コースマイヤー『美学:ジェンダーの視点から』の翻訳について
このページは、多分2009年にコースマイヤーの『美学』が出てそれほどしないうちに自分のウェブサイトに掲載したもので、その後そのサイトがプロヴァイダーの消滅により消えてしまったのでそのままにしていたのですが、コースマイヤーを読みたい学生に私のページを紹介しているという先生がいらしたのでこちらに復活しました。もともと二ページなのを一つにまとめました。今では、ディッキーの芸術定義もダントーのアートワールド論も邦訳があり、彼らの議論についての誤解は減っていると思うのですが、コースマイヤーの邦訳で理解する人もいるでしょうから再掲しておいていいかと思いました。説明の中には私の誤解もあるでしょうが、ディッキーとダントーの議論をなるべく噛み砕いたものになっているとは思います。
(1) ディッキーの芸術制度論
コースマイヤーの『美学:ジェンダーの視点から』の翻訳が出版された。最近はフェミニズムの視点からの芸術論も日米共に議論が盛んで、特に美術史の家父長主義的な記述の書き換えや、芸術実践でのジェンダーの前景化は欧米諸国ではかなり進展している。コースマイヤーは、美学という女性を対象化する傾向の強い学問領域にも、この新しい傾向を意識させようと努力している研究者の一人だ。その時に彼女の理論的根拠の一つとなる芸術哲学が、ジョージ・ディッキーの芸術制度論と、アーサー・ダントーのアートワールド論であり、彼女は一定のページを費やしてこれら二人の哲学者を論じている。このページと次のページでは彼女が紹介しているこれら二人の哲学者の議論が、この翻訳では誤って伝えられていることを示す。
ディッキーはアメリカの芸術哲学者で、ほぼ同世代のアーサー・ダントーの論文「アートワールド」に影響を受け、独特の芸術の定義を作り出した人だ。それは、「芸術と芸術でないものを区別するのはアートワールドだ」という見解である。「アートワールド」は耳慣れない言葉かも知れないけれど、ディッキーの場合、元々は、芸術を提示するための制度的枠組みを示していた。芸術家とか、批評家とか、そういった人々で構成される制度である。ディッキーはこれがダントーの「アートワールド」論文の見解だと当初は信じていたのだが、ダントーにおいては、「アートワールド」とは第一には芸術作品の世界であって、芸術作品そのものの相互連関を意味していた。ディッキーではまずそれは「芸術作品を取り巻く制度」であり「枠組み」だ。
で、ディッキーの芸術定義は、その初期の段階では次のように変遷する。(以下引用はGeorge Dickie:Art and Value(2001)より)
(1)「A work of art in the descriptive sense is (1) an artifact (2) upon which society or some sub-group of a society has conferred the status of candidate for appreciation.(記述的な意味での芸術作品とは、(1)人工物で、(2)社会や社会の下位集団が鑑賞候補の地位を授与するものである。)」
ディッキーはすぐにこの定義の欠点に気づく。これじゃまるで社会や社会の下位集団が一丸となって芸術作品を作るみたいだと。
で、彼はその定義を変更する。
(2) 「A work of art in the classifactory sense is (1) an artifact (2) upon which some person or persons acting on behalf of a certain social institution (the artworld) has conferred the status of candidate for appreciation.(分類的な意味での芸術作品とは(1)人工物で、(2)ある社会的制度(アートワールド)を代表して行動する何らかの一人ないし複数の人物が、鑑賞候補の地位をそれに授与したものだ。)」(1971)
あるいは
(3)「 A work of art in the classificatory sense is (1) an artifact (2) a set of the aspects of which has had conferrred upon it the status of candidate for appreciation by some person or persons acting on behalf of a certain social institution (the artworld).(分類的な意味での芸術作品とは、(1)人工物で、(2)その諸側面のある集合が、一定の社会的制度(アートワールド)を代表して行動する何らかの一人ないし複数の人物に、その人工物への鑑賞候補地位を授与させたものである。」(1974)
(https://twitter.com/zmzizm/status/530413426615410688 によって訂正(2014/11/30)。以下の文章にはそんなに影響ないか)
(2)と(3)には違いは殆どない。鑑賞候補地位の授与は、いずれの場合も、アートワールドを代表して行動する一人ないし複数の人物によってなされる。(3)は(2)と、その人物による地位授与が作品の何らかの側面と全く無関係であるという可能性を明示的に排除しているという点でのみ異なる。
とりあえず(3)までをディッキーの芸術定義の初期ヴァージョンとして、その特徴は
- 「分類的な意味」での芸術作品の定義を行おうとしていること。つまり、ここで言われているのは、「芸術の域に達している」とか言うときに使われる価値評価のニュアンスを全く含まない限りでの芸術概念の定義だということ。
- アートワールドを代表して行動する人間が人工物を芸術にすると考えていること。
- 鑑賞候補の地位の「授与」行為の存在が人工物を芸術にすると考えていること。
の三点だろう。そのどれにも突っ込みが入ることになる。(1) 芸術って本当に価値自由に定義できるの? (2)アートワールドを代表して行動する人間って誰よ?誰がそいつにそんな権威を与えたんだよ。(3)「授与」行為って何よ。「汝芸術なり」と言って何かを芸術にすることなど出来るの?
