2013年11月30日土曜日

ゲーア「音楽作品の唯名論的理論」8

ゲーアの「音楽作品の唯名論的理論」の翻訳の検討・訂正もようやく最後の2節まで来た。
16〜17節はやっとゲーアの評価らしきものに出会う。
16
完全な遵守という条件に適う、ということの問題としてよく知られている含意は、どんなに退屈な演奏でも、ミスがない限り、記譜上の要件を満足させるという点だ。(121)」逆にどんな優れた演奏でも一つでもミスがあれば作品の演奏にならない。作品の同一性が保持されるべきならばそうならざるを得ないとG。
一つの音符だけが違う演奏は同じ作品のインスタンスだという素朴に見える原理は、同一性の遷移を考えると、どんな演奏でも同じ作品の演奏になるという帰結を生み出す危険がある。少しでも逸脱を認めると作品保持と楽譜保持の保証は失われる。一つの音符の省略や追加を続けることで…ベートーヴェンの第五交響曲から「三匹の目の見えないネズミ」にたどり着くことが出来るからだ。(G186-7) (122)(「どんな演奏でも同じ作品の演奏になる」の前に訳者補足で[同じ楽譜を使用している限り]をつけているのは無理解。そんな意味ではない。)
楽譜は作品を構成するものすべてを特定し、演奏は楽譜の記譜上の特定のすべてに完全に従わねばならない。 これはありふれた連鎖式問題(あるいは積み重ね問題)a=b, b=c, c=dならばa=dという問題、塵を積み重ねても山にはならない(いつまで、どこまで?)という問題。滑りやすい坂slippy slopeの問題でもあるか。原訳では「三段論法的問題」!)。「楽譜だけに頼る場合、一つの作品の上演に幾つの間違いが許されるかをどのような基準で決定できるだろうか?
「禿」になるには何本の毛が抜けねばならないのか?このサウンドイベントは作品演奏ではないと言われるまえに何カ所の間違った音符を弾けるか。「同じクラスに属する二つの演奏は、たとえ最小限の違いはあるとしても同じように個別化されているという観念は却けねばならない。」そうでないと遷移性のゆえに、ふさふさでも「禿」だ、第五は「三匹の…」だという結論しなければならなくなる。
髪の毛と違い演奏のすべての部分は互いに関連し合っている。演奏や作品で基本単位は一個一個の音ではなく隔たりのある構造、リズムやハーモニーのゲシュタルト、旋律だろう。「より複合的な部分の同一性が保たれれば、一つ一つの音符の間違いは容認できる。旋律のゲシュタルトが認識出来る限り、音符が一つや二つ間違ってても構わない」(123)(ゲシュタルトという言葉は普通の心理学用語で「外郭的音型」(って言葉あるのか。音楽学は複雑だ)ではない。)
この提案の問題。(1)ゲシュタルト認知は外延主義にあわないので、外延を諦め複合単位の遵守だけを語るべき。(2)連鎖式問題のレベルが高くなるだけ。ある旋律をミスで弾かなかったとして、演奏の同一性は保持されるか? それに答えられたとしても、メロディの同一性は部分に頼らずに説明できるのか。「旋律を例化するために我々はその原子的部分のそれぞれを例化せねばならないのではないか?(原子的部分とはいっこいっこの音符のこと。原訳を挙げておく「旋律の事例を挙げるには、その原子レヴェルでの構成要素の事例付けをも必要とななってこないだろうか?」えっと、「旋律を例化する」とは、メロディを演奏することです。)

