東京演劇アンサンブルの「忘却のキス」は、ドイツの団塊世代の、ボートー・シュトラウスの98年の作品。11人の男女が屋根裏部屋に集い、今観たばかりの映画について感想を述べ合っている。彼女たちの感想は抽象的で、映画のストーリーは皆目分からず、みんな、自分の印象を一つの言葉にしようとあがいている。そのなかの二人、リカルダとイェルケ氏とが罰ゲームでキスをすることになり、彼女たちの不倫関係が展開する、のだろう。枠物語が新作映画の感想を語り合う(得体の知れない)11人で、そこに挟まれる「カップルの物語」は、11人の二人の物語であると同時に、「映画」そのものの内容でもあるようだ(パンフによる)。しかし何でイェルケだけイェルケ氏なのだ?イェルケ「氏」って会話で言うか?
「ルル」と同様、「忘却のキス」も見世物の風景から始まり、その場面は幾分わくわくする。一輪車がくるくる回るのは素敵だ。でもジャグリングは輪が三つなので少しつまらない。「見世物」の快楽をそんなに味わえずに「見世物」の記号だけを受け取ることになってしまった。
さて、枠物語は、屋根裏部屋に集うという設定にまったくのれない。映画を見た後に、11人もの人間が、その誰かの部屋に集まるってあるのだろうか?そこで人を醒めさせない強さが演技に感じられない。ただ、何となく離れがたいという感じが、ブニュエルの『皆殺しの天使』を少しだけ想起させ、そこにちょっとだけ魅力を感じた。
演技自体は新劇風異化効果のお手本のようで、半分説明的で半分新劇的。そのせいで、出来事一つ一つがすーっと頭を通り抜けて行く、どのエピソードも等価なので、何一つ残っていない。その意味でポストモダン的なんだろうけど…。テキストを読まずに観るのはおすすめできない(って台本は販売されていないしどうしたら良いのだろう)。まあ難解だ。たとえばこれを「赤旗」で紹介するとしたら実際何を書こうかな、と思うと頭を抱えてしまう。「金色の龍」の場合、「こうやってくれたら、これは観たい芝居になる」と思えるものがあったのだけれど、こちらではその引っかかりも拒絶されている。最後に枠芝居に戻って、観た映画について男の一人が「不明瞭性」という言葉で他の人物の思いをずたずたにしてしまう場面があるが、これが「カップルの物語」への批評の先取りだ、ということは分かっても、「だから?」としか思えない。
ファーブラの再構成が出来なかった(し、途中からあきらめた)ので、それぞれの場面になにか印象てきなものが欲しいのだけれど、どのエピソードの演技も等価だ。同じリズム、同じ抑揚が二時間半続く。こんなに芝居に拒絶されていると感じたのは久しぶりだ。
本多敬のブログの劇評と毎日新聞の劇評をみてみた。どちらも劇についてほとんど触れていないことに感心する。毎日新聞によると東西ドイツの統一とかがテーマの一つなのか、全く念頭に浮かばなかったよ。ぼくはむしろ、枠芝居は一人の人間の脳内の描写かしら、とすら思ったものな。
音楽(アコーディオンbyかとうかなこ)、シンプルな舞台、映像は面白かった(最初の波がだんだん高くなるCGはやっぱり津波を想起させる)。大塚直訳・構成、公家義徳演出。
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