最大の問題が(2)だった。ウォルハイムは次のように言う(大意)。「アートワールドってどうやって代議員選ぶん?選挙でもやんの?選ばれたとしてさ、すべての候補検証すんのん?地位の見直しはするの?そもそもそんな権威を持つアートワールドなんてあるの?」「そもそも誰かが地位を授与したとしてもさ、そのためには「理由」が要るやろ。そんなら、その「理由」がものを芸術作品にしていると考えた方がええんちゃう?」
さて、これは誤解だとディッキーは訴える。大体、鑑賞候補をいっこいっこ検証して芸術地位を授与するなんて言っていないし、鑑賞候補地位を「授与」する「アートワールドを代表して行動する一人ないし複数の人物」って元々は作者のことだと。アートワールドに属する他の人間が地位授与をやってはならないわけじゃないけれど、本来は芸術家である作者が「見てね」って差し出したものが芸術作品なんだ。集団制作の場合作者は複数ね(コンサートとか)。で、作者(であれ他の地位授与を行う人間であれ)、「見てね」って差し出す、つまり鑑賞候補の地位を授与するのには、何らかの権威を必要としていない。アートワールドに属していることで十分なんだと。
それで「代表して行動する」ことになるのか?なると思う。だって作者が純粋に何ものをも代表せずに「見てね」って誰かに何かを差し出すなら、それはラブレターだったり呪いだったり以下略する筈で、作者が芸術家として不特定の公衆に「見てね」って差し出している以上、彼女はアートワールドを代表して地位授与(鑑賞候補としての)を行っていることになる。勝手に代表するわけだ。日本人が海外でいろんな意味で「日本を代表する」のと同じ。
「代表して行動する一人ないし複数の人物」「地位授与」「分類的な意味」の三つはこの時期のディッキーの理論にとって決定的に重要な概念だ。「代表して行動する一人ないし複数の人物」は「代理人」ではないし、「鑑賞候補」「地位授与」の概念は省略できない。だから、74年ヴァージョンを次のように訳してはもはや翻訳ではなくなる。
芸術作品に分類されるものは(1)人工物であり、(2)ある種の社会制度(アートワールド)の代理人から評価されるに値する一連の諸相を備えたものである(コースマイヤー『美学:ジェンダーの視点から』191-2)。
ディッキーにとって何かを芸術作品にするのはその対象が備えている何らかの諸相ではなく、それが「鑑賞候補地位を授与されている」という事実なのだ。この訳だと何かアートワールドの代理人(って誰よ)から評価されるに値する(美的・知的・あるいは一般化して芸術的)価値を備えた人工物が芸術作品だと言うことになってしまう。これはディッキーとは正反対の見解で、制度論でも何でもない。『折れた腕の前で』が芸術作品で花火がそうでないのは、別に前者には後者が持っていない「評価されるに値する」諸相があるからではない。単に我々の社会が、花火を芸術作品とするアートワールドを持っていないということに過ぎない。
それにしても、授与とか、代表とかはきつい言い回しで、ディッキーの意図に反して、芸術の制度が非公式のものであるという性質を隠蔽することになってしまう。だからウォルハイムの揶揄が成り立ったので。それゆえ、ディッキーは84年以降、この言い回しを避けて次の五つの循環した定義によって芸術を特徴づけるという戦略に転換する。
芸術家とは理解しつつ芸術創作に参与する人物である。An artist is a person who participates with understanding in the making of a work of art.(芸術家とは、自覚的に芸術作品制作に参加している者である。)
芸術作品とはアートワールドの公衆に示されるように創造された一種の人工物である。A work of art is an artifact of a kind created to be presented to an artworld public.(芸術作品とは、アートワールドの公衆/愛好者に見せることを目的として制作される人工物である。)
公衆とは自らに示されたものをある程度理解する用意がある人々を要素とする集合である。A public is a set of persons the members of which are prepared in some degree to understand an object which is presented to them.(公衆/愛好者とは見せられる作品を何らかの形で理解する準備がある者である)
アートワールドとはすべてのアートワールドシステムの全体である。The artworld is the totality of all artworld systems(アートワールドとは、すべてのアートワールドシステム(すなわち、絵画、彫刻、パフォーマンス、音楽、小説といった芸術ジャンル)の総体である。)
アートワールドシステムとは芸術家が芸術作品をアートワールドの公衆に示すための枠組みである。An artworld system is a framework for the presentation of a work of art by an artist to an artworld public.(アートワールド・システムとは、アーティストがアートワールドの公衆/愛好者に芸術作品を見せるための枠組みである。
