2013年7月25日木曜日

授業案内:美学特講2

学科のブログに自分の授業案内を書かねばならなくなり、とりあえず自分のページに原形を書いておくことにする。

美学特講2 (北野雅弘)

美学美術史学科の教員の北野です。

私は、美学特講の1と2、美学演習の1と2、美学概論2、あと西洋古典語のA, B, Cを担当しています。特講は2が前期、1が後期というちょっと変な時間割です。それぞれ半期で区切りがつくので、どちらを先にとっても、またどちらかだけでも構わないのですが、順序としては2を先にした方がやや分かりやすいかしら。


今年の授業は、ロバート・ステッカーという人の書いた、「分析美学入門」という本を教科書にして、前期は「自然の美的観賞」と「芸術とは何か」という問題について講義しました。


「芸術とは何か」ということが問題になる、というのも変な気がします。私たちの歴史は素晴らしい芸術作品で溢れており、わざわざそれが「何か」などと問うのはばかげたことに思われるからです。芸術作品がそうでないものから一目瞭然に区別されている限り、私たちは「芸術とは何か」と言う問いを生活のなかで発したりはしません。

しかし、取り分け20世紀の芸術の発展は、私たちが芸術とそうでないものについて、純粋に感覚に頼って区別をすることを不可能にしました。デュシャンはどこにも美しさのかけらもないような日常の既製品を芸術として展示し、レディメイドと呼びました。ウォーホールは洗剤の箱にそっくりの立体作品を作りました。
 参考リンク
デュシャン「泉」
ウォーホール 「ブリロ・ボックス」


そうした作品は、単なる悪ふざけ、として片づけてしまったら良かったのかもしれません。でも、レディメイドからもう100年もたち、ウォーホールの洗剤の箱からももう五十年がたちました。それらの作品は、芸術としての地位を確立しただけでなく、一つのジャンルとしても、揺るぎないものになっています。最初は悪ふざけかもしれないと思われていたものは、実は歴史的な必然性に基づいていたのです。
造形芸術に関して、私たちはただもはや芸術を再現や表現としてだけ理解することはできず、美的経験によってだけ理解することもできないのです。ロバート・モリスは「何ら美的価値がないこと」の証明書つきで自分の作品を発表しています。

参考リンク
モリス「連禱」

それでは芸術とは何なのか? これは美学研究者だけの問題ではなく、20世紀以後のアーティストの問題でもありました。美学特講2の後半の部分は、「芸術とは何か」というこの問題に、定義の探求という形で理論的な解決を模索する授業です。

なお、私の授業用のブログでは教科書以外の授業用プリントを公開しています。



2013年7月21日日曜日

IFTRの発表原稿

バルセロナで来週開かれるIFTR(国際演劇学会)の大会の原稿がようやく出来た。写真と演奏を含んでいるので、著作権的に(写真は記録写真と考えてまた撮影後50年をすぎているので大丈夫な気がするのだけれど、演奏(学生の知り合いに頼んで作ってもらったmikuによる演奏)がクリアしているかどうか分からないので、パワーポイント版ではなく、PDF版を事前公開。写真などの画像は「引用」の範囲ということで。パワポスライド57枚、2800語くらい。読み切れるかなぁ。(実際の原稿はもう少しだけ長い。)これでフロストが読める。もう一つ、ネレ・ノイハウスの『白雪姫には死んでもらう』も機内用ミステリにしよう。ノイハウスの前作『深い疵』はあまりに見え見えな展開とそれからもうひとつあり得ない設定にちょっと↓だったのだけれど(年齢がぁ…)。ドイツミステリは苦手だ。

2013年7月9日火曜日

近況報告

国際演劇研究集会IFTRのための原稿。今1500語、あと1000語くらい。文章ができたらパワポ化して、一曲初音ミクに歌わせて、写真挿入文献補う。
現地の報告を赤旗さん向けに1000字くらいで行わねばならないが、それは帰国後のこと。
現地の宿、飛行機、ようやく手配を終えた。
15日、赤旗で取り上げるこまつ座の「頭痛肩こり樋口一葉」鑑賞予定、それまでにそれに関する日比野さんの論文読まなきゃ。原稿メ切は16日いっぱいか。
18日は補講三つ。19日は通常講義三つ。9.16は非常勤@中野坂上。
参院選期日前投票もいつかしなきゃ。
このタイミングで一番みたくないものは、

