田正(藤田びん)のもとに、長く会わなかった息子昭信(猪熊恒和)が訪ねてくる。息子は、自分が末期ガンであることを告げるとともに、美大をでた自分の娘に絵を教えてくれるよう父親に頼みにきた。あまり気乗りがしない様子で孫娘に会う正。何気なくつけたテレビを見て叫ぶ。「戻らねば。約束を果たさないと。」
正が孫娘の運転でやって来たのは九州のある山村。テレビに写っていたのは、ダム予定地の村に暮らす麻里。彼女を除いて全ての村民はあるいは代替地に移り、あるいは代替地で暮らして行けず村を離れた。彼女一人が土地の明け渡しを拒否しほとんど自給自足で暮らしている。正に会った麻里は、彼の「帰還」をずっと待っていたと語り、彼らは近隣の村人たちをも巻き込み、ダム反対運動に新しいうねりを加えて行く。

以下はネタバレになるかなぁ。これから述べるのは、簡単に言うと、「主人公への批判的視点が足りないよね」ということに過ぎない。でもこの欠如は私には堪えたので一通り文章化してみる(以下、公演期間中は白文字にしていたものを復元)。

実は正は60年前、共産党の武装革命方針に基づく山村工作隊員としてこの村に潜入し、山林中心でほとんど耕作が行われていなかった村に個人で可能な農業技術を伝え、畑の開墾の先頭に立って地主をも含む村人の信頼を得、ダム問題の対策をも伝えて村を去っていった。彼がこの村で一緒に暮らしていた大野すえは彼の教えを娘の麻里に伝え、娘はその教えをずっと守ってきたのだ。

 枠組みとなっている物語はアンゲロプーロスの「シテール島への船出」で、作劇のスタイルはブレヒトの教育劇だと思われた。村人たちは、まるでコロスのように、ダム問題の歴史を台詞を割りあてて分かりやすく伝えて行く。観客はありそうもない物語に乗っかった上で、ダム問題についての認識を獲得して行く。このあたり、坂手の作劇法は最近図式的すぎないか?

この作品と「シテール島への船出」とが関係ありそうだという評論はなさそうなので、この点については説明。アンゲロプーロスの映画では、 ギリシアの民主化に伴い、ソビエトに亡命していた共産党員が帰国することになった。彼は故郷に帰還すると、観光業者に村を売り渡そうとする村人たちの大勢に抗して畑を耕し始め、特に内戦時代に血で血を洗う抗争を行った村の有力者と対立する。映画では、結局彼はギリシアをふたたび追放され、行く当てのない船出に立つことになるが、この芝居のエンディングは、初演時民主党政権下でダム計画の凍結があったためか随分と楽観的だ。

でも私には、つまらないノスタルジーが本作を(たとえ三年前だとしても)台無しにしているように見えて仕方がない。

新国立劇場の「エネミイ」は、「三里塚闘争」を現在の地点からノスタルジーにおいて正当化し、そこにあった非道、無慈悲を無化し、現在の世代にその視点から説教するひどい芝居だった。この連中の現在を思うとき(猪瀬が信州大全共闘議長だったことを忘れてはならない)、私たちはもはやこの手の芝居を受けいれられない。また、文革の悲惨を思うとき、私たちはもう60年代のマオイストが知ったかぶりを言っている芝居を受けいれられない。それは、50年代のスターリニストが社会主義の未来を語るのと同じくらい欺瞞的だ。

で、この芝居では、私たちにとって何とか受容可能なグルとして、50年代共産党臨時中央委員会(臨中)派のアーティストを持ち出してくる。(「臨中派」と書いたが、末端の党員のほとんどは臨中派だったと思う。)そしてその中でも、純粋な革命の理念に燃えて農村に潜った山村工作隊を持ち出してくる。彼のイデオロギーはこの芝居の中では全面肯定だ。このイメージが少しなりとも肯定的にとらえうるのは、私たちが彼らの非道と悲惨についてもはや十分な知識を持っていないからに他ならない。搾取からの解放を理想とする若者にとってその当時他にどうしようもなかったとは言え、彼らが代理しているのは二十世紀後半に最大の苦しみをもたらしたイデオロギーの一つだ。当時それを信じたのは仕方がない。今それを回顧的に正当化するのは最大の欺瞞だ。私はごく身近な身内が山村工作隊で「球根栽培法」所持で捕まって警察署内のトイレに隠して難を逃れたこともあるし、正と麻里の母「すえ」の仮想の会話は子供の頃の日常会話のターミノロジーと同じなので当時の主観的な正当性はよく分かる。60年前、純真な若者はあんなことを信じていた(農村から都市を包囲するとか、武力革命とか)。いまそれを反復するのはグロテスク以外のなにものでもない。

アンゲロプーロスは、武装闘争時代の生活の細部が現代に甦る(両方の側にとっての)悪夢を悪夢として描き出した。ここではそれは「夢」だ。五木の反ダム闘争は素晴らしい成果を上げてきた。巨大ダムが自然を、共同体を破壊することも、それに対する闘いの意義も今なお変わらないがゆえに過去のこの美化は痛い。

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