こちらの方は、コースマイヤー『美学』の訳は括弧内に示した。まあ、細かい誤訳がいろいろあるし、全部を指摘しないけれど、「一種の」人工物(an artifact of a kind)てのはディッキーの芸術作品に対する「人工物」規定への批判、「ダンスって人工「物」じゃないし、流木芸術って別に作ってないよね」に対応して出てきた限定で、「パフォームされたり、ただ置かれたりってのも入れるよ」って言い訳なので、「一種の」を省略するとまずいと思う。
四つ目の規定の(すなわち……といった芸術ジャンル)はディッキーが直後に付け加えた説明を文章の中に組み込んだもので、ここはディッキーからの直接の引用という形をとっていないのでコースマイヤーの議論も、その訳としても特に間違いではない。
私がここで問題にしたいのは、この誤訳が、表面上とても滑らかなテキストに包まれていて、何の問題もなく理解でき、なおかつ、少なくとも1974ヴァージョンの訳の方は出鱈目だということだ。ものが、「評価されるに値する一連の諸相を備え」ているかどうかは、ディッキーにとって芸術であるかどうかと全く無関係だ。つまり、ものを芸術作品にしているのは、「鑑賞候補地位を授与された」という事実であり、もの自体が「備えている」性質ではない。どんなすぐれた「諸相」を備えていようが、地位授与の事実がなければ、つまり芸術家によって「みてね」と差し出されなければ、それは芸術作品ではない。だから「制度論」なのだ。この箇所は、分からない部分をぶった切って辻褄を合わせるいわゆる超訳になっている。
⑵ダントーのアートワールド論
ジョージ・ディッキーと共に、アーサー・ダントーのアートワールド論も、コースマイヤーにとって、あるいはフェミニズム美学にとって貴重な理論的根拠になり得るものだ。だから、彼女はダントーのアートワールド論もある程度丁寧に紹介している。ところが、ディッキーの箇所と同様、ダントーの議論についても、この翻訳ではおよそダントーが主張するはずのないことをダントーに主張させてしまっている。
本書は共同訳で、ディッキーやダントーの議論の紹介は第五章「芸術とは何か」に入っている。ここの訳者(石田美紀さん)は映像文化論の専門家で、最近では初音ミク研究なんかもあるみたい。だからやたら概念や用語の厳密さが問題になるいかめしい「美学理論」に慣れていなくても仕方がないのかも知れない。なので、propertyという分析哲学では「性質」と訳さないと…みたいな単語を「固有性」と訳していてもまあそれは仕方がない。
でも例えば次の箇所なんぞ、そういうのとは随分違う問題があるようだ。(文ごとに数字を補う。また、問題にしたい箇所を赤字に変えている)
(1)ダントーの主張では、芸術―あらゆる時代・場所のすべての芸術―は何かについてのものであり、意味を備え、内容を伴っているはずのものである。(2)つまり芸術作品そのものにその意味は具現化されていなければならない。(3)ただし、それがいつの時代も同じ方法でおこなわれるわけではないことは、「芸術と言う概念」(原文傍点)が芸術制作の中で果たしている役割が示している。(4)たとえば、一九六〇年代の洗練されたニューヨーカーでも、アンディ・ウォーホールの『ブリロ・ボックス』を芸術と見なすことはできなかった。(5)以前は、こうしたコンセプチュアルな離れ業が不可能であるばかりか、無意味なものでしかなかったのである。(6)二〇世紀半ばまでの芸術概念の必要条件は、ポップ・アートを生み出したり、認めたりするようなものではなかった。(7)ダントーが述べるとおり、「何かを芸術と見なすには、芸術理論への親しみと美術史の知識が何よりも必要である。195-96
Kindleで原文を手に入れたので、この箇所の原文と試訳を提示してみる。なお、Kindle for PCはなぜかコピペできない仕様みたいで、キーボード入力なので誤記はご容赦。それとページ数が分からない。Kindle版にあるのは文の数なのかなぁ。引用は第五章のArt as a Mirror: Arthur Dantoの節から。
It is Danto's contention that art - all art at any time or place - must be about something, must bear meaning, have content; and that its meaning must be embodied in the artwork itself. This is not and cannot be done the same way at all periods of history, a fact that indicates the role of concepts of art in the production of art. Sophisticated New Yorkers of the 1960s were just barely able to see Andy Warhol's Brillo Box as art, for example; such conceptual feat would have been not only impossible but nonsensical at an earlier period of history. Requisite conceptions of art were not in place to produce or to recognize Pop Art until the mid-twentieth century. As Danto puts it, "to see something as art at all demands nothing less than this, an atmosphere of artistic theory, a knowledge of the history of art."