2013年11月21日木曜日

リディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」(1)

Twitterでちょっと触れたけれど、福中冬子氏が編集し翻訳している論集「ニュー・ミュージコロジー」には、リュディア・ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」、ピーター・キヴィーの「オーセンティシティ」という、分析美学に位置づけられる二つの議論が翻訳されている。グッドマンの「芸術の諸言語」の訳も、またレヴィンソンの幾つもの著作の訳も未出版な状況で、分析系の音楽美学の議論が翻訳されることは喜ばしい。また、実際、キヴィーに関しては、翻訳で読んでもそんなに難しくはない議論が展開されている。
問題はゲーアの方で、語学的な問題、というよりも、分析美学系の議論の考え方との相性の問題で、とても読みにくいものになっている。この議論は序と16の部分からなるが、考え方としては素直な議論なので、訳に問題がある場合にはそれを修正しながら、紹介してゆきたい。今回は序から4くらいまで。(正直言うと「語学的問題」も大きいとは思う)
方針としては、基本的に自分でまとめ、訳すが、福中訳が誤解を招く間違いを含有している箇所は私が訂正した訳青字で表記し、私のコメントはで表示、元訳は原則として示さない(ひどい間違いをいちいち示して晒し者にはしない)。ページ表記はページが変わったところで。(11/21方針修正)


序は、「音楽作品」とは何か、という問題設定を示す。ゲーアは「音楽は作品のうちに例示されている考えは、自明というにはほど遠い」(邦訳89に対応。以下同様。青字や字消しは修正したところ)というダールハウスの発言に同意し、次のように述べる。「音楽実践は〈作品概念〉により規定されうるが、それは必然ではない」。それは歴史によるし、偶然だ。偶然だということはしかしそれがすぐなくなるということを意味しない。概念は実践に浸食しまるで必然のような雰囲気と魅力をもつからだ。今日、作品概念と結びつけずに音楽、とくにクラシックについて考えることは出来ないほどだ。でも、ゲーアによると、「「芸術」音楽の伝統の歴史の大部分で、音楽は作品概念と結びつけて考えられてはこなかった」(90)。

本書(『音楽作品の想像的博物館』)は、作品概念が成立した時期に関わるものだが、前段落の最後の言明は、本書の中心にある主張に直結する。この言明の含意は大きいが、そう分かるのは証拠がすべて提示されてからのことだ。」証拠は広範囲に及ぶ。「音楽の意味と美学理論についての歴史的記述、音楽実践の変容をもたらした様々な変化から、社会学的な記述、概念が実践を生み出すあり方についての存在論的な記述」にまで及ぶ。ゲーアはまず「狭義の哲学的問題、とりわけ音楽作品の存在論的地位を記述しようとする分析哲学者の試み」(えっとここの元訳ひどい。この章で言われるanalyticalはすべて分析哲学ないし分析美学のことだけれど、それが分かっていないような感じ)を取り上げる。