間違った音符の数を数える量的モデルでは、完全な遵守は一番満足のゆく条件になろう。(complianceはこれまで「したがうこと」で訳してたけれど「遵守」も良いと思った。ビジネス用語でもそういう訳語もあったし。遅まきながら「遵守」も取り入れ。)これは正しい結論なの?「遵守率は80パーセントにしよう、といえばグッドマンの理論に影響を与えるのだろうか。このレベルのフレクシビリティないし間違いマージンを認めておけば、いろんな演奏の一つ一つを所与の作品の演奏として個別化できるだろうか?でもなぜこの特定のパーセントであって他のでないのかは、明らかではない。そして恣意的に見えるこの選択の理論的な満足度は低くなるだろう。グッドマンが完全な遵守という条件を採用するには、遷移問題以外にも理由が隠れているかもしれないのだ。」
(要約:音符の完全な遵守というグッドマンの要求は、一個でも違う音符を弾いたら同じ作品の演奏でなくなるという帰結を生みだし、それをさけると「同一性の遷移」問題を引き起こすので、ゲーアは二つの可能性を提示する。第一は、基本単位を音符ではなくメロディなどのゲシュタルトにしたら?というもの。外延主義とゲシュタルト概念はあわないので外延主義を捨てるとしても、「遷移」問題はメロディでも生じるし、メロディの同一性は音符の同一性で保証するしかないのでは?という問題がある。第二は、量的モデル(例えば音符遵守率80%)はどうか?ってのだけれど、特定の量にこだわる理由がない。どちらもいまいち。)

17
グッドマンは「曖昧な対象」へのコミットを避けたかったのかも。ネイサン・サーモン曰く〈連鎖式による議論は曖昧さという現象に混乱を引き起こす〉。「直感的には、「作品の演奏」という概念は、そこに属する対象が(それを構成する)性質が厳密に共通であるということを共有なくても良いようなものであって欲しいと我々は望む。所与の作品の複数の演奏が全く同じ(構成的な)性質を結局は示さなくても、演奏はそれでも、演奏が例化しようと意図し、例化していると認知している作品のゆえに、同じ作品の演奏として同一性を認められるのだ。プラトニズムに傾く人は、固定した不変の性質集合を持つのは作品だと論じることが出来よう。演奏はその不完全な近似ないしコピーだと。(124)」ウォルターストーフなら、音楽作品は〈内在する本質的な性質に関して不変〉。
ここには前批判的直観。作曲者が厳密に特定した産物としての作品。「作品の構造的(また可能な限り美的)性質の特定に関する作曲者の決定は一般に尊重される。それでも、演奏は完全であると期待されていない(奏者は完全にしようと努力するのだけれど)。なぜなら、鑑賞者が作品それ自体に完全で、決定され、理想化された観念を持っているならば、演奏の不完全性を判定し無視することすら出来るからだ。」(文同士のつながりがきちんと訳されていないので、細部の間違いはあまりないのに理解出来ない訳になっている。)
グッドマンは意図と認知の条件を認められず、外延主義にコミット。演奏の曖昧さと作品の完全性の両方を同時に支持できなかった。「作品は存在論的に演奏に還元されるからだ。作品とは楽譜を遵守する演奏に他ならないのだ。」反直感的な二つの選択肢しか残っていない。「作品とその演奏の両方に一定の曖昧さがあるか、どちらもそれを構成する性質に関しては等しく完全に決定されているか。彼は後者を選ぶ。(125)」
グッドマンは前批判的理解を放棄。
少ししか間違った音符を弾いていない演奏が作品のインスタンスではないする見解に、作曲家や音楽家は怒って抗議しそうだ。通常の言葉の使用法がその時彼に味方するのは確かだ。でも通常の使用法はここでは理論にとっては破滅に導くものなのだ。(G.n.120)
グッドマン批判者の不満はおさまらない。批判者たちは、唯名論・外延主義・前批判的直観との断絶のすべてを受けいれない。 彼の理論と私たちの考え方との違いは大きすぎる。不満には責任が伴う。「批判者たちは、理論的に一貫していて音楽現象との充分な関係を維持している説明を与えられるのだろうか。この二〇年の間、多くの理論が生み出される動機をもたらしたのはこの問いである。次章で、私たちは、これまでに提供されたなかで一番尤もらしい説明の一つを考察するつもりだ。」
要約:演奏は、同一の性質をすべて実際に例化していなくても、例化しようと意図し、例化していると認知している作品の同一性のゆえに、同じ作品の演奏と呼びうるのではないか。この考えからは、作品のプラトニズム的ないしアリストテレス主義的観念生じる。同一性を持ち性質が不変なのは「作品」だ。これはしかし素朴な直観でもある。グッドマンはその直観を拒絶したが、批判者たちは、むしろグッドマンによる唯名論・外延主義・直観との断絶を拒絶する。では、彼らは、そうした理論を提供できるだろうか。もっとも成功した試みはレヴィンソンだ)


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