((1)芸術は、時代や場所を問わず全ての芸術は、何かについてであり、意味を持たねばならず、内容を持たねばならないというのが、(2)また、その意味は芸術作品それ自体のうちに具体化されていなければならないというのがダントーの主張である。(3)これは歴史のすべての時代に同じようになされているわけでもなくそんなことなど出来やしないという事実は、芸術創作において「芸術概念」が果たす役割の大きさを示している。(4)例えば、1960年代の洗練されたニューヨーカーはかろうじてなんとかウォーホールの『ブリロ・ボックス』を芸術として見ることが出来たのだ。(5)こうしたコンセプチュアルな離れ業は歴史のそれより前の時代には不可能だっただけでなくナンセンスでもあった。(6)二十世紀半ばまでは、ポップ・アートを作り出したり認めたりするのに必要な芸術の観念が存在していなかったのだ。(7)ダントーの言い方だと、「そもそも何かを芸術として見るためにはまさに次のことが必要だ。芸術理論の雰囲気と、芸術史の知識である。」)
この段落の文は(5)を除きほぼすべて訳が不適切で、それがダントーの議論を分からないものにしている。
(1)is about somethingを「何かについてのもの」と「もの」を補うのは芸術が何らかの「もの」でなければならないというダントーがコミットしない考え(コンセプチュアル・アートは「もの」じゃないし)を反映しているので良くないし、mustはここでは「はず」ではない。彼はここで何かが芸術であるための「必要条件」について語っているので、「ねばならない」の意味の方だ。
(2)「つまり」じゃない。芸術が「意味を持つ」ことと意味が「作品そのものに具現化されている」のは別のことだ。何かが作品そのものに具現化されていない意味を持つことはいくらでもある。ここでandは連言として訳さねばならない。
(3) 主語と目的語を逆転してしまった。ダントーが言うのは、歴史によって意味の作品への具体化のあり方が違うという事実があって、それが示しているのは、「芸術概念」の役割だってことだ。
(4) ブリロボックスっていつの作品だったっけ?60年代の洗練されたニューヨーカーがそれを芸術と見なせなかったとしたら、誰ができたんだろう?just barelyはここで「漸く何とか~した」という肯定のニュアンスだ。もちろん、ここを肯定的に訳すか否定的に訳すかは、ブリロ・ボックスの受容の知識が必要だろうけれど、これを単にnotと同じとして訳すのは不誠実だ。著者がそこに込めたニュアンスをぶった切ってしまうことになる。
(6)何かを生み出したり認めたりすることは「芸術概念の必要条件」なのではない。ポップアートを作り出したり認めたりするために必要なrequisite芸術の観念(conception of art)」がまだなかったと言われているのである。
(7)(a) nothing less thanは「何よりも」ではない。Dantoによると、「ブリロ・ボックス」に限らず、すべての芸術作品について、私たちはそれと知覚的には(見た目では)識別不可能だけれど芸術でない対象の存在する世界を想像することが出来る。そのような可能世界において、私たちはその両者を芸術作品が持つ「理論の雰囲気」によってのみ区別出来るのであり、他の仕方では区別出来ないのだ。
(b) see asはここでは「見なす」ではない。私たちはあるものを全く芸術として「見る」ことが出来なくても、それを芸術と「みなし」うる。お金持ちが壁にロスコーを飾るときとか、ウォーホールを競売にかける係員などがそうだ。
(c) ダントーの問題は、デュシャンやブリロのように知覚上識別できないものの一方が芸術作品で一方が芸術作品でないのはなんで?ということだから、知覚上ブリロの箱と識別出来ないウォーホールの作品を芸術「として見る」ために要求されることがらが重要であって、それが「理論の雰囲気と芸術の歴史の知識」なのだ。atmosphere of artistic theoryは確かに面倒な概念で、「芸術理論の雰囲気」では曖昧すぎるような気がする。 ただ、Dantoは決して、鑑賞者が何かを芸術作品と見なすために芸術理論をよく知ってなければならないということを主張しているのではない。鑑賞者は芸術理論を知らなくても、例えばラベルとか値段とか展示場所とかから、それを芸術作品と見なすことが出来る。何かを芸術作品として「見る」ためには、その何かが「理論の雰囲気」に包まれていること、アートワールドの中に置かれていることが根本的に重要だと言っているのだ。
(d) the history of artはこの場合は「美術史」に限定されない。
