『オイディプス』第二エペイソディオン520-30
520−22
前に書いたように、Manuwald(2012)の新しい注釈を買ったので、それや、これまでの注釈と照らし合わせながら、オイディプスの訳を検討してみたい。検討には、自分の訳と、代表的な日本語訳である岩波版ギリシア悲劇全集訳(岡正男訳)を用いる。合唱歌の部分は面倒な問題が多いので、エペイソディオン(対話部分)から検討を始める。で、第一エペイソディオンは、最初のオイディプスの誓いの部分に結構問題が多いので、第二エペイソディオンから始めることにする。私にとって、岡訳と解釈上の違いがあるように思えるところは出来るだけ取り上げたい。
(文献については03/16の項目を参照)
(文献については03/16の項目を参照)
第二エペイソディオンではまずクレオンが登場して、自分に陰謀の疑いをかけたオイディプスは果たして正気なのかとコロスに訊ねる。彼は、オイディプスが陰謀だと信じているのだとしたら、自分は生き延びようとは思わない、とまで言う。「この国で私が、諸君や友人たちからも悪人呼ばわりされてしまうなら、その言葉で私が受ける打撃は、…極めて重大なものなのだ。」(520-22 翻訳は指示無き場合は北野(2011))。
「諸君」と訳した箇所の諸写本はσοῦなので、文法的には「あなた」(岡訳)が正しい。ここでクレオンはコロス全体にまず語りかけ、話の途中でコロスの長へと対話相手を絞っているのだろう。私の訳では、Bollack (1990)の( les hommes de la ville)に従い事実上コロス全体に話しかけていると考えて冒頭の「諸君」を維持したが、クレオンの動きによって、途中から呼びかけの相手を一人に絞るように示すことは可能だろう。また、原文の「κακὸς μὲν ἐν πόλει, κακὸς δὲ πρὸς σοῦ καὶ φίλων κεκλήσομαι. (直訳:一方で国の中で悪人と、他方で君と友人に対して悪人と呼ばれてしまう)」という対比の意味はよく分からない。Dawe (2006)のように、σοῦをτοῦに置き換え、「一方で国において、他方で友人からも」と考えると公私の対比はよりはっきりと出るだろう。Bollackは、クレオンがコロスを「友人」とともに個人的関係ないし私的領域に位置づけているとみなしている。
525-26
「しかし、予言者が私にそそのかされて偽りの言葉を語ったと王は言ったのだな?」τοὔπος δ’ ἐφάνθη (言葉をあかす)にあるちょっとした矛盾(言葉は音なのに視覚に関する動詞が使われている)は訳にまで反映していない。岡訳「皆の前で言ったのだな」の「皆の前で」がἐφάνθηの意訳なのか、それともτοὔποςに別の読みを当てたのかは分からなかった。写本は他にτοῦ πρὸς δ’ やπρὸς τοῦ δ’ がある(「誰に言ったのか?」)。
528
「権力を持つ方がなされることは見ないようにしています」コロスの言葉で好きな箇所。この芝居のコロスの立ち位置がよく分かる。この行、岡訳(「私の仕えるお方」)はやや解釈過剰にみえる。この前行の「罪をなすりつけた」もそう。もう少し中立的な単語ではないだろうか?
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