三年以上待ち続けたフロストシリーズの新作。「冬のフロスト」,

今日本屋で見つけてあろうことか今目の前にある。

飛行機が離陸するまで、ぜったいに手を伸ばしちゃダメな、麻薬を前にした治療中の中毒患者のような気分だ(患者の気分をミステリ以外で知っているわけではないが)。
せめて解説だけでも読んで心の準備をしたい…。(数分後)
誰だ、読んでないの丸出しの養老孟司なぞに解説書かせたのは⁉!
目の前に多分一番好きなシリーズの残された数少ない初訳があってぜったいに読めない状況があるなんて…
。・°°・(>_<)・°°・。。

-- iPhoneから

07/11追記:ようやく2000語。「冬のフロスト」にリンク。学会発表のテーマは東大ギリ研の悲劇上演。日比谷野音の説明がむずい。タイトルを「起源に本質を捏造する」ってしたのになかなかその話にならない。タイトルが挑発的すぎた。
フロストは性格と頭の良いドーヴァー警部だ、と書こうと思ったのだけれど、考えればドーヴァー警部シリーズもう忘れられてる…

2013年6月28日金曜日

レヘインの「夜に生きる」

デニス・レヘインの『夜に生きる』を読みました。レヘインのベスト、とは言えませんが、淡々としたハードボイルドは面白いです。今年読んだミステリのなかでは、ル・カレの「我らが背きし者」、コナリーの「かかし」、ダフィの「KGBから来た男」の次に面白かったです。レヘインは、ワンパターンになる前にシリーズを終えるという、あまり出来ない離れ業が出来るひとで、シリーズ外にも傑作の多い作家(「シャッター・アイランド」と「ミスティック・リバー」)です。シリーズのパトリックとアンジーのカップル探偵ものは、雰囲気も主人公のパターンもロバート・パーカーのスペンサーシリーズととてもよく似ていながら、スペンサーよりも重厚で骨太のハードボイルドを作り出したのにも驚きました。勿論、スペンサーシリーズは、ワンパターンなプロット(主人公たちは悪党に嫌がらせをし、相手が手を出すのを待って皆殺しにする)と、チープと言って良い程の主人公の万能感は欠点ではなく魅力になっているのですが(一度だけ瀕死の目に遭います)。シリーズの締め方も完璧です。
このシリーズは、正義観が最後まで一貫しているところも素晴らしい。コナリーの「ボッシュ」シリーズは途中で一旦ぐたぐたになってしまうのに、彼らはそんなことはない。彼らは万能ではなく、そのことに納得して引退します。それが敗北ではなく、シリーズのなかで一番苦いエンディングを迎えた作品(『愛しき者はすべて去りゆく』)で揺らいだ自分の正義へのけじめになっているのが良いです。
今回の作品はパトリックアンドアンジーではなく、「運命の日」に続くコグリン兄弟を描いたのピカレスクロマンですが、「運命の日」と直接結びつくわけではないです。「運命の日」の長男ダニーが警官なのに対して「夜に生きる」の三男ジョーはギャング。多分次男を描いた作品がそのうち出るのでしょう(次男は映画界にいる設定です)。ここでも主人公は自分なりの正義の意識を確立し、なんとか貫きます。主人公の成長を描くという意味では典型的な教養小説です。ラッキー・ルチアーノも登場する禁酒法時代末期のギャング小説(主人公はずっとアウトローだと自己規定していますが、ある事件を機に、自分でも「ギャング」となります)ですが、ライバルや法秩序の側があまりに非道いので、私たちは主人公への共感を失わないで済みます。エンディングの苦さは教養小説の定番であると同時にノンシリーズのレヘインのいつもの魅力そのもの(「ミスティック・リバー」の苦さに近いかしら)。

(さいしょフェイスブックに書くつもりでですます調にしていたのが残った。なお、シリーズで劣化が激しい作家の一番に誰もが挙げるのは多分スティーブン・ハンターの「スワガー・サーガ」だろう。さすがに最近は買わなくなった。ジャック・ヒギンズもそう、というか、「鷲は舞い降りた」「死に行く者への祈り」の二つが例外的に素晴らしかった気がする。マイク・コナリーのボッシュは長いシリーズで主人公がだんだん高齢化して行くのに質を維持しているのが素晴らしい。リーバスは三作目から良くなり、上げ下げがやや大きい。リンカーン・ライムは二つ目からワンパターンだ。なぜ全部買ってしまうのだろう…)