1
音楽作品の分析的理論はいったい何を扱っているのか?」ゲーアは四つの基本的な立場を区別する。「本章ではこれからその四つの立場とその代表的な主張者を簡単に紹介し、分析的な理論がどういうことを行っているのか、読者に試食をしていただこう。」
第一はプラトニズムだ。プラトニズムのある立場だと、「音楽作品は、常識とは異なり、音の構造によって構成される普遍であり、おそらくは自然種ですらある。」(「普遍universal」とは「個別particular」に対応する名詞で、「赤」や「蛇」「車」など、ゼロないし一つないし複数の「赤いもの」や「へびさん」や「うちのプリウス」などをそれに対応する個別として持つ。自然種とは普遍の一部で人工的ではない種。)「それらは時空的性質を欠きいつとかどことか言えず)、永遠に存続する。」作曲前も忘却された後も存在している。演奏されなくても複写楽譜が作られなくても存在している。「作曲するとは種を創造することであるよりもむしろ種を発見することである。」(91)
ウォルターストーフが、もっと洗練されているけれど、この種の見解を支持する。「彼は、芸術作品を、音構造として理解される、創作されない自然種だとみなしている。」だから、「当該の音構造が例化されることはいつも可能だった」(例化とは、ある普遍の実例を与えること。訳語も決まっている。第九は、ベートーヴェンが初めて例化したのだけれど、別にモーツァルト作でもよかったし、原始時代につくられててもよかった。無意識がフロイト前からあったのと同じ)「作曲者はそうした構造を発見することで作品を作る。彼らは正しい演奏のための条件を決定することで発見した構造を自分の作品にする。この見解では、作品は創造されない自然種であるばかりではなく、規範種でもある。というのもそれらは適切に形作られた実例と不適切に形作られた実例の両方を持ちうるからだ
プラトニズムを特徴付ける別の方法もある。上演や楽譜と無関係という点では最初のと変わらないが、「作品が創造されるという理由でそれを準プラトン的な実体とみなしている点で異なる。」(この箇所は訳も特に間違いではない)。「演奏において例化されるので、作品はプラトン的な地位を保持している。」時空に制約され、作曲行為に依存し、普遍を例化する特殊(上演や楽譜)に依存している。
レヴィンソンの修正プラトン主義では、「作品は構造タイプないし種でありそのトークンは個々の具体的演奏である。」それは独特の構造タイプだ。つまり「開始されたタイプ」なのだ。(この箇所の訳は、指摘するのも可哀想なほどひどい。)レヴィンソンによれば、作品とは音構造であり演奏手段構造であるが、加えて、それは、特定の歴史的コンテクストの中で特定の作曲家によって特定の時に作られた、ということによっても同定される。
プラトン主義の見解では、作品は自立した種であり、修正プラトン主義の見解では、作品は依存的な種だ」(92)。依存的な種は、存在を得るために人間の意図的な行為を要求し、存在を続けるために演奏やスコアを要求する。しかし作品ひとつひとつが異なった存在者であることに変わりはない。それぞれ異なった存在者であることは超越した存在であるとか、上演や楽譜に尽くされない存在であるとかいうのと同じではない。「作品それぞれが区別されることが抽象的ないし具体的な実体そのものとしての作品を特徴付けるし、依存性は、上演や楽譜と作品の関係を特徴付ける。
(北野まとめ。)プラトン主義的な作品観は、作品を音の構造として理解する。構造はタイプなので、永遠的な存在で作曲者が作曲しなくても存在する。作曲は「発見」で演奏はその「例化」だ。これはまずいと考える修正プラトン主義では、作品は「開始されたタイプ」であり、音構造+演奏手段構造+特定の時期に特定の作者が特定の文脈で作ったこと、によって同定されるタイプだ。演奏がそのトークン。(タイプとトークンって何のこと?はググれ。)