一段落だけを挙げたが、他の段落もここまで酷くはないが、小さな無理解が重なって、全体としてダントーの主張が歪められてしまう。たとえば次のダントー自身の引用。
チューリップやキリンを認識するように、知覚することで芸術を見分けられる、そんな時代があった。しかし、事情は変わってしまい、芸術は何でもありとなっている。だから見ただけでは、芸術かどうかは判断できない。もはや批評家の鑑識眼といった基準はふさわしくないのである。(194)
もし芸術が「何でもあり」なら、見ただけでなくても、どのような理論的な背景をもってしても芸術かどうかは判断できないだろう。
There used be a time when you could pick out something perceptually the way you can recognize, say, tulips or giraffes. But the way things have evoloved, art can look like anything, so you can't tell by looking. Criteria like the critic's good eye no longar apply. (例えばチューリップやキリンを見分けるように、知覚を通じて何かを芸術として選び出すことが出来た時代があった。しかし、事情は変わってしまい、芸術はどう見えても構わなくなっており、だから見ることによっては区別できない。批評家のすぐれた眼のような基準はもはや通用しないのである。)
知覚的に識別出来ないものの一方が芸術作品で一方がそうではないことがあり得るという事情は、芸術の「見え方」あるいは「知覚的性質」が「何でもあり」になったことを意味し、それは芸術が「何でもあり」になったこととは異なるのである。なお、「知覚を通じて何かを芸術として選び出すことが出来た時代」は現実世界には存在したという歴史認識と、常に、芸術作品と知覚的に識別不可能な非芸術作品が存在する可能世界があるという先ほどの哲学的議論は矛盾しない。
次の文章。
また、これらの作品は既定の芸術に備わるあらゆる価値を断固として認めまいとするにもかかわらず、いまや二十世紀の美術年鑑に記載されている。その理由の一つは、こうした作品が「アートワールドのなか」(原文傍点)で、美的判断と大衆文化について、価値と固有性について、芸術家と公衆/愛好者の役割について、意見を表明しているからである。それらは、芸術それ自体「について」(同上)核心をついた見解を提示するのである。(195)
「二十世紀の美術年鑑」は一見どこかおかしいとして、この文なんか素直に分かる。でも、よく考えると芸術作品が芸術それ自体について「核心をついた見解を提示する」というのはここであげられた(デュシャンやウォーホールなどの)芸術のあり方にもダントーの見解にも合わない。ダントーは決して、これらの芸術の芸術観が「核心を」ついていなければならないとは考えているわけではない。
ダントーにとって、何かを芸術にしているのはアートワールド、つまり芸術そのものにある理論の「雰囲気」だ。芸術は従って常に何かに「ついて」(about something)でなければならない。意味を持たねばならないからだ。肖像画はとりあえずは対象となった人に「ついて」の絵である。それは同時にあるスタイルに「ついて」かもしれず、あるイデオロギーに「ついて」かもしれないのだけれど。
とすれば、デュシャンの『泉』やウォーホールの『ブリロ・ボックス』のような作品は何に「ついて」なのだろうか。それらは知覚可能ないかなる形式的特徴によっても、「何かについて」ではない非芸術作品(ただの実物)と区別出来ないのだ。そうした芸術作品に関して、ダントーはそれが「芸術とは何か」という問いに「ついて」だと考える。何かが芸術であるということにとって重要なのはabout somethingであることつまりaboutness(「ついて性」)なのであり、それが核心をついているかどうかではない。
And yet, despite these efforts to repudiate every value of art establishment, these works are now included in the chronicle of twentieth-artworld. One reason for this is that such works are comments within artworld - about aesthetic judgment and mass culture, about value and property, about the role of the artist and the public. They are profoundly about art itself. しかしそれにもかかわらず、つまり芸術という体制のすべての価値を論駁しようというその努力にもかかわらず、これらの作品は今や20世紀のアートワールドの編年史の中に組み込まれている。その理由の一つは、そうした作品がアートワールド内部でのコメントだということだ。それらは美的判断とマスカルチャーについての、価値と性質についての、芸術家と公衆についてのコメントなのだ。それらは真底から芸術それ自体に「ついて」なのだ。