2013年6月22日土曜日

メディアマシーン

柴崎正道プロジェクト公演。岸田理生作。
柴崎さんは10年前に死んだ岸田理生の仲間だったらしい。
クナウカのメデイアで使われていた、「これはメデイアではない」はこの作品からの引用だったのか。ハイナー・ミュラーだとばかり思っていた。
演劇学会を途中抜け出して中野まで行って鑑賞。身体の動きは完成に近いと言って良さそうな人たちだ。ダンスにそれほど詳しくないものの目には、姿勢のアンバランスと痙攣的な動きのリアリティ、指への関心、左右の非対称性など、十分に九十年代以降のものに見える。とくにリアントさんのエキゾチック(ポストモダン的引用)と坂本さんの滑らかさに感銘を受けた。二人の旅人はオレステスとエレクトラに見える。
ただ、グランドピアノ一個で即興的に演奏されるクールなフリージャズ風の音楽(どう考えてもせいぜい60年代の音だ)との落差が激しい。せめてピアノの音をもう少しノイジーな感じで、たとえばプリペアド・ピアノにするとずいぶん変わると思う。また、動きと音楽をあわせすぎに見えた。もう少し無関係にする、あるいはせめてずらさないと、動きが予定調和的に見える。
台詞を喋り出すと途端に退屈になるのは、演技の調子の幅がとても狭いからと、台詞自体が陳腐なのが大きい。説教くさい。
最後の台詞が、「Quo vadis domine? 我らどこからきてどこへ行くのか?」の二度の反復なんだけど、ひょっとしてクォヴァディスってその意味だと思ってないか?少なくともラテン語知らないお客はそう思うぞ。演者(作者?)もそうだとしたらずいぶん恥ずかしい勘違いだし、そうでないとしたら、訳が分からない。もちろん、「主よ、あなたはどこへいらっしゃるのですか?」の意味で、この言葉の文脈はググればすぐ分かる。シェンケヴィッチの小説は子供の頃の愛読書だった。(一方で中野重治やぬやまひろしの詩を、他方でシェンケヴィッチを、さらにもう一方でアリステア・マクリーンを子供に与える親はずいぶん変わった人たちだったとは思う。一番影響を与えたのは「女王陛下のユリシーズ号」だったが…)。


ヴェネチア・ビエンナーレ2013(山口大学の藤川哲さんのブログ)

この夏、バルセロナでのIFTR(国際演劇学会)での発表の後ローマでex Pink FloydのRoger Watersを見て(懐かしのThe WALLだ。映画が日本で最初に公開されたとき、大阪から東京に見に行って(なぜだろう、大阪でやっていなかったのか、東京で美学会の全国大会のついでだったのか)、一日中、三回見た。去年も吉祥寺で爆音上映を見た)、それからヴェネチアへ行こうと思っている。その感想をまたちまちまブログで書こうかと思っていたのだけれど、山口大の藤川先生のブログで、とても強度のある、同時に詳細な紹介がアップされていたので、これを見れば、そして何らかの形で画像が手に入れば、わざわざ行くことなくね?という感じの調査および分析を見た。すごいので紹介。

山口大学美学・美術史研究室:So-netブログ (2013年五月末頃から)

まあ、もう飛行機のチケットも買ったし大学にも届け出したので行くけれど、このブログで書けることはないなぁ。(ちょー個人的な感想は書くと思うけれど)。ウォーターズ👴はやっぱり見たいし。

藤川先生はこれまで二度、わたしがヴェネチアへ行くとき、いろいろと手助けをいただいたし、去年カッセルへ行ったときにも本当にお世話になった(現地で会った、という意味ではない)。あのブログには、カッセルのことも、二年前のヴェネチアのことも徹底的に分析・報告されていて、まあ、すごい。

The WALLは、子供の頃父親が戦死していじめにもあったピンク・フロイト少年が長じてロッカーになり、不幸な結婚の結果おかしくなって極右のミュージシャンに変身するって話だけれど、極右になったピンクのヘイト・スピーチが、極右になったエリック・クラプトンのヘイト・スピーチ(これは実話)を元にしているのが丸わかりで、それはとても面白かったけれど、当時そのこと誰も教えてくれなかったなぁ。クラプトンのファンだったことがなくて良かった。

映像的には、ゲルドフが演じていたピンクよりも、ウォーターズのベルリン・ウォールコンサートでのそれが格好良かった気がする。よくまあベルリンであのコンサートやれたものだ。

楽しみ……

2013年6月20日木曜日

演劇学会大会パワーポイント資料

今週末、共立大学で演劇学会全国大会があり、そこで、「復讐劇」を主題のシンポジウムに参加することになりました。パネルの正式タイトルは「演劇における復讐の想像力に関する比較研究」で、わたしの担当はギリシア悲劇における復讐のイマジネーションみたいなことです。土曜日の十時からで、他のパネルの皆様は大阪市立大学の小田中章浩さんと日本橋学館大学の安田比呂志さんです。

とりあえず今日の時点でのパワーポイント資料が出来ましたので事前公開します。明日もう少し修正を入れるかも知れません。

大会プログラムのPDF
パワーポイント資料