アリストテレス主義。「作品は、演奏とその楽譜のうちに示されている本質(典型的には音構造)である」(94訳を少し変えた)。「いろんな演奏で例示される音パターン」である限りで抽象的だが、独自の実体ではなく他のものに属し含まれる「本質的構造ないしパターン」。「作品の実体性がどんなものであれ、それは演奏の実体性によって尽くされる」。プラトンのイデア論形相論でも良いけどさ、「形象論」はないと思う)へのアリストテレスの批判が両者の違いを説明するだろう。プラトンでは、物質世界の外に何かものがあって、それは消滅しないという点以外では感覚的なものと同じだ、ということになるけれどそれは奇妙だ。ひとそれ自体とか健康それ自体とかがあって、それらは「それ自体」以外に限定されないのだもの。永遠のひとと言っているだけ。(とアリストテレスは言う)
アリストテレスは、本質が、「本質を具体化する具体物という一次的な存在から派生する二次的な存在を持っている」(93)と述べる。とすると、様々な作品は「パフォーマンスや楽譜のうちに複数的に実現された諸本質であるという理由でだけ、二次的な意味で、互いに異なる」というべきかも。そんな言い方をすれば、「本質は、おそらく実現されず実体化されない潜性態として、二次的な意味で独立に存在する」という意見もOKになるだろう。
このアリストテレス派がケンダル・ウォルトン。作品とは「すべての演奏のそれぞれにおいて提示される音パターン」(訳はパターンを「反復類型」ってしてるけど、時間的な繰り返しをここでの「パターン」は含意も排除もしていない。頑固に「複写楽譜」と訳されるスコア=コピーが「複写」を含意も排除もしていないのと同様。)作品は「特定の対象でも出来事」でもなく、演奏が「合っていたり合っていなかったりするような何か」だと言う。作品とは「楽譜が認知し特定する音と楽器の規定の階層化された構造パターン引くことの(マイナス)、『良い演奏のために楽譜に含まれるアドヴァイス』だ。」作品とは、「演奏が正しいあるいは欠点のない演奏であるために示さねばならない音性質のパターン」だ。とすると作品はレシピのように規範的ないし処方的だ。
(北野まとめ)アリストテレス的な(事物に潜在的に存在する)本質概念を用いて作品を説明するのがウォルトンで、作品とは「演奏一つ一つのうちに提示されている音のパターン」であり、それは規範的で演奏が正しい演奏であるためには、演奏は、その音性質のパターンを示さねばならない。


「作品」について考える第三の方法は「抽象的な存在」をどんな形でも認めないこと。存在するのは具体的な演奏と楽譜だけ。「作品について語るとは、作品が存在するかのように語ること」(94)でしかない。「作品とは「作品の演奏」の外延的に定義されたクラス(集合の意味)に他ならない。」「作品の演奏」っていうと演奏される作品があるみたいだけれど、これは「の演奏」がついて初めて存在する属性だ。「作品の演奏」はあっても「作品」はない。(「おろち」と「やまたのおろち」がいても、「やまた」がいないような。)演奏は、演奏が例化している抽象的パターン(つまり「作品」)に応じて分類されるのではなく、演奏同士で、あるいは楽譜との関係の適切さに応じて分類される。生物学的(ないし法的)に一定の関係を有するメンバーが同じ姓を持つのと同様に、作品も、一定の個別のクラス「平均律」のありとあらゆる演奏を指示する便利な言語的なアイテム「平均律」に過ぎない。これが唯名論的見解。作品と演奏との「垂直な」、「抽象とその具体的実現」の関係からは離れ、さまざまな演奏や楽譜の「水平の」関係について考えることになる。
作品を「タイプ」と呼ぶ、あるいはより注意深く、「作品名」をタイプと呼ぶ理論家たちもどことなく似た見解をとっている。「音楽作品名とその演奏の関係はタイプとトークンの関係と同じだ。トークンがタイプとの関係で同定されるのであっても、タイプは言葉の上で存在するだけなのだ。タイプを創造する際、作曲家は『タイプのトークン』を創造しているか、あるいは『タイプのトークン』を作る方法、つまり楽譜を創造しているだけだ。」(作曲家が「複写楽譜」を作るって訳したとき変だと思わないと…)
マゴーリスがほぼこの見解(昆虫亀の人にマーゴリスではなくマゴーリスだと教えて貰った)。「しかし彼は厳格な唯名論からは離れる。タイプを「抽象的個別」とみなしているからだ」(95)。本人は否定するが、マゴーリスは修正プラトン主義に近い。「抽象的個別が抽象的なのは例化されうるからであり、個別なのは、創造されるという点で普遍ではないからだ。」(普遍は生成消滅しないので)「作品は物理的な対象のうちに実体化embodiedされるがそれと同一ではない。」(マゴーリスのembodimentの訳語には自信がないなぁ。ステッカーの森訳では「具現」か。)。「実体化の「である」は同一性の「である」とは異なる、と彼は論じる」(ここはDantoの芸術的述定の「である」は同一性の「である」ではないという議論を知らないと訳しにくいか)。前者は、「文化的な個別(particular)について私たちが語るのを簡単にするために、文化的な文脈の中に持ち込まれている。」作品タイプとは、「文化的に出現する存在者である。ここで出現というのは特定の文化空間内部で個別の対象のうちに実体化されているという意味だ」。
グッドマンはさらに唯名論にコミットしている。彼の提案では、作品とは、楽譜に完全に従った上演のクラスだ。彼の理論は、作品と呼ばれる別個の、あるいは抽象的な実体へのそれ以上のコミットを含まない。クラスという概念にコミットしているから完全に唯名論的だ、ということにはならない。クラスは抽象的存在者だからだ。「でも、グッドマンは、自分がクラスという言葉を使うのは便宜上のことであり、自分の理論の本質は真に唯名論的だと主張している。」
(北野まとめ) 唯名論的作品概念は、「抽象」を一切拒絶。「作品の演奏」の存在は「作品」の存在を含意しない。作品は、同じ名前で呼ばれる様々な演奏のクラスを指示する便宜上の産物。「作品名」はタイプだと考える。作曲家は、「タイプのトークン」あるいは「タイプのトークンの製造法」を創作している。ある上演について、「これは第九である」と言うとき、この「である」は「実体化の〈である〉」であって、「同一性の〈である〉」ではない。目の前で起きている演奏という物理的な対象のうちに実体化(文化的に出現)しているものとして「第九」をとらえている。作品とは楽譜に適った上演のクラスへの便宜的符丁とみなすグッドマンも唯名論的。


クローチェとコリングウッド。彼らは分析理論をしていない。それでも「観念論的」見解を外挿可能。「作品はそこでは作曲者の心の中に形成される観念と同一視される」(96)。これらの観念は、(心の中に)形成されたら、楽譜や演奏のうちに、客体化された表現を見いだしうるし、公的にアクセス可能になる。作品≠客体化された表現。作品=観念。
コリングウッドによると、作曲家が歌って作ろうが、楽譜に書こうがそれはどうでもいい。「実際の曲作りは他の場所ではなくかれの頭の中でだけ起きている何かなのだ」それは「想像上の曲imagenary tune」。曲作りとは想像上の曲作りで、それが創造だ。この想像上のものを伝えたり思い出したりするために曲を紙に書くなら、それは創造ではなく加工だ。「曲は想像経験の文脈の内部にだけ存在する」。そうした経験にあっては、曲は聞こえたりしない。想像されるだけ。「但し、曲とはこれらの想像上の音に過ぎないというのは間違っているだろう。曲とは、むしろ、これらの音を想像し、理解し、意識するようになる全行為の経験全体のことなのだ」。
観念論は分析の伝統では上手く受容されてこなかった。「想像的・美的経験の内部に作品を同定しようという考えは、求められていた存在論的な理論とは全くあわないと判断されてきた。」想像経験全体=心的実体(観念)ってのもまずい。「何であれ、心の中に存在するなにかと作品を同一視することはとても不充分な戦略だとみなされてきたのだ」(97)。

(北野まとめ)コリングウッド流の「観念論」は作品=想像的経験=心の中にある何か=観念、とみなすが、これは分析美学の伝統ではあまり受けいれられてこなかった。(コリングウッドになって急に間違いが減った。分析哲学との相性がこの結果につながったことが窺える。)

解題を読んで驚いた。訳者、アメリカでゲーアのゼミに参加してるんだ。こんだけ分かってなくてゼミに出るのは大変だったろうなぁ……解題で「ジェロルド・レヴィンスンを巡る議論はたとえば、レヴィンスンの議論に少しでも通じている読者には多少違和感を持って読まれるのではないだろうか」(129)と書いてあるけれど、レヴィンソンの議論に少しでも通じている人が、彼のinitiated typeを「潜在型」と訳し「潜在」に「〈=明瞭なる特徴付けがなされていない〉」と注記できるのだろうか?なんかいろいろ信じがたい。

著者名をゲールってしてたのを訳書にあわせてゲーアに修正。

0 件のコメント: